儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2014年12月

『犬にも論語』の序 (その2)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)


次に指導者〔リーダー〕にも『論語』ということについて述べておきたいと思います。

私が(一応)半世紀近くも『論語』に親しみ、その500余りもの文言の中で、
いまだに感銘第一に挙げたいものが「温故知新」です。

皮相的浅薄な知識としては知らぬ者がないほど、お馴染みの文言です。

しかるに、二千数百年の時間と空間を経てもなお、
現代の日本にとって最も重要なものと強く感じています。


○ 子曰、温故而知新、可以為師矣。 (為政・第2)

「子曰く、「故〔ふる〕きを温〔あたた/たず・ねて〕めて新しきをしれば、
以て師たるべし。」 と。

《 孔先生がおっしゃるには、「古い事柄〔歴史・古典〕を深くしっかりと探求して、
(そこから得た英知を)現在の実際の諸課題に活学して見識をもつ
それでこそ人々の指導者〔リーダー〕である師(=先生)
となることができるのだよ。」 》  補注4)


この「師」が、現代的意味においてもキーワードです。

「師」は易卦・【地水師】にもとづく語で
“いくさ〔戦・軍〕”の意です(ex. 師団・出師〔=軍を出す〕の表)。

いくさで最も重要なのは知謀に長〔た〕けた“軍師”。

そこから派生して、人を導く“先生”の意となりました。
(ex. 師匠・教師・恩師) 

確かに、孔子についても“先生”・“教育者”との位置づけも
当〔とう〕を得ていると思います。

けれども、より適切なのは、
優れて賢い有徳の“指導者〔リーダー/君子〕”と解するのが善いと思います。

現代の指導者〔リーダー〕は、広く、
重役・管理職・ブレーン・理事者・政治家・教育者 ・・・
などと称される立場の人々が該当すると考えたいと想います。


本来、指導者〔リーダー〕のための帝王学の経書〔けいしょ〕が、
五経〔ごきょう〕の筆頭 『易経』
ではあります。

けれども、儒学そのものが指導者〔リーダー〕の学ぶべきものです。

四書の筆頭『論語』も、一般ピープルから指導者〔リーダー〕まで、
全ての人々に普及した処世の学、人生哲学の書であると同時に、
指導者〔リーダー〕たらんとする者の「本〔もと〕」を形成させる
道義/徳義教育のテキストブックでもあるのです

つまり、いやしくも“人の長〔ちょう〕”たらんとする者が、
まず第一に学ぶべきものです


指導者不在、指導者教育のなっていない現代日本において、
その意味でも『論語』を学ぶことは急務です。

── “指導者には『易経』”・“指導者にも『論語』”です


21世紀初頭の現代は、“グローバル”な世界の時勢にあります。  補注5) 

わが国は、2011年春から英語教育の小学校必修化が開始され進展しつつあります。

また、現在(2012)「グローバルリーダー」なる方向性が指向されつつあります。

内容的には、専〔もっぱ〕ら“話せる英語教育”と
“国際交流”への対応が中心に考えられています。  補注6) 


私想いますに、わが国は、まず 母語=日本語 を
しっかりと善く身につけさせるべきです。

その上で、国際語としての【英語】を修得すべきです。

そして、何より忘れてはならないことは(現実にはすっかり忘れているようですが)、
話す中身、教養・人徳(品格)が肝腎〔かんじん〕です

いくら英語をペラペラと流暢〔りゅうちょう〕に話せても、
その話している中身が浅薄であり、
教養・仁徳(品格)に欠けるものではダメです。

それこそ、日本人の恥を世界に吹聴〔ふいちょう〕し、
曝〔さら〕しているようなものです。

それならば、むしろ母語でしっかりと表現するほうがマシというものです。

今のままでは、生半可な母語(日本語)しか話せない
“日系日本人(?)”
を濫造してゆくことになりそうです。

── “「英語」より 『論語』”です!


そもそも、“グローバル”・“グローバルな世界”と申しますのは、
アメリカの、(経済を中心とする)影響力によるまとまりを意味する世界です。

政治的にはアメリカ一国の、言語文化的には英語(英米)の、
パワー(影響力・画一化・支配)が覇〔は〕をとなえている時代
といえましょう。

畢竟〔ひっきょう〕するに、わが国のしかるべき方向性は、
この“グローバル”にまったく追随することではなく、
わが国の古き善き道義・徳義を取り戻すことです。  補注7)  

わが国の指導者〔リーダー〕は、
「温故知新」に根ざした指導者〔リーダー〕でなければなりません。

── “「温故知新」の指導者〔リーダー〕”を志向するための『論語』(儒学)
ということを付言して、
『犬に論語』 編集・執筆の嚆矢〔こうし: はじまり〕といたします。

(2014年・夏)


補注4)

温故而知新」。 この「温」は、
1.「故〔ふる/古〕きをアタタめて」とも
2.「故きをタズねて」とも読み、解します。

1.の「温めて」は、原義はゆっくり肉を煮込んでスープを作ること。
また、私は、カレーやシチューを“ねかせて”さらに一工夫を加えて
あたため直し新しい味を引き出すことと解しています。 

2.の「温ねて」は、なぜ “尋ねる” と読むのでしょうか?
「温」の字は、氵サンズイ(水) + 日=囚(元字) + 皿 からなります。

つまり、囚人に対して、水と皿に食物を盛って(差し入れて)訪れ、
「お前は、如何〔どう〕してこんな所にいるんだい? ・・・・ 」 と
あたたかく尋ね諭〔さと〕すところから成っている、と教わったことがあります。

深いお話です。

儒学で重んじる人間のあり方、あるべき姿が示されています。

“情”の世界、“仁〔思いやり〕 ”、“恕〔ゆるす〕”、
“悔い改める”、改め善く“変化する” ・・・ です。

 「師」 ── 易卦 【地水師】

*いくさ〔戦・軍〕(ex. 師団・出師の表) → 戦争の軍師 

  → 「先生」(ex. 師匠・教師・恩師・医師)  
    cf. 子=先生 (ex. 孔子=孔先生)

*「記問(物知り)の学は、以て人の師為るに足らず」 (『礼記』学記)

  “あんたは、牛のケツじゃな”とは何の意味? 
   ⇒ (牛=モー の尻 → “ものしり”)
   cf.  情報 → 知識 → 見識 → 胆識 

  “経の師は遇い易く、人の師は遇い難し” (郭 林宗)
   = 「レーゼ〔本を読む〕・マイスター〔先生〕・レーベ〔人生の生〕・マイスター 」
   (by安岡正篤)  (高根:「温故知新」研究 抜粋引用)


補注5) 

「21世紀初頭の現代は、“国際化の時代”・“グローバル時代と称されています。

グローバルな世界と申しますのは、
米国の、経済を中心とする影響力によるまとまりを意味する世界です。

政治的には米国の、言語文化的には英語(英米)のパワー(影響力・支配)が
覇〔は〕をとなえている時代といえましょう。

現今〔いま:2014〕その弊害・課題が、顕〔あら〕わになりつつあります。

その「陽〔よう〕」の面を視〔み〕れば、
文明的には“ナノ(テクノロジー)の時代”です。

コンピューター、インターネットで緊密に結ばれる
ユビキタス社会”が到来しようとしています。

しかるに反面において、「陰〔いん〕」の視点から近未来を展望してみると、
地球環境はますます荒廃しております。

また、とりわけ中国・日本において、急速に少子(超)高齢社会が進展しており、
これは大きな問題を孕〔はら〕んでいます。」

(高根講演:『英語でABC論語カルタ』 序文 抜粋引用)


補注6) 

☆トピックス: わが国の大学入試制度について

○現在の暗記中心の“センター試験”による入試制度は、
近々(早ければ2021年度入試から)考える力を重視したものに制度変更される計画です。

○グローバルな人材の育成を目指し、大学のグローバル化を進めるべく、
「国際バカロレア (IB)」〔世界各国の大学入学資格が得られる教育プログラム〕を
入試に取り入れる大学が増え始めています。 (2014.8.23. 朝日新聞)


補注7) 

一言に要せば、道義教育/徳義教育のルネサンス〔復興再生〕です。

具体的に私見を少々付言しておきますと。

1.初等(=幼児&児童)教育に『論語』を取り入れる
     ─── 【失われた日本の古き善き家庭教育の代替再生】

2.大学入試制度を改正して(他科の比重を減らし)“漢学”の比重を大きくする 
     ─── 【道義立国・日本のあるべき指導者の育成】

3.企業(官公庁)内外の社員研修・教育に“儒学”を導入する
     ─── 【経済立国・日本のあるべき本〔もと〕を取り戻す】

※ 『論語』・“漢学”・“儒学”を指導できる先生を養成するための
  国公立の機関をつくる
     ─── 【“先生の先生”の必要性が今後でてくる】


( 以 上 )


『犬にも論語』の序 (その1)

『犬に論語』の序     

──── “ことわざ”/「論語読みの論語知らず」・「犬に論語」/“犬に論語”/
「グローバルリーダー」/“「英語」より 『論語』”/日本のあるべき指導者像
=「温故知新」の指導者 ────

                                 ● 高根 秀人年

◆ 今年度(2014)から編集・執筆を開始しております
  『犬にも論語』の“はしがき”草稿が仕上がりましたので、
  掲載しておきたいと思います。
  真儒講習定例講習の「論語」は、来年度(2015.5〜)から、
  今までの「論語」講義のおさらい・まとめも兼ねて、
  この『犬にも論語』をテキストにして講じようと考えております。

“ことわざ”という、日本の国語文化は、極めて優れた賢さ(=易の【離☲】)の産物です。

世界に誇れる精華です。

というのも、それが、深遠・高邁〔こうまい〕な思想哲学を一般ピープルに、
わかり易く生活処世の智恵として表現し、広く普及させてきているものだからです。

“ことわざ”は親しみ易くわかり易くするため、身近な動物や品物が登場しています。

それによって、幼少の頃より精神の糧〔かて〕となり 、
善き美しき日本人の“本〔もと〕”を形成してまいりました


その“ことわざ”に、儒学の経書〔けいしょ〕であり、
人生・処世の智恵の書でもある『論語』の書名そのものも登場しています。

「論語読みの論語知らず」 と 「犬に論語」がそれです。

「論語読みの論語知らず」は、“いろはカルタ” 補注1) の中にも登場しており、
子どもから広く大人〔おとな〕にまで、口ずさまれ用いられてきて
現代に至っているものです。

これは、“論語読み”=『論語』を(専門にして)教える人でありながら、
よくは『論語』の真意・深意がわかっていない人、
机上書物の論で実行が伴っていない御人〔ごじん〕に用いられます。

「医者の不養生」・「紺屋〔こうや〕の白袴」などと同じ意味でも用いられますが、
専〔もっぱ〕ら(悪い意味での)“有名無実”・“専門バカ”といった
強い否定的意味で使われることが多いように思います。 補注2) 

子どもの教育的遊具であった“カルタ”の中に加えられ、
老若男女を問わず人口に膾炙〔かいしゃ〕しているこの語は、
それだけ以前は『論語』が普及し、日常生活に根差していたことを示しています。

反面で、一知半解・浅薄〔せんぱく〕口舌の徒が多かったことも推測されますね。


今一つの「犬に論語」。 補注3) 

“ことわざ”には“猫”(どうしようもない、しょうもないものの象徴の動物?)を筆頭に、
意図する内容をわかり易くするために身近な動物が否定的意味で登場します。

に小判」・「に真珠」・「の耳に念仏」・「に経文」などなど。

動物ではありませんが、「ヌカに釘」・「トウフにかすがい」などといった“ことわざ”と同意です。

道理を説き聞かせても かいがないことの喩〔たと〕えです。


ところで、興味深いことに、“ことわざ”には相反する二つの意味が盛り込まれていて、
相反する意味で通用しています。

“ことわざの二面性・二極性”とでもいえるものです。

それだけ人生は陰陽相反して変化するものなのでしょう。


例えば、“犬”が登場する「犬も歩けば棒に当たる」も、
1.(棒がよくないものであれば)動けば良くないことに出くわす の意と 
2.(棒がよいものであれば)動けば思いがけずラッキーなことが得られる 
の二様に解し用いられます。 

もう一例。

「焼け石に水」も、
1.焼け石(=火)に少々水をかけても(蒸発してしまい)何の役にも立たない
  (→ 火事を消火できない) の意と
2.焼け石(=火)も多量の水をかければ冷えてしまう(→ 火事も消火される)
の相反する意に解し用いられます。


さて、「犬に論語」に話を戻しましょう。

私の十数年来飼っている愛犬 
── 大阪府から貰ったメスの雑種犬(里親が見つからなければ殺処分犬) ── は、
子犬のころから(私の研究所=教場で生活する時間が多かったので)、
聞かせるでもなく『論語』・『易経』などの儒学を聞かせ、聞かせられて育っています。

「門前の小僧習わぬ経〔きょう〕を読む」で、
人間でいえば徳のある人物に育っています。

善い人相(犬相?)もしていると言われています。

ちなみに、3カ国語(日・英・仏)のかなりの数の単語を理解し、
英語を少々話します(「ワン!」)。

教育学的にいうと、善い環境が善い人間性を形成していったわけです

感化教育”ですね!

image_dogs_1

こういうことから、先述の肯定的意味を定かにするために、
「も」を加えてみました。

「焼け石にも水」(=火が水で消える)、「犬に論語」です。

“犬”ですらかくあるのですから、いわんや“人”においてをや ですね。

── 現代人にも『論語』です


補注1) 

「いろは短歌を記した読み札48枚と、その意味を絵解きした絵札48枚と
合計96枚を一組としたもの。江戸後期に始まり、犬棒カルタはその代表。」
 (『広辞苑』)

私は、幼児童・高齢者へ教育ツールとしての「カルタ」〔carta/歌留多・骨牌〕の復権
想っています。

☆資料     ≪高根:吹田市立博物館・講演/第5講 『英語でABC論語カルタ』引用≫

─── いろは がるた ───

● い : 「犬も歩けば棒にあたる」
  ろ : 「論〔ろん〕より証拠」/
  は : 「花より団子〔だんご〕
  (江戸がるた)

■ い : 「一寸〔いっすん〕先は闇〔やみ〕/
  ろ : 「論語読みの論語知らず
  は : 「針〔はり〕の穴から天のぞく」 
  (上方がるた)

「いろはがるた」は、わが国江戸期(後期・化政文化)の優れた教育における、
そのツール(手段・方法)の一つです。

和歌のカードである「(小倉)百人一首」なども、
より古い歴史を持つ同様のツールといえましょう。

そもそも「いろはにほへと・・・・」(=いろは歌)そのものが、
他の言語には類をみない日本言語文化の傑作です。

仮名文字(ひらがな&カタカナ)は、
平安時代に中国伝来の漢字を簡略化(ひらがな)したり
一部を取って(カタカナ)発案されました。

これで、容易に日本語を文字で表記することが可能になりました。

とりわけ、漢字に対する“ルビ(ふりがな)”は、何とも偉大な工夫です

そして、「あいうえお・・・」 47の仮名を1字も余さずすべて用いて 
“いろは歌”という素晴らしい作品を創り出しました。

これは、七五調で曲節〔きょくせつ〕をつけて歌われました。 注) 

なお、「かるた」〔carta/歌留多・骨牌〕の言葉は、
かつて世界史をリードした強国ポルトガルの語です。

西洋のカード(トランプなど)が、専〔もっぱ〕らゲーム・娯楽であるのに対して、
「いろはがるた」は、文化教養と娯楽を渾然〔こんぜん〕一体に兼ね備えた
優れものといえましょう。

西洋のカードとは、似ていて否なるものといえましょう。

殊〔こと〕に、内容文言において、
“ことわざ”・“慣用句”・“格言”・・・ などと称されるものが
用いられていることが重要です。

これらの短いフレーズは、本来は深遠な思想や人生(処世)哲学を、
一般庶民にきわめてわかり易くかみ砕いて表現したものです。

そして、それらを家庭教育・初等教育の場において
日本中に普及させたことは偉大です

見事としか言いようがありません。

日本文化の英智を改めて想います。


注) 
「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ 
うゐ〔イ〕のおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑ〔エ〕ひもせす」

「いろは匂いへ〔エ〕ど 散りぬるを 我が世誰ぞ 常ならむ〔ン〕 
有為〔ウイ〕の奥山 今日越えて 浅き夢見じ 酔ひ〔エイ〕もせず」

*「いろは歌」の元は仏教の『涅槃経〔ねはんぎょう〕』にある、次の四句と言われています。

「 諸行無常〔しょぎょうむじょう〕/是生滅法〔ぜしょうめっぽう〕/
          生滅滅已〔しょうめつめつい〕/寂滅為楽〔じゃくめついらく〕 」



補注2) 

本来『論語』は経書〔けいしょ: 儒学の優れたメインテキストブック〕であり、
非常な深意があり、われわれが幾度となく何年も
『論語』を語り講じても尽きせぬものがあることも事実です。

そして、その庶民への広まりと共に浅解誤用もされてきているものもあります。 

安岡正篤氏はその著作の名称に「論語読みの論語知らず」を使用されており、
上述のその肯定的な意味で用いられています。


補注3) 

犬も(猫とともに)よくことわざに登場しています。

「犬の遠吠〔とおぼ〕え」・「犬も食わぬ」・「犬の川端歩き」 ・・・。

“犬でも”・“犬ですら”といったニュアンンスで、くだらないもの劣るもの、
もしくはありきたりのものの代表として扱われています。

私が人生哲学を語るときによく用いるもう一つの犬に関することわざに、
「犬は三日飼えば三年恩を忘れぬ」があります。

犬でさえ飼われた恩を忘れない、ましていわんや人間においてをや ・・・ 
との意で用いられます。

が、私は「犬は」を積極的・肯定的に解して、
犬の忠実さ賢さの意で捉え用いたいと思います。

賢犬・“忠犬ハチ公”の意ですね! 

── 想いますに、“猫は三年飼っても三日で恩を忘れる”、
現代人の有り様も長年受けた恩義をまったく忘れているがごとき浮薄なものです。




※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


「儒学に学ぶ」ホームページはこちら
http://jugaku.net/

メールマガジンのご登録はこちら


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 儒教・儒学へ

にほんブログ村


Archives
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ