儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2019年06月

老子道徳経: 《 老子の「学」と「道」 》 その2

こちらは、前の記事の続きです。

コギト(我想う)

学問には、2つの側面があります。1)個人として自己自身を修める“人間学”、 2)社会人として心得ておくべき“時務学、です。本末〔ほんまつ〕の視点から言うなら、“人間学”が本〔もと〕で “時務学”が末〔すえ〕です。そして、この本末が相応じて、立派な“人と成る(成人)”ことができるのです。

ところで、彫塑〔ちょうそ〕という言葉をご存知でしょうか? 美術の専用語です。美術のジャンルで平面的な絵画〔かいが〕に対して、立体的な造詣〔ぞうけい〕を一般に「彫刻」と呼んでいますね。例えば、ミケランジェロやロダンや高村光太郎を「彫刻家」と称しています。この、立体的な造詣は厳密にいうと「彫塑」といいます。すなわち、石や木を削り彫って形作る「彫刻」と粘土をくっつけて形作る「塑像〔そぞう〕」の両方です(粘土はその後ブロンズ〔青銅〕などに置き換えられます)。英語にすると分かりやすいです。マイナス(=けずる・減じる)過程のカービング〔carving〕とプラス(=くっつける・益す)過程のモデリング〔modeling〕です

さて、2つの学問は、学修のプロセスが、この「彫塑」のように逆といえます。“時務学”の学修(=問学)は、専ら知識の確保・積み重ねです。一方“人間学”の学修(=求道)のほうは、本来自分が持っている欲望・執着や不純なもの(仏教でいう煩悩〔ぼんのう〕)を捨て去ることです。覚〔さと/悟〕り、覚智〔かくち〕のためには、学知を捨てなければならないこともあります。既得の(末梢的知識)学知がジャマをして、それがベールとなって本質・真理が観えないということは、ままあります。 ―― そういう場合は、“賢いバカ者”(病的な知)といったところです。 
→ cf.「知」と「智」と「痴〔おこ〕」について。

私は、このカービングとモデリング〔carving and modeling〕 のことを、(易卦にもあります)【損】(マイナス)と【益】(プラス)の用語で表したのかも知れないと私〔ひそか〕に想っています。そして、この両者(損・益、マイナス・プラス)ともに大切であり、両者の「中和〔バランス〕」をもって、人間の学修が完〔まっと〕うするのではないかと想っています。

老子は、学問そのものを否定したのではないのです。逆説的表現をとっていますが、(当時の)儒学の“時務学”偏重の弊〔へい〕を批判して“人間学”に重点をおいている、ということでありましょう。絶学無憂」の深意を、よくよく味わわねばなりません。真の「道」は、善き学問によって知得されます。このことは、そもそも老子自身も学問研鑽によって己〔おの〕が「道」を開くことができたことで明らかでしょう。

付言しますに、教育学的に表現しますと、1)の“人間学”が“徳育”であり、2)の“時務学”が“知育”といったところでしょう。私は、現代日本の教育の貧困・紊乱〔びんらん〕の原因が、まさに“人間学”・“徳育”の欠如、“時務学”・“知育”の偏重にあると考えております。この古〔いにしえ〕の老子の教えが時と場所を超えて、今、時の宜しきを得た(「時中」)警鐘なのだと思い想います。


cf.【荘子の寓話】 《英智の珠〔たま〕》

黄帝が、崑崙〔こんろん: 空想上の仙山〕の丘に登って帰ってきた時、その「玄珠」〔げんしゅ: 神秘的な珠〔たま〕の意。ここでは無為自然の「道」の象徴/=英智の珠〕がなくなっているのに気がつきました。

そこで、物知りの「知」〔ち: 知恵、知識・常識の象徴〕 を遣わして探させましたが見つかりま せんでした。目のよくきく「離朱」〔りしゅ: 視力・明察力を持つ者の象徴/cf.易の【離】の象意、目・明智と“火”の朱赤色からきているのでしょうか〕 に探させましたが見つからず、弁(=口)の立つ「喫詬」〔かいこう: もとは口論・罵りの意。ここでは口弁の象徴〕 に探させましたが見つかりませんでした。

最後に、ぼんやりものの「象罔」〔しょうもう: かたち なし。罔象に同じで形象がはっきりしない もの、無形の意。真の智恵の象徴〕 が探しに行き、見つけてきました。黄帝はいいました。「いぶかしことだ。象罔などが見つけ出したとはねェ!」

(『荘子』・天地篇 第12)

→ 真実の「道」は、口・耳・目・・五官を用いては得られません。五感・思慮分別を超えた境地 = “覚智の世界”なのです。無心・無形のものであってこそ、始めて探しあてられたところがこの寓話のミソです

(有名な「渾沌〔こんとん〕、七竅〔しちきょう〕に死す」も同様の意図の優れた寓話です。人間的な“有為”・賢〔さか〕しき“知”が、“(無為)自然”の本質をダメにしてしまう事を象徴的に説いています。痛烈な風刺をきかせた『荘子』寓話の傑作です。/『荘子』・応帝王編第7》)


cf.【一休さんの覚り】  《 夜カラス、カアと鳴いて 一休覚る 》(by.たかね)

一休さんは、五年の間覚りを求めて、ひたすら座禅と内職に専心いたします。27歳のある夜、カラスの鳴き声を聞いて覚りを開きます。

「夏夜鴉〔ア/からす〕有省」 ―― カラスも一匹・自分も一人、1人の道を歩こう、といったとろでしょうか。“覚る”とは、迷いから覚めることです。迷いのない人には、“覚り”もまたありません。そして、その“覚りのプロセス”は、ドーンと一気にすべてがわかるというものです


■2013年2月24日 真儒協会 定例講習 老子[29] より


【大難解・老子講】 の目次は下のボタンをクリックしてください。

 ba_roushi


「儒学に学ぶ」ホームページはこちら
http://jugaku.net/


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 儒教・儒学へ

にほんブログ村



老子道徳経: 《 老子の「学」と「道」 》 その1

(忘知 第48章) 注1)

【 48章 】

《 老子の 「学」と「道」 》 

§.「 為学日益」 〔ウエ・シュエ・ヂー・イ〕/「 無為而無不為

注1) 「学/学問」は、知(知恵)を積んで文化・文明を実現しようとします。が、「道」は不純駁雑なものを削って、純なる自然・無為に回帰しようとします。モデリングとカービングです。「学/学問」と「道」は指す方向・プロセスが逆なのです。

また、後半「天下」の語が登場しており、老子の政治哲学も示されています。

「忘知」の章名は文字どおり “世俗的な知識を排除する”の意です。末梢的知識を増やして、(それがベールとなって)本質から遠ざかること、本質を見失うということはままあります。知識人・俗的教育者に多く見受けられます。

○ 「為学日益、為道日損。損之又損、以至於無為。無為而無不為。 |
取天下、常以無事。及其有事、不足以取天下。」

■ 学を為せば日に益〔ま/えき〕し、道を為せば日に損ず。之を損じて又損じ、以て無為に至る。無為にして為さざること無し。 |
天下を取るには、常に事とすること無き(無事〔むじ〕)を以てす。其の事とすること有る(有事)に及びては、以て天下を取るに足らず。


《 大 意 》

学問を修めて行くと、その知識(≒知恵)は日に日に増えていきますが、「道」を修めていくと(逆に様々な欲望・煩悩〔ぼんのう〕・駁雑〔ばくざつ〕なる知識といったものは)日に日に減っていきます。(この欲望・煩悩・雑知といった不純なものを)削り減らし、さらに削り減らしていって、(ことさらな作為をこえた純真なる)「無為」の境地に達することができるのです。「無為」(の境地)は、ことさらな作為を何もしないで、(それでいてというより)それゆえにこそ、すべてのことが立派に成し遂げられるのです。(=万物は、自然の道に遵〔したが〕って存在し生育するのです。)

天下を統治(=世界を統一)するには、必ずや、このことさらな作為・有為をしないで、あるがままにまかせていくことです。もし、ことさらに人為・作為をもって事を構えるようでは、とても天下を統治することはできません。

・「為」: 「学」は、一般世俗の学問「道」と対比されているので、儒家の重んじる学問、礼の学を指していると考えられます。老荘(道家)の思想的立場が、儒家の批判から登場していること。儒学も一面で、形式に偏り立身出世の具に堕していたためでしょう。無味な知識に埋没する末学者〔すえがくしゃ〕・曲学の徒に対する、老子の嘲笑でもありましょう。
俗「学」という、不純・雑駁なものを削り減ずれば、純一〔じゅんいつ〕なものが残ります。それが「道」だと言っています。平たくいえば、脂肪・贅肉で“メタボ”になった体を、ダイエットしてスリムな健康体にしていくようなものでしょうか?

・「為学日益、為道日損」: 「損・益」は老子によく登場します。易卦【損・益】からの明察かもしれません。

・「常以無事」: 「常」=いつでも、いつの世でもの意。「無事〔むじ〕」の方針をとらなければ多忙でパンクしてしまいます。トップ〔人の長たるもの〕は自分自身が走り回っていてはダメです。いわんや、宰相たるもの、天下を主宰する者をやです。
儒学も同様です。君子(リーダー・指導者)は、「不器」・徳の人でなければなりません。(才の人をトップにしてはいけません。現代が、不適格リーダーの時代、善きリーダー不在の時代である理由がここにあります。)
人の長(トップ)たるものは、老子哲学の実践者です。トップ(=社長や大臣)になれば、「常以無事」(無事の方針)がわかります。
  某外食産業レストランの店長は自ら動かず、指示することだけに専念します。/
戦〔いくさ〕で大将・軍師参謀は動かずに全体をみて、采配。刻々の変化に対応します。
cf.“カゴに乗る人、担ぐ人、そのまたワラジを作る人。”

・「及其有事」: 「及〔きゅう〕」「若〔じゃく〕」に同じで仮定を表わします。「有事」は繁雑な政令を出すことなど。「察察の政治」(§58章) に通じるものでしょう。


■2013年1月20日 真儒協会 定例講習 老子[28] より


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


【大難解・老子講】 の目次は下のボタンをクリックしてください。

 ba_roushi


「儒学に学ぶ」ホームページはこちら
http://jugaku.net/


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 儒教・儒学へ

にほんブログ村

Archives
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ