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平成22年度 “真儒の集い” 特別講演 レジュメ (‘10.4.18)
“ 『グリム童話』 と 儒学
―― 現代日本を“中す”一つの試論 ―― ”
真儒協会 会長 高根 秀人年
§。はじめに
○ 視点をかえる → コーヒーカップの図示、(※見る角度による違い説明)
切り口を変える → バームクヘン と “木どり” (※図示説明)
○ 「ドイツ」という国
cf.お国柄: 英 → (工業中心)・詩 仏 (農業中心)・美術・バレエ
独 → 法律・哲学・医学 ―― ex. カント/ヘーゲル/マルクス/
ベートーベン/ゲーテ/シラー/「カルテ」 ・・・・
・ 両極端、“中庸”を欠く ドイツ史 ?!
*精神史・文化史上での高度さと市民社会を形成する市民精神の未熟さ
大衆(民主主義)社会 → ファシズム を生む (今時の日本とのアナロジー)
*「ドイツ国民の歴史は、極端の歴史である。
そこには中庸さ(moderation)が欠如している。
そして、ほぼ一千年の間、ドイツ民族は尋常さ(normality)ということのみを経験していなかった。
・・・中略・・・
地政的にドイツ中央部の国民は、その精神構造のうちに、
とりわけ政治的思考のなかに、中庸を得た生き方を見出したことはなかった。
われわれは、ドイツ史のなかに、フランスやイギリスにおいて顕著である
中庸(a Juste milien)と常識の二つの特質をもとめるのであるが、
それは虚しい結果の終るのである。
ドイツ史においては激しい振動のみが普通のことなのである 」
(A・J・P・ティラー、『ドイツ史研究』)
*「ドイツ史の流れには、その国民性と精神構造のうちに
『均衡』のいちじるしい欠如のあることが指摘できる。
ドイツ国民の行為の二面性は注目すべき現象である。」
(L・スナイダー)
○ 戦後日本は、米(の方向)ばかりを見ています。
米の視点ばかりで見ています。
米の色ガラスを通してばかり見ています。
かつては、専ら欧の列強(英・仏・独)に学び、交流いたしました。
独はかつての同盟国。
“負”の面でも経験・歴史としての共通するところがあったに違いありません。
その差異を検討することを忘れてはなりません。
今回の研究・講演のテーマは、“グリム童話”にドイツを象〔かた〕どらせて
その視点から(そのフィルターをとおして)我国の現状と近未来を探ってみたいと思います。
その指標・道標(めやす・みちびき)として、
東洋・日本思想の源流・バックボーンである儒学古典との対比で文(あや)どってみました。
(おそらく)はじめての切り口でしょう。
視点・切り口をかえれば見えなかったものも顕〔あら〕われてまいります。
この試論によって、行きずまり、堕し病める現代日本を“中す〔アウフヘーベン〕”
一つの手がかりとなればと思っております。
§。A ドイツの賢人・哲人 と 儒学思想
1) シュペングラー、A.トインビー の“西洋文明のたそがれ” と 易学
・ ドイツの歴史哲学者 オスヴァルト・シュペングラー 〔 Spengler 1880-1936 〕は、
その著 “Der Untergang des Abendlandes”〔『西洋の没落』 あるいは 『沈みいくたそがれの国』〕で、資本主義社会の精神的破産と第一次大戦の体験から、西洋文明の没落を予言したいへんな反響を呼びました。
つまり、近代ヨーロッパ文明は既に“たそがれ”の段階であり、やがて沈みゆく太陽のように消滅すると予言したのです。
――― 諸行無常、盛者必衰ですね。
・ イギリスの歴史家 A.トインビー 〔 Arnold Joseph Toynbee 1889-1975 〕が、
大著 “ A Study of History ” 〔『歴史の研究』〕 で、世界20余の文明の盛衰の調査研究から得た結論は、残念ながらシュペングラーと同じものでした。
学問的・研究上、窮し、行き詰まったわけです。
この、世界史上の“たそがれ”、行き詰まりを打開するものが東洋の易学でした。
※千古不易の学問思想である易学により、「活眼を拓く」ことができたのでした。
※ 易学の循環の思想、無始無終の思想をさすのでしょう。
永遠なるもの、(私は、受け継がれるものでもあると思っています)、
「一〔いつ〕なるもの」です。
易 64卦は、世界(自然)と人間の縮図の体系ですが、
一位番目の「乾」に始まり、完成・完了の卦は 63番目の「既済」、
最後 64番目は未完成の卦「未済」です。
終わりはまた新たな始まりで、乾・坤(上経)あるいは咸・恒(下経)に戻り循環します。
64卦が、円周上に配置されていると思えば良いでしょう。
どこから始めても、どこで終わってもよいのです。
・ シュペングラーは第一次大戦のころ、A.トインビーは第二次大戦後に活躍いたしました。
第二次大戦後、英・仏の時代は終わり、世界史は 米・ソの時代を迎えました。
ヨーロッパは全体が一つにまとまって、
一つの大国のような“パワー”しかなくなりました。 「EU」です。
―― けれども、(後述しますが)軍事的・政治的なものではなく、
文化的・総合的パワーへの道の可能性があると思います。
そして、未来は 米・中の時代となってゆくでしょう。
(残念ながら日本の時代ではないでしょう。日本は、どのような位置づけを得ているのでしょう?)
英・仏(独) → 米・ソ → 米・中
※ かつての大英帝国 = “日の没することなき世界帝国”
英語 = 一番広く話されている言語・公用語 (言葉による世界支配の継続)
2) テンニースのゲマインシャフト〔共同社会〕と孟子の思想
・ ドイツの社会学者 テンニース〔 Fredinand Tonnies 1855-1936 〕は、
前近代的社会類型としての「ゲマインシャフト〔Gemeinschaft/共同社会〕」 と
近代的社会類型としての「ゲゼルシャフト〔Gesellschaft/利益社会〕を
分析的に類型立てて、社会学的な近・現代社会論の礎〔いしずえ〕を築きました。
ゲマインシャフト : 家族 → 民族社会 /地縁・血縁・心縁(朋友や教会)によって結びついた社会、「人間の本質意志」、親愛と尊敬の心情による本質的結合
ゲゼルシャフト : 会社 → 国家 /「人間の選択意志」、本質的に離れており契約や法で結びついている
・ 孟子 の 「仁義(愛敬)によって結ばれた社会」 と 「利益によって結ばれた社会」
※ 愛敬仁義 :人間固有の“愛敬〔あいけい〕” の心の発展したものが “仁義”
・ 陽 は 父 = 敬 → 義
・ 陰 は 母 = 愛 → 仁
*父は敬と愛を兼ねる(『孝経』)とされるが、今時は母も会いと敬を兼ねると考えるべき。
【考察】男女の別 = 男性ホルモンと女性ホルモン両方の相対的・量的な差
・ 「孟子の言っていることを要約いたしますと、社会には利益によって結ばれた社会と、敬愛によって結ばれた社会との二つの型がある。利益によって結ばれた社会は、闘争の社会であって、それはその社会の自滅につながるものである。敬愛によって結ばれた社会は秩序の保たれた社会であって、それは世界の平和につながるものである。だから、吾々は、利益によって結ばれた社会を否定して、敬愛によって結ばれた社会を建設しなければならない。」
「テンニースのこの社会の区分は、根本的には孟子のそれとまったく一致するもののように思われます。そして、孟子のいう愛敬の社会は、まさにテンニースのいうゲマインシャフトと同一でありますが、利益社会については、孟子がそれを封建制の崩壊した中国の古代社会において捉えているのに対し、テンニースは、それを資本主義制の発達したヨーロッパの近代社会において捉えている点が違っておるのであります。」
(参考・引用 『中国の古代哲学』所収/小島祐馬「社会思想史上における『孟子』」)
3) ヘーゲルの弁証法哲学 と “中論”(中庸)
・ Hegel,W.(1770−1831)
・ 正 ー 反 ― 合 cf. “さくら花”〔cherry blossams〕考・・・ 花のあと葉
「正」=日本・儒学 − 「反」=ドイツ・グリム童話 →“中す” → 「合」= ?
「アウフヘーベン」 Aufheben; ( 止揚・揚棄 = 中す )
◎ ヘーゲル弁証法 参考図
cf.Hegel,W.( ヘーゲル ) ※ 観念弁証法
Marx,K.( マルクス ) 唯物弁証法(唯物史観)
・・・ 弁証法 + フォイエルバッハ唯物論
4) グリム兄弟の『児童及び家庭お伽噺〔とぎばなし〕』 (『グリム童話』)
――― 後 述 ―――
5) ミヒャエル・エンデの 『モモ』 ・・・ 『中庸』の「時中」に学べ
・ (西)ドイツの児童文学者 ミヒャエル・エンデ 〔Michael Ende〕 は、
1973(s.48)年 『MOMO〔モモ〕』 という作品を発表いたします。
これは、単なる童話ではなく、世代・時代を超えた普遍性を持つ作品です。
世界的に非常に高い評価を得ています。
私は、学生時代の愛読書の一つ、フランスのサン・テグジュペリの 『星の王子さま』
(“ル・プチ・プランス”:内藤 濯〔あろう〕の名訳です)に通ずるものを感じています。
「大切なものは、目に見えない。」ということばを、悠〔はるか〕に覚え続けています。
この歳になりまして、『中庸』に学び
「その見えざるを観、・・・」ということと重ね合わせたり、
易卦「観」の心眼で観ることに想いを馳せたりしています。
さて、モモという主人公の女の子は、今風にいえば ホームレス(浮浪児)です。
モモは大宇宙の音楽を聴き星々の声を聴く
(東洋流にいえば“天の声を聴く”?)超能力の持ち主です。
物語の舞台は、ある時代のある村。
人々は日々、楽しく歌ったり踊ったり飲食したりしておりました。
ある日、「時間どろぼう」がやって来て、時間の節約と労働によって、
貨幣〔かね〕を儲け有名人になることを教えます。
人々は、それに随って一所懸命努力し、富と名声を得ます。
が、その代りにみんな孤独になってしまいました。
そこへ、モモが現われて、「時間どろぼう」を退治します。
人々は、以前の幸せな生活を取り戻すというストーリーです。
そして、最後の部分で、このモモの物語を語った人が言います。
自分は、このお話を過去に起こったことのように話してきましたが、
これは未来に起こることと思っても良いのですよ、と。
* 「時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子の不思議な物語」
* 「おとなにも子どもにもかかわる現代社会の大きな問題をとりあげ、その病根を痛烈に批判しながら、それをこのようにたのしく、うつくしい幻想的な童話の形式(エンデはこれをメールヘン・ロマンと名づけています)にまとめる ・・・ 」
※ 時間・時計に支配(自己疎外)されている現代人
――― 時間がない(時間を意識しないでよい)のが幸せ
この作品は、わが国のオイルショックのころ書かれています。普遍的なものですが、当時から現在の日本(人)の問題ある状況にぴったり当てはまるように思います。
わが国は、おとなも子どもも、時間に追い立てられアクセクと生きています。私は、日本が改めるべきは、目指すべきは、「君子而時中」 (君子よく時中す:『中庸』第2章)だと思います。
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