儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

2020年05月

老子道徳経:  《 理想の政治 ―― 「若烹小鮮」 》

【 60章 】

(居位・第60章) 注1) 

《 理想の政治 ―― 「若烹小鮮」 

 §.「 治大国」 〔チ・タイ・タァ〕

注1) 老子の有名な政治・治国論です。章冒頭に7文字の警句を掲げて、読者をビックリさせています。このささやかで身近な“たとえ”は、それでいて老子の道による政治の用〔はたらき〕を言い得て妙です。感嘆すべき“名句”・“名譬喩〔ひゆ〕”といえましょう。国を治めるものは、無為自然の道に従った「静」かな政治を行うべきであると説いているのです。
「居位」〔チュウ ウェ〕というタイトルは、“位に居る者” (Occupying the Throne) の意で、為政者のあるべき心構えを述べています。

○「治大国、若烹小鮮。 | 以道莅天下、其鬼不神。非其鬼不神、其神不傷人。非其神不傷人、聖人亦不傷人。夫両不相傷。故徳交帰焉。」

■ 大国を治むるには、小鮮を烹〔に〕るが若〔ごと〕し(若くす)。|
道を以て天下に莅〔のぞ:=臨〕めば、其の鬼〔き〕も神〔しん〕ならず。其の鬼、神ならざるのみに非ず、其の神も人を傷〔やぶ/そこな・わず〕らず。其の神の人を傷らざるのみに非ず、聖人も亦〔ま〕た人を傷らず。夫〔そ〕れ両〔ふた〕つながら相い傷らず。故に徳は交々〔こもごも〕(焉〔これ〕に)帰す。」

《 大意 》

大きな国を治めることは、(生の)小魚を煮るようなものです。(むやみやたらに、ひっくり返したり手を出さず、姿そのまま静かに無為にしておくのが善いのです。)
(無為自然の)“道”をもって天下に臨めば(=治めれば)、(天下は平和で)その鬼神〔きしん〕も怪異霊力を現わすことができません。鬼神が怪異霊力を現わさないのではなく、厄災〔やくさい〕を下して人を傷つけ害する必要がないのです。その鬼神が人を傷つけ害さないだけでなく、(君位にある)聖人も人を傷つけ害しません。そもそも、その両者(= 鬼神と聖人)のどちらも人々を傷つけ害さないのですから、その徳(=恩恵)は、(神人協和して)(それぞれの人々に)自然に復帰し、及ぶのです。

* The state should be governed as we cook small fish, without much  business.
(Kitamura adj. p.201)

(*安岡・前掲「老子と現代」 p.134引用) < 60章 >

 大国を治めるのは小魚を煮るようなもので、ひっかき廻したら、頭も尾もみなとれてしまう。だからそっと形をくずさないように治めるのである。鬼と神は、鬼は陰で縮む。それが陽に延びてゆくのが神である。合わせて鬼神と言う。鬼神相害〔そこ〕なってはいかんので、だからマルクス・レーニン主義のような、一方を倒さずには承知しない主義・思想はもっともいけない。『故に徳交々帰す』。これが本当の大道であり、造化・自然であります。

・「夫両不相傷」: 鬼〔き〕は、“オニ”ではなく死者の霊魂、神〔シン〕も特定の“カミ”ではありません。鬼神は、(便宜上、鬼神の文字を割っているだけで)一つですから、「両」 = (鬼と神とではなく)鬼神と人 の意です。

コギト(我想う)

≪ 「治大国、若烹小鮮」 cf.(§60章/§58章)≫

小さな鮮魚(雑魚〔ざこ〕・小魚)は、鱗〔うろこ〕をとったり内臓を出したり頭部をカットしたり骨を抜いたり ・・・ と、あれこれしないで、姿そのままでトロ火・弱火で煮ます。せっかち〔性急〕に、火を強くしたり、鍋をゆすったり、箸で裏返したり、引っ掻き廻したりしてはダメです。すぐに、ぐしゃぐしゃに煮崩〔にくず〕れていびつになります。

つまらぬ ―― 下世話な推測ながら、老子は、隠遁〔いんとん〕生活で、自炊して(釣ってきた)小魚を自分で煮たりしたのでしょうか? 賢人というものは、身近な日常生活の中にも、あれこれ小さな悟りを繰り返し、人々に説く良い“比喩〔ひゆ:たとえ〕”を閃〔ひらめ〕かせるものなのでしょう。譬〔たと〕えを引いて民衆を教え導いた、イエス・キリスト、釈迦、みな然りです。

余事ながら、私が具体的に小魚の煮付けをたとえるなら、さしずめ“鰯〔いわし〕”あたりが好例でしょう。「治大国、若烹」ですね。(鯖〔さば〕は、足がはやく煮崩れもしやすい魚ですがサイズ的に大きいです。キビナゴのように小さくとも身のしっかりした魚もあります。これは、指の先一つでもってサシミにすることでも知られていますね。)イワシは“弱い魚”と書くように、死にやすく、身が崩れやすい魚です。運ぶにつけ、料理するにつけ、何かと一工夫、何かと手助けが必要です。

さて、この煮魚の例と同様に、大国になれば、むやみやたらに、こまごました法律・きまりを整備して人民を統制する「察察〔さつさつ〕の政治」になりがちです。

○「その政〔まつりごと〕、悶悶〔もんもん〕たれば、其の民は淳淳〔じゅんじゅん〕たり。その政、察察〔さつさつ〕たれば、其の民は欠欠〔けつけつ〕たり。」 (老子・第58章 冒頭)

【その政治が、(小知を弄さずに)おうよう・ぼうようとしておおらかなもの(=愚の政治)であれば、その人民は正直で醇良(=寛厚温順)です。が、政治が細かく行き届きすぎ明察したものであると、その人民はずる賢く、不満・軽薄の心を持つものです。】

わが国の官公庁・教育界に、何と耳の痛い言〔げん〕ではありませんか!平成の現在は、“過陽〔かよう〕”にて、諸事 “ワケが「わからぬ」”ようになっています。とりわけ、近年の教育現場(ex.大阪)では、その文書・形式主義の管理強化体制はますます弊害を大きくしております。その「痴〔ち/おこ〕」の態〔てい〕は、まことに甚〔はなは〕だしきものがあります。

――― 以下詳しくは、58章:《老子の運命論》   コギト(我想う) ≪老子の鷹揚〔おうよう〕(=おおらか)な政〔まつりごと〕(58章)≫ を参照のこと。


■2014年7月27日 真儒協会 定例講習 老子[43] より



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老子道徳経: 《 儒学/孟子 に同じ!―― 指導者〔リーダー〕像 》

【 49章 】

(任徳・第49章) 注1) 

《 儒学/孟子 に同じ!――指導者〔リーダー〕像 

 §.「 聖人無常心」 〔シャン・ヂャヌ・ム・チャン・シン〕

注1) 老子の陽(=積極的)な、政治・統治・指導者(聖人)論が示されています。儒学を冷笑するスタンスでありながら、根本的に儒学に共通するものがあります。具体的には、“ともに楽しむ”、易卦の【水地比】〔人に比(した/親)しむ〕に相当するかナと感じています。至れるものは、つまるところ同じということです。
この章は、文字の異同も多く、古来難解といわれているものです。それでも、この“儒学と同じ“という結論を踏まえておけば、論旨は明快です。
「任徳」の章名は、聖人(指導者)が己を空しくして、自分に備わっている“「無為自然」の徳に任せて”人々に接する、ということです。すべての人間を愛〔いと〕しく受け入れるという博愛主義を述べた内容を善く表しているといえましょう。

○「聖人無常心、以百姓心為心。善者吾善之、不善者吾亦善之。*徳善。 信者吾信之、 不信者吾亦信之。 *徳信。 |
聖人之在天下、歙歙焉、為天下渾渾。 百姓皆注其耳目、聖人皆孩之。」

■ 聖人には常の心無し。百姓〔ひゃくせい〕の心を以て心と為す。善なる者は吾れ之を善とし、不善なる者も吾れ亦〔また〕た之を善とす。 徳、善なればなり。(*善を徳〔う: =得〕 )。信なる者は吾れ之を信とし、不信なる者も吾れ亦〔ま〕た之を信とす。徳、信なればなり (*信を徳〔う: =得〕 )。 |
聖人の天下に在〔あ〕るや、歙歙〔きゅうきゅう〕として、天下の為〔ため〕にそのこころを渾〔こん/にご・す〕にす。百姓は皆其の耳目〔じもく〕を注〔そそ〕げども、聖人は皆之を孩〔がい〕にす。

《 大意 》

(「道」と一体になった)聖人(=指導者)には、我意〔がい: 私心〕というものがありません。(無心・無我)です。人民の心を自分の心としているのです。人民のうちで善なるものは、聖人も善とします。(が、)不善なものでも分け隔てなく善いとして同じように取り扱います。というのは、*人の得性は本来 善であるからです。(/*そうして善い人々を集めているのです。) cf.(不善は徳性の動き誤りにすぎませんから、静まれば善に復〔かえ〕るはずです。)人民の中で信ある人は、聖人も信頼します。(が、)不信な人でも分け隔てなく信のある人だとして受け入れます。というのも、*人の天性には、本来偽りはないからです。(/*そうして誠実な人々を集めていでするの。)

cf.(不信〔ふしん〕は、一時的な過ちにすぎません。)

聖人が天下を統治する姿勢は、我意・自説に固執することなく(心のカド〔圭角〕をとり)、無心に世の人々と渾然〔こんぜん〕一体となることです。人民は、聖人の一挙一動に耳を傾け目を注ぎますが、聖人は人民をまるで赤子のように慈〔いつく〕しみ見守るのです。

・「聖人無常心」: 聖人は聖君。首長、指導者(リーダー)。

・「百姓心」: 百姓〔ひゃくせい: 市民・国民/一般ピープル〕の心が聖君の心であって、百姓の心に背いた聖君の心というものはありません。老子が、優れた実際的政治学者でもあった一面を示しています。→  研 究  参照のこと

・「徳善」: 人の得性は善です、「善」が人の性です。  ≒ 孟子の性善説  に同じです。

・「徳信」: 人の得性は信です、「偽」は天性ではありません。

・「為天下」: 老子の思想は、博愛主義に根ざしています。それで、こういった文言が所々に登場するのです。共存共栄的な老子の考え方を証明する事例でしょう。

・「孩之」: 女性(母)と赤子(嬰児〔えいじ〕)は、老子思想を象るものの一つとして、よく登場します。聖人(指導者)が人々を赤子にようにみるとは、神や母親の子どもに対する無償の愛のように、罪があっても寛恕〔かんじょ〕し無理も咎めないということです。

※私が想い起しますのは、ノラ(バカ)息子・娘、放蕩〔ほうとう〕息子・娘 に対する親の愛です。キリスト教のアガペー(下降的愛、神の人間に対する無差別で平等な愛)、仏教でいう慈悲(母の子に対する思いやり)です。

研究

≪ 老子の指導者〔リーダー〕像 ―― 儒学/孟子 に同じ! ≫

百姓〔ひゃくせい: 市民・国民/一般ピープル〕の心が聖君の心であって、百姓の心に背いた聖君の心というものはありません。儒学のどの経書にもこれに類したことが書かれています。以下、「以百姓心為心」/“ともに「楽」しむ”の文言を少々抜き出してみましょう。

『大学』

○ 「詩云、楽只君子、民之父母。民之所好好之、民之所悪悪之。此之謂民之父母。」

■ 詩に云わく、楽只〔らくし〕の君子は、民の父母と。民の好む所は之を好み、民の悪〔にく〕む所は之を悪む。此れを之れ民の父母と謂う。

《 大意 》

『詩経』(南山有台〔なんざんゆうだい〕の篇)に“楽只〔らくし〕の君子は、民の父母”という文言が あります。(楽只はゆったりとして、いつも楽しげな君子の意で、そのような君子人〔くんしじん〕であればこそ民の父母となることができる、ということです。) このような君子人というものは、民衆の好む所を自分の好みとし、民の悪〔にく:嫌う〕む所を自分の悪みとしています。好悪を民衆と共にしているのです。こういう人(=思いやりのある人=“篭襦未韻辰〕の道”=忠恕 を履〔ふ〕み行う人)であってこそ、民の父母(=指導者)となることが出来るのです。

※楽只は、君子の仁徳を形容しており、心常に楽しむの意。(只は特に意味はありません。)

民の父母(指導者)は民と好悪を共にする人 ⇒ 思いやり(仁)のある人

In the book of poetry, it is said,“How much to be rejoiced in are 
these princes, the parents of the people ! When a prince loves 
what the people love, and hates what the people hate.”

(Kitamura adj. p.169)

『孟子』

○ 「今王與百姓同楽、注)  則王矣。」 (梁恵王下1)

■ 今 王百姓〔ひゃくせい〕と楽しみを同じうせば、則ち王たらん。

《 大意 》

今、殿下が(音楽にせよ狩りにせよ)民衆と楽しみを共にしようとつとめられたら、(民衆は自然によく懐〔なつ〕き)国はよく治まり王者となられることはたやすいことでしょう。

注)

1) 「楽」を“らく”の音とみて「百姓といっしょに楽しむこと」と解する立場。

2) 「楽」を“がく”の音とみて音楽の意にとり「百姓といっしょに音楽をする」解する立場。

“ If your Majesty now will make pleasure a thing common to the  people and yourself, the Imperial sway awaits you.”

(Kitamura adj. p.169)


■2014年6月22日 真儒協会 定例講習 老子[42] より



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