世界史にみる理想的人間
    

――― 調和の美・普遍的人間(万能の天才)・“個の闊歩する時代”・
  スペシャリスト・君子・中庸の徳・文質彬彬・『代表的日本人』 ほか ―――

 

 “人間の意識が社会の在り方を決定するのではなく、社会の在り方が人間の意識を決定する” と、かつてマルクス〔Marx, K.〕が述べました。

社会・経済の在り方が、その時代の人間像、理想的人間=指導者〔リーダー〕を決定するというのは、一面の真理かも知れません。

確かに、新しい時代には新しいモラルが生まれてきます。
しかしながら、私は、こういった西洋の(人間不在の)唯物的思想には少々疑問を感じてまいりました。

変化・無常(「変易」)の世界にあってこそ、また「不易」・変わらぬもの、「一〔いつ〕」なるものの価値が尊いのです。

ことに、人間の未来像(未来の人間のあるべき姿、志向する社会像)を考える上では重要です。
これは、人間が社会・世界を創っていくという視点です。

現在の我国は、国民・民族共通の“ものさし”・“コンパス”〔道標/みちしるべ〕をなくして彷徨〔さまよ〕うがごとき有様です。

志向する社会像もなく、「蒙〔もう〕」として混迷をきわめています。

先導すべき肝腎要〔かなめ〕のリーダーそのものが、不在の時代です。
その場、その時を取り繕うがごとき政治・社会に感じられます。

今回は(マクロ)な視点で、理想的人間像、リーダー像を概観してみたいと思います。
「温故知新」で、歴史の過去と対話することで、未来を展望する よすがとしたいと思います。

 

古代ギリシア(Greek: BC.5世紀ごろ全盛)において、西洋古典文化が見事に開花いたしました。
西洋文化の源流〔みなもと〕です。

ギリシア(&ローマ)が、目指したものは「調和の美」です。
理想的人間像は、肉体も精神(知性)も感性も優れた、バランスの取れた人間です。

従って、リーダーとしての理想的政治家像も、「哲人」(知性)であり同時に「鉄人」(肉体)であり、
加えて音楽・文学・美術などを嗜む粋人〔すいじん〕でもあったわけです。

(欧)中世(Middle Ages: 8世紀〜)は、天へのあこがれ、「神(信仰)の時代」です。
そこに、人間は不在です。 人間・文化は死に絶え「暗黒時代」と呼ばれます。

その、一度死んだ人間が復活・再生するのが、ルネサンス(Renaissance: 文芸復興/14−16世紀)。
近代への幕開けです。

それは、「世界と人間の発見」(Burckhard: 〔ヤコブ・ブルクハルト〕)つまり、大航海の時代(地理上の発見)とヒユーマニズム(人間中心主義:人間を尊重するという今ではあたりまえのこと)です。

更に、ギリシア・ローマ古典文化の復活に当時の東方文化という新しいものを加えました。

ルネサンスの人間像は、「普遍的人間」〔ウオーモウニベルサーレ〕です。
レオナルド・ダ・ビンチやアルベルティーが、万能の天才としてよく知られています。

今風に言えば、マルチ人間といったところでしょうか? 
ルネサンスは、人間そして芸術(家)が偉大であった時代です。

ところで、(イタリアルネサンス発祥の地)フィレンツェは、なぜルネサンスを生んだのでしょう?
(そして、なぜ日本では平和で経済的に繁栄しているのにルネサンスが起こらないのでしょうか?)

―― 私が想いますに、メジチ家(政・財界のドン)があつく芸術・芸術家を保護したからです。
それはまた、そうせざるを得なかったフィレンツェ市民の要請があったからだと想います。

つまり、当時のフィレンツェ市民の民度が高かったのが大きな要因=契機であったと想います。

文芸復興と並行して、宗教改革も進展してゆきます。
当時のイタリア(半島)は群雄割拠の戦乱の時代ですが、
人間精神においては素晴らしく輝いた時代であったと感じています。

やがて、誕生した資本主義社会は、産業革命を経て本格的に確立し、
世界大戦を経験し曲折しつつ進展してまいりました。

今、世界は国際化時代の様相を呈しています。
それは、I.T革命を経て脱工業化社会〔Post Industrial Society〕とも
高度情報化社会とも形容される社会です。

現代は、一言に要せば、“(人の都合)が闊歩〔かっぽ〕する時代です。

多岐の専門分野に分かれ、価値観も多様化してまいりました。
その人間像は、良くいえば“スペシャリスト〔専門家〕”です。

我国、早大の “一芸入試” はその1つの事例でしょう。
スポーツなり芸能なり、1つ(一部)の能力に秀でたものがヒーローとして脚光を浴びるのです。

専らマス・メディアによって脚光を浴びた専門家は、リーダー(議員・首長)にもなってゆきます。

しかし私には、その現代の人間像は、一部の能力に偏向し全体的調和を失った“いびつ”特殊な人間像に思えます。

やがて、その“ひずみ”が顕〔あら〕わになってくるのではないでしょうか。

近未来の理想像は、人間(・社会)全体の「調和の美」を再生すべきです。
精神と肉体、才と徳、右脳と左脳 ・・・・の調和・均衡〔Balance・バランス〕を、人間の全体性の中に取り戻すべきだと思います

そして、この“バランス”は、東洋流にいえば、陰陽のバランス=中庸・中庸の徳ということに他ならないのです。


[ 参考・研究 ]

次の小論は、私が学生時代に、(西洋)社会経済史の視点から人間像を要説したものの一部です。
少し専門的ですが、参考に付け加えておきます。

(文章表現は、平易に書き直してあります。また、現在〔‘09〕の状況から若干「注」を加えて補いました。)

◆◇◆―――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇◆

“manse” 〔マンス(仏)〕という語があります。
“耕作者が封建支配の下で自立の生活を続けている場”の意味です。

すなわち、住むための家であり、土地であり、(相続)財産であり、
そして近代においては、《職業(注1) そのもののことです。

  ※ 注1) 現在、非正規雇用(フリーター・派遣・パートなど)の拡大、
        慢性化と不況を背景に失職・失業が社会問題化しています。
        為政者・国民自身が《職業》というもののあり方について真剣に考える時です。

  cf. 東洋思想では、定まった財産収入・一定の生業職業のことを指す言葉として
      “恒産〔こうさん〕”があります。 
      恒産恒心:「恒産なきものは恒心なし。」(『孟子』梁恵王)
       ・・・経済と道徳の密接な関係を説いています。


「古代」は、一部の者が、富を独りじめした奴隷制社会でした。
それに対して、「中世」における人間像・社会秩序ともうしますのは、
まさに、この住むに足る家を持ち、働くに足る土地があり、
かかる“定住と安定”を大切にして、営々と子々孫々繋〔つな〕げようとするものであったのです。

そんな社会の均衡が、14世紀半ばころから崩れてきます。
黒死病〔=ペスト〕による人口激減、海上航路発見、価格〔商業〕革命などが、激動の時代を招来いたしました。

新たに「農業資本家」、「商人」が、登場いたします。
社会の秩序から、そして土地から、はじき出されて《浮遊〔ふゆう〕》が発生するのです。
新人類”の登場です!

ところで、土地をすべての基盤におこうと努め続けたフランスに対して(注2)
イギリスでは、土地は利潤の手段にすぎませんでした。

従って、資本主義は、イギリスにおいて典型的進展を示すことになります。
“enclosure”〔エンクロジャー〕(注3)は、共同利用・共有財産的性格にクサビを打ち込み、私有財産に転化させました。

人々は、土地という共通の基盤を失ってしまい、
“1つの国民”は複数の国民になってしまったのです。(注4)

  ※ 注2) 当時の農業(中心主義)国フランスの思想に学び、
        これからの我国の「農業」を再考する時だと思います。

  ※ 注3) 「囲い込み運動」 ―― 「羊が人間を喰う」(トマス・モア):
        毛織物工業の原料羊毛生産のため、農民を土地から追い出して、
        土地を囲い込み羊を飼育しました。

  ※ 注4) 現代日本は、格差社会が進展しています。
        共通のモノサシ(社会的基準・規範)も失い、個々バラバラです。
 

新しい時代には、それに見合った新しいモラル〔倫理・道徳〕が生まれてきます。

中世カトリック教会の清貧を中心としたモラルは、宗教改革によって、利潤獲得・富の蓄積が神の栄光を表わすものであるという、プロテスタンティズムの職業倫理へと変わってゆきます。(注5)

そして更に、理性と自由を基調とする近代市民社会の倫理が形成されてゆくのです。

「中世」という時代は、全体のために規制を受け、個が犠牲になっていました。
それがルネサンスを経て、国家・全体が薄れたものとなって、
“個(人の都合)が闊歩〔かっぽ〕する時代”が始まって来るのです。

  ※ 注5) Weber,Max. 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 1904−05 :
        ウェーバーは、プロテスタンティズムの職業倫理(召命/Beruf, Calling)が、
        資本主義(産業資本)形成・発達の推進力となったと主張しました。


さて、産業革命を経て、時代は商業から生産へ、更に消費へと移ってゆきます。

現代は、民主社会とも工業化社会とも高度情報化社会とも、
さまざまに形容されている社会です。(注6) 

それは、経済史の視点から表現すると、
「高い席にいる人々」に譲歩してもらって「安い席にいる人々」を引き上げよう、(注7) 
中産(間)階級という“1つの国民”・“同じものを食べる国民”を
再び実現しようとしている社会
と言えるかもしれません。

  ※ 注6) 現代の社会には、福祉・高齢社会の要素が加わります。

  ※ 注7) 「高い席にいる人は貨幣〔かね〕を出せ。安い席にいる人は拍手を送れ。」
        という文言があります。


現在、“manse”を中心とした中世以来の社会秩序は、そのモラルと共に全く異なったものに変貌しています。

清貧・節約の考え方は生産・蓄積に、更に消費・奢侈〔しゃし:ぜいたく〕へ!(注8) 
勤勉は怠惰へ!

多様な価値が肯定される現代社会。

我々は、この新たな秩序の中で、新しいモラルの未来像を模索してゆかなければならないのです。

  ※ 注8) 日本は戦後、かつて倹約は美徳であったものが一転、
        消費は美徳と変わり“使い捨て文化”と言われてまいりました。

        現在(‘09麻生内閣)の経済政策・不況対策の根本も、
        ドンドン“無駄使いしろ”(消費需要を高める)というものです。

        どこかおかしくありませんか?
          
                        ( 高根 秀人年、「経済史における人間」 )
 
◆◇◆―――――――――――――――――――――――――――――――――――◆◇◆


さて、東洋に目を転じてみましょう。 

東洋の理想的人間像は、“(聖人) ― 君子 ― 大人〔たいじん〕” といった儒学的理想像といえましょう。

儒学は、古代中国に起源し、春秋・戦国時代 「孔子」(BC.551〔BC.552〕?−BC.479)によって開かれ、漢代(7代武帝:在BC.141−BC.87)に国教〔国の教え/国教化〕となりました。

以後、2000余年来、この儒学は中国にとどまらず、
朝鮮・日本などアジア国家社会の秩序となり、
思想・文化のみなもととなり、また人生の良きみちびきとなりました。
(真儒協会HP.“儒学年表”参照のこと) → http://jugaku.net/jugaku/history.htm

儒学の“君子”に代称される理想的人間像・指導者(為政者)像を一言に要せば、
徳望のある人、中庸の徳のある人、であるといえます。

その原点を、具体的に、東洋のバイブル『論語』 に温〔たず〕ねてみると。

○「子曰く、君子は器〔き〕ならず。」 (為政第2−12)

器物は、用途が1つ決まっていますが、
人格の完成した人=君子は、限定されることなく、
広汎〔ひろ〕く自由に、何事にでも対応できるということです。

君子は、特化・偏することなく一能一芸を守らぬものということです。

弟子の子貢〔しこう〕の問いに対して、
「女〔なんじ〕は器なり。」(公治長第5−4)と答える場面もあります。

子貢は、どこに出しても恥ずかしくない有用な人材ですが、
器物としての限界がある、君子には今一歩及ばないということでしょうか。

 一方、孔子自身は多能・多才の(聖人)君子です。
ルネサンスの理想的人間像“普遍的人間”でもあったといえましょう。

けれども孔子は、君子は多能を恥じると言っています。

「吾れ少〔わか〕くして賤〔いや〕し。故に*ヒ事に多能なり。
君子、多ならんや、多ならざるなり。」 (子罕第9−6)

孔子は、その苦労の生い立ちから様々の技能を身につけました。
孔子は、自分はつまらないことがいろいろできるが、
君子はいろいろするものではないよ と言っているのです。

多能に対する評価は、我国にも“器用貧乏”などという言葉もあります。
私も器用な性〔たち〕で、前半生“マルチ人間”と言われたりもしました。

しかし、多事を手掛けて才能を分化・“分散”させてしまったことを、少々後悔しています。

もっとも、以上のことは、「*ヒ事」〔つまらないこと〕についてのことです。
また、私は孔子自身の多能多才についての「謙遜」も差し引いて考えるべきかと思っています。

○ 「子曰く、質、文に勝てば則ち野〔や〕。 文、質に勝てば則ち史〔し〕。
文質彬彬〔ひんぴん〕として然る後に君子なり。」 (雍也第6−18)
 
真の君子像を、「文質彬彬」と表現しています。
「質」=誠実・質朴といった生地・素地が、
「文」=外面のあや・かざりより過ぎれば粗野な野人です。

逆に文が質に過ぎれば(軽薄なる)文書係のようになります。

文と質が、うまく融け合って調和してこそ、はじめて人格の完成した君子となるのです。

「知性/智」と「野性/素」の融合調和
これ以上の理想的人間像の表現はないでしょう。
これは、別言すれば、“調和(バランス)の美”であり、“中庸の美”でもありましょう。

最後に、我国の理想的人間像を具体的に付け加えておきましょう。

日本の明治維新期(1868〜 )急激な近代化が進展し、
疾風怒濤〔しっぷうどとう〕のごとく西洋文化が流入する中で、
迷走する日本人の精神のルネサンス(再生・復活)を図った人達がいました。

その一人、内村鑑三は、2つの “J”(Jesusイエスと Japan 日本)を尊び生涯を捧げました。

第2の“J”・日本に対する自分の責務を果たすべく、
英文の名著 『代表的日本人』;“Representative Men of Japan (1908、M.41)” 
(旧本・「日本及び日本人」;“Japan and the Japanese (1894、M.27)”) を著しました。

そこに登場する、日本を代表する偉人達は、
それぞれの立場で理想的日本人の典型を持っているといえましょう。

それは、以下の5人です。 
1)西郷隆盛 ・・・ 新日本の創設者 ※維新の3傑 / 
2)上杉鷹山〔ようざん〕 ・・・ 封建領主 ※出羽米沢藩主、藩政改革、封建領主の理想像 /
3)二宮尊徳 ・・・ 農民聖者 ※幼名 金次郎 / 
4)中江藤樹 ・・・ 村の先生 ※日本陽明学の祖、近江聖人 / 
5)日蓮上人 ・・・ 仏僧 ※日蓮(法華)宗の開祖    *(※は高根補注)


世界史は、20世紀後半、ヨーロッパ(英仏)主導の世界から、
米ソ両大国主導に移っていきました。

それも過去のものとなり、21世紀の始め(2009)は“国際化の時代”を迎え、
中国の台頭・米中の主導時代が到来しようとしています。

このような世界の時勢の中で、今、かつての明治維新期のように、
日本と日本人のアイデンティティー〔自己同一性:自分は何であるか?〕が問われています。

日本の次代を担う人々の殆〔ほとん〕どは、
母語の日本語もあやふや(読めない・書けない・語れない)、
文化・歴史・伝統にも無頓着です。

それでいて、外国人から“Are you Japanese?”(あなたは日本人なんですか?)と問われれば、
“Yes.”(はいそうです。)と答える。
―― そんな、“在日日本人”とでも称されて皮肉られそうな人々が、どんどん増えています。

明治期にはあった、日本の古き良き“東洋の道徳”や“恥の文化”は過去のものとなり忘却のかなたに消えかけています。

「仁」・「義」は、死語となりました。
自国の言葉・文化・歴史をないがしろにし、
通路の片側〔かたがわ〕も満足に歩けない日本国民は、一体どこへ向かうのでしょうか?

敗戦後60余年、普及・蔓延し続けた欧米の文化がいたる所で歪〔ひずみ〕・綻〔ほころ〕びを呈してまいりました。

軌道修正が急務です。

忘れられてきた東洋的・儒学的人間像、指導者像を取り戻さなければなりません。

才徳美しく調和した、文質彬彬たる君子、
「信念と気節のある人々が、国民の指導者に輩出するほか日本を救う道はない」(『安岡正篤 一日一言』)のです。 

 
結びにあたり、20世紀を代表するイギリスの大歴史家
アーノルド・トインビー(Toynbee, A.J.)の言葉を引用しておきましょう。

氏が21世紀に要請される人間像について答えたものです。

「 ―― それは、21世紀には、大乗仏教で説くところの菩薩〔ぼさつ〕の精神を持った人間が要請されるのだ。」

つまり、他人〔ひと〕の痛み・悲しみ・苦しみを自分のものとして、他人のために尽くそうという、仏教で教える“菩薩の心”こそが21世紀に求められるという意味です。

要するに、“慈悲”=思いやりの心を持った人ということで、
これは儒学の語でいえば“”に同じです。

仁人”が理想像 ―― けだし、達見だと感じ入ります。

もっとも、(今現在)日本の次代を担う人々が、さてそのような要請に応えるだけの資質をお持ちかどうかは疑問ですが・・・。

                                        高根 秀人年


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