儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2013年05月

水【坎】 に想う  (その10)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 日本文化 の 「水」 》

山崎正和〔まさかず〕氏は、「水の東西」(『混沌からの表現』所収/PHP研究所) の中で、
水の東西文化比較論を述べています。

その中で、日本と西洋(欧米)の水について、
典型的具体例として日本の「鹿〔しし〕おどし」と西洋の「噴水」を挙げて、
次のような水の対比で東西の文化を捉えています。

1) (日本の)“流れる水” と (西洋の)“噴き上げる水”
2) (日本の)“時間的な水” と (西洋の)“空間的な水”
3) (日本の)“見えない水” と (西洋の)“目に見える水”

日本人に好まれる日本の美というものは、「鹿おどし」に代表されるように、
“水の流れ”や“時の流れ”といった 
変化するもの・流れるもの・循環するもの、の美です。

“時間”という目に見えない、形のないものです

それに対して、西洋の美は、
「噴水」にシンボライズ〔象徴〕されるように自然に逆らって噴き上がり、
空間に静止し立体を感じさせる、人工的に造形された美です。 ―― 同感のいたりです。


想いますに。「鹿おどし」や「枯山水〔かれさんすい〕」に感じさせられる、
日本の水の文化は、繊細なイマジネーションの世界です。

その世界は、やはり中国源流思想がルーツでしょう。

水を“楽しんだ”孔子、
水をその思想(柔弱・不争謙下・強さなど)の象とした老子、
などの思想に他なりません。

上から下へと(高きから卑〔ひく〕きへと)自然に流れる水は、
老子の、無為自然・変化循環の思想の象〔しょう/かたち〕です。

下から上への人造的、有為不自然な欧米の思想とは、よく対照をなしています。 注9) 


はるか太古の中国源流思想を、わが国の祖先・先哲が、
その“陶鋳力〔とうちゅうりょく: 優れた受容吸収力〕”をもって受け入れました。

そして、日本人の“(ものの)あはれ”・“をかし”といった繊細な感受性が加わって、
より格調高い、水に象〔かたど〕られた日本文化を形成しているのだと考えます。


注9)
易象〔えきしょう〕でみると西洋の文化は、多分に離・火【☲】であり、
東洋・日本のそれは坎・水【☵】であると想います。

というのも、離・火【☲】は人工物=文明であり、目の見えることであり、(外)形です。
そして、 “火”が下から上へと上昇するように、
(西洋の水の代表的あり方としての)噴水は
下から上へと自然と逆に流れてフォーム(形)を形成しています。

坎・水【☵】はその反対です。上から下へと流れ、無為自然です。


《 水=川の流れ ・・・ 鴨長明・『方丈記』 》

「川の流れのように」 や 「時の流れに身をまかせ」という名曲の表題は、
私たち(日本人)の感性によく適〔かな〕いよく知られています。   

古代中国において、“水”は“川”と同意でした。

“水”は流れ移りゆくものであり、したがって川の流れであり、時の流れとも表現できるのです・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。

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(このブログ記事は、5月9日にメールマガジンで配信したものです。
そのメールマガジンをお読みくださった方から以下のようなご意見・ご感想が寄せられましたので、以下にご紹介させて頂きます。)

近所に小さな八幡神社があり、急な階段を下りていくと鳥居があり、
その脇には清水が湧き出ていて小川になって流れています。
今年もそうですが、清水の真ん中にある大きめの岩には、
鏡餅と、小さな柱に青い紙垂(しで)。
これは昔から祭っている「水の神様」だそうです。
ICU大学そばの野川公園内の縄文遺跡の跡にある清水の流れ出る所にも、
お供えを載せたであろう大きな岩があります。
氷河期が終わった後の五千年の中国文化よりも、
温かい暖流の流れる日本には悠に古い縄文文化が花開いており、
そして清水の湧き出る場所は、神の宿る所、と特に大切に感謝をしていたと思われます。

氷河期とても住めなかったヨーロッパ・アジア大陸と違って、
この東アジア一帯には、私の住む日野市近くでも3万年以上前からず〜と住み続けています。
縄文の人々は、黒曜石の分布などからも分かるように、
とても広い範囲で文化的に交流をしていたようです。
多摩センター駅近く、東京都埋蔵文化財センターで見ましたが、
明らかに占いに使ったと思われる傷の付いた鹿の肩甲骨が、遺跡から発見されていました。
また1万年前位までは、黄海や、東シナ海は、九州に近いところまで、陸地が広がっていたようです。
国家などと言う、「分別知」の世界観はなかった時代ですよね。
日本人の気質を今に伝えるような大らかに「神と共に生き」、
「クラフツマンシップ」を発揮していたことでしょう。
世界最初の食料革命となる縄文土器は、女性と子供が製作したそうです。
東京都埋蔵文化財センターが、警視庁の鑑識課に依頼して調べた結果だ、と教えてくれました。
京都の下賀茂神社に、鴨長明の方丈記の住いがあります。
第一宮「玉依姫命」は神のこころと交信していた方、そこの神官の息子が鴨長明。
 
今の私達の暮らしぶりとほど遠いような、神と一体になっていた祖先の方々だったと思います。
私の中にも内在する先祖の残してくれた「アーラヤ識」を発現させて、
謙虚に少しでも良い世の中にお役に立てていけたらと、毎日を学びながら過ごしております。
 
今後ともよろしくご教示方お願いいたします。

(東京在住 65歳 男性)


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水【坎】 に想う  (その9)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 孫子 と 「水」 ・・・ 「兵形象水」 》 


孫武は、春秋時代の兵法家で兵法の創始者、
「兵家〔へいか〕」の開祖として有名です。

その著書『孫子』十三編は、兵書の枠を超えて広く永く愛読・研究されています。

例えば、『三国志』で有名な曹操は、
『孫子』を熟読研究の上注釈まで加えています。

わが国においても、八幡太郎義家が雁行〔がんこう〕の乱れから伏兵を悟った話、
武田信玄の“風林火山”の旗さしものが
『孫子』・「軍争編」から採られたものであったりしたこと、
などよく知られています。

「兵形象水」には、理想的戦闘態勢が、水のように形を持たず、
変化に対して流動的・柔軟に変化するものであることが述べられています。

想いますに、『孫子』の兵法は、変化への対応ということで易とも重なります。

“水”をその思想的象とすることで黄老思想とも重なってまいります。


○「夫兵形象水、水之行〔形〕、避高而趨下、兵之形〔勝〕、避実而撃虚。 | 
水因地而制流〔行〕、兵因敵而制勝、故兵無常勢、(水)無常形。
能因敵変化而取勝者、謂之神。 | 
故五行無常勝、四時無常位、日有長短、月有死生。」

■ 夫〔そ〕れ兵の形は水に象〔かたど〕る、水之行〔こう/≒形〕は高〔こう〕を避けて
下〔か〕に趨〔はし/おもむ・き〕り、兵の形〔≒勝〕は実〔じつ〕を避けて虚を撃つ。 | 
水は地に因りて流れ〔≒行〕を制し、兵は敵に因りて勝を制す。
故に兵に常の勢無く、(水に)常の形無し。
能〔よ〕く敵に因りて変化して(敵の変化に因りて)勝を取る者、之を“神〔しん〕”と謂う。 | 
故に五行〔ごぎょ〕に常の勝なく、四時に常の位なく、日に長短有り、月に死生有り。

《 大意 》
そもそも軍隊の形(配備)は、水の(一定の形がない)形をお手本とします。
水の流れは(千変万化し)高いところを避けて低いところへと向かってゆき、
(同じように)軍隊の形は(千変万化し)敵の堅陣を避けて
スキのある手薄な箇所を攻撃する(ような形をとります。) 
水は地形(の高低)に従って流れの方向を定めますし、
軍隊は敵(の情勢)に応じて(その時の)勝利の方策を決めます。
ですから、軍隊には(敵に対して)決められた態勢というものがなく、
また(水に)定められた形はなく、(さまざまな地形によって変化し)
うまく敵情のままに従って変化して勝利を勝ち取ることができるのです。
そのようなものを(人知を超えた)“神〔しん〕”というのです。
そこで、木・火・土・金〔ごん〕・水の五行〔ごぎょう〕においても
(相生相剋〔そうしょうそうこく〕の関係で)一つだけでいつでも勝つというものはなく、
春・夏・秋・冬の四季にも一つだけでいつでも止まっているものはなく、
日の出ている時間にも長短があり、月にも満ち欠けがあるのです。

■参考  ◎ 【 易学 と 孫子 】

   ( *孫子=孫武  *夫概〔ふがい〕= 呉の将軍、呉王・闔閭〔こうりょ〕の弟 )

夫概: 「ところで何をしていた?」
孫武: 「『周易』を読んでいたところです。この家にありましたので。」
夫概: 「『周易』!周の天子が書いた易学の書だな。
    まさか、それで占いでもするつもりか?」
孫武: 「ああ、いえ。退屈しのぎに目を通していただけです。」
夫概: 「易学の書にか!『周易』とは、てっきり占いの書かと思っていた。
    他に何か役に立つのか?」
孫武: 「はい。 『周易』の“易”という字は、そもそも、
    トカゲ〔蜥蜴〕の皮の色の変化を指します。

    “周”という字は、天地のあらゆるものを包み込むことを意味します。
    『周易』とは、伏〔ふくぎ〕・神農・黄帝・文王らの英知〔えいち/叡智〕の結晶です。
    その教えは、単に占いのみに止まりません。
    兵法にも大いに関係します。
    得るところが、実に多いのです。
    どうしたらもっと巧みに兵を動かせるかといったことから、
    勝機を得る策に至るまで学べます。
    ですから、何度読んでも飽きることはありません。」
夫概: 「改めて聞くと興味深い話だ。
    では、ひとつ、私の将来を占ってはもらえぬか ・・・ 」

 (DVD:「孫子兵法大全」・第19話/郢落城 より)


《 日本文化 の 「水」 》

山崎正和〔まさかず〕氏は、「水の東西」(『混沌からの表現』所収/PHP研究所) の中で、
水の東西文化比較論を述べています。

その中で、日本と西洋(欧米)の水について、
典型的具体例として日本の「鹿〔しし〕おどし」と西洋の「噴水」を挙げて、
次のような水の対比で東西の文化を捉えています・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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水【坎】 に想う  (その8)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 参考原典資料 》
          ( たかね・「大難解〔やさしい〕老子講」抜粋引用)


 水        【老子・水:8章/66章/(68章)/78章】

( 不争謙下 )

《 老子の思想の“象〔しょう〕”は、 ・・・ 水 》

易性・第8章) 注1)   

§. 「上 善 若 水」 〔シャン・シエヌ・ヂュア・シュエ〕 ・・・


注1)
「易性」は、易学の“変易”(変化する性質 /cf.易の三義: 変易・不易・簡易)のことです。
「水は方円〔ほうえん〕の器に従う」と申しますように、
水は変幻自在の性質を持っています。
そして、流れ、変化して止みません。
さらに、常に低きへと向かいとどまっています。
 ── それでいて、時に中〔ちゅう〕して、最強のパワーを発揮します。
老子はこの水を、最高の徳を持つものとして、己〔おの〕が思想の象としたのです。


○「*上善若水。水善利万物而不争 ※1。処衆人之所悪。故幾於道。 | 
 (居善地、心善淵、与善、言善信、政善治、事善能、動善時) | 
 夫唯不争 ※2 、故無尤。」


■上善は水の若〔ごと〕し。
 水は善〔よ〕く万物を利して(而〔しか〕も)争わず。
 衆人の悪〔にく〕む所に処〔お〕る。故に道に幾〔ちか〕し。 |
 (居は地を善〔よ〕しとし、心は淵を善しとし、
 与〔まじわ〕るは仁を善しとし、言は信を善しとし、
 政は治を善しとし、事は能を善しとし、動は時を善しとす。) |
 夫れ唯だ争わず、故に尤〔とが〕無し。


“ THE HIGHEST good is like that of water.
 The goodness of water is that it benefits 
 the ten thousand creatures; 
 yet itself does not scramble, 
 but is content with the places that 
 all men disdain. 
 It is this that makes water 
 so near to the Way.”
 (A.Waley  adj. p.151) 


“ Highest good is like water. 
 Becausue water excels in benefiting 
 the myriad creatures without contending 
 with them and settles where none would 
 like to be, it comes close to the way.”
 (D.C.Lau  adj. p.12)


《 大意 》
最高・最上の善(至善)とは、例えれば “水”のようなものです。
“水”は万物に恵みを与えながら、それでいて競い争うことがありません。
誰もが嫌がる卑〔ひく/=低〕い位地に止まっています。
ですから、聖人の「道」に似(肖)ているのです。
身の置き所は低いところが善く、(/住居は大地の上が善く、)
心の持ち方は深遠なのが善く、人との交わりは仁(=思いやり)を持つのが善く、
言葉は(偽りなく)信義〔まこと〕であるのが善く、政治は(平和に)治まるのが善く、
事を行うのには有能なのが善く(/ものごとは成り行きに任せるのが善く、)
行動は時宜〔じぎ:時の宜しき〕に適っているのが善いのです。
そもそも、競い合うようなことがないからこそ、
禍も咎〔とが/=尤〕も身に及ばない(で幸福が得られる)のです。


≪ 黄老(儒学・兵家)思想の象 ≫

変化(自在) = 易〔変易〕 = 水〔川〕 = 無為自然


・「上善」:
 
 上知、上徳などの「上」で “至善”の意。 
 The highest excellence.

・「居善地〜」: 
 ( )部の7句は、古注の紛れ込みと解する説もあります。
 (cf.武内義雄・『老子の研究』) 確かにこの部分はないほうがすっきりしますし、
 「仁」など老子には似合わない言葉も気になります。

・「政善治」: 
 政は無為であるから善く治まるのです。
 政治は自然の理に順うのですから、
 政策綱領を掲げて自説をアピールすることはしないのです。
 cf.民主党による“マニュフェスト”の登場とその不信・惨敗(〜’12.12)
 “マニュフェスト”=【離火 ☲】 は、明知・聡明の象意です。
 が、同時に外見のみで中は偽・空〔から〕の意です。
 反対に【坎水 ☵】 は、徳に裏付けられた真の智恵の意です。

・「動善時」: 
 動くにも時に順〔したが〕うこと。
 易(儒学)も、時に中す(時中)こと、
 時の宜しき(時宜)に順うことを教えています。
 機は時と一致して始めて成就します。
 “夏炉冬扇”では困ります。

・「不争」: 
 → 本文の考察参照のこと

・「故無尤」: 
 禍咎〔かとが〕の乗ずべきスキがないの意。「尤」=「咎」 
 「咎〔とが〕无〔な〕し」は、『易経』爻辞〔こうじ〕に頻繁に登場する言葉です。
 「咎」とは、禍〔わざわい/災い〕・過〔あやま〕ち・罪禍・
 咎過〔きゅうか: さしつかえ・あやまち〕などのことです。
 爻辞の末文に「咎无し」とあるのは、危ぶみよく後悔して過ちを改めること、
 また過ちがないようになることです。
 『繋辞伝』に、「咎无しとは、善く過を補うなり。」とあります。
 老子は、あるいは、『易経』をよく読んでいて、
 思わず『易経』の文言・用い方のスタイルを採ったのかも知れません。



(任信・第78章) 注1)

§. 「天 下 柔 弱」 〔ティン・シャ・ヂャオ・ジア〕


注1)
水の“柔弱の徳”について述べられています。
「柔よく剛を制す」の“不争謙下〔ふそうけんか〕”です。
首〔かしら〕・指導者といった上級の者は、
栄誉・吉祥を受けるという常識に反して、
(下級の者より以上に)恥辱・不祥を受けるのです。
それが(逆説的)真実の言葉なのです。
末文「正言は反するが若〔ごと〕し」は、
逆説的真理を表わす成句として定着しています。
「任信」のタイトルは、この「正言若反」という本章の結論を、
信じるか否かは読者に任せよう、との意図でしょうか? 
“Things to be Believed”


○「天下莫柔弱於水。而攻堅強者、莫之能勝。以其無以易之。 | 
 弱之勝強、柔之勝剛、天下莫不知、莫能行。 | 
 是以聖人云、受国之、是謂社稷。受国之不、是謂天下正言若反。」


■ 天下に水より柔弱〔じゅうじゃく〕なるは莫〔な〕し。
 而〔しか〕も堅強を攻むる者、之に能〔よ〕く勝〔まさ〕る莫し。
 其の以て A.之に易〔か〕わる無き(/B.之を易うる無き)を以てなり。| 
 弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざる莫きも、能く行なう莫し。 | 
 是〔ここ〕を以て聖人云〔い〕う、
 「国の垢〔あか・はじ〕を受く、是れを社稷〔しゃしょく〕の主〔しゅ〕と謂う。
 国の不祥を受く、是れを天下の王と謂う。」 と。
 正言は反するが若〔ごと〕し


《 大意 》
この世の中に、水より柔軟でしなやかなものはありません。
しかしながら、堅くて強いものを攻めるのに水に勝〔まさ〕るものはないのです。
というのは、 A.その水の柔軟性に変わり得るものなどはないのです。
(/B.その水の性質を変えさせるほど他に力強いものはないのです。
→水が最強のものです。)
弱いものが強いものに勝ち、柔らかいものが剛〔かた〕いものに勝つという道理は、
世の中の誰もがよく知っていることです。
が、それを自分で実行できるものはいません。
ですから、聖人は言っています。
「一国の恥辱(汚辱)を一身に引き受ける人を
国家(社稷〔しゃしょく〕)の主〔あるじ〕といい、
一国の不幸(災禍)を一身に引き受ける人を天下の王という」 と。
( ── このように、)正しい言葉というものは、
常識とは一見反対〔さかさま〕のことを言っているように聞こえるものなのです。


*「水(不争・謙譲)」・老子 = 「仁」・孔子  = 「(慈)悲」・釈迦 = 「愛」・キリスト

・「天下莫柔弱於水」: 
 河上本などは、 「天下柔弱莫過於水」 〔天下の柔弱なるは水に過ぐる莫し〕としています。
 また、「弱」は、若い娘の肌を形容する言葉でもあり、
 “しなやか”・“たおやか”の意がよいでしょう。

・「以易之」: 
 「易」の解釈は、難しいものがあります。── 
 A.代わり・代替するものがないの意 
 B.変える(ほど強力な)ものがないの意

・「柔之勝剛」: 
 古代(例えば『易経』)では、「陰」・「陽」の語はなく
 「柔」と「剛」を用いていました。
 「之勝」と、置き換えてみるのも面白いかもしれません。
 cf.“損して得取れ”/易卦【山沢損】&【風雷益】

・「社稷主」: 
 社稷は、土地の神と五穀の神。
 そこから「社稷」は国家の意となり、
 「社稷主」は一国の主(国君)のことを指します。

・「垢」「主」/「祥」「王」: 
 「垢」と「主」(古音はソウ)が押韻し、
 「祥」と「王」が押韻しています。



《 孫子 と 「水」 ・・・ 「兵形象水」 》 


孫武は、春秋時代の兵法家で兵法の創始者、
「兵家〔へいか〕」の開祖として有名です。

その著書『孫子』十三編は、兵書の枠を超えて広く永く愛読・研究されています。

例えば、『三国志』で有名な曹操は、
『孫子』を熟読研究の上注釈まで加えています。

わが国においても、八幡太郎義家が雁行〔がんこう〕の乱れから伏兵を悟った話、
武田信玄の“風林火山”の旗さしものが
『孫子』・「軍争編」から採られたものであったりしたこと、
などよく知られています・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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