(こちらは、前のブログ記事の続きです。)
《 干支の易学的観想 / 【風地観 ☴☷】・【沢風大過 ☱☴】卦 》
まず、「未=羊」。「未」は、一般に動物の「羊」に当てはめられます。
動物の「羊」(の類い)は、文字の象〔かたち/しょう〕から、
「兌〔だ〕」・易八卦の【兌 ☱】に通じます。
「兌〔だ〕」といいますのは
(「忄」“りっしんべん”をつけた)「悦〔えつ/よろこ・ぶ〕と同じです。
“喜悦〔きえつ〕”・“悦楽〔えつらく〕”などの「悦」です。
「悦」は、“笑い”でもあります。
「兌」の重なった卦【兌為沢〔だいたく〕 ☱☱】を、
新井白蛾が“笑う少女”の象と表現したことが思い起こされます。
―― 「羊」が2匹、=“悦び”また“悦び”・“笑い”また“笑い”、の一年にしたいものです。
次に(やや専門的になりますが)、十干・十二支の干支を
易の64卦にあてはめて(相当させて)解釈・検討してみたいと思います。
昨年の干支、「甲・午」は【雷火豊 ☳☲】卦でした。
中天に輝く太陽、豊大に富むの意でした。
今年の「乙・未」は【風地観 ☴☷】卦、先天卦は【沢風大過 ☱☴】となります。
【風地観】卦は、精神性重視、心眼で深く観る、“観光”といった意です。
観世音(観音・観自在)菩薩の“観”で、
精神性重視の3卦〔【観】・【无妄】・【遯】〕の一つです。 ※(→資料参照のこと)
マンガ家・手塚治虫氏の作品に、「三つ目がとおる」といった
“第三の目”を持つ少年の話があったかと思います。
“心眼”・“心耳”=“シックスセンス”の世界ですね。
『中庸』にも“見えざるものを観、聞こえざるものを聴く”とあったかと思います。 注)
両の目も耳も“フシ穴”の人が多い時勢です。
あらためて、心したいものです。
また、現代広くよく用いられている“観光”の語は、
この卦の4爻〔こう〕が語源です。
現代語で“観光”といえば、専〔もっぱ〕ら、物見遊山のレジャーですね!
が、しかし、原典爻辞には、「国の光を観る」 とあります。
すなわち、国の文化を観、将来を観る、“兆し”を読む、ということなのです。
ちなみに、愚息・未来〔みく〕はこの春、早稲田大学から英国・ロンドン大学
〔“University College London”・心理学部:世界ランキング第4位〕に留学いたします。
―― これは、(かつて世界史上に偉大であった)
“大英帝国”〔“United Kingdom of Great Britain and Treland”〕の
「光を観る」ために行くことに他なりません。
注)
『中庸』・第16章に、「鬼神の徳たる、其れ盛〔さかん〕なるかな。
之を視〔み〕れども見えず、之を聴けども聞こえず、物に体して遺〔のこ〕すべからず。」
とあります。
《大意》
(天地宇宙の働き=造化 を「天」といい「鬼神」といいます。
この鬼神の徳というものは、実に盛大です。
しかし、形を持たないので肉眼で見ようとしても見えません。
声を持たないので、耳で聴こうとしても聞こえません。
けれども、その鬼神の徳(=はたらき)というものは、
すべて自然に、万物の上に現れているのです。
宇宙の間に在るものはすべて、鬼神の徳によって生まれ、
そのフオーム〔形体〕を得たのです。)
*「鬼神」:神は天神(天〔あま〕つ神)と地祗〔ちぎ〕(国つ神)をいいます。
鬼〔き〕は、人の霊魂をいいます。
『老子』・第14章に★も、「之を視〔み〕れども見えず。/
之を聴けども聞こえず。/之を搏〔とら〕うれども得ず。」 と、
「道」が超感覚的な存在であることが述べられています。
先天卦の【沢風大過 ☲☰】卦は、大(陽)が過ぎるの意。
「過」は“不及”の反対です。
『論語』に「過ぎたるは猶、及ばざるが如し」(先進・第11) とあります。
本来、草木を養育すべき水も多すぎると植物を腐らせます。
“過労”・“過食”・“過色”・・・・ 本来良いものも、
過ぎるとダメですという「中庸」の教えです。 ※(→資料参照のこと)
☆参考資料 ≪ 盧:「『易経』64卦奥義・要説版」 pp.20・28 抜粋引用≫
20. 観 【風地かん】 は、あおぎみる。
精神性3卦〔観・无妄・遯〕
大卦(大艮) 12消長卦 (9月)※旧8月
● 精神性重視、心眼で深く観る、“観光”、教育・教化・指導・(感化)、大衰の卦
cf.観世音(観音・観自在)菩薩 ・・・精神の高められた心でみる
・「観」の意 (1)みる → よくみる・こまかにみる
(2)大観(俯瞰) → 大所高所からみわたす
ex.横山大観
(3)仰観 → 下より仰ぎみる
・「孚〔まこと〕ありて顒若〔ぎょうじゃく〕たり。」 (卦辞)
・・・ 厳粛な気持ちで事に臨む
顒若=厳粛な形、様子、恭敬のさま
cf.大阪 四条畷〔しじょうなわて〕神社
―― 石段の両側に「有孚」・「顒若」
・4爻辞 「国の光を観る」
・・・ 国の文化を観、将来を観る、“兆し”を読む。
“観光”の語源 cf.観象=易の占の結果を観る
☆たかね研究 : ≪“見えざるものを見、聞こえざるものを聞く”≫
・「観」は 目が3つ ・・・両の目と“心眼”
ex.塙〔はなわ〕保己一、ヘレンケラー
cf.手塚治虫・「三ツ目がとおる」
耳も3つ ・・・両の耳と“心耳”
ex.ベートーベン“第九”の作曲、
千手舞踊団メンバー
・「幾」= “兆し”・“機微”
・・・物事が変化する前に先んじて現われる、
わずかな兆し・兆候(機微)。心眼・直感で “観る”
・「立筮」 / シックスセンス〔第6感(観)〕 / インスピレーション〔霊感〕
■ 下卦 坤地、上卦 巽風。
1)風と地、心がすなおでへりくだる象。
2)上卦巽風は号令、下卦坤の民が仰ぎみる象。
3)坤地を巽風が行く、万物は風に接する。
風が遍〔あまね〕く地上を吹き渡るよう四方を観察するの義。
○大象伝;
「風の地上を行く観なり。先王以て方を省〔かえり〕み、民を観て教えを設く。」
(巽の風が地上を行くのが観卦です。
風は万物を育成し、万物は風の吹くままになびき順って動いているのです。
古のよき王は、この風の恵みが万物に及ぶ象にのっとって、
東西南北を、遍く巡幸(観察)なさり、人民の生活風俗の情況を観察され、
徳育を教化(感化教育)し、それぞれに適した善政を布〔し〕いたのです。)
※ 今の日本、永田町の議員ご歴々も心してほしいものです。(by.高根)
28. 大過 【沢風たいか】 は、大いに過ぎる。
遊魂8卦、
似坎で悩み多し
● 大(陽)が過ぎる 「過」は“不及”の反対、 過食・飲み過ぎ・過労死・房事過多
・「棟撓〔むなぎたわ〕む」 (卦辞) ・・・ 棟木は屋根を支える横木
・「顚〔くつが〕えるなり」 (雑卦伝) ・・・ 家 倒壊の危機
■ 下卦 巽風、上卦 兌沢。
1)似坎〔にせかん〕にて、坎の洪流・氾濫の憂い。/
水中に風木の象にて洪水や沈没。
2)棟撓む象。棟(2・3・4・5爻の4陽)が強すぎて、
両端の柱(初・上爻の2爻)弱く下に曲がる。
下卦巽木、上卦兌は倒巽で木。
巽は長い・調えるで4陽強剛で棟の象。/
大坎の似象で、坎には棟の象あり。
撓むも坎の象(凹む)。/
巽は曲がる、兌は毀折から撓むの象。
※ 2陰4陽の卦は15卦あるが、【大過】は陽4つの爻が中央に結集していて過大。
○大象伝;
「沢の木を滅すは大過なり。
君子以て独立して懼れず、世を遯〔のが〕れて悶〔うれ〕うることなし。」
(兌沢の下〔中〕に巽木が沈んでいるのが大過の卦です。
本来、木を養育する水も、大いに過ぎれば木を〔腐らせて〕滅ぼしてしまいます。
君子は、この象にのっとって、
〔リーダーの立場にあれば、人に過ぎたる行いをするように心掛ける。〕
危急存亡の時、〔濁世にあっても、洪水のような非常事態にあっても〕
毅然として自主独立して、恐れ動揺することなく、
また世を遯〔のが〕れ隠れて
憂悶〔ゆうもん: うれい・もだえる〕することもないのです。)
※ 「独立不懼」 cf.「独立自尊」(福沢諭吉)
《 おわりに 》
先述のように十二支の「未〔み〕」は「昧〔まい〕」 (「曖昧〔あいまい〕」の「昧」)に通じ、
“くらい”・“くらいものを明るくせよ”の意味でした。
“くらい”といえば、易卦の【山水蒙〔さんすいもう〕 ☶☵】が相当します。
「蒙」は“くらい”、(頭が)蒙〔くら〕いの意です。
「無知蒙昧〔もうまい〕」という熟語もありますね。
その蒙〔くら〕きを啓〔ひら/てら・す〕くのが「啓蒙〔けいもう〕」です。
西欧・米や日本の明治維新期における“啓蒙思想: enlightenment”は、
“理性の光でくらきをてらす”の意味でした。
それが、現在では“(心の)蒙〔くら〕きをの光で啓〔てら/ひら・く〕す”(真儒協会)
の意味に変じています。
私には、この【蒙】卦の状況が、
とてもよく現代の平成日本の時勢を現〔あらわ〕しているように想われます。
ですから、 「無知蒙昧」ではなく「無恥蒙昧」です!
真儒協会の“啓蒙照隅”の語も (心の)蒙〔くら〕きをの光で啓〔てら/ひら・く〕す、
の一灯をもって隅〔すみ〕を照らす、の意味に他なりません
「未〔み〕」は“未来”〔いまだ来たらず〕に通じ、
“未〔くら〕き”を“啓〔ひら〕く”べきことを教えています。
本年は、心眼よく観て、人生行路に“繁茂した枝葉(しがらみ)”を
剪定〔せんてい〕するようにキルべきはキリ整える、
“啓蒙”・“啓未”の創造的活動を進めて行く年にしたいと思っております。
( 以 上 )
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