儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2014年11月

儒学の「素」に想う (その8)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

D.彩色のプロセス/修正・善に改める白 

「繪事後素」 につきまして、私の美術家としての視点から私見を述べてみたいと思います。

まず、絵の素(白)地・生地=ベースとしての「白」については。
和・洋紙にしろキャンバスにしろ、描くための素材・前提となることは自明です。

「素〔もと〕」です。

色や表面形状(“目”や凹凸など)、絵の具の“ノリ”具合・滲み具合などです。

油絵などでは、特に各種技法としての下地処理・地塗りの技法が多くあります。


次に、彩色のプロセスの中でも「白」が重要な役割を果たす場合もある
ということを述べてみたいと思います。


まず一つ目。

下地としてではなく、彩色する絵の具(有彩色)そのものに白を混ぜるということがあります。

白を混ぜると、専用語で“(明)清色〔(めい)せいしょく〕”といいまして、
明度が高くなり明るく澄んだ柔らかい色調になります。

黒を混ぜると“(暗)清色〔(あん)せいしょく〕”といって暗く澄んだ色調に、
灰を混ぜると“濁色〔だくしょく〕”といって濁った色調になります。

平たく例を挙げれば、赤の色相に白を混ぜると“桃色〔ピンク〕”に、
黒を混ぜると“茶色〔ブラウン〕”に変化していきます。 

── 人生に擬えれば、白=素=徳 を含んだ善き人生行路を
彩/章〔あやど〕るようなものです


二つ目。

(透明)水彩画の専門的彩色技術について述べておきます。

仕上げ・キメ手のハイライト=白部を描くとき、
(ポスターカラーやガッシュなど)不透明水彩絵の具の白色を強引にのせる
(カバーする)ばかりではありません。

彩色する前に、予〔あらかじ〕め白く残したい部分を、
マスキング専用の“ゴム液”を塗って(描いて)おきます。

彩色が一通り終わってから、専用ラバーでカバーしていたゴムをとれば
白く抜ける(紙地の白が顕れる)というテクニックです。

そこから、さらに微調整するように仕上げの彩色をつづけ絵を完成させます。 

── 人生に擬えれば、若いときに培われた蔵された徳が、
恰も種子の“核〔さね〕”のように、時を得て芽吹き形を整えて、
やがて華を咲かせるようなものですね


三つ目。

油絵において“グレージング”技法という非常に優れたものがあります。

私は、東洋的にいえば奥義・秘伝のようなものと言ってもよいとさえ想っています。

これは平たく一言に要せば、
下の油絵の具が乾いてから透明感のある薄い油絵の具を(透明水彩画のように)重ねて
(何度も)塗るというものです。


つまり、下書きを終え彩色の段階で、
明るい部分を白〔ホワイト〕(もしくは明度の高い色)で描きます。

それがよく乾いてから、透明感のある薄く溶いた油絵の具で“グレージング”して
“固有色”を与えると同時に明るさを押さえます

例えば、“緑のビン”を描く場合、
まず明るめのグレーから白色を使ってビンを描きます。

乾いてから、その上に緑(ビリジャンなど)で“グレージング”して
“灰色のビン”であったものを“緑のビン”に変身(?)させるわけです。

“茶色の編みかご”を描く場合も
竹や籐〔とう〕の編み模様を一本一本を細かく白色で描きます。

乾いてから、その上に茶(ブラウンなど)で“グレージング”すれば、
その濃淡で茶色の竹や籐〔とう〕の編み模様が浮き出されます。

犬や猫の(モノクロ)世界から、人間の固有色の世界に移り変わるわけですね。

そして、指や布で“グレージング”層を拭い凹部にのみ色を残したり、
被〔かぶ〕り過ぎたところを整えます。

仕上げにハイライト部を再度ホワイトで描き起こすこともします。

これらのプロセスを何度もくり返すのです。


この“グレージング”技法を知ると知らないとでは、
絵の出来に格段の深みの差があります。


 ── それは人生に擬えれば、
自他の人生の試練・体験を重ね活かすうちに、
熟成したワインのような深みと人徳に満ちた“よくできた”大人〔たいじん〕、が
形成されるようなものでしょう

“よく出来た絵”は、“善くできた人”の象〔しょう〕です。


さらに、仕上げ(プロセス)=フィニッシュワークの「白」については。

実際、私も各種描画(油絵・水彩・デザイン・パースetc.)において、
「白/ホワイト」を最後のキメ手として重用しています。


加うるに私は、以上の白の用い方に加えて、
“修正・善に改める白”について述べたいと思います。


絵画では“下書き”や“素描・デッサン”に鉛筆を用いますが、
文字を書くには殆〔ほとん〕どがシャープペンシルを用いるようになりました。

私は、社会人になるとシャープペンシルを使うことは稀〔まれ〕で、
日常的にペン/ボールペン/水性ボールペンを使用しています。

そうしますと、鉛筆・シャープペンシル書きの場合は消しゴムで消しますが、
ペン・ボールペン他の場合は修正液(白)による消去・修正ということになります

現在、私にとりまして、水性ボールペン(黒と赤)と修正液(白)とは
セットで持ち歩く必須筆記用具です。

修正液の“ホワイト”で、間違えたものを消去(リセット)・修正するわけです。


「白」は「清色」を創ると述べましたが、人間においても“善なるものは白”です。

「白」の心理的象徴(カラーシンボル)は、
清/潔白/善・善美/清潔/平和/明快/神聖/昼(太陽)/陽・離【☲】 ・・・ です。

“白紙に戻す”と言う言葉も、
人間本来の善き出発点に立ち返ると解することも可能です。

言ってみれば、“人生のリセット”ですね! 

── “(善)美なるものは白”・“善なる人を創るものは素〔そ・しろ:白〕”に他なりません。 補注2) 


以上に考察してまいりました「白/ホワイト」の扱い、意義・役割は、
(変な連想・アナロジーかもしれませんが)、
料理の味のキメ手が(白い)“塩”味であることと同じように、私は感じています。

というのは、塩加減(の中庸)で料理の味の
(その人にとっての)善し悪し=美味か否か、が決まります。

それと同時に、塩の鹹〔から〕さはその塩自身に含まれるミネラルの種類によって
千変万化の旨味・甘味〔うまみ・うまみ〕を現出いたします。

(ラーメンなどの)スープの類〔たぐい〕は、
“だし”と“塩”でさまざまなバリエーションを創りだします。

また、高級な素材の肉料理(ステーキやカラアゲなど)では
味付けや食べる時の“付け調味料”は素材を活かすために、
素材の旨味〔うまみ〕を引き出すために、塩のみとしますね。

料理の味付けの極致はこの塩の鹹〔から〕さの旨味・甘味〔うまみ〕を
極めることにあるといえましょう

つまり、私は料理の味は“塩にはじまり塩に終わる”といえると想っています。


── 畢竟〔ひっきょう〕するに、
美術・絵画における色も“白にはじまり白に終わる”のであり、
人間もまた“素〔そ〕にはじまり素に終わる”といえましょう。

理想的人間は、「素」にして「直(=徳)」なる人、
“素直〔すなお〕”な人です。


水墨画の白黒濃淡の世界で、“墨に五彩あり”といわれますね。

これは、“白と黒に五彩あり”と言い換えることも出来ます。

人間でいうなら、ほんとうの賁〔かざ〕り、賁られた人生は
「白」と「黒」の中に、「素」と「玄」の中にあるのだと思います。


“美しい絵(の色)”に擬えて“善美の人間”についてまとめてみますと。

(1)善き人間の本(=素〔もと〕)には、
   ベースとして「白」(=素〔もと〕)が大切であること。

(2)善き人間形成のプロセス(人生行路)には、
   人生を彩〔あやど/章〕るものとして「白」(=素〔そ〕)が大切であること。

(3)善き人間の完成には、仕上げ修正するものとして
   「白」(=素〔しろ・す〕)で賁〔かざ〕ることが大切であること。


cf.  素 + 直 (=徳) = 素直〔すなお〕  


孔子の「繪事後素」を察するに、孔子は絵の専門家でもありませんし、
ここに言っている「絵」も今から2500年ほど以上も前の古代中国のそれです。

したがって孔子は、ベースとしての素〔もと・そ〕の意で用いたと考えられます。

つづく子夏の言葉も、「礼」=“文化:【離☲】”というものは、
そのベースの上に後で施すという意であると考えられます。


しかしながら、私は、この問答の文言を「温故而知新」・現代に活かす意味で、
以上に述べたように味わい解したい、と強く思い想うのです


補注2) 

自然界のホ乳類の色をみても、
「白」と「黒」(およびその混合)が多く見受けられます。
白犬と黒犬(およびブチ)、白猫と黒猫(およびブチ)、
白馬と黒馬(およびシマウマ)、白熊と黒熊(および灰色、パンダ)、
白兎と黒兎(および灰色) ・・・ などなど。
また、自然は気まぐれに、色素がない白い動物を誕生させています。
(これらは目立って天敵に襲われるためか、数は増えていませんが。) 
白い蛇・白い虎・白いライオン・白いネズミ・
(鳥類ですが)白いズズメ ・・・ などなど。


そして、人間が創りだした人工景観としての建築物をみても、
圧倒的に白・(明)清色・白をベースとしたもの、が多いことに気付きます。


cf.善と美を求めた古代ギリシア: 古代ギリシア彫刻の白の世界(大英博物館)


                          ( 以 上 )


儒学の「素」に想う (その7)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

C.素 = 「白」 そのものが重要 (安岡正篤 氏)

安岡正篤氏は、素(白)地・素質が大事であると講じられています。
が、また一方で「白」そのものが大切なのだということを述べられています。

 「 素は普通 『もと』 と読む。
  元来この文字の始まりは絵を描く白い絹、素絹〔そけん〕のことです
  この素絹がなければ表現のしようがない。
  つまり絵画という芸術を表現する生地〔きじ〕だ。
  それから素地という意味になる従って素質、本質という意味になる

   いろいろの表現技術、あるいは着色などは、みな素絹の上にやるわけだ。
  そこで『論語』に『絵のことは素より後〔のち〕にす』(八佾〔はちいつ〕)
  という名高い言葉がある。
  後素〔こうそ〕、これを取って大塩平八郎が自分の号にしておる。

   大塩平八郎はもと中軒といったが、後に中斎と改めた。
  これでわかるように、中庸を旨〔むね〕とした人だ。
  この人が一つは性格、一つは時勢に迫られて、
  ああいう幕末の反乱を起こしたのであるが、彼としては心ならざるところであった。
  まあ、それは別問題として、大塩平八郎が後素と称したのはここから取ったのです。

   一部の学者はこれを『素を後にす』と読んでおる。
  これは絵を描いて、いろいろ色彩を施して最後の仕上げに白色を使う。
  素を後にすと解釈する人があるが、朱子は素より後にす。
  素は素絹のことで、着色すなわち文化というものはその後で施すもの、
  素質が大事だと解している。このほうが私はいいと考える。」

(安岡正篤・『人生は自ら創る』・PHP文庫pp.134-136/
旧・『東洋哲学講座』関西師友協会pp.112-114引用)


 「 『素を後にす』は、『素より後にす』と読んで、
  素を素質、即ち忠信の意味とする説もありますがこれはどちらでもよい。
  問題は白だということです。
  装飾文化に限らず、何事に徴しても 素 を出すことが大事である。
  これが素以て絢と為す、ということです。
  大塩中斎は後素と号しておりますが、味わってみると面白い。」

(『安岡正篤・論語に学ぶ』所収 「論語読みの論語知らず」引用)


D.彩色のプロセス/修正・善に改める白 

「繪事後素」 につきまして、私の美術家としての視点から私見を述べてみたいと思います・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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儒学の「素」に想う (その6)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)


B.仕上げ(プロセスの)白 〔フィニッシュワーク: finish〕

以上(前のブログ記事)の解釈に対し、もう一つの解釈の立場があります。

「繪事後素」の前に子夏が孔子に質問した『詩経』の文言は素以為です。

「(その白い素肌の)上にうっすらと白粉〔おしろい〕のお化粧を刷〔は〕いて、何とも艶〔あで〕やか」 
つまり、「素」はベースとしての「白」であると同時に
仕上げの艶やかに煌〔きら〕めく「白」でもありましょう。

儒学も黄老も、伝統的に“控えめ”なありかた=謙譲・謙遜を専ら理想としています。

具体的に少々ピックアップしてみますと。


○「詩に曰く、錦を衣〔き〕て絅〔けい〕を尚〔くわ〕う
其の文〔ぶん〕の著わるるを悪むなり。
故に君子之道は、闇然〔あんぜん〕として日に章〔あき〕らかに、
小人の道は的然として日に亡〔ほろ〕ぶ。」
 (『中庸』・第33章)


『詩経』には、「錦を衣〔き〕て、ヒトエ〔ひとえ〕とする」とあります。
「絅」も「ヒトエ」も単衣〔ひとえぎぬ〕、打ち掛けです。
麻の粗布でつくったものです。

つまり、錦の美しい衣〔ころも〕を着て、その上に薄い粗布を重ね着するのです。

その意図は、錦のきらびやかな「文」〔あや/=彩〕が外に出過ぎることを嫌うからなのです

したがって君子の道も、これに同じく、「絅」を加えるように謙遜です

ですから、外見・ちょっと見は、闇然〔あんぜん〕と暗いようですが、
日に日に内に充実してある徳が章〔あき/明〕らかになってきます。

反対に小人は、はじめはカッコをつけて明らかですが、
中身が伴っていないので日に日にメッキが剥がれていくというものです。



○「黄裳〔こうしょう〕、元吉なり。」 / 
「象〔しょう〕に曰く、黄裳元吉なりとは、文〔あや〕・中に在ればなり。」 

(『易経』・【坤為地】 5爻・辞/彖)


◇「黄裳」は黄色いもすそ〔スカート〕。謙遜な坤の徳のたとえです。

中徳・坤徳の厚いことを説いています。

「坤為地」卦は、「乾為天」の「剛健の貞」に対して「従順の貞」、
“永遠に女性なるもの”としての大地(母なる大地)です。

『詩経』にも、「緑衣黄裏(うちぎ)」・「緑衣黄裳」と
祖先を祀〔まつ〕る祭服が表現されています。

祖霊の象徴としての「黄鳥」も登場しています。

「文」は、彩〔いろどり〕、かざり、美しき坤徳です。 

「中」は生成化育の力、神道における産霊〔むすび〕・天御中主神〔あめのみなかぬしのかみ〕、
ヘーゲル哲学弁証法における止揚〔しよう  /= 揚棄・アウフヘーベン: Aufheben 〕 です。



○「是を以て聖人は、褐〔かつ〕を被〔き〕て(而〔しか〕れども)玉を懐く」 
(『老子』・第70章)

そういうわけで聖人は、褐(麻のそまつな着物)を着ていても、
(何らの貴さを外に見せませんが)(しかし)その懐〔ふところ〕には
宝玉(=高貴の代表)を抱いているのです。

cf.♪‘ぼろは着てても  こころの錦 どんな花より  きれいだぜ〜’♪   
   (「いっぽんどっこの歌」/水前寺清子)

などなどです。


従って、この仕上げの艶やかに煌〔きら〕めく「白」を標榜〔ひょうぼう〕する立場は、
ある種現代的ともいえましょう。


さて、東洋の絵の仕上げ・フィニッシュワークに「白」が使われている場合があります。

彩色後に胡粉で細線を施して、
その彩色の境界をより鮮明にしてシャープなものとするものです。

(尤〔もっと〕も、古〔いにしえ〕の孔子の時代に
そのフィニッシュワークが一般的であったかどうかについては、
私は今のところ確かめられていません。)


色彩学的にいえば、明度差を大きくするもの(明度対比)で、
白によるセパレーション効果であり、縁辺〔えんぺん〕対比の一種でもありましょう。

白で、ハイライト部分を描くことで画面全体が引き締まり、
モチーフに生き生きとした生命・魂が吹き込まれます。


例するに、「画龍点睛〔がりょうてんせい〕」の故事はご存じですね。

龍の絵の最終仕上げに瞳を点じたところ、
絵に生命が宿り龍が動き出したというものです。

(たぶん)赤色で瞳を点じた(“陽”の有彩色は赤ですから)たのでしょうが、
最後の最後にその瞳に「白」で(白は黒〔墨〕に対して“陽”の無彩色)
光沢を入れてこそ本当の最終仕上げでしょう。

(〔手塚治虫氏〕少女マンガの人物に描かれる瞳〔ひとみ〕の中の星☆ですね!)


ところで、西洋絵画(油絵)で、近年フェルメールの作品が日本で公開され人気を博しました。

フェルメールの絵のキラキラと輝く美しい作品の秘密の一つは、
よくよく画面を観ると仕上げに小さな白い点で
光沢・ハイライトがたくさん描かれている
 ことにあります。


話を戻しましょう。── そうしますと、この立場から「繪事後素」は、
「彩色して一番最後に白色の絵具(胡粉〔ごふん〕)で仕上げるようなものだ。」

ex.「白い胡粉〔ふん〕であとしあげをする〔ようなものだ〕」
   (金谷治・『論語』岩波文庫) 

  「まず彩色で描いて、最後に胡粉〔ごふん〕で仕上げるよなものさ」
   (吉田賢抗・『論語』明治書院) 

と解することとなります。

つづく子夏の言葉も「礼(=素・白)は、最後の仕上げですか。」/
「(まごころをもとにして) 礼(儀作法)が人の修養・仕上げにあたるものなのですね。」 

のように解することとなります。


以上に述べて参りましたA・B 2通りの見解に加えて、
東洋思想の泰斗〔たいと〕故・安岡正篤氏の見解と私の考察を述べて参りたいと思います。


C.素 = 「白」 そのものが重要 (安岡正篤 氏)

安岡正篤氏は、素(白)地・素質が大事であると講じられています。
が、また一方で「白」そのものが大切なのだということを述べられています・・・



※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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