儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2014年10月

儒学の「素」に想う (その5)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 §5.「素以為絢」/「繪事後素」 を考える 》

先に見て参りました、孔子と子夏との禅問答のようなこの一節は、
多くの人は、あまり関心を示さずに見過ごしている部分ではないかと思います。

しかるに、この部分は、私が 『論語』 に親しんで、
専門的な意味で最初に最も深く心惹かれた問答の箇所です。


というのも、私は、若かりし頃は、ひたすら美術の道を歩み
「美」の世界を追求しておりましたので、
子夏の人間像・想いと似ているところがあり本能的に惹かれたのだと思います。


美術(絵画) =    =    (が形をもったもの)

私は、人間の然〔しか〕あるべき(=道徳的・倫理的) 善き生き方と申しますものは、
別言すれば、美しい生き方ということだ、と考えるのです。

そして、その生き方は、東洋(儒学)思想でいえばということになるのです。


さて、絵画(の美)と人間の善美(な生き方)の関係ですが、
一般的に次のA・B 2つの解釈があると考えられます。

どちらも要〔かなめ〕で、重要なものです。


A.素(白)地・生地 〔ベース: base〕  

古代中国の絵を考えてみますと、“紙”  補注1) 
が発明される以前、中国では文字・絵をかくモノ(素材)として、
“絹布”が用いられていました。

絵を描く白い絹布を“素絹〔そけん〕”といいます。

この素絹がなければ表現のしようがありません。

つまり、書や絵画という美術を表現するベース=生地〔きじ〕が“素絹”です

これから、素地・素質・本質という意味になって行くのです


朱子(朱熹)の注(新注)では、「絵事は、素より後にす」と解していて、
絵画のプロセスに擬〔なぞら〕えて、この意味で人間というものを捉えています。

『論語』の他の部分にも、立派な人間には、
ベース=根本 が重要であることが述べられています。すなわち。

○ 「君子は本〔もと〕を務む。本立ちて道生ず。」 (学而・第1)

 君子は根本のことに力を注ぐものです。
  万事、根本がしっかり定まってはじめてその先の道も開けるというものです。


美術で、モチーフの「本〔もと〕」を通常色彩を用いず単色で描写することを
“デッサン〔dessin 仏〕”(“クロッキー〔croquis 仏〕”)といい
描〔そびょう〕”と訳しています

私は、興味深いことと想っています。


(肉)体に関するスポーツの世界でも、その競技の技能〔テクニック〕の習得の前に、
“体を作る”といった基礎的体力・運動能力の養成が必要です。
(ex.ランニング・素振り・しこ・・・) 

精神に関する学術の修養でも、
“灑掃〔さいそう/洒掃〕”という“そうじ”をすることによって
学ぶための精神的肉体的準備態勢(受け入れ態勢)を整えます。

「灑」・「洒」は「シ」〔サンズイ〕がついているように
水を注いで塵・埃を払うことで、東洋思想らしいですね。

私が易学的に想いを馳せてみますと、
「水」は易八卦の象〔しょう・かたち〕で【坎〔かん〕☵】です。

【坤/地☷】の肉体に内在する精神・こころです。

その“陽”の精神・こころが、“陰”の肉体の中を一本貫いています。

“一貫”するものですね。

精神・心に一本通る“徳”であり、(永遠に)“受け継がれるもの”
(cf.DNA、ミーム〔文化的遺伝子〕)である、と
想います。

── それはともかく。


そうしますと、孔子の「素より後にす」の応答に対する、子夏の「礼は後か」
「“礼”〔広く文化・道徳的な規範〕は、まごころ〔忠信〕という
ベース・地塗りが出来てから行われるものですね。」 /

cf.「礼儀作法というものはまず忠信という心の地塗りをしたのちに
   行わるべきものでございますか。」
   (宇野哲人・『論語新訳』講談社学術文庫) のように解することとなります。


さて、本文に「絵の事」とありますので、美術を中心に具体例を挙げて考察してみましょう。

●〈メイク・化粧〉 

“色白美人”とか“色の白いのは七難隠す”といわれ、
肌の白いこと自体が美人とされています。

『グリム童話』の「白雪〔しらゆき〕姫」も、正しくは「雪白姫」です。

雪のように肌の白い子が生まれましたので、「雪白〔ゆきじろ〕」と名づけたのです。

“白粉”と書いて“おしろい”と読みます。

ちなみに、俗に化粧することを“カベ塗り”とか“化ける”と言いますね。

現代一般女性のメイクも、ファンデーション(下地)を塗って肌の地を整えてから
目や口のパーツ〔部分〕の装飾に入って行きますね。

伝統的化粧(品)として“ドーラン〔Dohran 独〕”があります。

現代でも、芸者さんや歌舞伎役者さん俳優さんなどのメイクに用いられています。

“ドーラン”と称される油性の練り白粉で顔(首・肩)中を真っ白に塗ってから、
目や口や頬の部分に彩色(?)を施して行きます。

その白化粧そのものが(殊に舞台など遠目で)艶〔あで〕やかでもあります


●〈日本画〉

“白い和紙”に“ドウサ”〔陶砂/礬水・礬石・礬沙〕を表面に引いて(=塗って)
下地調整して後に彩色を開始します。

“ドウサ”は膠〔にかわ〕に明礬〔みょうばん〕を混ぜてつくるもので、
墨や絵の具が滲〔にじ〕み散るのを防ぎ滲み具合がよくなります。


●〈油絵〉

油絵は、15世紀以降(ルネサンス期)西洋画の主要技法となりました。

ファン=アイク兄弟は油を用いて絵を描く技法を研究し、
写実表現を完成させたといわれています(北欧ルネサンス)。

イタリア・ルネサンスの大天才レオナルド・ダ・ビンチは、
油絵の先駆者〔せんくしゃ〕でもあり、
「モナ・リザ」・「聖アンナと聖母子」をはじめ偉大な傑作を残しています。

油絵は、はじめは、板の上に油絵の具で描かれました。

レオナルドの制作途中の作品を観てみますと、
板の上にモノクローム(黄土色)で地塗りをし、
その上に茶系色で下絵を描き、それから彩色しています。

近代になって、油絵を描くのに専ら用いられて一般化しているものが
“キャンバス: canvas 仏/カンバス・画布〕”です。 補注2) 

“キャンバス(カンバス)”は、麻布に白い石膏状の塗料を塗ったものを、
木枠に鋲〔びょう〕でピーンと張ったものです

その表面の凹凸の按配〔あんばい〕で絵の具の“ノリ”が良く、
適当な描画下地であり、また適度な弾力性(クッション)がある優れものです。

この白い“キャンバス(カンバス)”の上に、
さらに油絵の具の単色で地塗りして、
それが乾いてから下絵を描き始める作家もいます。

私も、従来から、レオナルドのやり方に倣〔なら〕って
“キャンバス(カンバス)”にモノクロームで下塗りした後、
下絵を描いてから始めています。

まさに、「絵の事は、素より後〔のち〕にす」ですね。


●〈フレスコ画〉

西洋の壁画に古くから用いられている伝統的技法です。

“フレスコ〔fresco 伊〕”は、“生乾きの”の意で、
西洋の壁画に用いられる技法です。

漆喰〔しっくい:石膏・石灰・セメント・砂など/=白土〕を塗って、
乾ききらないうちに水彩絵の具で描きます。

石灰の層の中に絵の具が滲みこんで乾くため非常に堅牢です。

が、塗った漆喰が乾燥するまでに描画彩色を終えなければなりませんから、
当面描ける分だけの小面積に漆喰を塗ります。

その、部分作業の積み重ねです。

また、漆喰が乾燥して後の彩色もできません。

したがって、画家に、全体に対する小部分を描き完成させながら
統一された全体を完成させるという、高い技量が求められます。

レオナルドと並び称されるイタリア・ルネサンスの大天才、
ミケランジェロ・ブオナルローティは“フレスコ画”の名手です。

ミケランジェロの「システィーナ礼拝堂 天井画・壁画」は、
人類が有する最高のフレスコ画といえるでしょう。


●〈博多人形〉

人形作品においても、有名な“博多人形”の制作過程に興味深いものがあります。

“博多人形”は、焼き物の素材で、
白色をベース〔基調〕にした伝統的手書き彩色(絵付け)工芸品です。

そのプロセスは、まず、人形の原型から大量に焼き物(陶磁器)で人形を作ります。

焼き上がった人形は、無釉〔むゆう:うわぐすりをかけていない〕ですので
土器色〔かわらけいろ〕一色の状態です。

それらに、コンプレッサー(機械製吹きつけ機)で“胡粉”塗料(東洋の白色絵の具) 補注3)
を万遍なく吹きかけ、全体真っ白な人形ができます。

よく乾燥させ、その上に人形職人さんたちが、一品ずつ一筆一筆、
着物の柄や髪・貌〔かたち〕を面相筆で彩色してゆくというものです。

博多人形師(師匠)は、最後の仕上げとして“目”を画き“銘〔めい〕”を入れます。

昔時〔むかし〕、色の白い(手?)女性を褒〔ほ〕めて
「まるで博多人形みたい!」と相手が言うCM.があったかに記憶しています。

先述のように(肌の)色白は女性への美称、褒め言葉です

女性を形取った博多人形には、
とりわけ“白の彩〔あや/章〕”を感じさせるものが多くあります

「絢〔あや:なんとも艶やか〕」が実感されます


●〈現代建築塗装など〉

現代建築の塗装においても、通常、
下地調整後 下塗り → 中塗り → 上塗り(仕上げ)といったプロセスをとります。

金属素材の場合、錆〔さび〕止めの塗装を加えますし、
コンクリート素材の場合“シーラー”と呼ばれる白い乳液状のものを事前に塗布します。

塗装仕上げに対して“タイル貼〔ば〕り(外装)仕上げ”は、
建築仕上げで高級・高価なものです。

美的で芸術性・デザイン性が高く、建築物を人間に擬〔なぞら〕えると
外面が美しく賁〔かざ〕られた“文化人”のような気がします。

このタイル貼りの施工・仕上がりの善し悪しは、
ひとえにタイル貼り下地としてのモルタル(セメント+水+砂)下地の
出来の如何〔いかん〕にかかってい
るのです。

善き人間の形成・完成も「素」=ベースが大事である、
ということを連想して感じるところです。


補注1)
“紙”: 紙は後漢〔ごかん〕の蔡倫〔さいりん〕が発明したとされてきましたが、
前漢〔ぜんかん〕遺跡から古紙が発見されたことから、今では漢代初期の発明と考えられています。
この偉大な東洋の4大発明の一つ“製紙法”は、
戦争という東西交流の偶然(751. タラスの戦い)から西洋世界に伝播します。
紙が伝わるまでの西洋社会では、専ら“羊皮紙 〔parchment 英〕”が用いられていました。


補注2)
“キャンバス”: 麻または木綿の布地に、膠〔にかわ〕またはガゼインなどを塗り、
更に亜麻仁油・亜鉛華・密陀僧〔みつだそう〕などをまぜて塗ったもの。
油絵を描くのに用いる。  (『広辞苑』)


補注3)
“胡粉”: 日本画に用いる白色の顔料。
古く奈良時代には塩基性炭酸鉛即ち鉛白をいい、鎌倉時代まで用いた。
室町時代以後、貝殻を焼いて製した炭酸カルシウムの粉末が白色顔料として多く用いられ、
これを胡粉と呼ぶようになった。
胡粉絵”:地に胡粉を塗り、その上に、墨・丹・緑・青・黄土を用いて描いた絵。
(『広辞苑』)


B.仕上げ(プロセスの)白 〔フィニッシュワーク: finish〕

以上の解釈に対し、もう一つの解釈の立場があります。

「繪事後素」の前に子夏が孔子に質問した『詩経』の文言は「素以為です。

「(その白い素肌の)上にうっすらと白粉〔おしろい〕のお化粧を刷〔は〕いて、
何とも艶〔あで〕やか」 

つまり、 「素」はベースとしての「白」であると同時に
仕上げの艶やかに煌〔きら〕めく「白」でもありましょう。
・・・



※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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儒学の「素」に想う (その4)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 §4.『中庸』 と 『老子』 
   ── 「素行自得」と「安分知足」/「無為自然」 》

○「君子は、其の位にして行い、その外〔ほか〕を願わず。 | 
富貴にしては富貴に行い、貧賤にしては貧賤に行い、
夷狄〔いてき〕にしては夷狄に行い、患難にしては患難に行う。 | 
君子は入るとして自得せざる無し。」
   (『中庸』・第14章)


【 君子其位而行、不願乎其外。 | 
富貴行乎富貴、貧賤行乎貧賤、夷狄行乎夷狄、患難行乎患難。 | 
君子無入而不自得焉。 】


《 大 意 》

有徳の君子は、自分の置かれた立場・境遇を、
自分の本来あるべきもの(然〔しか〕るべきもの)と心得て、
それに適った行いをして、あえてそれ以外のことを願う心を持たないのです。

もし、(出世して)経済的に豊かで社会的地位が高い時は、
驕〔おご〕り高ぶったり好き放題であったりせず、
富貴な者の然るべき道を行うのです。

もし、(逆境にあって)経済的に貧しく社会的地位が低い時には、
卑屈になったり媚び諂〔へつら〕ったりすることなく、
貧賤の者の努力すべき然るべき道を行うのです。

夷狄(外国の野蛮国)に在〔あ〕っては、(じぶんの道を守り貫きながらも)
その地の風俗習慣に従って然るべく行うのです。

患難に臨んでは、いたずらに恐れ憂うことなく、節操を守り貫き、
患難を然るべく克服するのです。

このように、君子というものは、それぞれの位置・境遇に
“適中”する(素する=もとより然りとする)行為をするので、
どのような位置・境遇に在っても(入〔い〕る)も、
少しも不平や不満がなく
自ずから意に適って悠游〔ゆうゆう〕と自適する
ものなのです


《 解 説 》

「素(行)」・「自得」は儒学思想のキーワードです。

その儒学思想・哲学の書『中庸』で最も有名な1章がこれです。

「素(行)」は、「素」=「故」で、 “もとより然りとなす”の意です。

「自得」は“少しも不平や不満がなく自ずから意に適って
悠游〔ゆうゆう〕と自適する”
の意です。

儒学・『中庸』の「素行自得」は、
『老子』の「安分知足」・「無為自然」にそのまま通ずるものです。

そして、現代にそのまま通じ望まれるものと私は考えます。 

── “トナリの芝生”は、時代を超えて人間が戒めねばならない
“業〔ごう〕”なのかも知れません。


*---------------------------------------------------------------*
「人を指導する立場にある人、いやしくもエリートたる者は
『その位に素して行ふ』、自分の立場に基づいて行う。
自分の場から遊離しないで行うものである。

現実から遊離するのが一番いけない

ところが、人間というものはとかく自分というものを忘れて
人を羨〔うらや〕んでみたり、
足下〔あしもと〕を見失って、他に心をうばわれる。

職業人にしてもそうだ。

自分の職業に徹するということは、案外少ないものである。
たいていは、自分の職業に不満や不平を持って他がよく見える。

 ── 中略 ── 

とにかく、※いま日本で社会的に困ることは、
多くの指導者がその場を遊離して騒ぐことだ。」
 
※昭和36年7月の講義講録


(安岡正篤・『人生は自ら創る』・PHP文庫pp.135-136/
旧・『東洋哲学講座』関西師友協会pp.113-114引用)


*---------------------------------------------------------------*


ちなみに。先述のように、『論語』・孔子「絵事後素」の「後素」から、
大塩平八郎(中斎)が大塩後素と号したことを安岡正篤先生が紹介されております。
この『中庸』の「素行」が、江戸前期の大儒学者山鹿素行〔やまがそこう〕 補注) 
の号の由来であろうと推察いたします。


補注) 
「忠臣蔵」の“山鹿流の陣太鼓”でご存じの方も多いでしょう。
山鹿素行(1622-1685)は、江戸前期の儒学者・兵学者で山鹿流軍学の開祖でもあります。
名は高興・高祐、会津生まれ。朱子学を排斥し古代の道への復帰を説きました。
なお、“陶鋳力〔とうちゅうりょく〕”の語は、山鹿素行が用いたとされます。
“陶鋳力”とは、“消化力・包容力を併せた創造的な力”のことです。
わが日本(人)は、例えば儒学・仏教・漢語(ひらがな・カタカナの発案) ・・・ 
などの外来文化を、この優れた創造的受容吸収力をもって、
自在に自分のものとして取り込んできたのです。


cf.

 ・『易経』 : 【雷山小過】 “安分知足” (分に安んじ足るを知る)の意、
        「小事には可なり、大事には可ならず。飛鳥これが音を遺〔のこ〕す。」(卦辞)
        (上るには宜しからず、下るには宜し、安分知足、謙虚・控え目であれ)

 ・『老子』 : 33章・44章・46章 「知足」 〔たるをしる〕/「知止」〔とどまるをしる〕
        25章: 「自然」 ☆ 無為 = 自然 。 
        無為を別の面から説明したものです。
        「自然」は〔おのずからしかり〕で、 “それ自身でそうであるもの”
        (他者によってそうなるのではなく、それ自身によってそうなること)の意。
        A.ウェイリーの英訳 
        “the Self−so”と 
        注釈 “what−is−so−itself” は参考になります。
        ほか、“its spontaneity”〔その自発性・自然さ〕。
         (盧・『大難解老子講』 p.26引用)

 ・「ここがロドスだ ここで跳べ!」 
        〔“Hic Rodhos,Hic Salta!”〕
 (ヘーゲル)

☆ 素行・自得 ≒ 安分知足 ・ 無為自然


《 §5.「素以為絢」/「繪事後素」 を考える 》

先に見て参りました、孔子と子夏との禅問答のようなこの一節は、
多くの人は、あまり関心を示さずに見過ごしている部分ではないかと思います。

しかるに、この部分は、私が 『論語』 に親しんで、
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儒学の「素」に想う (その3)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)


《 §3.白 賁 〔はくひ〕 について 》

儒学の源流思想(形而上学)は、『易経』になります。

その重要性は“五経”〔ごきょう〕の筆頭に位置づけられていたことからもわかります。


『易経』(=儒学)の思想にいう、賁〔かざ〕りの極致〔きょくち: 最高で最上の境地〕が
「白賁」〔はくひ・白く賁る〕です。

「白」=「素」〔そ・しろ〕です。


この「白」は 
(1) 最高の色「白」でもあり 
(2) 何も賁ることがない「空〔くう〕・無」(=“徳”で賁る) ことでもあります。


孔子は、『易経』を愛読しその研究家でもあったので、
この「白賁」の教養をもとに答えた可能性もなくはないでしょう。

その意図するところは同じです。
(尤〔もっと〕も、突然の『詩経』の文言についての質問であり、
「易は」ではなく「絵事は」とあるので、
直接「白賁」を脳裏に描いての言であるかどうかは疑問ですが。)


≪参考資料:高根・「『易経』64卦奥義・要説版」 p.22 抜粋引用≫

 

§.易卦 【山火賁〔ひ〕】  「賁〔ひ〕」は、かざる・あや。

(高根流 超高齢社会の卦

“文化の原則”は、知識・教養で身をかざること、
 本当のかざりは躾〔しつけ〕、晩年・夕日・有終の美、衰退の美・
 “モミジの紅葉” ・・・もみじ狩り(=愛でる)、“賁臨”、
 やぶれる・失敗する

  cf.「火」と「石のカケラ」から文化・文明はスタートした。(by.高根) 

  ・「天文を観て以て時変を察し、人文を観て以て天下を化成す。」(彖伝)

  ※ 文明(離)の宜〔よろ〕しきに止まる(艮)のが人文。
    人文を観察して天下の人々を教化育成すべき。

  ・上爻辞: 「白く賁る。」“白賁”・・・美(徳)の極致、
                     あや・かざりの究極は「白」・“素”

    (1)すべての光を反射する
    (2)なにもない(染まっていない・白紙・素)

  ※ インテリアC、カラーC、福祉住環境C・・・の卦/
    超高齢社会の卦 (by.高根)


■上卦 艮山の下に下卦 離。   

  1)離の美を止めている象。
      → ※文明(離)の宜〔よろ〕しきに止まる(艮)のが人文

  2)山下に火ある象。山に沈む太陽(夕陽・夕映え・晩年のきらめき)。



《 §4.『中庸』と『老子』 ── 「素行自得」と「安分知足」/「無為自然」 》

○「君子は、其の位にして行い、その外〔ほか〕を願わず。 | 
 富貴にしては富貴に行い、貧賤にしては貧賤に行い、
 夷狄〔いてき〕にしては夷狄に行い、患難にしては患難に行う。 | 
 君子は入るとして自得せざる無し。」
   (『中庸』・第14章) ・・・


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儒学の「素」に想う (その2)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 §2.白 white = 素 について 》

「素」“そ”は、それを 「絵事」=色彩 として捉えれば、
「素」“しろ”と発音されます。

「黒:Black」に対する「白:White」です。

この色彩としての“白・黒”の概念については、
次の3つの場合を考えることができると思います。


(1)“White:白色”の意 :

白い地〔じ〕や紙の上に文字や絵をかく〔書く・画く〕場合です。

この色彩学上の「白:White」は、
すべての色を反射したもの(反射率100%、吸収率 0%)です。

すべての色は“三原色”から構成されます。

「色光(加法混色)の三原色」
(=黄みの赤【R:アール】・紫みの青【B:ビー】・緑【G:ジー】)
を重ねますと白色光となります。


逆にすべての色を吸収すると(反射率0%、吸収率 100%)、
「黒:Black」になります。

「絵の具・色料(減法混色)の三原色」
(赤紫【M:マゼンタ】・紫みの青【C:シアン】・黄【Y:イエロ−】)
をすべて合わせると(理論上は)黒色になります。

宇宙空間に存在するという“ブラックホール”は、
あらゆるものを吸収(光さえも吸収)している空間なので
“暗黒”空間であるということのようです。


ちなみに、この色料(絵の具)の三原色 + 白・黒 の5色が、
東洋(五行〔ごぎょう〕)思想にいう「五色〔ごしき〕」であり、
西洋色彩学にいうヨハネス・イッテンのペンタード(五原色)です。 ⇒ 参考資料 1)

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(2)“何もない”の意 :

白を何もないの意で用いる場合があります。
「素」を“す”と発音する場合はそれでしょう。

“白紙に戻す”といえば、何もない「素〔もと=元〕」の状態に戻すことです。

関西で「素〔す〕うどん」といいますのは、
何もトッピングしていない“かけうどん”のことです。

関東で“酢入りうどん”と勘違いしている人もいたとか(笑)。

“うどん”は白色ですが、その意ではないと思います。

“素〔す〕肌”や“す〔素?〕っぴん”も、白い肌ではなく、
化粧していないありのまま(=天然・自然)の肌・顔のことでしょう。

“素足〔すあし〕”も、履〔は〕き物を履いていない裸足〔はだし〕のことでしょう。


「素=す」について加えれば、
例えば、スイカなどの野菜で、中に空洞ができている状態を
“ス〔素?〕が入〔い〕っている”などと表現しています。

“レンコン〔蓮根〕”は“蓮〔はす〕”の地下茎(ハスノネ)です。

“蓮”は仏教でも尊ばれている植物で、“はちす”ともいいます(古称)。
“レンコン〔蓮根〕”に8つほど穴(=ス)が空〔あ〕いているからではないでしょうか?


本来ある日本語の用法かどうかは定かではありませんが、
“素〔す〕の自分”・“素〔す〕になれる”とか
“人間、素〔す〕が大事”とか使うのを聞いたこともあります。

この場合の「素〔す〕」は「素〔もと〕」・「本〔もと〕」に近く、
偏見や先入観のない状態を指しているのでしょう。


また、白は易の八卦で示すと【離☲】と考えられます。

が、同時に【離☲】が持つ空〔くう〕・虚・中身がないの意であるとも考えられましょう。

“無”・“空〔くう〕” (ex.“空〔くう〕白”・“空〔から〕手”・“空〔から〕約束”)は、
黄老の思想・仏教の思想に重なってまいります。


(3)“透明なものがある”の意 :

さらに特殊な場合が考えられます。

何も無いといっても、宇宙空間のような真空ではなく、
地球上には“空気”があります。

例えば、遠くの山が青みがかかって見えるのは、
空気の層があるからです。

すなわち、空気の色は青色だからです。

従って逆に言えば、青色を少しずつ山の本来の色に混ぜて、
さらに輪郭をボカして描けば遠くの山々が表現できるというものです。

(cf.レオナルド・ダ・ヴィンチ: 色彩遠近法・空気遠近法・スフマート〔ぼかし〕)


また、“透明人間”ではないですが、
“透明なものがある”という場合があります。

例えば、ガラスやビニールなどは、白色ではなく何も無いのでもなく、
透明なものが存在するのです。

バリアーのような物理的エネルギー層も、
目に見えなくても存在しています。


自然科学で、宇宙や生命の誕生について
“無から有を生じた”といっても、
その “無”は“Nothing”〔何もない〕ということではなく、
「素〔もと〕」はあってのこと
でしょう。

形而上学(思想・哲学)で、黄老思想の“道=無”から有を生じるのも、
仏教思想の“空〔くう〕”から有を生じるのも、
“Nothing”からということではないのです。


cf.≪宇宙の誕生≫ 
「暗黒空間(時代)」/水素・ヘリウム・暗黒物質/「ファーストスター」 
(太陽の100万倍・青白〜白)/宇宙の膨張は加速度的・「暗黒エネルギー」の存在 
(高根・『大難解老子講』 pp.46〜49 参照のこと)


さて、この色彩学の白・黒の概念を“人間学”に擬〔なぞら〕えれば、
白=「素」・黒=「玄」と表現されます。

例えば、“素人〔しろうと〕”・“玄人〔くろうと〕”という対応語がありますね。

私が想いますに、それは結論的に要せば、
「白:White」=儒学の「素〔そ〕」・「黒:Black」=黄老の「玄〔げん〕」
ということです。

そして、それを易学的に表象すれば、
「白:White」=【離〔り〕☲】・「黒:Black」=【坎〔かん〕☵】
です。


儒学の「素〔そ〕」は、「明〔めい〕」です。

儒学は「明徳〔明という徳〕」を重視します。

例えば、『大学』の書き出しは
「大学の道は明徳を明らかにするに在り」(明明徳 とあります。

一方、黄老(老荘)のほうは「玄徳」を重視します。

明と玄(=暗)は、陽と陰と捉えることもできましょう。

この両者は、二様・相対峙〔あいたいじ〕するようなものではなく、
表裏一体です。

(深層)心理学的に“氷山”で図示してみますと、
次のようなものだと考えられます。 ⇒ 参考資料 2)


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☆儒学の「素」〔そ/しろ=白〕/【離☲】 と 黄老の「玄」〔げん/くろ=黒〕/【坎☵】


─── “「白と黒」は色の本質であり、「素〔そ〕と玄」は人間の本質であり、
      【離】と【坎】は万物の源 である” ───
 (by たかね)



《 §3.白 賁 〔はくひ〕 について 》

儒学の源流思想(形而上学)は、『易経』になります。

その重要性は“五経”〔ごきょう〕の筆頭に位置づけられていたことからもわかります・・・



※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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