文献渉猟〔しょうりょう〕の序〔はじめに〕
  ―― 読書尚友・読書医俗・縁尋機妙・私淑・読書の三上・文献・温故知新 ――


《 “読書”に想う 》

読書尚友〔どくしょしょうゆう〕」という熟語があります。
本を読むことで、古〔いにしえ〕の賢人を友とするの意です。

『徒然草』にも、「ひとり灯〔ともしび〕のもとに文をひろげて、みぬ代の人を友とするぞ、こよなう慰むわざなる。」とあります。

また、21世紀初頭は、“心の時代”とも“癒しの時代”ともいわれますが、
「五医」の中に「読書医俗」(書を読んで俗を医〔いや〕す)という言葉も見られます。

本との出合いは、人の出合いにおける「縁尋機妙〔えんじんきみょう〕」
(良い縁が更に良い縁を尋ねて発展していくことは、何とも人智を超えて神妙なものがあるということ) 
に同じです。

私達は、良い人・良い書物に出合うことを考えなければなりません。

孟子の言葉に、「私淑(ししゅく)」(『孟子』・離婁)があります。
私〔ひそか〕に淑〔よ〕しとするで、直接教えを受けることは出来ないけれども、
書物などを通じて、ひそかに師と仰ぎ模範として学ぶことです。

「孔孟の学」と儒学の正統を称しますが、孔子(BC.551−BC.479)と孟子(BC.372−BC.289)は、200年近く世代がズレています。 (孔子の没後100年余の後孟子が生まれています。)

孟子は、孔子を尊敬しながら、孔子の著作に学んで、孔子の教学を継承・発展させたわけです。

人(師)との出合いは、同時代・同場所に限られますが、本(本中の人物)との出合いは時代(時間と空間)を超越します。
過去の賢人を師とも友ともすることが出来ます。

私淑です。

それによって、その人の人生を大きく良く導き、
豊かなものに飛躍
=中〔ちゅう/アウフヘーベン〕)させてくれるのです。

古今を通じて、私淑する優れた人物を持ち、優れた愛読書を持つことが人生を豊かに輝かせるのです

 

《 読書と私 ―― 回想 》

大学生の頃、友人から「がつぶれるまで本を読みたい」と、ある出版社の社長が言っていたと聞いて
感銘を受けたことが想い起こされます。

また、大学の教授から、本は人生より寿命が長いこと。
“耳学問”は身につかずですから、本を読む“学問”をしなさいと言われたことをよく記憶しています。
目耕”ですね。 ※(易八卦の「離」は目&明智の意、「離為火」の象〔しょう〕なら両眼・メガネの意です。)

幼少年時代、私は体が弱かったせいもあって、よく本を読みました。
“文学少年”といった風?です。
母が、豊かではない家計を切り詰めて、5人の子供たちに書籍を買ってくれました。

西郷南州は「児孫のために美田を残さず」と言いましたが、
母は賢い親は子供に教育を残すものだと言っておりました。

読書のジャンルは、文学・物語・漫画が多かったかと思いますが、
とにかく多読・乱読いたしました。

ちなみに、本の処々にある“さし絵”・“口絵”を楽しく嬉しく感じていました。
このことが、後に私が美術に造詣深くなることにつながっていくことになったのだと思っています。

少年時代、さして学校の勉強はしなかったのですが、成績は良いほうだったようです。
“モノ知り博士”で弁(口)が立ち、人望を得て?“級長”をつとめたのも
豊富な読書によるお蔭〔かげ〕だったかと思います。

自分の、国語力(語彙力)・文章力・読解力・・・感性・想像性・創造性そして情愛といったものは、
この幼少年期の読書に支えられている、と長ずるにつけても実感しています。

今、年の功で諸分野併せて、蔵書の数は万を超えているかと思います。
宝の山か、ゴミの山か? みな専門書ですから、雑誌のような安価ではありません。

が、私の豊かでない経済力の半生の中でも、何とか出費を「節」して工面すれば、
欲しい本が自由に買える生活水準の社会であったことをありがたく感謝しています。

一昔〔ひとむかし〕前の先生は、もともと薄給だったのでしょうが、よく本を買うもので、
本を買うと貨幣〔かね〕が残らないというのが常の態だったと聞いています。

今時の先生は、経済的にも書籍研究の便宜でも随分と恵まれていて隔世の感があります。
尤〔もっと〕も、その代わり?昔の先生は、その志操・学徳の豊かさから、
社会的尊敬と敬意を得ていたと思われます。
少なくとも、そういった教育者が多くいたことは確かです。

人生も壮年となり、修羅場をくぐるが如き闘い転変の中、
分刻みのスケジュール・不休・3時間睡眠といった生活の中で、
教養のための読書は中断いたします。

その騒擾〔そうじょう〕徒労の生活を一段落させて、もしくは中(止揚)して、
再び書籍を読み学びの人生を取り戻しました。

この中年からの読書は、多忙と人生の余時間が少なくなってきたのとで、
一転、多読から良書精読に変わりました。

そして、「読書百遍」くり返し読み味わい楽しむようになりました。

ジャンルも、“四書五経”などの思想的な書物、精神的な書物が中心になってきました。

〔おい〕」を意識する歳になるにつれ、記憶力・記憶保持力などの衰えを感じる反面で、
」が出てきて思索が深まってきました。

世界と人間が、心眼よく「〔み〕」(易卦「風地観」)えてまいりました。
「老」は「考」に、そして「考」は「孝」を想うようになり、
「公」(=義)を思うようになってまいりました。

易に「天山遯〔とん〕」の卦があります。 解脱〔げだつ〕・達観の境地です。
千古不易の名著古典を読み耽〔ふけ〕ると、時間と空間の隔たり感覚を超えて、
文学・芸術ですと“空想・ファンタスティック”な世界に遊べます。

思想・先賢の古典ですと“解脱・救い”の世界に入れます。
まさに「」の境地、「壺中〔こちゅう〕の天」です。

人生50 にもなって、『孝経』、『中庸』、『易経』、『老子』といった経書古典を
一つ一つオリジナルで読了し、座右の書としていきました。

その時々、人生で気にかかっていたことを一つ一つ終えた、
1ステップ・1仕事を遂げた安堵感のような、えもいわれぬ安定感を味わいます。

壮年から初老にかけてならではの、しみじみとした安定感ではあります。

以上のように回想してみました。


今に至って、ただ1つ悔やまれるのは、
自分の幼少期に、経書や史書の古典に出合い指導を受け学ぶ機会があったならば・・・ 
ということです。

長じて大をなす人は、(例えば、吉田松陰先生にしろ安岡正篤先生にしろ)
みな、幼少のころ、父親なりにこの先賢古典の手ほどきをうけておられます。

せめて、愚息にはと思って、小学生の間に『孝経』・『大学』は読了させ、
『易経』を学び始めさせ将来の潤徳修養の布石とさせました。

――― そして、これから人生の収穫期に向かって、書籍を読むと同時に執筆して世に道を広め、
貢献していくのが自分のあるべき姿だと考えるに至っています。


《 現代日本の読書事情・考 》

高度情報社会が進展する中で、読書は、文字書籍以外にも
漫画・アニメ・携帯TEL.活字・音による読書?などさまざまな媒体が登場してまいりました。

そして、過剰駁雑な活字メディアが氾濫しています。

新聞1つとっても、膨大な量です。
内容も大概は、偏倚駁雑〔かたよりごたまぜ〕の記事です。
そのぶ厚い新聞以上の量の広告宣伝チラシ。
これらの情報で、私に必要な情報は何百分の一もありません。

量の過剰と内容の貧弱さ。まさに生産力の浪費。浪費美徳経済の象徴。
紙=神への冒涜〔ぼうとく〕です。

こんな印刷物の大洪水の中で、皮肉にも現代人の読書離れが言われています。
日本語を、読めない・書けない人達が若者層を中心に着実に増えています。

ところで。古人、欧陽脩〔おうようしゅう〕でしたか、読書の「三上」〔さんじょう〕ということをいっています。

すなわち、馬上・枕上〔ちんじょう〕・厠上〔しじょう:トイレの意〕です。
“暇な時の読書身に付かず”で、寸暇を盗んでの読書は効率が良いものです。

さらに、これらの場所・時間でこそ、貴重なインスピレーションを得ることが出来るのです。

「馬上」は、現代では、さしずめ電車中や車中でしょう(自分で運転している時は、運転に集中しましょう!)。 電車の中で、小説や勉強の本を読んでいる人を見るにつけても、微笑ましく思います。

しかし、それは少数で多くは、病的依存(中毒)よろしく携帯TEL.を玩〔もてあそ〕んでいる、お馴染みの光景です。
哀しいものがあります。 他にすることがあるでしょうに。

「人間は、考える葦〔あし〕」(パスカル)、私には電車中は貴重な沈思・考える場です。

松下村塾の聯〔れん:一対の柱かけ〕に、
「万巻の書を読むに非ざるよりは、安〔=寧・いずく〕んぞ千秋〔せんしゅう〕の人たるを得ん。」とあります。

また、“士規七則”に
「志を立てて もって万事の源となす。 書を読みて もって聖賢の訓〔おしえ〕をかんがう。」とあります。

身体にとっての食物が、滋養栄養として必要なように、
読書は精神・心の糧〔かて〕です。

現代日本は、モノ社会、過食・飽食の時代です。

食育」という新しい言葉が唱えられ注目されています。
食物に優れたもの・不要なもの・害あるもの・・・があるように、
書物もよくよく選ばなければなりません。

※ (易卦「山雷頤〔い〕」は、食養生・身心ともに養うことを教えています。
「噬コウ〔ぜいこう〕」の象〔しょう〕は、その開いた頤〔おとがい〕=口の中のモノ・障害物〔4爻の1陽〕を表わしています。)

読書離れと逆の問題も、現代社会の弊害の特色です。
あまりに雑書を読み過ぎ雑学に害され、人間性が横着になった“賢き愚者”も濫造されています。

「不易」なるものとして、古典の価値を尊重・重視しなければなりません。

ある禅宗の碩学が、「古典というものは、まさしく精神の化石燃料である。精神の石油であり、精神の石炭なのだ。」と語られていました。
まさに卓見です。

そして、松陰先生の言葉は、リーダー〔指導的立場にある人〕の皆さん、リーダーたらんとする皆さんには、一層心に刻んで欲しいものです。


《 文献渉猟 》

さて、新たに“文献渉猟”と古風に題しまして、
私(高根)流・読書案内とでもいったジャンル〔分野〕をスタートいたします。

名称の由来は、次のとうりです。

文献」の語は、『論語』の中に見られます。

○ 「殷の礼は吾能〔よ〕く之を言えども、宋は徴〔ちょう=証〕するに足らざるなり。
文献足らざるが故なり。足らば、則ち吾能く之を徴せん。」(八イツ〔イツ〕第3−9)

《大意》
私(孔子)は、殷の時代の礼についてもよく話すが、(その子孫である)宋にも私の言葉を証拠立てるに足る材料が不充分である。 これは、つまり、それを証明するに足る文書・記録と、古礼を知っている賢人がいなくなってしまっているからだ。 もし、文献さえ充分にあるならば、それによって私の言葉がよく証拠立てられるだろうに、残念なことではあるよ。

」は記録・書物。「」は賢の意で、その礼を知っている賢人。
文献が、記録ばかりでなく、故老・賢人(が記憶しているもの)をも指すのは興味深いです。

現在、儒学・経書の教えについても、だんだん着実に、教えられる賢人がいなくなってはいませんか?

渉猟」は、広くわたりあさることから転じて、広く書物などを読むことです。

私達は、偏倚雑駁な情報の洪水の中でよく「省」き、不易の良書を精選し昧読〔まいどく〕せねばなりません。

また、限りある時間・人生で全文を読めるばかりとも限りません。

優れたアブストラクト〔抄録・ダイジェスト〕も必要な時代かと思います。

そして、読書は何より“活読”せねばなりません。
とりわけ古典は、現代の光に照らして読み、自らの目で「観」て活学することが大切です。

これが「温故知新」の深意でしょう。

このような点を考慮して頂いて、私のお薦めの書籍の“文献渉猟”をお読み頂けたらと思います。

結びにあたり、碩学・安岡正篤先生の佳書〔かしょ〕と出合うの言葉を引用しておきます。

「佳〔よ〕い食物もよろしい。佳い酒もよろしい。佳いものは何でも佳いが、
結局佳い人と佳い書と佳い山水との三つであります。
 然し佳い人には案外会えません。佳い山水にもなかなか会えません。
ただ佳い書物だけは、いつでも手に執〔と〕れます。」 (『安岡正篤・一日一言』)

                                   高根 秀人年


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