こちらは、前の記事の続きです。
コギト(我想う)
≪ 老子の鷹揚〔おうよう〕(=おおらか)な政〔まつりごと〕(§58章) と現代の教育界 ≫
→ 関連 §80章《老子のユートピア(理想国家・社会)思想 》
研 究 ≪「知」と「智」と柿の“シブ”/【離・火】(文化文明)について≫
参照のこと
“上杉鷹山〔ようざん〕”を“タカヤマ”としか読めない若者が多いご時世です。私も幼い学生の頃には“鷹揚〔おうよう〕”を“タカヨウ”としか読めず意味もよくわかりませんでした。
“鷹揚”は、おおらか・悠然としていて、静かに落ちついていることです。善い言葉だと思います。
鷹揚なあり方・政〔まつりごと〕は、まことに老子らしいと思います。そしてそれは、現代の社会に決定的に欠落しているものだと想います。
さて、『老子』・第60章 に「治大国、若烹小鮮」との名比喩〔めいひゆ〕があります。
この煮魚〔にざかな〕の例と同様に、大国になるほど大きな組織になるほど、むやみやたらに、こまごました法律・きまりを整備して人民を統制する「察察〔さつさつ〕の政治」になりがちです。
○「其の政〔せい/まつりごと〕、悶悶〔もんもん〕たれば、其の民は淳淳〔じゅんじゅん〕(屯屯〔とんとん〕/醇醇〔じゅんじゅん〕)たり。その政、察察〔さつさつ〕たれば、其の民は欠欠〔けつけつ〕たり。」 (老子・第58章 冒頭)
【その政治が、(小知を弄さずに)おうよう・ぼうよう〔鷹揚・茫洋〕としておおらかなもの(=愚の政治)であれば、その人民は正直で醇良(=寛厚温順)です。が、政治が細かく行き届きすぎ明察したものであると、その人民はずる賢く、不満・軽薄の心を持つものです。】
わが国の官公庁・教育界に、何と耳の痛い言〔げん〕ではありませんか!平成の現在は、“過陽〔かよう〕”にて、諸事 “ワケが「わからぬ」”ようになっています。
とりわけ、近年の教育現場(大阪)では、その文書・形式主義の管理強化体制はますます弊害を大きくしております。
その「痴〔ち/おこ〕」の態〔てい〕は、まことに甚〔はなは〕だしきものがあります。
――― 現在の教育界を活学して述べてみたいと思います。
教育現場は、“会議づけ”・“文書づけ(報告書・申告書・・・)”・“アンケートづけ(評価・意見徴収・・・)”と、当世“三悪揃い組”といった感があります。
対教師もあり、教師内(自身)でもあります。
ここに、「本〔もと〕」を見失った日本の教育現場の姿があります。
“自家中毒(症)”という病気があります。
自分の体内で生じる有毒物質によって起こる中毒症、あるいは自律神経の不安定な子どもが疲労時などに起す中毒症状です。
現代日本の教育界は教育関係者自身の手によって、(自身の「痴」によって)、着実に悪化・自滅への道を邁進していると観えます。
私は、いつも「自分で自分の首を絞める」、「天にツバする」、「身から出たサビ」などの慣用句が連想されています。
このことを別言すれは、易の【離☲】の“過陽”なる導入です。
その弊害(=傷〔やぶ〕るもの)は、象意〔しょうい〕どうり、火をみるより明らかです。
「其の本乱れて末〔すえ〕治まる者は否〔あら〕ず。」(『大学』)です。
モンゴル〔蒙古〕帝国の大大臣・耶律楚材〔やりつそざい〕が名言を残しています。
いわく、「一利を興すは一害を除くにしかず。一事を生〔ふ〕やすは一事をへらすにしかず。」
この、“文化文明”(=易の【離☲】)が持つ両刃の剣のごとき深意とその現代教育への弊害について想いを馳せてみたいと思います。
まず、文化の視点から一言しましょう。
“心を耕すもの”・精神的なものが「文化」であり、物質的なものが「文明」です。
何かの番組で、学生が卒業式・入学式などといった“儀式〔セレモニー〕について、「(儀式や儀礼は、形式的で)意味がない。不必要だ。」といった内容の意見を言っていたのを記憶しています。
若者らしい無智(あるいは“痴〔ち/おこ〕”)な言葉です。
私が想ったことには、形式的で意味のない ―― 直接利得・実益のないことをするのが「文化」であり、それこそがヒトを人間たらしめているものなのです。
が、尤〔もっと〕も、「文化」(【離☲】)もあまりに形骸化し、形式的煩雑さに偏してしまって(=【離☲】が“陽”に過ぎる)はダメです。
儀式の立ったり坐ったり、お辞儀をしたりも程度問題で、ホドホド〔程程〕(中庸)にしなければなりません。
儒学は、「礼〔れい〕」といって、この文化的なものを重視します。
儒学の開祖・孔子は、「礼」を重視しました(「礼学」・「礼楽」)。
「礼」〔マナー〕を欠くのが“無礼”というわけです。
孔子の時代は、戦乱の世であり(「春秋戦国時代」)、無礼・無道の時代であったのです。
その後、儒家では、「礼」が形式に偏り、“過陽”となり雑駁〔ざっぱく〕なものになっていったのでしょう。
その有様を、老子が逆説的に厳しく批判しているかのだと思います。
儒学は(儒学に限った事ではありませんが)、「中庸〔ちゅうよう/=中〕」を尊びます。
儒学の思想的基盤である易は、一言に要すると“陰・陽”と“中”の思想です。
“中”・“中庸”・“中徳”・・・ と申しますのは、“ホド〔程/バランス: balance〕”ということに他なりません。
次に文明の視点から一言しますと。“文明の利害”は古くて新しい人類の課題です。
“害”・“弊害”とは“傷〔やぶ〕る”もの“としての【離】の側面です。
老子(ならびに荘子も同様に)の思想は“文明批判”論です。
昔日〔むかし〕は、“必要は発明の母”と言われましたが、今時は“発明は必要の母”です。
つまり発明された利便が必要不可欠となる(それなしでは生きてゆけない)というわけです。
当世、携帯電話(スマートホン)やインターネットなしでは生きていけない(生活できない)と考えている若者が殆〔ほとん〕どです。
確かに、携帯電話なしでは自宅にも電話出来ない人が殆どです。
学生に「無人島に持っていく第一のものは?」と尋ねると、「携帯電話(スマートホン)」と応えます。
“傷〔やぶ〕る”もの“、すなわち文明の利器への依存・中毒は、“儲け第一主義”である現在商業主義の“鬼っ子”と表現出来るかも知れません。
さて、学校教育現場: 職員室で全教員が、早朝から終日、デスクの上の(ノート)パソコンとにらめっこしています。
この場景には、私は異様なものを感じざるを得ません。
(大阪府では)今年度から出欠管理をはじめ成績管理など全面的にコンピュター化されます。
授業でもOHP/VTRからプロジェクターの授業導入が強制的に行われつつあります。
これらは、【離】=便利な文明の利器【離】です。
が。しかし、恰〔あたか〕もアヘン〔覚醒剤〕のように教育を“傷〔やぶ〕る”ものです。
二重の意味で、教育の退廃を推し進めるでしょう。
一つは、易〔やす〕きに流れ、生徒にとって頭脳の発達・進化が阻害されるでしょう。
(cf.荘子の文明批判 “はねつるべ”の寓話: 「機事〔きじ〕あれば機心あり、機心あれば純白備わらず」)
今一つは、易〔やす〕きに堕し、教師の指導能力の進歩を疎外し退化させてゆきます。
このままでは、ロクに日本語の文字も文章も“自分の手で” 書けない教師ばかりになってしまいます。
教師はチョーク一本で勝負し(政治家はマイク一本で)、自らの教材で、自らの文字・文章で、自らの言葉で教えるものです。
“教”は“效〔ならう〕”で、ならいのっとるもの、人のお手本になるべきものです。
教育とは、教師がお手本になって生徒を実践に導いてゆくことに他なりません。
―― (生徒に)“機械”をお手本にさせていては教育は成り立ちません!
■2014年2月16日 真儒協会 定例講習 老子[39] より
(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)
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