儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2019年08月

老子道徳経: 《 水【坎】を楽しむ 》 その1

コギト(我想う)

《 水【坎】 を楽しむ 》

《 はじめに ・・・ 【坎☵】 と 【離☲】 》

私は自分が、太陽の無限の“陽〔よう〕”の恵みと水の本源的な“陰〔いん〕”の恵みによって生かされているのだと実感しています。

無論このことは、人間に限らず、生きとし生けるもの天地万物全てについて言えることです。太陽【離☲】 と 水【坎☵】 は、地球上のあらゆるところに恵みをもたらし、生命を生み育んでいるのです。

そして、陰としての水は陽としての太陽に順〔したが〕い、雨季と乾季との偉大な循環をもたらしています。

「水」に関しては、『砂の惑星/デューン(アラキス)』の壮大な 傑作SF小説とその映画の感動が、私の脳裏には鮮明に焼き付いています。その感動の最〔さい〕たるものは、“砂の惑星”(降水量ゼロ)が超人(主人公)のもたらす奇跡によって大降雨がおこり“水の惑星”(≒地球)となるラストシーンです。

地球は水の惑星であり、(父なる太陽の恵みのもと)その生命は、海=水=【坎☵】から生まれ、水の中で生育しているのです。「水は命の泉」との表現もあります。

『旧約聖書』に、「太初(たいしょ)に言(ことば)あり、言は神と共にあり」 とあります。

また、『老子』に 「無名、天地之始。有名、万物之母。」(無名〔名無き〕は、天地の始めにして、有名〔名有る〕は、万物の母。/※“無”を天地の始めに名づけ、“有”を万物の母に名づく。)とあります。

宇宙最初の言葉は何だったのでしょうか。「光」でしょうか、「天」・「知」・・・・ ? 

“奇跡の人”・ヘレン=ケラー女史(Helen A. Keller, 1880-1968)が最初に理解し発した太初(第一番目)の語は、 “w-a-t-e-r ”〔ウォーター:水〕 でした。

神妙なる“奇跡”に相応〔ふさわ〕しい言葉であると、私は大人になっても感銘を新たにしております。 補注1)

さて私は、“水”について想う時さまざまなものが想い起こされます。私自身、本性〔ほんせい〕“水”の人間です(ex.一白水性、“偏印”タイプ、知の人 ・・・)。水【坎☵】についての想いは、私が長年文章にまとめておきたかったテーマの一つです。今回善き折〔おり〕を得て、“賢人と水”(「知者は水を楽しむ」)といった内容を中心に、想いのままに筆をとってみました。

補注1) 何が“奇跡”なのか、お解〔わか〕りでしょうか? ヘレンは、2歳の時、失明し耳も聞こえなくなりました(盲聾啞〔もうろうあ〕)。むろん“水”という具体的な“モノ”は、飲み味わってはいました。

サリバン先生は、“”・“”・“”・“”・“” のスペルを指で手のひらにつづり、ヘレンに記憶させます。(ウォーター=水 です。)賢いヘレンは多くの言葉(=スペル)を覚えます。が、しかし、サリバン先生はどうしようもない絶望的なカベにぶちあたります。つまり、飲み味わっているその“水”(=モノ)が「ウォーター=水」という名前のものであるということそのもの(=その関係性)を理解させることは出来ないのです。如何ともし難いカベです。

ところが、ある日突然、ヘレンは手に触れているこの“水”が “ w-a-t-e-r ” 〔ウォータ ー:水〕という名前のモノなのだと、その関係性に気付きます。東洋流に表現すれば、“覚 〔さと〕った”わけですね。 ―― “奇跡”が起ったのです。

《 参考資料 》

( たかね・「易経64卦解説奥義/要説版」抜粋・改訂引用)

【 水 と 火 / 坎☵ と 離☲ 】

《 水 と 火 》

1) 五行思想では相剋の関係“水剋火”(水で火を消します)。その場合、火のパワーが強すぎると(「焼け石に水」で)水で消えません。あるいは水が蒸発してしまい“剋”する対象が逆転してしまいます。 (・・・ 命学・九星気学・四柱推命など)

2) 易の中論だと、水と火(正・テーゼと反・アンチテーゼの異質・対立するもの)を、統一・止揚して(アウフヘーベン・中す)、新たなるもの(合・ジンテーゼ)を生み出す。〔ヘーゲル弁証法〕
ex.水と火の協力で、ごはん・料理ができます。男性と女性の和合で、子供が生まれます。

《 坎 と 離 》

○坎=水は智恵、離=火は聡明  /

○坎離は陰陽逆=中男と中女

○坎は耳(の穴)・鼻(の穴)・肛門・性器、 離は目=視覚・明らか(【離為火】は両眼) /

○坎☵ 離☲を象〔しょう〕でみると、 【☵】は中爻の“まこと”が通っており(“一貫”)、 【☲】は中身が“うつろ/いつわり”

cf.「渾沌〔こんとん〕の死」(『荘子』) ・・人には7穴(体は9穴)あります。渾沌は“のっぺらぼう”。1日に1つずつ穴をあけてやったところ、7日で死んでしまいました。
――無為自然の本性は、人知を加えると死んでしまうのです。

【考察】
アマテラスオオミ神は、イザナギの命(男神)の左目(左は陽)から生まれた太陽神(陽・離・中女)です。 ・・・「
そのスサノオの命は、イザナギの命〔みこと〕の鼻(の穴)から生まれました( → 【】 )

cf.鼻の外形は盛り上がっているので =艮=山の象 / (フルへッヘンヘンド=うずたかい=鼻、by.『蘭学事始』)

※ 邪馬台国の女王は「卑弥呼」、そのが政治を代行していました。この史実(『三国志』魏志倭人伝)と我国の『古事記』の話とを重ね併せて考えてみたいものです。

cf. 黒田如水(官兵衛:秀吉の軍師)、
横山大観の “生々流転〔せいせいるてん〕”(水の壮 大な循環を描く)、 
※「水を飲めば水の味がする。」(中山みき)/“無味”→“無の味”
「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。」(『論語』・擁也第6)

「君子の交わりは淡きこと水の如し、小人の交わりは甘きこと醴〔れい:あまざけ〕の如し。」(『荘子』)
cf.“恬淡〔てんたん〕”

「水魚の交わり」(『三国志』、劉備と孔明)

 

《 トピックス〔時事(2011:春)〕 ―― 水 【坎】に想う(2012記)  》

平成23(‘11)年の日本は、一般ピープルも「水」について認識を改めさせられた(思い知らされた)年の一つではないでしょうか。
 

春(3.11)に、死者・行方不明者2万人余りともいわれる“東日本大震災”による災禍。もっぱら「津波」による水害でした。一年を経ても、復興は一向に進んでおらずガレキは山積みのまま、再生はおぼつか無い有様です。

それに付随して、福島第一原子力発電所による事故・放射能汚染。その直接の原因は、5mを限度水位と想定していたところに10mの津波が襲ってきたということです。(震源近くでは、15mほどであったと言います。) 

太古の昔、“石のカケラ”(=隕石)が地球に衝突し恐竜の天下を吾々の祖先とチェンジさせた時の津波は、300mほどとも言われています。

それはともかくとしても、例えば “明治三陸地震”(1896.6.15)では、(揺れは最大震度4程度だったとされますが、)巨大な津波を引き起こし、三陸沿岸を最大 38.2 メートルにも達する津波が襲ったとされます。

三陸では、1993年にも“昭和三陸地震”の津波に襲われ千人以上の人命が失われています。
 

してみると、明らかに今回の福島第一原発事故は、5mの限度水位想定に始まる、杜撰〔ずさん〕・ナンセンスな安全基準・管理による人災です。

そして、原発の事故処理も一向に進んでいません。原発の将来像についても(安全保障をはじめ、他の国家的大事と同様に)、為政者(=政治的指導者)は無策・無計、なんらビジョンがありません。
 

本〔もと〕立たずして、末〔すえ〕が治まるはずがありません。非常時、事が大きくなればなるほどリーダの真価が顕〔あら〕われるものです。

泰平に安座・弛緩〔平和ボケ〕したわが国で、漸〔ようや〕く指導者の資質が問題になりかけてきました。

“国民主権”のもと、有権者たる国民自身の“責任”を想わざるをえません
 

ここで、原発・原発事故を、易学的な視点で捉えてみましょう。

原発は、「核」(=太陽)で、火・文明の利器ですから【離】〔り〕です。【離】の火=核=太陽 を制御し正しく“中和”〔ちゅうわ〕させるのが、水(メルトダウン〔炉心溶融〕を防ぐ冷却水)の【坎】〔かん〕です。

今回は、人間の“賢〔さか〕しい愚かさ”から、【坎】の水が制御〔コントロール〕するものであると同時に(津波という)破壊するものとなってしまいました。

“五行思想”・相生相剋〔そうしょうそうこく〕論にいう “水剋火” になってしまいました。

火・【離】と水【坎】は、本来矛盾・対立するものですが、正しく“中 〔=止揚・揚棄/アウフヘーベン:Aufheben〕”・“中和”して、(水と火でご飯・料理ができるように) 「発電」 というものが得られるわけです。 補注2)

それが、間の驕〔おご〕りと水の認識忘却により、【離】(文化文明)が、賁〔かざ〕るものでなく傷〔やぶ〕るものとなりました

このことは、太古から「老子」によって説かれていることです。
 

そして次に、震災から半年、秋9月には、ノロノロ台風(15号)日本列島縦断。その暴風雨による被災がありました。
 

尤〔もっと〕も、地震・津波にしろ台風による暴風雨にしろ、ごくあたりまえの大昔からの天地自然の変化・循環の現象です。

それに対する畏敬の念を忘れ、対策の工夫よろしきを、嘲笑〔あざわら〕うが如き傲慢〔ごうまん〕さをもって忘れていた報いです。

あらためて、日本人への天(=神)からの警鐘〔けいしょう〕と受け止めるべきです。 

―― その天の警鐘を、天意を汲み取る心ある賢人が、天意・神意に代わって警鐘を鳴らすことを、(“賢〔さか〕しく詭弁を弄〔もてあそ〕ぶ佞人〔ねいじん〕たち”に) 咎めだてされる道理がどこにあるのでしょうか?

私は、それを深く想います。

 

補注2) 『易経』・「説卦傳」(先天八卦図説明)に、「天地位を定め、山沢気を通じ、雷風相い薄 〔せま〕り、水火相い射(いと)わずして八卦相い錯(まじ)わる。」 とあります。


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


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老子道徳経: 《 水の“柔弱の徳” 》

【 78章 】
(任信・第78章) 注1)

《 水の“柔弱の徳” 》

§.「 天下柔」 〔ティン・シャ・ヂャオ・ジア〕

注1) 水の“柔弱の徳”について述べられています。「柔よく剛を制す」の“不争謙下〔ふそうけんか〕”です。首〔かしら〕・指導者といった上級の者は、栄誉・吉祥を受けるという常識に反して、(下級の者より以上に)恥辱・不祥を受けるのです。それが(逆説的)真実の言葉なのです。

末文「正言は反するが若〔ごと〕し」は、逆説的真理を表わす成句として定着しています。「任信」のタイトルは、この「正言若反」という本章の結論を、信じるか否かは読者に任せよう、との意図でしょうか? “Things to be Believed”

○ 「*天下莫柔弱於水。而攻堅強者、莫之能勝。以其無以易之。 | 
弱之勝強、柔之勝剛、天下莫不知、莫能行。 | 
是以聖人云、受国之、是謂社稷。受国之不、是謂天下正言若反。」

■ 天下に水より柔弱〔じゅうじゃく〕なるは莫〔な〕し。而〔しか〕も堅強を攻むる者、之に能〔よ〕く勝〔まさ〕る莫し。其の以て A.之に易〔か〕わる無き(/B.之を易うる無き)を以てなり。  | 
弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざる莫きも、能く行なう莫し。 | 
是〔ここ〕を以て聖人云〔い〕う、「国の垢〔あか・はじ〕を受く、是れを社稷〔しゃしょく〕の主〔しゅ〕と謂う。国の不祥を受く、是れを天下の王と謂う。」 と。正言は反するが若〔ごと〕し


《 大意 》

この世の中に、水より柔軟でしなやかなものはありません。しかしながら、堅くて強いものを攻めるのに水に勝〔まさ〕るものはないのです。というのは、 A.その水の柔軟性に変わり得るものなどはないのです。(/B.その水の性質を変えさせるほど他に力強いものはないのです。→水が最強のものです。)

弱いものが強いものに勝ち、柔らかいものが剛〔かた〕いものに勝つという道理は、世の中の誰もがよく知っていることです。が、それを自分で実行できるものはいません。

ですから、聖人は言っています。「一国の恥辱(汚辱)を一身に引き受ける人を国家(社稷〔しゃしょく〕)の主〔あるじ〕といい、一国の不幸(災禍)を一身に引き受ける人を天下の王という」 と。

( ―― このように、)正しい言葉というものは、常識とは一見反対〔さかさま〕のことを言っているように聞こえるものなのです。

*「水(不争・謙譲)」・老子 = 「仁」・孔子 = 
「(慈)悲」・釈迦 = 「愛」・キリスト

・「天下莫柔弱於水」: 河上本などは、「天下柔弱莫過於水」〔天下の柔弱なるは水に過ぐる莫し〕としています。また、「弱」は、若い娘の肌を形容する言葉でもあり、“しなやか”・“たおやか”の意がよいでしょう。

・「以易之」: 「易」の解釈は、難しいものがあります。―― A.代わり・代替するものがないの意 B.変える(ほど強力な)ものがないの意

・「柔之勝剛」: 古代(例えば『易経』)では、「陰」・「陽」の語はなく「柔」と「剛」を用いていました。
之勝陽」と、置き換えてみるのも面白いかもしれません。
cf.“損して得取れ”/易卦【山沢損】&【風雷益】

・「社稷主」: 社稷は、土地の神と五穀の神。そこから「社稷」は国家の意となり、「社稷主」は一国の主(国君)のことを指します。

・「垢」「主」/「祥」「王」: 「垢」と「主」(古音はソウ)が押韻し、「祥」と「王」が押韻しています。

考察2

≪ 水(川)の流れ ≫

→ (*詳しくはコギト・「水(坎:かん)を楽しむ」参照)

古代中国語の“水”は、“水”以外に“川”という意味もあります。変化を水・川の流れに同一視するものは、儒学・黄老に共通しています。否、それは古今東西を問わず、賢人に普遍〔ふへん〕するところとも言えます。

西洋。古代ギリシアにおいては、(“7賢人”の一人)西洋哲学の始祖・父とされる タレスが 「万物の根源は水である」 と言いました。近代の幕開けルネサンスにおいて、“3大天才”の一人レオナルド・ダ・ビンチは、水(流水)の研究に没頭し、水の流れで美と人生を哲学いたしております。

例えば。「水は自然の馭者〔ぎょしゃ〕である。」 / 「君が手にふるる水は過ぎし水の最期のものにして、来るべき水の最初のものである。現在という時もまたかくのごとし。」

東洋では。儒学の開祖・孔子は、『論語』で 知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。」(雍也第6−23) / 「子、川上〔せんじょう/かわのほとり〕に在りて曰く、逝〔ゆ〕く者は斯〔か〕くの如きか。昼夜を舎〔お/や・めず/す・てず〕かず。」(子罕第9−17) と言っています。

老荘(道家)の開祖・老子も水の礼讃者で、“不争”・“謙譲”を“水”に象〔かたど〕りその政治・思想の要〔かなめ〕といたしました。

例えば。「上善は水の若〔ごと〕し」「水は善く万物を利して争わず」(『老子』・第8章) / 「天下に水より柔弱〔じゅうじゃく〕なるは莫〔な〕し」(『老子』・第78章) etc. 

――― 孔子は水を楽しみ、孟子(や朱子)は川の流れに智の絶えざる・尽きざるものを観、老子は水の柔弱性と強さをその思想にとりました。



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