儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2019年04月

老子道徳経: 《 老子の 「絶学」 》

roushi_title4
【 20章・48章 】

(異俗・第20章) 注1) 《 老子の 「絶 学」 》 

§.「 絶学無憂」 〔チエ・シュエ・ム・ユウ〕

注1) 「学」。『論語』の冒頭(=小論語)は、“学”について記述しています。(「学而時習之、不亦説乎。」)

老子のいう「学」は末学・雑学・曲学・小知 ・・・のことです。

儒学にも、真儒と俗儒、活きた儒者と腐った儒者とがありましょう。知にも、大知と小知があります。智(=善き知)もあれば痴(=愚かな知)もあります。

老子自身、当時の偉大な知識人・読書人であったと推測できます。(周の守蔵史=史官司書であったらしいですから、書庫で書籍に囲まれて生活していたと推測されます。)おそらくは、うんざりするほどの読書・学問に食傷気味であったことでしょう。

「異俗」の章名は“世俗と異なる”の意。“隠居・隠棲”の意味ではなく、世俗の人々が末学を重視し競い合い、欲望を求めているのに対して、自分はそんな世俗とはかけ離れ生き方をしているとの意味です。今の日本の現状からみても、耳が痛い主張ですね。

○ 「絶学無憂。唯之與阿、相去幾何。善(美)之與悪、相去何若。☆人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。 |
衆人熙熙、如享太牢、如春登台。我独泊兮其未兆、如嬰児之未孩。*纝纝兮若無帰。衆人皆有余、而我独若遺。我愚人心也哉、沌沌兮。 |
俗人昭昭、我独昏昏。俗人察察。我独悶悶。澹兮其若海、飂兮若無止。衆人皆有以、而我独兮頑似鄙。我独異於人、而貴食母。

■ 学を絶てば憂〔うれ〕いなし。唯〔い〕と阿〔あ〕、相い去さること幾何〔いくばく〕ぞ。善(美)と悪と、相い去ること何若〔いかん〕ぞ。☆人の畏るる所は、畏れざるべからず。荒〔こう〕として其れ未だ央〔つ/尽〕きざるかな。 |
衆人は熙熙〔きき〕として、太牢〔たいろう〕を享〔う〕くるが如く、春に台〔うてな〕に登るが如し。我れ独り泊〔はく〕として其れ未だ兆〔きざ〕さず、嬰児〔えいじ〕の未だ孩〔わら/がい・せざる〕わざるが如し。*纝纝〔ルイルイ:原文はにんべん〕として帰するところ無きが若〔ごと〕し。衆人は皆余り有り、而〔しか〕るに我は独り遺〔うしな/とぼ・しき/わす・るる〕えるが若し。我は愚人の心なるかな沌沌〔とんとん〕たり。 |
俗人は昭昭たり、我れは独り昏昏たり。俗人は察察たり。我れは独り悶悶たり。澹〔たん〕として其れ海の若〔ごと〕く、飂〔りゅう〕として止まる無きが若し。衆人は皆以〔もち:用〕うる有り、而〔しか〕るに我れ独り頑〔かたく/かん〕なにして鄙〔ひ〕に似たり。我れ独り人に異なり、而して食母〔しょくぼ〕を貴ぶ(=母に食〔やしな:養〕わるを貴ぶ)。


《 大 意 》

学問ををやめてしまえば、思い患うこともなくなります。

唯〔はい:ウェー〕と対〔こた〕えるのと阿〔ああ・おい:ア〕と答えるのと、(その心中の敬意は)どれほどの隔たりがあるのでしょうか。美しいものと醜いものと、これもどれほどの隔たりがあるのでしょうか。【 ☆ 意味不明 / ex.人々の畏れるものを私も畏れなければならないとしたら、荒漠としてキリがないことです。】

誰もが皆ウキウキとして、楽しそうにして、まるで大ごちそうを受けているようで、まるで春に高台に登って眺めているようです。でも私だけは、一人ひっそりとして何の気持ちも起こさず、(情の発動しないことは)あたかもまだスマイル〔微笑〕すらしない赤子のようです。ぐったりとして、小舟に乗って帰るべき家さえないようです。多くの人が(学問によって知恵を)有り余るほどに持っているのに、私だけは一人、何もかも忘れてしまったようです。さても私は、愚人の心をもっていることよ、沌沌〔とんとん〕として暗くはっきりしないのです。

世間の人々は、キラキラと輝いていますが、私だけは昏愚(にぶくてぼんやり)に暮らしています。世間の人々は、利発ではっきりしていますが、私だけは頭がボーとして鷹揚〔おうよう〕としています。こころ広きこと海のようです。ひゅうひゅうと止まない大風のようです。多くの人は、みな才を以〔もち〕いて何かを成そうとしますが、私だけは(無能で)頑固で野卑〔やひ〕です。私だけが、世人と趣〔おもむき〕を異〔こと〕にしていて、(赤子のように)自然という母に抱かれて乳養されるのを悦ぶのです。(=「道」という乳母に養われることを大切にしているのです。)


● < 「絶学」 (§20章) >

 「 絶学とは、学問を無くするという意味ではなくて、絶対とか絶大とかいう、 absolute つまりつきつめた、という大きな形容詞であります。目や耳で取り入れたような浅薄な知識・理論などを解脱〔げだつ〕して、本当の学問をつきつめるということであります。 絶学無憂、その時は無憂である。『人生、文字を知るは憂患のはじめなり』などと申しますが、人間色々な知識や理論など持つようになると、又煩悶〔はんもん〕が多くなる。然しそれをつきつめて超脱すると、憂いも亦自からにして無くなる。」  

(*安岡・前掲「老子と現代」 p. 119 引用)


・「唯」/「阿」: 「唯」は“はい”で丁寧な応答のことば。「阿」は“ああ/うん/おい”で礼儀をかいた横柄〔おうへい〕な返事の言葉。『礼記〔らいき〕』では、この「唯」「阿」の区別についてやかましく、“礼”の学問をしていると、この“はい”と“ああ/うん/おい”との区別を面倒くさく覚え込まされることになります。
Between yes and yea, how small the difference!
(Kitamura adj. p.69)

・「善(美)之與悪」: 「善」は帠書・傳本・楚簡では「美」。「悪」は“醜”の意。2章にも、「美」「悪」との対比があります。

・「食母」: 「食母」は養う母。乳母〔うば〕のこと。「母」は末に対する本〔もと〕、「食母」「道」を意味します。


コギト(我想う)

≪「絶学無憂」≫

★ 《 学校教育:2つの意味での「憂」 》
1.“(末)学”によって害される憂い   2.“学”を強制され、学をしないことで憂える

「絶学無憂」は、老子の逆説的極言です。私は、この憤慨激語が、(教職に在って)教育の現場最前線にいると、よくその深意が理解〔わか〕ります。

現今〔いま〕の、わが国の教師・知識人と称する御人たちの浅薄で奥行のない学問、すなわち本〔もと〕から外れた末学・曲学には病的な知(=痴)を感じずにはいられません。

老子は、学問の堕落に憤り、この“浅薄で奥行のない学問”に対して、改めて「愚」に復〔かえ〕って省み省〔はぶ〕くことを警告しているに違いありません。学問によって知恵は増しますが、同時に大偽も増します。(§48章) いわんや、その学問が末学・曲学であれば、その弊害は度し難いものがあります。

そんな学問で憂慮・苦労するなら、いっそのこと学問を絶ってしまい、「無知」・「愚」の本元に立ち返る方がマシというものです。



■2012年12月23日 真儒協会 定例講習 老子[27] より


【大難解・老子講】 の目次は下のボタンをクリックしてください。

 ba_roushi


「儒学に学ぶ」ホームページはこちら
http://jugaku.net/


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 儒教・儒学へ

にほんブログ村

老子道徳経: 《 老子のキーワード ―「道」と「徳」》

roushi_title3
【 51章 】

養徳・第51章) 注1) 《 老子のキーワード ―― 「道」と「徳」 》

§.「 道生之」 〔タオ・シオン・チ〕

注1) 『老子』は、別名『(老子)道徳経』とも呼ばれます。

それは、「道経〔タオチン〕」と「徳経〔タアチン〕」の(上下)二篇に分かれていることによります。二篇の分割は、内容的に異なるからではなく(単に携帯の)便宜からでしょう。

名称も(『論語』や『孟子』の章名と同じく)章(篇)の最初の文字をとったものです。 (cf.§1章「可道」・§38章「上不徳」)

「道」と「徳」は老子の思想の最重要キーワードであり、本質的には同じものです。儒学の“道”・“徳”と黄老の「道」・「徳」とは、その意味するものが異なります。その違いをよくよく押さえておくことが必要です。( → 後述対照表参照のこと )

「養徳」とは、“徳を養う”で、無為自然の道の偉大な玄徳を身につけるという意味です。「徳」は「道」が身につけられた状態ですが、本章ではとりわけ、「道」のはたらきの中で“養い育むはたらきを”強調していると考えられます。

○ 「* 生之、 畜之、 形之、勢(器)補注1)成之。是以万物、莫不尊道而貴徳。|
道之貴、徳之貴、夫莫之爵(命)、而常自然。 |
故、道生之、徳畜之、長之育之、亭之毒之 補注2)、養之覆之。生而不有、為而不恃、
長而不宰。*是謂 玄徳 。」

補注1) 帛書 甲・乙本には「器」とあります。もとは「勢」ですが、やや解りにくい言葉です。「勢」は、ここにみえるだけです。「器」の字は、「樸〔ぼく〕は散ずれば器となる」(§28章)をはじめたびたび用いられています。“形をとった万物が、それぞれの役割・用途を持つことでこの世界が成り立つのです”の意味に訳せましょう。

補注2) 「亭之、毒之」は、厳本や河上本などは「成之、熟之」です。「亭」・「毒」は、A)定め安んずる(形を定め中味を完成させる)と解するものと、B)成熟させると解するもの、とがあります。

■ 道 之を生じ、徳 之を畜〔やしな〕い、物 之を形づくり、勢〔いきおい〕(器) 之を成す。是〔ここ〕を以て万物、道を尊〔たっと/とうと〕び徳を貴〔たっと/とうと〕ばざるは莫〔な〕し。|
道の尊きと徳の貴きは、夫〔そ〕れ之れに爵する(命ずる)莫〔な〕くして、常に自〔おのず〕から然り(自然なればなり)。|
故に道之を生じ、徳之を畜い、之を長じ之を育〔そだ〕て、之を亭〔かた/さだ/てい・し〕め、之を毒〔あつ/やす・んじ/どく・し〕くし、之を養い之を覆〔おお〕う。生じて有せず、 為して恃〔たの〕まず、長じて宰〔さい〕せず(長たるも而も宰たらず)、是れを 玄徳 と謂う。

*Tao gave them birth; 
The ‘power’ of Tao reared them, 
Shaped them according to their kinds,
Perfected them, giving to each its strength.
・・・・・・・ This is called the mysterious power
(A.Waley adj. p.205)

*The way gives them life;
Virtue rears them;
Things give them shape;
Circumstances bring them to maturity.
・・・・・・・ Such is called the mysterious virtue
(D.C.Lau  adj. p.58)


《 大 意 》

“道”が万物を生み出し、“徳”がそれらを養(畜)い育てます。(養い育てられた)物に形が与えられ環境の勢いで仕上げられます。(道具としての働きをもったものがこの世界を創り上げるのです。)

そういうわけで、万物は、みんな“道”を尊〔たっと〕び“徳”を貴〔たっと/とうと〕ぶのです。“道”“徳”が、そのように尊貴なことは、そもそも、誰かに爵位〔しゃくい〕を与えられたからではなく(誰かが任命して尊くなったのではなく)、不変的に自〔おの〕ずから(=それ自身)そうなっているのです。

ですから、“道”がものを生み出し、“徳”がそれを養い、成長させ発育させ、それを結実させ成熟させ、慈養〔いつくしみ育てる〕し、保護してゆきます。が、それでいて、ものを生み出しても私〔わたくし〕(=自分のものと)せず、為〔つく〕っても功を誇らず(=恩沢を施しても見返りは求めず)、成長させても自ら主宰者(=首〔かしら〕)の位置に居すわってシキったりはしません(=支配はしません)。(この偉大な“徳”を名づけて)“玄徳” ―― 不可思議な奥深き能力〔パワー〕 ―― というのです。

・「道・徳」: 『老子』は『(老子)道徳経』ともいいます。『老子』の中で、「道」は76回、「徳」は44回登場しているようです。

「道」は、黄老の核心・最重要のキーワードです。老子と荘子の学派を「道家」と呼ぶのはこれに由るところでしょう。「道」は、無論、単なる“道路の道”でも、儒学のいう“人倫の道”でもありません。「道」は、万物の根源であり「無」に同じです。「道」=「無為」=「自然」=「静」です。

静的である時は「道」、それが動いて「徳」となります「徳」は、「道」から与えられた性質、あるいは「道」を身につけた状態といえます。「徳」は、万物に内在し万物を養い育み成長させるものです。

※ → 以下老子と儒学の「道」「徳」を一覧にまとめてみました。

ちなみに、『論語』には、「仁」が100回以上登場します。孔子・儒学の(徳の)核心・最重要のキーワードです。また、「天下」は、『老子』の中に58回も登場しているようです。私は、このあたりにも、老子の現実経世の学としての性格が現れていると想います。

cf.「虚無で形がないのが道、万物を化育するのが徳」(管子)

※ → ≪ 「道」と「徳」 / 老子(道家)と孔子(儒家)との違い ≫

roushi_image11

cf.「 徳のもとは「道」、つまり人間を含めた宇宙・大自然の本質である。これあるによって宇宙・自然が成り立っておる。これを失えば宇宙・自然は壊滅する。そういうものが、つまり宇宙・自然の本質が、これは一つの徳である。自然の場合はこれを「道」といい、そして自然と人間を合わせて「道徳」という。これは東洋の易学、東洋哲学の一つの基本概念である

(*安岡正篤・『養心養生をたのしむ ――易と健康〔下〕―― 』  p.90引用) 

◆ 『老子』の「道・物・徳・勢」 = 『易経』の「元・亨・利・貞」

老子の「」は易の、「物(形)」は、「」は、「勢(器)」は

≪ 道の造化のはたらき ≫

道=生(生じる) / 徳=畜(養う) / 物=形(形成する) / 勢(器)=成(完成する)

・「勢(器)成之」: 個体の周囲の情勢がそれを完全なものに仕上げます。例えば、同じ風(易の【】)でも、春には芽吹かせ花を咲かせ、秋には実を熟させますね。

*All things are completed according to the circomstances of their condition.

・「莫之爵(命)」: 孟子のいうところの「天爵」です。人から爵位を与えられて尊くなったのではないの意。一本に、爵を「命」につくっています。

・「生而不有、・・・ 」: 10章に、「生之畜之」 とあり 「生而不有、―― 」以下同文が重複しています。10章の文を51章の錯簡とみる説もあります。

・「玄徳」: 幽玄不可思議の徳
This is called its mysterious operation.

*10章: 玄徳  ―― これが、神秘の「徳〔ちから〕」とよばれる

*This is called the Mysterious Power.(A.Waley adj. p.153 ) 

*Such is called the mysterious virtue. (D.C.Lau adj. p.14 )

(*安岡・前掲「老子と現代」 pp.129−131引用) ・・・ 〈 第51章 〉

 だから結論として万物を生んで、而もそれを私しない。色々とこれに作為をして、而も『俺がこうしてやったのだ』という様な、又従ってどうならねばならぬとか、どうしてくれなきゃならぬとか、そういうような私欲を持たない、恃〔たの〕まない。長として、物の頭〔かしら〕になってもこせこせと干渉しない。これを玄徳と言うのであります

長として宰せず』。これは東洋の政治哲学・宰相哲学に常にある語であります。所謂統〔す〕べる、統一するが干渉しない。大体人の上に立つもの程こういう心掛けが必要であります。

安岡先生は、「世間には全くその逆になっておるいくつかの言葉があります。」と続けられ、次の最も普及しているもの(同時に“常識の誤解”しているもの)三つの言葉を、例示説明されておいでです。これらは、黄老に源を発する「愚」・“愚の思想”です。すなわち ――

A) 「馬鹿殿」: バカな殿様ではなく、“名君”のことをアイロニカルに表現したもの

B) 「糠味噌女房」: 糠味噌〔ぬかみそ〕漬けの上手な女房は至れる女房。女房礼賛の話

※「糟糠〔そうこう〕の妻 堂より下さず」(『後漢書』・宋弘伝)

C) 「女房と畳は新しいほど好い」: 畳は畳表〔タタミオモテ〕を裏返しし、更に畳表のみ取り替えるなどしてリフレッシュする。老子的“生活の芸術”です。今は亭主も同様にあれ!

cf. ≪ 易との関係 ― 「元享利貞」 ≫

道= 、物(形)= 、徳= 、勢(器)= 

 

《 参考資料 ― 「元享利貞」 》

( たかね・「易経64卦解説奥義/要説版」抜粋引用)

1. 乾 【けん為天】  は、剛・天の運行

全陽 ・・・ 分化発展の原則、
8重卦(純卦)、男性・純陽(老陽)、12消長卦 (5月)

● 乾=の意、天の運行・剛健、龍(ドラゴン)、「乾は剛にして坤は柔なり」(雑卦伝)、
大人に吉凡人に凶

■ 「元亨利貞〔げんこうりてい〕」(卦辞) と 自強不息〔じきょうふそく〕」(大象)

※  乾の四徳  ・・・  循環連続性 
芽生え「元」
 ↓
・・・ 時間的にいえばはじめ、立体的にいえばもと、大極=「元気」、大小の大、季節は春、徳では「仁」
成長 /「亨」
 ↓
・・・ 通る、通じる、元で生じたものの無限の生成化育、季節は夏、徳では「礼」
結実 /「利」
 ↓
・・・ 利ろし・利益・善きことがある意、 “きく”・成果・結果を生む・収穫・実り、季節は秋、徳では「義」
不変性「貞」
 ↓↓
・・・ 正しく堅固に安定、次の生成への基、季節は冬、徳では「智」

また、芽生えと循環。 季節もまた然り。

(彖伝・全)

「大いなる乾元、万物資〔と〕りて始む。すなわ〔及〕ち天を統〔す〕ぶ。|
雲行き雨施し、品物〔ひんぶつ〕形を流〔し〕く。|
大いに終始を明らかにし、六位〔りくい〕時に成る。時に六龍〔りくりゅう〕に乗り以て天を御す。|
乾道変化しておのおの性命を正しくし、大和を保合するは、すなわ〔及〕ち利貞なり。庶物に首出〔しゅしつ〕して、万国ことごと〔咸〕く寧〔やす〕し。」

《 大 意 》

乾天の気である元の根源的なパワーは、何と偉大であることよ! 天地〔宇宙〕間に存する万物は、みなこの元の気をもとにして始められているのです。すなわち、天道の全てを統率、治めているのが乾元〔=乾徳〕なのです。以上 元の解釈

乾のはたらきにより、水気は上って天の気の“雲”となって運行し、雨を施して地上の万物を潤し、万物・万生物(品物)が形を成し現われて活動を始めるのです。(以上 亨の解釈)

乾天のはたらきは、物の始まりから終わりまで、そしてまた始まりと間断なく循環するところを大いに明らかにしていて “6つの爻”(もしくは、老陽・老陰の交わって生ずる 震・巽・坎・離・艮・兌)は、その時と場合に応じて成すべきことを示しているのです。(聖人・君子は)その時に応じて、6つの変化の龍の陽気にうち乗って、それを自在に駆使することによって、天の命である 自身が履むべき道を行なうことができるのです。以上 元亨の解説|  

天の道は、時々刻々と神妙なる摂理によって変化しますが、その変化に応じて万物もまたそれぞれの性命〔天から与えられた本来のあるべき姿・性質〕を正しく実現して、大いなる自然の調和〔大和=大いに調和した気〕を保って失わないのです。これが利貞の徳であり乾徳なのです。  (聖人・君子は)天乾の剛健の気にのっとっていることにより、万物万民に抜きん出た地位につくのであり、その乾徳を発揮してこそ万国は、みな感化され安泰安寧を得ることができるのです。これが、聖人の利貞です。以上 利貞の解釈

 「保合大和・・・ 自然の大調和を持続せしめ〔保〕これに和する

 孔子の作ともいわれる彖伝。乾の卦辞「乾・元亨利貞」の解釈・解説文です。
まことに比類なき深遠名文と感嘆、ほれぼれいたしております。(盧)


■2012年11月25日 真儒協会 定例講習 老子[26] より


【大難解・老子講】 の目次は下のボタンをクリックしてください。

 ba_roushi


「儒学に学ぶ」ホームページはこちら
http://jugaku.net/


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 儒教・儒学へ

にほんブログ村

Archives
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ