儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2019年10月

老子道徳経: 《 水【坎】を楽しむ 》 その4

こちらは、前の記事の続きです。

《 日本文化 の 「水」 》

山崎正和〔まさかず〕氏は、「水の東西」(『混沌からの表現』所収/PHP研究所) の中で、水の東西文化比較論を述べています。その中で、日本と西洋(欧米)の水について、典型的具体例として日本の「鹿〔しし〕おどし」と西洋の「噴水」を挙げて、次のような水の対比で東西の文化を捉えています。

1) (日本の)“流れる水” と (西洋の)“噴き上げる水”

2) (日本の)“時間的な水” と (西洋の)“空間的な水”

3) (日本の)“見えない水” と (西洋の)“目に見える水”

日本人に好まれる日本の美というものは、「鹿おどし」に代表されるように、“水の流れ”や“時の流れ”といった 変化するもの・流れるもの・循環するもの、の美です。“時間”という目に見えない、形のないものです

それに対して、西洋の美は、「噴水」にシンボライズ〔象徴〕されるように自然に逆らって噴き上がり、空間に静止し立体を感じさせる、人工的に造形された美です。

―― 同感のいたりです。
 

想いますに。「鹿おどし」や「枯山水〔かれさんすい〕」に感じさせられる、日本の水の文化は、繊細なイマジネーションの世界です。その世界は、やはり中国源流思想がルーツでしょう。

水を“楽しんだ”孔子、水をその思想(柔弱・不争謙下・強さなど)の象とした老子、などの思想に他なりません。

上から下へと(高きから卑〔ひく〕きへと)自然に流れる水は、老子の、無為自然・変化循環の思想の象〔しょう/かたち〕です。下から上への人造的、有為不自然な欧米の思想とは、よく対照をなしています。 補注7)
 

はるか太古の中国源流思想を、わが国の祖先・先哲が、その“陶鋳力〔とうちゅうりょく: 優れた受容吸収力・消化包容力のある創造力〕”をもって受け入れました。

そして、日本人の“(ものの)あはれ”・“をかし”といった繊細な感受性が加わって、より格調高い、水に象〔かたど〕られた日本文化を形成しているのだと考えます。

 

《 水=川の流れ ・・・ 鴨長明・『方丈記』 》

「川の流れのように」 や 「時の流れに身をまかせ」という名曲の表題は、私たち(日本人)の感性によく適〔かな〕いよく知られています。 補注8)

古代中国において、“水”は“川”と同意でした。“水”は流れ移りゆくものであり、したがって川の流れであり、時の流れとも表現できるのです。
 

東洋思想において、古代の聖人・哲人(ex.孔子・老子・孫子 ・・・・ )は、“水”をその思想の象〔しょう/かたち〕といたしました

そしてそれは、“水”を(有形・固定したモノとしてではなく)“変化”と“時間”(無形・移りゆくもの)で捉えるものです

すなわち、水の流れ = 川(の流れ) として捉えるものであったといえましょう

【 東洋思想の水 】
☆水を時間(無形・形而上的)で捉える = 水の流れ = 川(の流れ)

鴨長明・『方丈記〔ほうじょうき〕』は、吉田兼好・『徒然草〔つれづれぐさ〕』と共に、わが国鎌倉期を代表する二大随筆です。 補注9)

両者は、仏者の隠者文学の金字塔で、“仏教的無常観”で貫かれているとされます。

この二大作者・作品は、中国の源流思想(=水【坎】の思想)の影響を色濃く反映しているということができましょう。
 

私見ながら、(東洋三大思想、宗教としての)“仏教”が加わると、「易学(儒学)」・「黄老」の“変化”・“循環”の思想が、“はかない/むなしい”といった消極的な意味で捉えた“無常観”(=変化)の悟りになっていると考えられます

【陰陽】の【陰】と捉えることもできましょう。 補注10)
 

水の流れ(=川/「ゆく河の流れ」)を、その文学作品の冒頭に滔々〔とうとう〕と綴〔つづ〕ったものが、鴨長明・『方丈記〔ほうじょうき〕』です。

そこでは、“無常観”(=変化)がながれる水(河)の象〔しょう/かたち〕となって表わされています。

空間(有形)を捉えているところは絵画的であり、時間(無形)を捉えているところは哲学的でもある文学作品の書き出しです。

そして、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、・・・ 」と、まさに流れるような文体で書かれています。

激動の時代に変化・無常を身をもって体感した鴨長明ならではの名文といえましょう。

以下、『方丈記〔ほうじょうき〕』の冒頭部分を引用・紹介しておきましょう。

 

補注7) 易象〔えきしょう〕でみると西洋の文化は、多分に離・火【☲】であり、東洋日本のそれは坎・水【☵】であると想います。というのも、離・火【☲】は人工物=文明であり、目の見えることであり、(外)形です。そして、“火”が下から上へと上昇するように、(西洋の水の代表的あり方としての)噴水は下から上へと自然と逆に流れてフォーム(形)を形成しています。坎・水【☵】はその反対です。上から下へと流れ、無為自然です。

補注8) ◆「川の流れのように」: 美空ひばり さんのヒット曲としてよく知られ、秋川雅史・椿・近藤真彦・奥村チヨ さんなどで歌われている名曲です。今なお、多くの人々に唄い親しまれています。似た題名の曲として、「川の流れの如く(吉田拓郎)」・「川の流れは(THE BOOM)」・「川の流れを抱いて眠りたい(時任三郎)」 ・・・ etc.
◆「時の流れに身をまかせ」: テレサテン( 麗君) さんのヒット曲としてよく知られています。似た題名の曲として、「時の流れのように(中山美穂)」・「時の流れの中に(谷山浩子)」 ・・・ etc.

補注9) 平安期の清少納言・『枕草子〔まくらのそうし〕』を加えて、わが国 “三大随筆”といわれています。

補注10) 『徒然草』は 思想的には、一般に 仏教的無常観であるといわれています。しかし、私は、兼好が 「変化〔へんげ〕の理〔ことわり〕」(74段) と呼ぶものを、東洋的 “変化〔へんか〕の思想”として捉えてみたいのです。源流思想としての 易・『易経』の世界観・人間観です。変化は同時に 「時」 の理でもあります。序段の「心にうつりゆく」は、時間的遷移〔せんい〕でもあり、その遷移は中論(弁証法)的に捉えられます。無限変化 ― 進化循環するという意味においての 「無常」です
従って兼好の人間観・運命観は、陽性にして肯定的・主体的です。つまり、宿命と運命を峻別し、運命は人間の力で打開できると信じています。このことは、中世にあっては、注目すべきことではないでしょうか。ヘーゲル哲学の運命観も同様であり、ここに近代精神の先駆を見ることも出来ると思います。 (盧:「『徒然草』にみる源流思想」より)

 

◎ 原典資料

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。

よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。

世の中にある人とすみかと、またかくのごとし

たましきの都のうちに、棟〔むね〕を並べ、甍〔いらか〕を争へる、高き、いやしき、人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。

あるいは去年〔こぞ〕焼けて今年作れり。 あるいは大家〔おおいえ〕滅びて小家〔こいえ〕となる。 住む人もこれに同じ。

所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二、三十人が中に、わづかに一人二人なり。

朝〔あした〕に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。

知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。

また知らず、仮の宿り、誰〔た〕がためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。

その主〔あるじ〕とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。

あるいは露落ちて花残れり。 残るといへども朝日に枯れぬ。

あるいは花しぼみて露なほ消えず。 消えずといへども夕べを待つことなし。」

 

《 大意 》

流れゆく川の流れは(常に)絶えることはなくて、しかも、(その流れの水は刻々と変化して)同じ水ではありません。

よどんだ所に浮かんでいる水の泡は、一方で消えたかと思へばまた生まれて、(生まれたかと思えばまた消えて)長い間同じ状態でとどまっている前例はありません。

世の中の、人と(その)住居も、また(この川の流れや水の泡と)同じようです。

玉を敷きつめたように美しい都の中に、棟を並べ屋根の高さを競い合っている、身分の高い人や低い人、あらゆる人の住まいは、時代を経てもなくならないもの(のよう)であるけれども、それを本当(になくならない家である)かと調べてみると、昔あった家(で今も残っているもの)はまれです。

あるものは、去年焼けて今年(新しく)作っています。 あるものは、大きな家であったものが没落して小さな家となっています。 (そこに)住んでいる人も(家の場合と)同様です。

場所も変わっていないし、人もたくさんいますけれども、昔見知っていた人は、二、三十人のうちに、わずかに一人か二人です。

朝に死んでゆく人がいるかと思えば、夕方生まれる人もいるという(この世の)ならいは、まさに本当に、水の泡に似ています。

―― わからないのです、この世に生まれて死ぬ人は、どこからやって来て、どこへ去っていくのか。

また、(これも)わからないことなのですが、仮の住まいにすぎないのに、だれのために心を悩ませ、何によって目を楽しませるのか。

その家の主人と住居とが、あたかも競い合うように儚〔はかな〕く滅び去るありさまは、例えば朝顔の花(とその上)に置かれた露と変わりません。

ある時には、露が落ちて花が残っています。残るといっても朝日を浴〔あ〕びて枯れてしまいます。

(また)ある時には、花がしぼんで露がまだ消えないでいます。(が、しかし)消えないといっても夕方まで残っていることはないのです。

 

《 レオナルド・ダ・ビンチ と 「水」 》

古来、“天才”と称される偉人は少なくはありません。が、“万能の天才”(ウオーモ ウニベルサーレ:普遍的人間)と冠される偉人は稀〔まれ〕です。

その“万能の天才”の名声を代表しているのが、ルネサンスの巨人、レオナルド・ダ・ビンチ です。
 

賢人・聖人の至れるものが、象〔かた〕どられた“水”であることから、レオナルドにおいても“水”は強い執着と“楽〔らく〕”を与えているものです

ただ、一味、他の賢人たちと異なるのはその多才ぶりにあります。

―― レオナルドは、“水”(川)の流れを観て人生・自然世界を瞑想〔めいそう〕し(【哲学者】)、“水”という物質の形態を研究・深究し(【科学者】)、“水”⇒ “波”をスケッチ・デッサンしていくうち、いつしか“水”が永遠なる女性の髪の美(ウェイブ)と重なり融合して“美”の世界に深く没頭してゆくのでした(【芸術家/画家】)。

レオナルドと“水”とのかかわりについては、私たちは貴重な文献資料である「手記」によって垣間見ることができます。以下、「手記」の中から“水”に関連するものをピックアップしてみましょう。

 

◎ 原典資料

・ 一人が他を追いかける。この絵によって生命と人間の状態が理解される。

・ われわれは他人の死でわれわれの生命を養う。
死せる物の中には生命が残っている。それがいきものの内臓に結びつくとふたたび感性的知性的生命を帯びるのである。

君が手にふるる水は過ぎし水の最期のものにして、来るべき水の最初のものである。現在と いう時もまたかくのごとし
(『レオナルド・ダ・ビンチの手記 ・上 』・杉浦明平訳・岩波文庫/〔人生論〕より)

・ 水の書の始まり ―― 広くて深い形姿を有し、そこにあっては水がほとんど動かずにとどまっ   ているものは海とよばれる。

水は自然の馭者〔ぎょしゃ〕である

・ 水とは何か ―― 水は四原素のうち第ニの重さと第ニの流動性〔ヴォルビリタ〕をもつものである。これは海というじぶんの原素〔圏〕に帰りつくまでけっして静まることがない。海では、風に患わされないかぎり、じっとして世界の中心から等距離なる水面を持して憩〔いこ〕うている。
この〔水〕はありとあらゆる生ける物体の養分〔アウメント〕にして水分〔オモーレ〕である。月の下なるいかなるものも水なしにはひとりで最初の形態を保持して行くわけに行かない。

水はもろもろの物体を結合し、養い、それを成長させる。水より軽いものは暴力をもってするのでなければ水を貫くことができない。熱によって微細な水蒸気となり嬉々〔きき〕として空中に立ち昇る。寒さは水を凍結し、安定は水を腐敗さす。あらゆる匂い、色および味を受入れるが、自分には何ひとつもたない

・ そしてちょうど鏡がその前を通過する対象の色に自らを変えるように、何一つ自分自身では持たぬが、すべてを動かしもしくは捉〔とら〕える、そしてその通過する場所が千変万化すればそれだけ自分の性質をも千変万化させる。

・ 水は不断の運動によって海のどん底から山のてっぺんまでを循環し、重さを有する物体の性質に従わない。この場合ちょうど動物の血のような働きをする

・ 川の水は海から来るのではなく雲から来るのだ。

・ 水の運動 ―― 濁った水が、その流れに逆らうものにあたえる衝撃は清らかな水よりはるかに強い。

(『レオナルド・ダ・ビンチの手記 ・下 』・杉浦明平訳・岩波文庫/〔科学論〕より)
 

cf. 水=変化=循環    人間 ―― 女性の髪の美/波(ウェイヴ:Wave)


■2013年9月22日 真儒協会 定例講習 老子[35] より


【大難解・老子講】 の目次は下のボタンをクリックしてください。

 
ba_roushi


「儒学に学ぶ」ホームページはこちら
http://jugaku.net/


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 儒教・儒学へ

にほんブログ村

老子道徳経: 《 水【坎】を楽しむ 》 その3

こちらは、前の記事の続きです。

《 孔子(/孟子) と 「水」 》

儒学の開祖・孔子は、『論語』で 知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。」(雍也第6−23) / 
「子、川上〔せんじょう/かわのほとり〕に在りて曰く、逝〔ゆ〕く者は斯〔か〕くの如きか。昼夜を舎〔お/や・めず/す・てず〕かず。」(子罕第9−17) と述べています。
 

孔子を“私淑〔ししゅく〕”した孟子は、孔子の水礼賛を次のように解しています。

○ 「徐子〔じょし〕曰く、仲尼亟〔しばしば〕水を称して曰く、水なる哉〔かな〕、水なる哉と。何をか水に取れるや、と。孟子曰く、/*原泉混混として、昼夜を舎〔お/や・めず/す・てず〕かず。科〔あな/=穴〕に盈〔み〕ちて而〔しか〕る後に進〔すす〕み、四海に放〔いた/=至〕る。本〔もと〕有る者は是の如し。是れ之れを取れるのみ。/ 苟〔いやし〕くも本無しと為さば、七八月の間〔かん〕、雨集まりて、溝澮〔こうかい〕皆盈〔み〕つるも、其の涸るるや、立ちて待つ可〔べ〕きなり。故に声聞情〔じつ/=実〕に過ぐるは、君子之を恥づ、と。」 (離婁章句下)

□*「水源のある水は、コンコンと湧き出して、昼も夜も休むことはありません。そうして、流れてゆく途中に、窪んだ所があればそれをいっぱいに満たしてから、更に流れ進んで行き、ついに四方〔よも〕の海に辿り着くのです。すべて、本〔もと/本源〕のあるものは、このように流れ続け決して尽きることはないのです。(水の)この点を孔子は、賞賛されたのです。」
 

このように、孟子は孔子を理解し、水・水の流れを、智の流れて尽きないものとして捉えています。水に対する、儒学の有力一般的な見解でしょう。 補注6)
 

尤〔もっと〕も、私は孔子の水・水の流れを次のように解しています。孔子は水を“楽しみ”としたのであって、好みとしたり愛したりはしていません。 ―― 深くしみじみと味わうとでもいった情趣の様に思います。

また、孔子川上の感嘆も、(孟子なら流れて尽きないものと感じてぴったりですが) 孔子の老齢や孤独・不遇を考え合わせると、“無常”流転への悲哀〔かな〕しい晩年の悟りのように感じます。

不思議と、西洋の大賢人レオナルド・ダ・ビンチの手記の文言:「君が手にふるる水は過ぎし水の最期のものにして、来るべき水の最初のものである。現在という時もまたかくのごとし。」と、その達観・晩年の境地、相通じるものがあるように想います。
 

補注6) 孟子は人の“性”を水に象〔かたど〕り(“人の性は水のごとし”)、己〔おの〕が根本思想である“性善(説)”を決定づけるものとしています。すなわち、告子〔こくし〕との人の性をめぐる論争がそれです。

告子は、人の本性は渦巻いて流れる水のようなもので、流れる方向が決まっていないので、東へでも西へでも流れて往〔ゆ〕きます。

それと同じように、人の本性というものも、始めから善悪(善不善)の区別があるわけではないのです。と主張しました。

それに対して孟子は、次のように反論しています。

■ 「水は信〔まこと〕に東西を分つことなきも、上下を分つことなからんや。人の性の善なるは、猶〔なお〕水の下〔ひく〕きに就くがごとし。人 善ならざることあるなく、水 下らざることあるなし。」

◇ 「確かに水には、東に流れるか西に流れるかの方向を決めることはできません。が、しかし、高い方に流れるか低い方に流れるかの方向が決められないということがありましょうか、そんなことはないでしょう。

人の本性がもともと善であるというのは、恰〔あたか〕も水が必ず低い方へと流れて往くのと同じようなものです。

ですから、人の本性には、誰でもみな悪(不善)であるものはなく、水は低い方に流れて往かないものはないのです。」

そして、更に反論を加えます。

水は、水面を手で打てば跳ねて額〔ひたい〕より高く上がったり、せき止められて山の頂〔いただ〕きまで逆流したりすることはあります。が、どうしてそれが水の本性であるといえましょうか。

外力がそうさせただけなのです。

ですから、人が時に悪(不善)を成すのも、それは決して人の本性ではなく、(利害損得や金品財物といった)外からの影響力に因〔よ〕るのです。

(『孟子』・告子章句上2)/(『孟子』・小林勝人訳注・岩波文庫 参照)
 
 

《 孫子 と 「水」 ・・・ 「兵形象水」 》

孫武は、春秋時代の兵法家で兵法の創始者、「兵家〔へいか〕」の開祖として有名です。その著書『孫子』十三編は、兵書の枠を超えて広く永く愛読・研究されています。

例えば、『三国志』で有名な曹操は、『孫子』を熟読研究の上注釈まで加えています。

わが国においても、八幡太郎義家が雁行〔がんこう〕の乱れから伏兵を悟った話、武田信玄の“風林火山”の旗さしものが『孫子』・「軍争編」から採られたものであったりしたこと、などよく知られています。
 

「兵形象水」には、理想的戦闘態勢が、水のように形を持たず、変化に対して流動的・柔軟に変化するものであることが述べられています。
 

想いますに、『孫子』の兵法は、変化への対応ということで易とも重なります。“水”をその思想的象とすることで黄老思想とも重なってまいります。
 

○ 「夫兵形象水、水之行〔形〕、避高而趨下、兵之形〔勝〕、避実而撃虚。 |
水因地而制流〔行〕、兵因而制勝、故兵無常勢、(水)無常形。能因敵変化而取勝者、謂之神。 | 故五行無常勝、四時無常位、日有長短、月有死生。」

■ 夫〔そ〕れ兵の形は水に象〔かたど〕る、水の行〔こう/≒形〕は高〔こう〕を避けて下〔か〕に趨〔はし/おもむ・き〕り、兵の形〔≒勝〕は実〔じつ〕を避けて虚を撃つ。 |
水は地に因りて流れ〔≒行〕を制し、兵は敵に因りて勝を制す。故に兵に常の勢無く、(水に)常の形無し。能〔よ〕く敵に因りて変化して(敵の変化に因りて)勝を取る者、之を“神〔しん〕”と謂う。 | 故に五行〔ごぎょ〕に常の勝なく、四時に常の位なく、日に長短有り、月に死生有り。
 

《 大意 》

そもそも軍隊の形(配備)は、水の(一定の形がない)形をお手本とします。水の流れは(千変万化し)高いところを避けて低いところへと向かってゆき、(同じように)軍隊の形は(千変万化し)敵の堅陣を避けてスキのある手薄な箇所を攻撃する(ような形をとります。) 

水は地形(の高低)に従って流れの方向を定めますし、軍隊は敵(の情勢)に応じて(その時の)勝利の方策を決めます。ですから、軍隊には(敵に対して)決められた態勢というものがなく、また(水に)定められた形はなく、(さまざまな地形によって変化し)うまく敵情のままに従って変化して勝利を勝ち取ることができるのです。そのようなものを(人知を超えた)“神〔しん〕”というのです。

そこで、木・火・土・金〔ごん〕・水の五行〔ごぎょう〕においても(相生相剋〔そうしょうそうこく〕の関係で)一つだけでいつでも勝つというものはなく、春・夏・秋・冬の四季にも一つだけでいつでも止まっているものはなく、日の出ている時間にも長短があり、月にも満ち欠けがあるのです。
 

参考

◎ 【 易学 と 孫子 】
( *孫子=孫武  *夫概〔ふがい〕= 呉の将軍、呉王・闔閭〔こうりょ〕の弟 )

夫概: 「ところで何をしていた?」

孫武: 「『周易』を読んでいたところです。この家にありましたので。」

夫概: 「『周易』!周の天子が書いた易学の書だな。まさか、それで占いでもするつもりか?」

孫武: 「ああ、いえ。退屈しのぎに目を通していただけです。」

夫概: 「易学の書にか!『周易』とは、てっきり占いの書かと思っていた。他に何か役に立つのか?」

孫武: 「はい。『周易』の“易”という字は、そもそも、トカゲ〔蜥蜴〕の皮の色の変化を指します。“周”という字は、天地のあらゆるものを包み込むことを意味します。『周易』とは、伏〔ふくぎ〕・神農・黄帝・文王らの英知〔えいち/叡智〕の結晶です。その教えは、単に占いのみに止まりません。兵法にも大いに関係します。得るところが、実に多いのです。どうしたらもっと巧みに兵を動かせるかといったことから、勝機を得る策に至るまで学べます。ですから、何度読んでも飽きることはありません。」

夫概: 「改めて聞くと興味深い話だ。では、ひとつ、私の将来を占ってはもらえぬか ・・・ 」

(DVD:「孫子兵法大全」・第19話/郢落城 より)


■2013年8月25日 真儒協会 定例講習 老子[34] より


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


【大難解・老子講】 の目次は下のボタンをクリックしてください。

 ba_roushi


「儒学に学ぶ」ホームページはこちら
http://jugaku.net/



にほんブログ村 哲学・思想ブログ 儒教・儒学へ

にほんブログ村

Archives
QRコード
QRコード
  • ライブドアブログ