安岡正篤著・『易と人生哲学』 (致知出版社)
――― 「縁尋機妙」/易の三義・六義/命・数/易は陰陽・中の学/五行思想/
運命・宿命・立命/真易と俗易/「易に通ずるものは占わず」 etc. ―――
《 はじめに ・・・ 「縁尋機妙」な出合い 》
「縁尋機妙」※注) という至言があります。本との出合いも、また「機妙」です。
それは、間接的に(古の)大人・賢人・碩学との出合いでもあるからです。
「機妙」は、人にせよ本にせよ、それあること、それを感ずることがある事自体、
けだし人生の幸といって良いのではないでしょうか。
私のこの本の内表紙裏に、次のように自書してあります。
“易学を修め、斯道をもって世に尽くさんと志している自分にとって、
この本との出合いは意義深いものであった。
「五十にして天命を知る」で、まさに天の啓示のごとくであった。 ―― 平成十五年 夏しるす ”
私の“50歳”の年。
ちょうど「人生50年」の節目であり、敬愛する父が早世した齢でもありました。
何より、自分のこれからの人生に深思し、惑い憂慮していた時期でした。
易学については、当時で既に20年ほど独学自修いたしておりました。
偶々〔たまたま〕、易学関連の書籍目録の中に、(当時は)この一冊だけ安岡正篤氏の本がありました。
何とはなしに、不思議と「易」を冠するタイトル名に魅かれて手に入れました。
これが、私の“安岡本”との出合い、そして儒学・東洋思想との深刻な発火となりました。
※注) 「縁尋機妙」:良い縁が更に良い縁を尋ねて発展していくことは、
何とも人智を超えて神妙なものがある ということ。
聞説〔きくならく〕、安岡先生はよく「縁」というものを大切に、と言われていたそうです。
そして、何とはなしに読み進むうちに、
○「キョ伯玉 行年五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十化す。」
(『淮南子〔えなんじ〕』) についての箇所がありました。
実をいうと、“独学の盲点”でもあるかのように、この文言はその時初めて知りました。
私は、50の歳に奇〔く〕しくも、この言葉・この本に出合ったわけです。
今にして思えば、この出合いは、私の後年の人生を方向・決定づけました。
まさに、天の恵み・導き・啓示(さし示し)です。
この貴重・機妙な出合いにより、徒労とも思い込みそうであった
自分の“人生(半生)のリセット”・“洗心(心のクリーニング)”を果たしました。
カッコよくいえば、己〔おの〕が人生を「中した」(アウフヘーベン/止揚・揚棄)のだと考えています。
「五十」(歳)は、孔子の「知命」、キョ伯玉の「知非」でありました。※注)
また、孔子は、
○「五十もって易を学べば、またもって大過なかるべし。」(P.26引用) / (『論語』・述而第7)
と述べています。
私にとりましては、人生の「節」〔水沢節の卦/節目・契機〕となりました。
そして、易学=儒学=東洋源流思想の修養と啓蒙普及をライフワークとしようと思い想うにいたるのです。
そうして、60にして60「化成」すべく (その間の時間的短さは密度・内容で補って)奮励し、
人生の“つじつま”(バランスシート)を合わせたいと考え願っています。
※ 注) 人生50年(寿命)の時代から、平均年齢50歳の時代となってまいりました。
実際には、孔子やキョ伯玉の時代の50歳は、現代の70〜80歳(後期高齢者?)
にも相当するであろうことは心しておかねばなりません。
《 安岡正篤氏の易に関する本 》
安岡正篤氏(M.31〔1898〕−S.58〔1983〕)は、陽明学の権威・
歴代総理の指南役・終戦の詔勅を書かれた・「平成」の元号命名に与〔あずか〕られた、
等々で世に知られます。
しかし、私は、その思想の学際性・深さ、その懐〔ふところ〕の広さから、
昭和を代表する東洋思想の泰斗〔たいと〕(研究と人間の育成に従事)と、
漠〔ばく〕たる表現で紹介するほうが当を得ているように思っています。
安岡先生の、非常に多くの著作・講録全体からすれば、直接易に関する印刷物は限られます。
現在(‘09)までのところ、以下のものが主だったものかと思います。
→ →
1) 『易学入門』 (明徳出版社) S.35(‘60).11.10
2) 『易学のしおり』 (関西師友協会) H.6(‘96).6.20
3) 『易と人生哲学』 (致知出版社) S.63(‘88).9.30
4) 『易とは何か ―― 易と健康・上 ―― 』
(株式会社 ディー・シー・エス出版局) H.13(‘01).1.20
5) 『養心養生を楽しむ ―― 易と健康・下 ―― 』
(株式会社 ディー・シー・エス出版局) H.13(‘01).3.20
6) 『易経講座』 (致知出版社) H.20(‘08).4.29
1)『易学入門』は、安岡先生が、手ずから執筆されたものです。
“入門”のタイトルとは、うらはらに、格調高く専門性が強いものです。
まったくの初学者からは、難解とも言われているようです。
(講義テープを聴くと)ご自身も、「入門といってもいろいろだ。一の鳥居もあれば二の鳥居もあってだね・・・」 などと笑いながら応えられていたようです。※注1)
易を本格的に学ぶには、座右の書として手元に置いておきたい名著です。
※注1) 余事ながら、先だって生徒を引率して、奈良・春日大社・東大寺(共に世界遺産登録)に行ってまいりました。 檜・原板16枚を張り立って円柱としている「一の鳥居」(1063、平安)から大社前の「二の鳥居」をくぐってゆきながら、ちょうどこの言葉が思い出されました。
安岡先生は“鳥居を持ち出して、うまいこと表現したものだナ”と私〔ひそか〕に想ったところです。
※注2) 本書については、私 高根が関西師友協会・「篤教講座」(H.20.6.15)で研究発表いたしました。
2)『易学のしおり』 は、安岡先生の易経講義(第1回、S.33.3〜)の謄写印刷(ガリ版)講録をワープロ編集したものです。安岡先生60歳の頃の講義です。
『易学入門』が著わされる直前(2年前)の講義資料で、改めて読み返すにつけても、時代を超えて貴重な講録冊子だと思います。
冒頭の項目を少し紹介しておくと。
「第1講・1序論:
イ.易学の独習は困難である
ロ.西洋に於て盛んに研究されている
ハ.易は東洋に於ける教学の源泉である
ニ.易を学ぶについての心構え
ホ.天とはマクロコスミィックの世界からミクロコスミィックの世界に及ぶ無限のものである ・・・ etc.」
3)『易と人生哲学』以下は、講録本です。
安岡先生が、初心者・一般者を対象に講義・講演されたものを、後年(没後)、関係諸氏のご尽力で本に整えられて世に出されたものです。
語り口調で、内容も簡にして明、非常にわかり易いものです。
概して、思想・哲学(形而上学)といったものは、その道を極めた碩学・大家が語ると、非常にシンプルで解り易いものです。
「易の三義」の「易簡〔いかん=簡易:真理はシンプルなものであること〕」 です。
その実、大した内容でもないのに、やたら難解な語句を弄〔もてあそ〕び、結局何をいっているのかわからない、ということは世の中にままあります。
これらの本(講義)は、私の知る限り、最も易簡な易の手ほどき本です。
3)『易と人生哲学』は、S.63に第1刷発行され、私が入手した時(H.15)には既に16刷を重ねています。
近畿日本鉄道株式会社の懇請により、S.41以来14年間にわたり同社幹部社員に講義されたもののうち、「易と人生哲学」のテーマでS.52.5〜S.54.1までの間に講じられた10講です。
※注2) 本書については、私の門下生:嬉納禄子〔きなさちこ〕女史が真儒協会定例講習(H.19.12.23)で研究発表いたしました。 《レジュメ後述》
4)『易とは何か ―― 易と健康・上 ―― 』 は、安岡先生が毎夏臨講された日光の田母沢〔たもざわ〕会館での「政経・易学」(S.50.8)と
S.52.9〜54.7の間の全国師友協会の照心講座「易経活学」をベースとして、「易の哲学」(S.41.5〜9)・「不如会〔ふじょかい〕」 易経(S.50.10〜11,51.3〜6)の講話の中から適宜抄出してまとめられたものです。
( 同書 P.278参照 )
※注) 本書については、私 高根が関西師友協会・「篤教講座」(H.17.4.17)で研究発表(64卦要約題句の概観)いたしました。
5)『養心養生を楽しむ ―― 易と健康・下 ―― 』 は、日光の田母沢会館における 4回の連続講座の筆録です。
4日間にわたり「心を養う」・「徳を養う」・「身を養う」・「生を養う」のテーマについて詳説されたものです。
<付>として、「貝原益軒の養生訓」講議が加えられています。
※注) 本書については、嬉納禄子 女史が関西師友協会・「篤教講座」(H.18.10.15)で研究発表、真儒協会定例講習(H.19.8.26)ほかでも発表・講演いたしました。
6)『易経講座』 は、伊與田覺先生がまとめられた、前掲 易経講義・「易学のしおり」が、知致出版社各位のご尽力により装いも新たに刊行されたものです。
ご子息正泰氏のまえがき、伊與田先生の手による脚注や「懐想五十年」の寄稿、発行人 藤尾秀昭氏のあとがきも加わり、名文文飾、立派に甦って世に出たばかりです。
《 『易と人生哲学』 の魅力 》
さて、この本は、不思議な本です。不思議な魅力を持っています。
煌〔きら〕めく宝石が、びっしりと詰め込まれている宝石箱を芒たる光の中でで覗くような感じです。
初学一般者対象の講録の本書は、平易な言葉で簡にして明に表現され、活字も大きく分量も多くありません。にも拘らず、何度も何度も繰り返し読んでも、また歳月を経て読み返しても、そのたびに新鮮に感じられます。
今、私自身、一通りは易を修得したかナ と思って(一応)専門家の立場で、
(この執筆のため)読み返すにつけても、新たな意味あいや感動があります。
表紙は、変わらぬ馴染んだものなのに、中身の文言は熟成されたワインのように芳香を発しています。
深長重厚な魅力を感じ、改めて驚いています。
このような感じの本で連想するのは、『論語』です。
『論語』も、繰り返し読むにつけても、古くて新鮮な魅力が甦ります。
「言霊〔ことだま〕」ということばがありますが、一言に要せば、“神〔しん〕なる魂が入っている”、
“赤心〔せきしん〕なる血が通っている”という感があります。
―― 運命観(運命・宿命・立命)/陰陽相対(待)の理法/命・数・中/五行思想/
易の三義・六義/仁・愛・(慈)悲/干支の真義/易理と64卦それぞれの契機〔モメント〕/
真易と俗易/八観・六験・学問修養の九段階 ・・・・まさに言霊の宝庫です。
そして、その不思議な魅力は、著者 安岡正篤先生の人間的魅力の投影ということでもありましょう。
「無名で有力であれ」とおっしゃられていた安岡先生の人柄が偲ばれます。
加えますに、私なりに少々この不思議な魅力の理由を考えてみました。
1) 内容の重厚・豊饒〔ほうじょう〕さ : 安岡先生の“学際性”が加味されながら、易・東洋源流思想の本〔もと〕・要〔かなめ〕が豊富に咀嚼〔そしゃく〕整理されて、易簡(簡明シンプル)に盛り込まれている点。
2) (著者の)講師・教師としての優秀さ : 一般的でない難解な形而上学の概念をわかり易〔やす〕く噛み砕いて、“翻訳・意訳”するように易〔やさ〕しく、親が子に教え諭すように講じられている点。
3) 易学・易思想の至れるもの : 私のいう“易の二重性〔二属性〕”(辞〔じ:文言〕と象〔しょう/かたち:表象・象意〕、易本文と十翼〔じゅうよく〕、右脳思考と左脳思考)が、悟られた境地で円通自在に描かれている点。そうして、東洋2000年〜3000年来の英知が現代の光をあてられて活学されている点。
などです。
これらは、易の深奥に到達した人、(宗教的にいえば)悟りの境地にある人ならではのもの。
余人(他の本)のなかなか及ばぬ処といえましょう。
《 真易・俗易 / 「易に通ずるものは占わず」 》
儒学・儒者に「真儒」と「俗儒」の語があります。※注)
安岡先生は、易にも「真易」と「俗易」があることを明示されています。
この両者を明確に峻別して提言している点が、本書の優れた内容的特徴になっていると思われます。
「俗易」とは、“アテもの”として“大衆化”した通俗的な易(占)を指しています。
※注)中江藤樹の文献にみられた言葉です。私の“真儒協会”命名の1つの契機〔モメント〕にもなっています。
畢竟〔ひっきょう〕するに、「真易」は、一言 、「易に通ずるものは占わず」 と言えます。
「占う必要がないという見識になって初めて易学をやったといえるのであります。
これは易学をやる者の忘れてはならないひとつの根本問題です。
易学をやるということは、占を学ぶのではなく、占う必要のない知恵を得る、
思索、決断力を養うということであります。」 (P.209引用)
「易に通ずるものは占わず」は、本来 荀子〔じゅんし〕の言葉です。
その深意を現代の光に照らしてまとめると、
第1 に俗易(アテもの)ではない、真易であること。
第2 にいつまでも占っているようでは進歩がないではないかということ。
ここに易学の、学の学たるゆえんがあるのだ、と安岡先生は強調されているのだと思います。
私があえて 第3 に加えれば、易に通じてもいないのに占わない(占えない)のもまた困りものです。
私の言葉で真易・深意をまとめてみますと。―― 易学は、俗易“アテもの”占に堕し、
迷妄にして、人間思想・人生哲学を失ったものでは困ります。
また、いつまでも(易)占に頼り続けたのでは進歩がありません。
逆に、易占の象〔しょう〕・変化の要素がなければ、易学は“易”のないただの“学”にすぎません。
易(占/筮〔ぜ〕)と(人間)学とが、中庸・中和し、
その二重性・融合の中に易学(『易経』)の“奇(跡の)書”たるゆえんがあるのだと、私は思っております。
《 結びにかえて ―― 易なかりせば・・・ 》
易学思想は東洋の英知、五経の筆頭『易経』は東洋の“奇(跡の)書”。
東洋のバイブル『論語』と共に儒学遺産の双璧と、私は思っております。
今時の日本人は、己が持っている貴重なものに気が付かないで、
むしろ他所〔よそ〕=外国で正当に評価され尊ばれています。
情けなきことではあります。
「昔から、東洋哲学をやる人が結局どこへいくかと申しますとほとんど易経に到達いたします。
従って易経に首を突っ込むと一生ものだというぐらい学問の中では面白い、
面白いといっては語弊がありますが、小にしてはわれわれの人生から、
大にしては国家、人類の運命まで考えることができるたいへんな学問であります。」 (P.81引用)
易を修めると“窮する(行き詰まる)”ということがありません。
“易に通ずる者は占わずして窮せず”(高根)です。
私が思いますに、『易経』の辞(言葉・文)は、苦しい(大凶)時もあきらめずに頑張って途を開け、
と励ましとその方途を示してくれます。
また、良い(大吉)時も調子に乗らず自らを慎んで、
大人〔たいじん:立派な人〕に相談して事を運べと戒めています。
陰極まれば陽、陽極まれば陰の循環変化・立命の理を説いてくれます。
安岡先生は、「易を学ばなければ、自分自身どうなっていたか分からないことを折にふれて感ずることがある。」 と述懐しておられたそうです。
私も、立場や程度の差こそあれ、同じ感をもっております。
その易と後半生への確かな“元〔もとはじまり〕”となった契機がこの本との出合いです。
大いなる変化・変転は、かくさりげなく訪れるものかな、と追憶〔おも〕っているところです。
そして、私も精進・修養を重ね、「化成」して、易・人生をかく語り、講じ、著わしたいものと思っているところです。
《 『易と人生哲学』を読んで 》
この本の、具体的内容概観・紹介につきましては、
第6回 真儒協会定例講習 (H.19.12.23 )での、私の門下生:嬉納禄子〔きなさちこ〕女史の研究発表があります。
そのレジュメを転載併記しておきますので、ご参考ください。
―――― ――――――- ―――--
【 『易と人生哲学』を読んで ――― 嬉納禄子 】
東洋思想家としてご高名な安岡正篤先生が、昭和52年5月から昭和54年1月までの間に、
近畿日本鉄道株式会社の幹部社員に対して 講演されたものです。
晩年の安岡先生が、一般の方、易を始めて学ぶ人のために、
わかりやすく 易と人生哲学の本質を見事に講じられています。
『淮南子〔えなんじ〕』という書物に、「キョ伯玉、行年五十にして、四十九の非を知る。」と書いています。
この本は、春秋戦国時代から漢代にかけての話をまとめた百科全書のような本です。
この中に登場する、キョ伯玉〔きょはくぎょく〕という人は 孔子がたいへん尊敬していた衛〔えい〕の国の賢大夫です。
その名言が これです。
その意味は、今までの四十九年の人生が間違っていたと認識して、
五十歳で人生を“リセット”したということです。なかなか出来ないことです。
そして、「六十にして、六十化す。」と続きます。
つまり、今までの人生が全部駄目だったと認めたうえで、
そこから 自己改造して進歩向上させていくことが出来るものなのです。
そのためには、「易」の根本義を正しく理解していなければならないのです。
「易」とは、「立命」の学問です。
「五十もって易を学べば、またもって大過なかるべし」 と『論語』にあります。
しかし、これは孔子の時代の年齢ですので、現代の平均寿命 八十歳を超えていることを基準にすれば、七十歳〜八十歳に相当する年齢になると思います。
中年以降、それまでの人生経験を活かして、本当の意味での勉強が出来ます。
それで、ますます勉強をするようになります。
そのようにして始めて、大した過ちのない人生が送れるのではないでしょうか。
これは、たいへん味わい深い言葉だと思います。
易学とは、運命に関する宿命観(変えられない・あきらめ)を打破して、
常に 新たに立命(自分で主体的に自分の運命を創造していく)してゆくことです。
「しかし本来は、あくまでも立命 ―― 自分で自分の運命を創造していくということが本筋なので、
真の易学は、宿命の学問ではなく立命の学問であります。」
次に、“易の三義”である 「変易」・「不易」・「簡易」 について述べられています。
変易とは、変化・変わるもの。
不易とは、変わらないもの ―― 例えば人間のあるべき姿、仁・義の徳です。
簡易〔かんえき〕とは、シンプルということ
―― 例えば 郵便局の「簡易〔かんい〕」保険は、医師の診断なしで 自己申告で簡単に入れます。
さて、『易経』は、「乾為天」から「火水未済」まで 64の卦で構成されています。
第一番目の卦である「乾為天」には、大象〔たいしょう〕伝に 「天行健なり、君子自強息〔や〕まず」 と書いてあります。
これは、天のあるべき姿は剛健で、君子 = 立派な人は 自ら努力して休むことがないという意味です。
最後 64番目の「火水未済」は、
「既済と全く反対であります。無終でありますから、これで無限に循環するわけであります。」
このように、易経 64卦の各卦について、簡明にわかりやすくポイントを概説しておられます。
そして、安岡先生は、本来の学問としての「易学」と 通俗的な意味での「占易」とを、
明確に区別されています。
「易といえば占うものだと考えておるのは、それはまだ易学を知っておらぬからでありまして、
本当に易学を知れば、占うということはいらなくなります。
自分で判断して自分で決定ができます。
そういう意味で申しますと、易学というものは占う必要のなくなる学問であるということになります。
本当の学問と通俗のいわゆる常識というものとは非常に違うものであります。」
このことは、命学・卜学〔ぼくがく〕・相学・心理鑑定と「易学」の全般を秩序立てて学んでいる私にとって非常に感銘を受けました。
目からウロコが落ちた感じです。
結局これは、「易に通ずるものは占わず」 という言葉に要約されます。
私も 易学鑑定のイベントや街占〔がいせん〕の体験がありますので、なおさら重く受け止めているところです。
易学は、「陰」と「陽」と「中」の学問です。
「中論」とは、陰と陽の異質なものを 統合(止揚・中す 〔アウフヘーベン〕)して新しいものを生み出すことです。
例えば、会社(陰・正)と労働組合(陽・反)は、相対立する立場です。
両者が正しく交渉・「折衷〔せっちゅう〕」して、統一・統合をはかれば(止揚・中す)、
つまり 不況の中でもその会社や社員の進歩・発展(合)が実現するのです。
易の学問を修めてゆけば、窮することなく、占う必要もなくなるのです。
―― これが、安岡先生のお立場です。
最後に、安岡先生が 次のように述べられていることについて申し上げます。
「 易は永遠の真理であり人間の最も貴重な実践哲学といってもよろしい。
ところが大変難しい。手ほどきが大事であります。
その手ほどきも、変な手ほどきをされると浮かばれない。正しい手ほどきがいる。」
私自身のことを 振り返ってみますと。
“たかね易学鑑定研究所”で、四柱推命・気学・各種相学を一通り学び、
いよいよ易学(易経)の学習を始めたころ、
師匠であります高根秀人年先生(現・真儒協会会長)からこの本を読むように薦められ、
感銘をもって読みました。
私は、高根先生から 易学の良い「手ほどき」を受けました。
また、この本を始めとする著書を通して、間接的に安岡先生の「手ほどき」を受けることが出来たと思っています。
良い先生、良い本に恵まれて、最初難解・不安であった「易経」も 今ではおもしろみを感じるまでになりました。
―― 私の易学との出合い・入門は、非常にラッキーでした。
『易と人生哲学』は、このように思い出深い愛読書です。
今に至るまで数年間、何度も何度も くり返し読んでいます。
まるで『論語』のように読むたびに、新たに考えさせられることが多くあります。
易の本質である中論は、自らの変化発展の理論です。
私は、運のなさや 能力のなさのせいにしてあきらめることなく、
「自強不息〔じきょうふそく〕」 でしっかりと 「立命」してゆきたいと 改めて思っております。
以 上
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