儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2013年07月

大難解 (やさしい) ・ 老子 (RAOTZU) 講   ≪序の言〔ことば〕≫


《 はじめに 》

私の執筆・制作中の「老子」講義用テキスト、
『大難解〔やさしい〕・老子講』 が間もなく完成いたします。

本稿は、私の主宰する“真儒協会”の“定例講習・「老子」”で、私が講じてきたものと
“関西師友協会・篤教講座”において講じた折に制作した教材・資料がベースになっております。

講義用に『老子』の原典・解説書を英文文献も交えて解かり易く書き下ろしており、
又「易学」の視点も盛り込んだ老子の総括的内容となっております。

(手前味噌で恐縮ながら)難解をもって知られる老子の思想を、
咀嚼〔そしゃく:よくよくかみ砕き味わうこと〕してポイントをまとめあげ、
そしてビジュアル化も図った労作です。

私はこの研究学修で、20世紀初頭、平成の現代(日本)の“光”をあてながら
「老子」と“対話”してまいりました。

故〔ふる〕くて新しい「老子」を活学した試みでもあります

今回、その「序の言」を書き終えましたので、紹介掲載しておきたいと思います。
なお、タイトルの“よみ”「大難解 ⇒ やさしい」は、次の意味からつけました。

★はるかに遠・大なるものは反(返)ります。 
── 極(至)大に難解なるものはやさしい〔易しい:simple〕のです。
これが、黄老(老子)思想の真髄です!


────────────────────────────────────────


《 序 の 言 〔ことば〕 》

儒学と老荘(黄老・道家)思想は、東洋思想の二大潮流であり、
その二面性・二属性を形成する
ものです。

国家・社会のレベルでも、個人のレベルでも、
儒学的人間像と老荘的人間像の2面性・2属性があります。

また、そうあらなければなりません。

東洋思想の泰斗〔たいと〕、故・安岡正篤先生も述べられておられますように、
“易”と“老子”は東洋思想・哲学の至れるものであり行きつくものであり、
ある種、憧憬〔あこがれ・しょうけい〕の学びの世界です


◎「
東洋の学問を学んでだんだん深くなって参りますと、
どうしても易と老子を学びたくなる、
と言うよりは学ばぬものがない
と言うのが本当のようであります。
又そういう専門的な問題を別にしても、
人生を自分から考えるようになった人々は、
読めると読めないにかかわらず、
易や老子に憧憬〔しょうけい〕を持つのであります。
(*安岡正篤・『活学としての東洋思想』所収「老子と現代」 p.88引用 )


私は、浅学菲才〔せんがくひさい〕に加えて、50代の若さにもかかわらず、
善き機会と場を得て「易学」と「老子」を二つながらに講じさせて頂いていることを、
まことに有り難く想っております。

別の言い方をすれば、「易学」と「老子」を二つながらに講じ“楽しみ”ながら、
いまだ命(身心)を健〔すこ〕やかに存〔ながら〕えている天恵に深く感謝し、
“しあわせ”を感じています。

さて、東洋の奇書、『易経』と『老子』は難解をもって知られます。

諸々の教養人の思想・学問的憧憬〔あこがれ・しょうけい〕である
一つの所以〔ゆえん〕でもありましょう。

とりわけ『老子』は、神秘に満ち謎めいていて、
解釈も難解を超えて諸説紛々〔ふんぷん〕意味不明という箇所も多々あります。

西洋の学、それも社会科学系(法学・経済学・商学)の専門教養しか持たなかった私が、
易や老子をライフワークにするに至ったというのは、
まことに“縁尋機妙〔えんじんきみょう〕”なる出合いでありました。

そして、それは自分自身の文化・芸術的DNAがそうさせたのだと想っています。
平たく申せば“ハマリ役”のように“むいていた”ということでしょう。

若き日、不思議に何かに導かれるように易に学び自修し、
(広く儒学=四書五経を学修し)
やがて、自ずから然るべく(「自然」に)“黄老”に至ったのでした。

私が、「老子」を全くの独学で、短期間に(一応)修められたのは、
やはり20余年に亘って独学で易学を原典〔オリジナル〕で修めていた
というベースがあったからだと思います。

そして、「易学」と「老子」を併せて修めてまいりますと、
至れる者同士、その重なる所が実に多くより確かに理解〔わか〕ってまいります。

「老子」への学修は、そんなごく小さな覚知〔かくち/覚り〕を
積み重ねていくようなものであった気がしています。

“易”と“老子”の世界は、私にとって、“壺中(の)天”です

しみじみと思い想うにつけても、
壮年期、窮することなく円通自在な易学に出合っていなかったら
私の後半生もどうなっていたかわからない気がします。

また、黄老の学がなければ、晩年が心平穏・豊かなものとはならず
惨めなものとなったに違いないと思います。

≪ 学ぶ → 楽しむ → 遊ぶ ≫ と学修は至って行きます。

黄老の世界は、私にとって、現実の中にあって
心中は隠者の世界に遊ぶような気がします。

ところで、E.H.カー は「歴史とは、現在と過去との対話である」と言い、
孔子は「温故而知新」(故〔ふる/古〕きを温〔あたた/たず・ねて〕めて
新しきを知れば、以て師となるべし)の名言を残しております。

そもそも、優れた古典を修める(修めねばならない)意味は
この言〔ことば〕の中に在ります。

現代を善くし未来を展望するには、優れた古典の思想・哲学が必要です。

殊に、現代は、価値観が錯綜〔さくそう〕し課題が多岐にわたっています。

大衆民主主義社会の弊害が蔓延〔まんえん〕し、
人間の「本〔もと〕」が忘れられ乱れてまいりますと
古典に救いを求めるしかありません。

指導者(リーダー)的立場にある者はなおさらのことです。

言葉を変えれば、古典を“活学”するということです。

本稿では、“帛書老子”・“楚簡(竹簡)老子”の新発見による研究成果も踏まえながら、
20世紀初頭、平成の現代(日本)の“光”をあてながら、
「老子」と“対話”してまいりました。

故〔ふる〕くて新しい「老子」を活学してまいりました
── 具体的には、“コギト(我想う)”や“トピックス〔時事〕”に述べてある試みがそれです。

老子の“現実的平和主義”に想う≫ /
≪ユートピア=理想郷(社会・国家)について≫ /
水【坎】 を楽しむ≫ などは、
かねてから文にまとめておきたかったテーマです。

本稿・「老子」の講義冊子は、私の主宰する真儒協会の定例講習や
特別講義(3年余 約40回ほど)で講じてまいりましたものと、
安岡正篤氏にちなむ関西師友協会・篤教講座(1年弱 連続4回)において
講じた折に制作した教材・資料がベースになっております。

その折々で一所懸命に、深慮取り組んだ内容です。

そのコツコツと【畜】〔たくわ〕えた精華を、
講義冊子(テキスト)として形にすることができますことを嬉しく想っております。

易卦に【水沢節】があります。
“竹の節〔ふし〕”・“節目〔ふしめ〕”の意です。
“節から(新たに)芽が出る”とも申します。

今回の『大難解〔やさしい〕老子 講』の編纂を、
私の易学と老子研究の大きな“節目”としたいと考えています。

また、晩節の始まりとしたいと考えています。

この、ささやかな労作は、殆〔ほとん〕ど顧みられることなく
著者の無名と共に埋もれてしまうでしょう。

それは、「老子」に学ぶ者にとって相応〔ふさわ〕しいことかも知れません。

それでも、ごく限られた数にせよ、活眼の人々や志徳ある若者に役立ち、
その精神の糧〔かて〕となることを期待しています。

それによって、“一粒の麦、地に落ちて死なずです。

微〔かす〕かな一本の“ろうそくの灯〔ともしび〕”にせよ、
“受け継がれ”、やがて時の宜〔よろ〕しきを得て、
燎原〔りょうげん〕の火の如く燃え盛り人々の心を照らし、
ユートピア社会を築く原動力となることがあるやもしれません ・・・ 。


高根 秀人年  (‘13/ H.25 春 )


( 以上 )

水【坎】 に想う  (その12)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 レオナルド・ダ・ビンチ と 「水」 》

古来、“天才”と称される偉人は少なくはありません。
が、“万能の天才”(ウオーモ ウニベルサーレ:普遍的人間)と冠される偉人は稀〔まれ〕です。

その“万能の天才”の名声を代表しているのが、
ルネサンスの巨人、レオナルド・ダ・ビンチ です。

賢人・聖人の至れるものが、象〔かた〕どられた“水”であることから
レオナルドにおいても“水”は強い執着と“楽〔らく〕”を与えているものです

ただ、一味、他の賢人たちと異なるのはその多才ぶりにあります。 

── レオナルドは、“水”(川)の流れを観て
人生・自然世界を瞑想〔めいそう〕し(【哲学者】)、
“水”という物質の形態を研究・深究し(【科学者】)、
“水”⇒ “波”をスケッチ・デッサンしていくうち、
いつしか“水”が永遠なる女性の髪の美(ウェイブ)と重なり融合して
“美”の世界に深く没頭してゆくのでした(【芸術家/画家】)。

レオナルドと“水”とのかかわりについては、
私たちは貴重な文献資料である「手記」によって垣間見ることができます。

以下、「手記」の中から“水”に関連するものをピックアップしてみましょう。


◎原典資料

・一人が他を追いかける。この絵によって生命と人間の状態が理解される。

・われわれは他人の死でわれわれの生命を養う。
 死せる物の中には生命が残っている。
 それがいきものの内臓に結びつくとふたたび感性的 知性的 生命を帯びるのである。

君が手にふるる水は過ぎし水の最期のものにして、来るべき水の最初のものである。
 現在という時もまたかくのごとし

(『レオナルド・ダ・ビンチの手記 ・上 』・杉浦明平訳・岩波文庫/〔人生論〕より)


・水の書の始まり ── 広くて深い形姿を有し、
 そこにあっては水がほとんど動かずにとどまっているものは海とよばれる。

☆水は自然の馭者〔ぎょしゃ〕である

・水とは何か ── 水は四原素のうち
 第ニの重さと第ニの流動性〔ヴォルビリタ〕をもつものである。
 これは海というじぶんの原素〔圏〕に帰りつくまでけっして静まることがない。
 海では、風に 患わされないかぎり、じっとして
 世界の中心から等距離なる水面を持して憩〔いこ〕うている。
 この〔水〕はありとあらゆる生ける物体の養分〔アウメント〕にして水分〔オモーレ〕である
 月の下なるいかなるものも水なしにはひとりで最初の形態を保持して行くわけに行かない。
 水はもろもろの物体を結合し、養い、それを成長させる。
 水より軽いものは暴力をもってするのでなければ水を貫くことができない。
 熱によって微細な水蒸気となり嬉々〔きき〕として空中に立ち昇る。
 寒さは水を凍結し、安定は水を腐敗さす
 あらゆる匂い、色および味を受入れるが、自分には何ひとつもたない

・そしてちょうど鏡がその前を通過する対象の色に自らを変えるように、
 何一つ自分自身では持たぬが、すべてを動かしもしくは捉〔とら〕える、
 そしてその通過する場所が千変万化すればそれだけ自分の性質をも千変万化させる。

・水は不断の運動によって海のどん底から山のてっぺんまでを循環し
 重さを有する物体の性質に従わない。
 この場合ちょうど動物の血のような働きをする

・川の水は海から来るのではなく雲から来るのだ。

・水の運動 ── 濁った水が、その流れに逆らうものにあたえる衝撃は
 清らかな水よりはるかに強い。

(『レオナルド・ダ・ビンチの手記 ・下 』・杉浦明平訳・岩波文庫/〔科学論〕より)


cf. 水=変化=循環     人間 ── 女性の髪の美/波(ウェイヴ:Wave)



( 以上 )



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水【坎】 に想う  (その11)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 水=川の流れ ・・・ 鴨長明・『方丈記』 》

「川の流れのように」 や 「時の流れに身をまかせ」という名曲の表題は、
私たち(日本人)の感性によく適〔かな〕いよく知られています。  注10)  

古代中国において、“水”は“川”と同意でした。

“水”は流れ移りゆくものであり、
したがって川の流れであり、時の流れとも表現できるのです。


東洋思想において、古代の聖人・哲人(ex.孔子・老子・孫子 ・・・・ )は、
“水”をその思想の象〔しょう/かたち〕といたしました

そしてそれは、“水”を(有形・固定したモノとしてではなく)
時間”(無形・移りゆくもの)で捉えるものです

すなわち、水の流れ = 川(の流れ) として捉えるものであったといえましょう。


【東洋思想の水】 
☆水を時間(無形・形而上的)で捉える = 水の流れ = 川(の流れ)


鴨長明・『方丈記〔ほうじょうき〕』は、
吉田兼好・『徒然草〔つれづれぐさ〕』と共に、
わが国鎌倉期を代表する二大随筆です。  注11)  

両者は、仏者の隠者文学の金字塔で、“仏教的無常観”で貫かれているとされます。

この二大作者・作品は、中国の源流思想(=水【坎】の思想)の影響を
色濃く反映しているということができましょう。


私見ながら、(東洋三大思想、宗教としての)“仏教”が加わると、
「易学(儒学)」・「黄老」の“変化”・“循環”の思想が、
“はかない/むなしい”といった消極的な意味で捉えた
“無常観”(=変化)の悟りになっていると考えられます

【陰陽】の【陰】と捉えることもできましょう。  注12)


水の流れ(=川/「ゆく河の流れ」)を、その文学作品の冒頭に
滔々〔とうとう〕と綴〔つづ〕ったものが、鴨長明・『方丈記〔ほうじょうき〕』です。

そこでは、“無常観”(=変化)が
ながれる水(河)の象〔しょう/かたち〕となって表わされています。

空間(有形)を捉えているところは絵画的であり、
時間(無形)を捉えているところは哲学的でもある文学作品の書き出しです。

そして、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、・・・ 」と、
まさに流れるような文体で書かれています。

激動の時代に変化・無常を身をもって体感した鴨長明ならではの名文といえましょう。

以下、『方丈記〔ほうじょうき〕』の冒頭部分を引用・紹介しておきましょう。


注10)
◆「川の流れのように」: 美空ひばり さんのヒット曲としてよく知られ、
秋川雅史・椿・近藤真彦・奥村チヨ さんなどで歌われている名曲です。
今なお、多くの人々に唄い親しまれています。
似た題名の曲として、「川の流れの如く(吉田拓郎)」・
「川の流れは(THE BOOM)」・「川の流れを抱いて眠りたい(時任三郎)」 ・・・ etc.

◆「時の流れに身をまかせ」: テレサテン( 麗君) さんのヒット曲として
よく知られています。
似た題名の曲として、「時の流れのように(中山美穂)」・
「時の流れの中に(谷山浩子)」 ・・・ etc.


注11)
平安期の清少納言・『枕草子〔まくらのそうし〕』を加えて、
わが国 “三大随筆”といわれています。


注12)
『徒然草』は 思想的には、一般に 仏教的無常観であるといわれています。
しかし、私は、兼好が 「変化〔へんげ〕の理〔ことわり〕」(74段) と呼ぶものを、
東洋的 “変化〔へんか〕の思想”として捉えてみたいのです。
源流思想としての 易・『易経』の世界観・人間観です。
変化は同時に 「時」 の理でもあります。
序段の「心にうつりゆく」は、時間的遷移〔せんい〕でもあり、
その遷移は中論(弁証法)的に捉えられます。
無限変化 ─ 進化循環するという意味においての 「無常」です
従って兼好の人間観・運命観は、陽性にして肯定的・主体的です。
つまり、宿命と運命を峻別し、運命は人間の力で打開できると信じています。
このことは、中世にあっては、注目すべきことではないでしょうか。
ヘーゲル哲学の運命観も同様であり、
ここに近代精神の先駆を見ることも出来ると思います。 
(高根:「『徒然草』にみる源流思想」より)


◎原典資料

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし

たまきの都のうちに、棟〔むね〕を並べ、甍〔いらか〕を争へる、
高き、いやしき、人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、
これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。
あるいは去年〔こぞ〕焼けて今年作れり。
あるいは大家〔おおいえ〕滅びて小家〔こいえ〕となる。
住む人もこれに同じ。
所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、
二、三十人が中に、わづかに一人二人なり。
朝〔あした〕に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。
また知らず、仮の宿り、誰〔た〕がためにか心を悩まし、
何によりてか目を喜ばしむる。
その主〔あるじ〕とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。
あるいは露落ちて花残れり。
残るといへども朝日に枯れぬ。
あるいは花しぼみて露なほ消えず。
消えずといへども夕べを待つことなし。」


《 大 意 》
流れゆく川の流れは(常に)絶えることはなくて、
しかも、(その流れの水は刻々と変化して)同じ水ではありません。

よどんだ所に浮かんでいる水の泡は、一方で消えたかと思へばまた生まれて、
(生まれたかと思えばまた消えて)
長い間同じ状態でとどまっている前例はありません。

世の中の、人と(その)住居も、また(この川の流れや水の泡と)同じようです。

玉を敷きつめたように美しい都の中に、棟を並べ屋根の高さを競い合っている、
身分の高い人や低い人、あらゆる人の住まいは、
時代を経てもなくならないもの(のよう)であるけれども、
それを本当(になくならない家である)かと調べてみると、
昔あった家(で今も残っているもの)はまれです。

あるものは、去年焼けて今年(新しく)作っています。
あるものは、大きな家であったものが没落して小さな家となっています。

(そこに)住んでいる人も(家の場合と)同様です。

場所も変わっていないし、人もたくさんいますけれども、昔見知っていた人は、
二、三十人のうちに、わずかに一人か二人です。

朝に死んでゆく人がいるかと思えば、
夕方生まれる人もいるという(この世の)ならいは、
まさに本当に、水の泡に似ています。

 ── わからないのです、この世に生まれて死ぬ人は、
どこからやって来て、どこへ去っていくのか。

また、(これも)わからないことなのですが、
仮の住まいにすぎないのに、だれのために心を悩ませ、
何によって目を楽しませるのか。

その家の主人と住居とが、あたかも競い合うように儚〔はかな〕く滅び去るありさまは、
例えば朝顔の花(とその上)に置かれた露と変わりません。

ある時には、露が落ちて花が残っています。

残るといっても朝日を浴〔あ〕びて枯れてしまいます。

(また)ある時には、花がしぼんで露がまだ消えないでいます。

(が、しかし)消えないといっても夕方まで残っていることはないのです。


《 レオナルド・ダ・ビンチ と 「水」 》

古来、“天才”と称される偉人は少なくはありません。
が、“万能の天才”(ウオーモ ウニベルサーレ:普遍的人間)と冠される偉人は稀〔まれ〕です。

その“万能の天才”の名声を代表しているのが、
ルネサンスの巨人、レオナルド・ダ・ビンチ です。

賢人・聖人の至れるものが、象〔かた〕どられた“水”であることから、
レオナルドにおいても“水”は強い執着と“楽〔らく〕”を与えているものです・・・




※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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