儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2019年12月

老子道徳経: 《 老子の運命論 /cf.“塞翁が馬” 》 その2

こちらは、前の記事の続きです。

コギト(我想う)

≪ 老子の鷹揚〔おうよう〕(=おおらか)な政〔まつりごと〕(§58章) と現代の教育界 ≫

→ 関連 §80章《老子のユートピア(理想国家・社会)思想 》
 研 究  ≪「知」と「智」と柿の“シブ”/【離・火】(文化文明)について≫
参照のこと

“上杉鷹山〔ようざん〕”を“タカヤマ”としか読めない若者が多いご時世です。私も幼い学生の頃には“鷹揚〔おうよう〕”を“タカヨウ”としか読めず意味もよくわかりませんでした。

“鷹揚”は、おおらか・悠然としていて、静かに落ちついていることです。善い言葉だと思います。

鷹揚なあり方・政〔まつりごと〕は、まことに老子らしいと思います。そしてそれは、現代の社会に決定的に欠落しているものだと想います。

さて、『老子』・第60章 に「治大国、若烹小鮮」との名比喩〔めいひゆ〕があります。

この煮魚〔にざかな〕の例と同様に、大国になるほど大きな組織になるほど、むやみやたらに、こまごました法律・きまりを整備して人民を統制する「察察〔さつさつ〕の政治」になりがちです。

○「其の政〔せい/まつりごと〕、悶悶〔もんもん〕たれば、其の民は淳淳〔じゅんじゅん〕(屯屯〔とんとん〕/醇醇〔じゅんじゅん〕)たり。その政、察察〔さつさつ〕たれば、其の民は欠欠〔けつけつ〕たり。」 (老子・第58章 冒頭)

【その政治が、(小知を弄さずに)おうよう・ぼうよう〔鷹揚・茫洋〕としておおらかなもの(=愚の政治)であれば、その人民は正直で醇良(=寛厚温順)です。が、政治が細かく行き届きすぎ明察したものであると、その人民はずる賢く、不満・軽薄の心を持つものです。】

わが国の官公庁・教育界に、何と耳の痛い言〔げん〕ではありませんか!平成の現在は、“過陽〔かよう〕”にて、諸事 “ワケが「わからぬ」”ようになっています。

とりわけ、近年の教育現場(大阪)では、その文書・形式主義の管理強化体制はますます弊害を大きくしております。

その「痴〔ち/おこ〕」の態〔てい〕は、まことに甚〔はなは〕だしきものがあります。

――― 現在の教育界を活学して述べてみたいと思います。

教育現場は、“会議づけ”・“文書づけ(報告書・申告書・・・)”・“アンケートづけ(評価・意見徴収・・・)”と、当世“三悪揃い組”といった感があります。

対教師もあり、教師内(自身)でもあります。

ここに、「本〔もと〕」を見失った日本の教育現場の姿があります。

“自家中毒(症)”という病気があります。

自分の体内で生じる有毒物質によって起こる中毒症、あるいは自律神経の不安定な子どもが疲労時などに起す中毒症状です。

現代日本の教育界は教育関係者自身の手によって、(自身の「痴」によって)、着実に悪化・自滅への道を邁進していると観えます

私は、いつも「自分で自分の首を絞める」、「天にツバする」、「身から出たサビ」などの慣用句が連想されています。

このことを別言すれは、易の【離☲】の“過陽”なる導入です。

その弊害(=傷〔やぶ〕るもの)は、象意〔しょうい〕どうり、火をみるより明らかです。

「其の本乱れて末〔すえ〕治まる者は否〔あら〕ず。」(『大学』)です。

モンゴル〔蒙古〕帝国の大大臣・耶律楚材〔やりつそざい〕が名言を残しています。

いわく、「一利を興すは一害を除くにしかず。一事を生〔ふ〕やすは一事をへらすにしかず。」

この、“文化文明”(=易の【離☲】)が持つ両刃の剣のごとき深意とその現代教育への弊害について想いを馳せてみたいと思います。

まず、文化の視点から一言しましょう。

“心を耕すもの”・精神的なものが「文化」であり、物質的なものが「文明」です。

何かの番組で、学生が卒業式・入学式などといった“儀式〔セレモニー〕について、「(儀式や儀礼は、形式的で)意味がない。不必要だ。」といった内容の意見を言っていたのを記憶しています。

若者らしい無智(あるいは“痴〔ち/おこ〕”)な言葉です。

私が想ったことには、形式的で意味のない ―― 直接利得・実益のないことをするのが「文化」であり、それこそがヒトを人間たらしめているものなのです

が、尤〔もっと〕も、「文化」(【離☲】)もあまりに形骸化し、形式的煩雑さに偏してしまって(=【離☲】が“陽”に過ぎる)はダメです。

儀式の立ったり坐ったり、お辞儀をしたりも程度問題で、ホドホド〔程程〕(中庸)にしなければなりません

儒学は、「礼〔れい〕」といって、この文化的なものを重視します。

儒学の開祖・孔子は、「礼」を重視しました(「礼学」・「礼楽」)。

「礼」〔マナー〕を欠くのが“無礼”というわけです。

孔子の時代は、戦乱の世であり(「春秋戦国時代」)、無礼・無道の時代であったのです。

その後、儒家では、「礼」が形式に偏り、“過陽”となり雑駁〔ざっぱく〕なものになっていったのでしょう。

その有様を、老子が逆説的に厳しく批判しているかのだと思います。

儒学は(儒学に限った事ではありませんが)、「中庸〔ちゅうよう/=中〕」を尊びます。

儒学の思想的基盤である易は、一言に要すると“陰・陽”と“中”の思想です。

“中”・“中庸”・“中徳”・・・ と申しますのは、“ホド〔程/バランス: balance〕”ということに他なりません。

次に文明の視点から一言しますと。“文明の利害”は古くて新しい人類の課題です。

“害”・“弊害”とは“傷〔やぶ〕る”もの“としての【離】の側面です。

老子(ならびに荘子も同様に)の思想は“文明批判”論です

昔日〔むかし〕は、“必要は発明の母”と言われましたが、今時は“発明は必要の母”です。

つまり発明された利便が必要不可欠となる(それなしでは生きてゆけない)というわけです。

当世、携帯電話(スマートホン)やインターネットなしでは生きていけない(生活できない)と考えている若者が殆〔ほとん〕どです。

確かに、携帯電話なしでは自宅にも電話出来ない人が殆どです。

学生に「無人島に持っていく第一のものは?」と尋ねると、「携帯電話(スマートホン)」と応えます。

“傷〔やぶ〕る”もの“、すなわち文明の利器への依存・中毒は、“儲け第一主義”である現在商業主義の“鬼っ子”と表現出来るかも知れません。

さて、学校教育現場: 職員室で全教員が、早朝から終日、デスクの上の(ノート)パソコンとにらめっこしています。

この場景には、私は異様なものを感じざるを得ません。

(大阪府では)今年度から出欠管理をはじめ成績管理など全面的にコンピュター化されます。

授業でもOHP/VTRからプロジェクターの授業導入が強制的に行われつつあります。

これらは、【離】=便利な文明の利器【離】です。

が。しかし、恰〔あたか〕もアヘン〔覚醒剤〕のように教育を“傷〔やぶ〕る”ものです。

二重の意味で、教育の退廃を推し進めるでしょう。

一つは、易〔やす〕きに流れ、生徒にとって頭脳の発達・進化が阻害されるでしょう。

(cf.荘子の文明批判 “はねつるべ”の寓話: 「機事〔きじ〕あれば機心あり、機心あれば純白備わらず」

今一つは、易〔やす〕きに堕し、教師の指導能力の進歩を疎外し退化させてゆきます。

このままでは、ロクに日本語の文字も文章も“自分の手で” 書けない教師ばかりになってしまいます。

教師はチョーク一本で勝負し(政治家はマイク一本で)、自らの教材で、自らの文字・文章で、自らの言葉で教えるものです。

“教”“效〔ならう〕”で、ならいのっとるもの、人のお手本になるべきものです

教育とは、教師がお手本になって生徒を実践に導いてゆくことに他なりません。

―― (生徒に)“機械”をお手本にさせていては教育は成り立ちません!


■2014年2月16日 真儒協会 定例講習 老子[39] より


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


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老子道徳経: 《 老子の運命論 /cf.“塞翁が馬” 》 その1

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【 58章 】 cf.塞翁馬

(順化・第58章) 注1) 

《 老子の運命論 /cf.“塞翁が馬” 

 §.「 其政悶悶」 〔チ・チャン・マヌ・マヌ〕

注1) 「順化」は、“Transformation according to Circumstances”、“ぼうよう”とした無為自然の道に“順〔したが〕い同化する”を意味するものです。
第一段は、無為と有為の政〔まつりごと〕を対比し、おおらかな政治(愚の政治)を説いています。第二段は、老子の運命論。禍福吉凶に対する循環の理法・運命論です。それは、“禍福吉凶の循環理法”とでも称されるものです。つまり、禍福がただ変化し予測し難いのではなく、禍の中に福の種(因〔もと〕)・兆しがあり、福の中に禍の種(因〔もと〕)が蔵〔かく〕されているということです。(「禍福倚伏〔かふくいふく〕」) 第三段は、聖人の善き政治であらわれる現象が説かれています。

○「*其政悶、其民淳淳(屯/醇醇)。其政察、其民。 |
兮福所兮禍之所。孰知其、其無正(邪/耶)。正復為奇、善復為妖。人之迷、其日固久。|
是以聖人、方而不割、廉而不劌(傷)、直而不肆、光而不耀。」

(    =♪韻 )
♪「悶〔モン〕」との押韻では「屯〔トン〕」が適合します
♪「察〔サツ〕」と「欠〔ケツ〕」が押韻。
♪「禍〔カ〕」と「倚〔イ、古音はア〕」が、「福〔フク〕」と「伏〔フク〕」が押韻。

次の「極〔キョク〕」も「福〔フク〕」・「伏〔フク〕」と押韻します。

■ 其の政〔せい/まつりごと〕、悶悶〔もんもん〕たれば、其の民は淳淳〔じゅんじゅん〕(屯屯〔とんとん〕/醇醇〔じゅんじゅん〕)たり。その政、察察〔さつさつ〕たれば、其の民は欠欠〔けつけつ〕たり。 |
禍か(は)!福の倚〔よ〕る所、福か(は)!禍の伏〔ふ〕す所。孰〔た〕れか其の極〔きょく〕を知らん、其れ正(邪)無し(無きか)。正は復〔ま〕た奇と為り、善は復た妖〔よう〕と為る。人の迷えるや、其の日固〔もと/まこと・に〕より久し。|
是〔ここ〕を以て聖人は、方〔ほう〕にして而〔しか〕も割〔さ〕かず、廉〔れん〕にして而も劌〔そこな(=傷)/やぶ・らず/けず・らず〕わず、直にして而も肆〔し/の・びず〕ならず、ありて而も耀〔かがや〕か(さ)ず。」

*When the ruler looks depressed the people will be happy and satisfied;
When the ruler looks lively and self-assured the people will be carping and discontented.
‘It is upon bad that good fortune leans,upon good fortune that bad  fortune rests.’
(A.Waley adj. p.212)

*When the governments is muddled
The people are simple;
When the governments is alert
The people are cunning.
It is on disaster that good fortune perches;
It is beneath good fortune that disaster crouches.
(D.C.Lau adj. p.65)

《 大意 》

その政治が、(小知を弄さずに)おうよう〔鷹揚〕・ぼうよう〔茫洋〕としておおらかなもの(=愚の政治)であれば、その人民は正直で醇良(=寛厚温順)です。が、政治が細かく行き届きすぎ明察したものであると、その人民はずる賢く、不満・軽薄の心を持つものです。

禍〔わざわい/災禍〕!(それ)は、(そこに)幸福が寄り添っており、福〔さいわい/幸運〕!(それ)は、(そこに)禍がひそみ隠されています。だれがこの(循環の)究極の境目を知っているでしょうか?(イヤ、だれにもわかりません。)

そもそも、絶対的に正しいといえる基準などないのです。正しいと見えることも異常〔=奇=邪〕になり、善いと見えるものも逆に妖〔あや〕しげなもの(妖=〔まがごと〕/悪)となるのです。人々がこの(相対の道に)迷うことは今に始まったことではありません(/まことに久しいものがあります)。

ですから、聖人は方正ではあっても、(人の不正に対して)人を裁き切り捨てたりせず、切れ味鋭くても(/廉潔〔れんけつ〕ではあっても)人を傷つけたりせず、真直ぐではあってもそれをどこまでも押し通すことはせず、(知識)の光をもっていても(それを内につつんで)人の目を眩ますような輝きは、外に出さないのです

・「其政悶悶」: 「悶悶」は、おうよう〔鷹揚〕でおおらかなこと。暗愚・愚鈍にも通じます。小知を以て政を行わず無為自然の徳によって行うということです。§20章にも「悶悶」と「察察」の対応が見られます。)

cf.“愚の思想”・“愚の政治”  (§20章)、レフ・トルストイ (LN Tolstoi,1828〜1910)の晩年の民話的寓話〔ぐうわ〕作品 イワンのばか  (§28章)

・「其民淳淳(屯屯/醇醇)」: 寛厚温順、飾り気がなく素朴なこと。帛書乙本では「屯屯」、「屯」=「惇〔とん〕」 ♪「悶〔モン〕」との押韻では「屯〔トン〕」が適合します。

・「其政察察」: 「察察」は細かなことまで吟味すること。「細」は§67章にみられます。“儒家の礼〔儀〕”のように細々したこと、の意でしょう。文化もあまりに形式的煩雑さに偏してはッダメでしょう。

・「其民欠欠」: 欠けていること、不足、不安、狡猾〔こうかつ〕

・「禍兮福所倚、福兮禍之所伏」:

Misery! --- happiness is to be found by its side.!
Happiness --- misery lurks beneath it.
Who know what either will come to in the end?
(Kitamura adj. pp.196-197)

老子の運命論です。「禍福倚伏〔かふくいふく〕」。“禍福は糾〔あざな〕える縄のごとし”/“人間万事塞翁が馬”などと同じく禍福が転々と変ることを説くことわざとしてよく知られているものです。

→ 後述の  考 察  老子の運命論と淮南子の「塞翁馬」 を参照のこと。

・「其無正(邪/耶)」: 「正なし」/「正も邪〔じゃ〕もない」/「正〔さだ〕まることなかき耶〔か〕」

・「善復為妖」:

cf. 「妖」=〔まがごと〕は、わが国・現代大衆(民主)社会を象徴するような一文字だと思います。内面精神においても外面においてもです。とりわけ、「女」へんがついているように女性においてをやです。
易卦【地火明夷〔ちかめいい〕】は、☲【離】=太陽/明らかなもの、善きもの・正しいものが地中に隠され(忘れられ)小人が跋扈〔ばっこ〕しているというものです。
“君子の道 閉ざされ小人はびこる”

・「方而不割」: 「方」は四角(cf.円は丸)で方正、「不割」はその角〔角〕で傷つけないの意。

 cf.§41章「大方は隅〔ぐう・かど〕なし」

・「廉而不劌(傷)」: 「廉」は「利」、「劌」は刺し傷つけること。

・「直而不肆」」: 「肆」は気持ちのままに振る舞うこと。

 cf.§45章「大直は屈するが若し」

・「光而不耀」: 「光」は内面的な智慧の光、「耀」は目を刺す光。

 cf.§56章「和光同塵」

老子の ☲【離】 = “知”と“文明” への批判、とも言えましょう!

cf.; 18世紀フランスの“啓蒙思想”=知性・理性の光で蒙〔くら〕きを啓〔てら/ひら・く〕す。 現代日本 → “徳の光”で蒙〔くら〕きを啓〔てら/ひら・く〕す。(真儒協会)

―― これら第三段は、“聖人の内面的な(徳の)充実と外面的な愚直さ”を比喩〔ひゆ/暗喩〕で述べています。§56章「我が道は、大にして不肖」でも、同様に聖人のおおらかな政治のことが述べられています。


■2013年12月22日 真儒協会 定例講習 老子[38] より


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老子道徳経: 《 素朴へ返れ ―― 雌・黒・辱を守れ 》

【 28章 】

(反朴・第28章) 注1) 

《 素朴へ返れ ―― 雌・黒・辱を守れ 》

 §.「 知其雄」 〔チ・チー・シゥン〕

注1) 「反朴」は、“素朴な状態に立ち返る”の意です。現代も、本〔もと〕を忘却している社会、易卦【山水蒙】でこころが“蒙〔くら〕い”時代です。同じような趣旨の3つの文からなり、「道」の“柔弱謙下”を説いています。「雌」・「黒」・「辱」の立場を守ることで、逆に恒常不変の真実の“徳”を持つことが出来るのです。キーワードの「雌」・「渓=谷」・「嬰児」・「樸」などは、老子の思想を直截〔ちょくせつ〕に象徴しているものです。

○「知其雄、守其、為天下谿。為天下谿、常徳不、復帰於嬰。 |
知其白、〔*守其、為天下。為天下、常徳不、復帰於無 |
知其栄、〕 守其、為天下。為天下、常徳乃、復帰於
樸散則為器。聖人用之、則為官長。故大制不割。」

(    =♪韻 )
♪「雌〔し〕」、「谿〔けい〕」、「谿〔けい〕」、「離〔り〕」、「児〔じ〕」
♪「黒〔こく〕」、「式〔しき〕」、「式〔しき〕」、「忒〔とく〕」、「極〔きょく〕」
♪「辱〔じょく〕」、「谷〔こく〕」、「谷〔こく〕」、「足〔そく〕」、「樸〔ぼく〕」

■ 其の雄〔ゆう〕を知りて、其の雌〔し〕を守れば、天下の谿〔けい・たに〕となる。天下の谿と為れば、常徳〔じょうとく〕は離れず、嬰児〔えいじ〕に復帰す。 |
其の白〔はく〕を知りて、其の黒〔こく〕を守れば、天下の式〔しき/のり=法〕と為る。天下の式と為れば、常徳は忒〔たが〕わず、無極に復帰す。 |
其の栄を知りて、其の辱〔じょく〕を守れば、天下の谷と為る。天下の谷と為れば、常徳は乃〔すなわ〕ち足りて、樸に復帰す。 樸は散ずれば則ち器〔き〕となる。聖人は之を用いて、則ち官長〔かんちょう〕と為す。故に大制〔たいせい〕は割〔さ〕かず。」 

《 大意 》

剛強な男性(雄〔おす〕)的なあり方・はたらきをわきまえながら、逆に柔弱しなやかな女性(雌〔めす〕)的立場を守っていったならば、万物・万人が慕い寄るような世界の〔グロ−バルな〕“谷〔たに・たにま/谿〕”となります。世界の“谷”となったならば、不変の真実の“徳”がその身から離れることはなく、無垢〔むく〕な赤ん坊の(ように無心の)状態にまた立ち返られるのです。

(すべてを反射して)何ものにも染まらない真っ白な立場(/明るい光明の価値/賢明なあり方)をわきまえながら、逆にすべてを(吸収して)のみ込んでいる(玄)黒の立場を守っていったならば、世界の万物・万人に仰がれる模範となります。世界の模範ともなれば不変の真実の“徳”がその身について、少しも違〔たが〕うことなく、茫漠たる本源の道に立ち返られるのです。

栄誉ある立場をわきまえながら、逆に汚辱・恥辱の立場を忘れないようにしていけば、世界の万物・万人が慕い集まってくる“谷川” となります。世界の“谷川” ともなれば不変の真実の“徳”がその身について、満ち足りて、本来の素にして朴〔ぼく〕な“樸〔あらき・ぼく/素材〕”の状態にまた立ち返られるでしょう。
“樸〔あらき〕”が切り出され分けられると、さまざまな“器〔き/道具〕”(=人材)となります。
聖人とはそうした道具(=人材)を用いて統括者(官吏たちの長〔かしら〕)となるのです。ですから、ほんとうにすぐれた切断は、素材のまま(“樸〔あらき〕”のまま)にしておいて、それを細かく切り刻んだりはしないのです。

(*大制は素材・材木そのままで、これを割〔き〕って小器を作らない。つまり、世界を統括する宰相は、法令を細かに分割して民を締めつけず、大づかみに人徳に順〔したが〕わせるのです。)

・「雄」と「雌」: 「雄」は“陽”であり“剛”であり“動”。「雌」は“陰”であり“柔”であり“静”です。“静”は“動”の根であり、“柔”(“陰”)克〔よ〕く“剛”(“陽”)を制します。

・「谿」と「谷」: 「谿」=「谷」、押印の関係で文字を変えているだけです。ここでは、文脈から第一段の「谿」を空間的“たに/谷間”と訳し、第三段の「谷」を水の流れている“谷川”と訳しておきました。

・「白」と「黒」: 「白」は“明るさ”であり“明晰”であり“賢者”です。「黒」は“暗さ”であり“混濁”であり“愚者”です。

研 究

≪ “白” と “黒” ―― 「知其白 守其黒」 ≫

「白(色)」はすべての色を反射し(反射率100%)、「黒(色)」はすべての色を吸収(吸収率100%)します。
私見ながら、儒学は「白」=「素〔しろ〕」であり、黄老は「黒」=「玄〔くろ〕」に象〔かたど〕られる思想です。儒学は“陽”・【離・火】、黄老は“陰”・【坎・水】に重きを置いています。

● 儒学: 「白」=「素〔しろ〕」 / “陽” / 【離・火】
■ 黄老: 「黒」=「玄〔くろ〕」 / “陰” / 【坎・水】

・「無極」: 極まりのないもの、根源的“道”の意。易の“”、天地開闢〔かいびゃく〕前から存在する大いなるもの。

・「栄」と「辱」: “栄誉”・“栄光”と“汚辱”・“恥辱”。

・「樸」: 「樸」は山から伐り出した“あら木”。 したがって、生〔うぶ〕、素朴、天与の性。儒学にいう「素〔そ・しろ〕」。

・「故大制不割」: 「制」は程良く切って仕立てること。したがって大いなる“切断”は“切断”がないの意。§41章「大いなる方形には隅〔かど/角〕なし」・「大いなる象〔すがた〕に形なし」などと同様の表現です。

※ 〔 * 〕部について;

「守其黒」から「知其栄」までの6句を、後からの挿入文とみなし削除することを主張する立場があります。その主な理由は、『荘子〔そうじ〕』・天下篇の引用にその部分がないことや「大白は辱なるがごとし」(§41章)で「白」と「辱」が対応していることです。現在の『老子』では、「白ー黒」・「栄−辱」が対応しています。が、原文の『老子』では、「白ー辱」・「寵―辱」(§13章)と対になります。従って第2文は次のようであったことが推定されます。

◇ 「知其、〔*・・・・ 〕 守其、為天下谷。為天下谷、常徳乃足、復帰於樸。」

コギト(我想う)

《 (才徳兼備の)大器・大器量人とは? 》

儒学にいう“君子〔くんし/理想的指導者像〕”は、不器の人です。『論語』に「君子は器ならず」(為政) とあります。つまり、“君子”は自分自身が“器”(=道具)なのではなく“器(=道具/才ある人)”を使う人です。指導者〔リーダー〕は、“器=才”ではなく“徳”で治めるのです。

例えば、孔子の(三千人といわれている)弟子の中で、子貢〔しこう〕は才たけた“大器量人”であり、顔回〔淵〕は孔門随一の仁徳の“君子人”であったと位置づけられます。わが国では、幕末〜明治期の偉人で、勝海舟は“才の勝ったタイプ”、西郷隆盛は“徳の勝ったタイプ”であったと対照的にいわれています。

首〔かしら〕 ーー 会社の長・学校の長・政治の長(宰相) −− の器量以上の組織はないといわれます。理想的指導者〔リーダー〕(儒学にいう“君子”)は、才徳兼備、とりわけ“徳”が大事です。このこと(“不器の人”)は、つまるところ儒学も黄老も本質において同じである、と私は想うのです。

では、一般にいう指導者〔リーダー〕の“器の大きさ”・“器量”はどのようにして決まるのか、を考えてみますと。図に示すと、「器」を●ヨコ【才】 と ■タテ【徳】の面積として表しました。そうしますと、「器の量」(容量)の拡大は高さで表わされます。その高さに相当するものは何でしょうか?

“勇気”・“行動力”・“仁〔おもいやり〕”・・・ など考えられます。が、私は★高さ【志】を位置づけるのがよいと想っております。この【志】は、学問についても、人間そのものについても要〔かなめ〕となる変数・要素ではないかと考えております。

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■2013年11月24日 真儒協会 定例講習 老子[37] より


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