こちらは、前の記事の続きです。
原典研究
・・・ 《 塞翁馬 》
(※書き下し文ふりがなは、現代かなづかいによりました)
「 塞翁馬」
( 『淮南子』・「人間訓〔じんかんくん〕」 )
○ 夫禍福之転而相生、其変難見也。 |
近塞上之人、有善術者。馬無故亡而入胡。人皆弔之。其父曰「此何遽不為福乎。」
居数月、其馬将胡駿馬而帰。人皆賀之。其父曰、「此何遽不能為禍乎。」 家富良馬。其子好騎、堕而折其髀。人皆弔之。其父曰、「此何遽不為福乎。」
居一年、胡人大入塞。丁壮者引弦而戦、近塞之人、死者十九。 此以独跛之故、父子相保。 |
故福之為禍、禍之為福、化不可極、深不可測也。
■ 夫〔そ〕れ禍福〔かふく〕の転じて相い生ずるは、其の変見難きなり。 |
塞上〔さいじょう〕に近きの人に、術を善くする者有り。馬故〔ゆえ〕無くして亡〔に〕げて胡〔こ〕に入〔い〕る。人皆之を弔〔ちょう〕す。 其の父〔ほ〕曰〔いわ〕く、「此れ何遽〔なん〕ぞ福と為らざらんや。」と。
居ること数月、其の馬胡の駿馬を将〔ひき〕ゐて帰る。人皆之を賀す。其の父曰く、「此れ何遽〔なん〕ぞ禍〔か〕と為ること能〔あた〕はざらんや。」と。家良馬に富む。其の子騎を好み、堕〔お〕ちて其の髀〔ひ〕を折る。人皆之を弔〔ちょう〕す。其の父曰く、「此れ何遽〔なん〕ぞ福と為らざらんや。」と。
居ること一年,胡人大いに塞に入る。丁壮〔ていそう〕の者弦〔げん〕を引きて戦ひ、塞に近きの人、死する者十に九なり。此れ独り跛〔は〕の故を以て、父子〔ふし〕相保てり。 |
故に福の禍〔か〕と為り、禍の福と為るは、化極むべからず、深測るべからざるなり。
《 大 意 》
そもそも、禍〔か/わざわい〕(災難・不幸)と福(幸運・幸福)とは、変化循環して(移り変わって)生じあい、その変化・変転というものは、(人知をもっては)予測することができないものなのです。
(中国と異民族との国境の)城塞の近くに住む人で、呪(占)術〔じゅじゅつ/せんじゅつ〕に優れた人がいました。(この人の)馬が、何の理由もなく(どうしたわけか)逃げて、異民族の領地に入ってしまいました。人々は、みな気の毒がり(お悔やみを言い)ました。ところが、その老人が言うには、「いやいや、どうしてこれが幸運に変わらないことがありましょうか。」 と。
そのまま数カ月が経ちまして、その時の馬が異民族の地の(優秀な血統の)駿馬を引き連れて帰ってきました。人々は、みなお祝いの言葉を言いました。ところが、その老人が言うには、「いやいや、どうしてこれが禍とならずにすみましょうか。」 と。老人の家は、良馬がいっぱいになりました。(さて、その老人の)息子は乗馬が好きで、(いつも乗っていましたところ)落馬して太股〔ふともも〕の骨(大腿骨)を折る大けがをしてしまいました。人々は、みな気の毒がり(お悔やみを言い)ました。ところが、その老人が言うには、「いやいや、どうしてこれが幸運に変わらないことがありましょうか。」 と。
そのまま一年が経った頃、異民族が大挙して城塞に侵入してきました。働き盛りの男たちは、弓を引いて闘いました。が、(激戦のために)城塞付近の人々は、十人のうち九人までも(あらかた)が戦死しました。しかしながら、この老人の息子だけは脚が不自由であったために、父子ともども命を存〔ながら〕えたのです(無事であったのです)。
このようなわけで、幸(好)運が災難になり、災難が幸運になるという、その “変化”の妙〔みょう〕は、人間の知では見極(窮)めることができないし、その(道理の)深遠さは人知で測ることができないものなのです。
*「善術者」: 占・占術師、呪術〔じゅじゅつ〕師、シャーマン、巫覡〔ふげき〕 のこと
cf.易の創始者(?)・伏犧〔ふつぎ〕: 半蛇半人(?) /
邪馬台国女王・卑弥呼〔ひみこ〕: 「鬼道を事とし、能〔よ〕く衆を迷はす」(239年)
考察
―― 老子の運命論 と 淮南子の「塞翁馬」
◆ “禍福変転”の説話 / 禍福の思想 / 変化の思想(易学) / 禍福吉凶の循環理法 / (禍福)循環の理
◎ 「禍〔か/わざわい〕は福の倚〔よ〕る所、福は禍の伏〔かく〕るる所」(『老子』 第58章)
「塞翁が馬」は、“禍福変転”の説話です。(→ 原典研究 参照のこと) その“禍福の思想”は、冒頭文「夫〔そ〕れ禍福〔かふく〕の転じて相い生ずるは、其の変見難きなり。」と 末文「故に福の禍〔か〕と為り、禍の福と為るは、化極むべからず、深測るべからざるなり。」に表現してあるように、禍福が交替・変遷(循環)して、予測し難いものであるということです。
【Point 1】 それは、易学の“変化の思想”がベースにあるともいえましょう。「禍福」を「陰陽」の循環と捉えれば、易学そのものです。また、(主人公)キーパーソンが、「善術者〔術を善くする者〕」すなわち、占術師・呪術〔じゅじゅつ〕師(シャーマン)であり、易に通じている老成した翁であることがポイントでしょう。
【Point 2】 さらに、「老子」の運命論は、それに老子の“循環の理”が、より強く反映しているように感じます。“禍福吉凶の循環理法”とでも称されるものです。つまり、禍福がただ変化し予測し難いのではなく、禍の中に福の種(因〔もと〕)・兆しがあり、福の中に禍の種(因〔もと〕)が蔵〔かく〕されているということです。
なお、参考資料として、禍福の格言・箴言〔しんげん〕を集めてみました。
《 参考資料 》
- 「人間万事塞翁が馬」 cf.「人間〔じんかん〕至る処*青山〔せいざん〕あり」 *骨を埋める所
- 「禍福は、糾〔あざな〕える縄のごとし」 /
- 「禍を転じて福となす」
- 「禍は、口より生ず。口は禍のもと(=門)」
- 「笑う門〔かど〕には福来〔きた〕る」 cf.笑顔・明るいことは大切! 『大学』・「明徳」
- 「世の中は、福も禍もない。ただ考え方でどうにもなるのだ。」(シェークスピア)
cf.“運命はその人の生き方で決まる。”(ヘーゲル哲学)
■2014年3月16日 真儒協会 定例講習 老子[40] より
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