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論語  ( 孔子の弟子たち ―― 子 貢 〔4〕 )

◆ 1) 大器量人子貢 ・・・・ “女〔なんじ〕は器なり”、君子とは? 君子と器!
 ――――→   続 き

※  研究  ―― 渋沢栄一の君子評

 渋沢栄一氏は、維新の三傑*注1)を、その著書の中で次のように観ています。
(以下、『 「論語」の読み方 ―― 「精神の富」と「物質の富」を一挙両得できる! ――  』 
/竹内 均 編・解説によります )

 大久保利通〔としみち〕は、胸底に何を隠しているのかつかめぬ、全く底の知れない人で、
彼に接すると何となく気味の悪いような心情を起こさないでもなかった。

 西郷隆盛は、同じ「器ならざる人」でも大久保とは大いに異なっていた。
一言に要せば、大変親切な同情心の深い、一見して懐かしく思われる人であった。
賢愚を超越したまさに将たる君子の趣があった。*注2)

 木戸孝允〔たかよし/桂小五郎〕 は、文学の趣味深く、すべてに組織的であった。

 以上、三者三様であったが、非凡にして「器ならざる」者という点では共通していた。

荻生徂徠〔おぎゅうそらい〕は、「器なる人は必ず器を用いずして自ら用うるにいたる」といっているが、維新の三傑は人を用いて自分を用いなかった人たちであったというのが、(渋沢氏の)実感するところです。*注3)

 なお、勝 海舟も達識の人であったが、どちらかというと 「器に近い」ところがあって
「器ならず」とまではいかなかったように思われる。*注4)

*高根注1) 「維新の三傑」、すなわち幕末期から明治を創った、西郷・大久保・木戸(桂)の3人。この3人の英傑は、歴史の舞台から申し合わせたように消えてゆきます。西郷は、西南戦争(M.10/1877.2〜9)で政府軍(大久保・木戸)と戦い、敗れて自刃。その間、木戸は病没。西郷亡き後、翌年、大久保は暗殺されます。
なお、この維新の三傑一挙に亡き後、以降はニューリーダーとして伊藤博文や山県有朋(共に松下村塾の出身、また共に『論語』からとった名前です)が、日本史の表舞台に登場してくることとなります。

*高根注2) 西郷隆盛は“情の人”であったと思われます。隆盛の弟、従道〔つぐみち〕も兄に似て言葉少ないけれども不言実行家で、独特の才能を持っていました。従道は、明治政府の下で長く重要な地位を占め重んじられます。
――― 現在、指導的立場に、“口舌〔こうぜつ〕の徒”という軽輩ばかりが多いことを改めて思います。

*高根注3) 現代日本の政治は、大衆民主主義社会の悪弊で衆愚化し、器ばかりの為政者となっています。 ―― 否、器・器量人ならまだしも、器ですら一向にない人たちが議員バッジをつけています。何とも不思議なことです。

*高根注4) 西郷隆盛は、徳がかった“君子タイプ”(=陰)。勝 海舟は、才がかった“小人タイプ”(=陽)。と 陰陽で類型だてることができます。

 ( 続 く )



老子  【2】

 
§.プロローグ : 序 ――― 『老子』 と 『易経』・『中庸』

 ☆POINT

 ※ 形而上学〔哲学・思想〕 ―― 『老子』 = 『易経』 & 『中庸』(子思) 

⇒⇒⇒  東洋思想の2大潮流/2大属性/個人レベルと社会レベル

 先に述べましたように、「諸子百家」の中で、
後世・歴史への影響が重大であったものが儒家と道家です。

この、儒学思想と老荘(道家)思想は、2つして、中国さらに東洋の2大潮流を形成してまいります。

 さて、この“2大潮流”を(二者択一的)2つのもの、場合によっては対峙〔たいじ〕する2つのもの、という一般的捉え方は、私には当を得ていないもののように思われます。

両者は、2つにして「一〔いつ〕」なるもの、2面性・2属性として捉えるべきものです。

 そもそも、何につけても分岐・分析的に物事を捉えるのは西洋学問の傾向です。
それは一見、科学的・合理的でわかり易いような気をおこさせます。

陰陽でいえば、「陽」の分化・分岐の捉え方です。
が、しかし、その実〔じつ〕大いに問題である場合があります。

現代社会そのものが、過剰に陽化し分化し、
多岐駁雑〔ばくざつ〕で “わからなく”なってしまっている現状です。

「陰」の収斂〔しゅうれん〕、統合・統一の視点が必要です。

 「柔よく剛を制す」という、お馴染みのことばがあります。
私は、少年のころ、柔道(柔術)の極意のことぐらいに理解していました。が、これは『老子』の言葉で、“柔弱謙下〔じゅうじゃく/にゅうじゃく けんげ〕の徳”のことです。

ふと思いますに、大昔時〔おおむかし〕は、“陰陽”といわずに“剛柔(柔剛)”といっていました。
ですから、「柔よく剛を制す」は、「陰よく陽を制す」とも考えられます。
―― それはさておき。

 国家社会のレベルでも、個人のレベルにおいてでも、
儒学的人間像と老荘的人間像の2面性・2属性があります。
二者択一のものではありません。

私が、平たく例えてみますと。
いつもいつも、公人として、スーツにネクタイ・革靴で仕事ばかりしていては息が詰まります。
カジュアルな格好をしたり、気分転換・無礼講も必要です。

帰宅してのプライベートな時間は貴重です。ラフな服装が大切です。
あるいは、ウイークデーの5(6)日間しっかりと精勤すれば、
(土)日曜日の休日には心身を休養することが英気を養うことになります。

その、精励 ― 休養、緊張 ― 弛緩、陽 ― 陰、のバランス
中庸・中和・時中 の中に人間・社会の至福があるのです


ちなみに、個人で人生どちらをより優位に選ぶかは個人差があるものの、
やはり一般には、働いて休日があるように、儒学ありて老荘生ずということかと思います。

 ところで、『史記』の「老子伝」には、孔子が周に行って老子に教えを乞い、
老子を「それ猶〔なお〕、龍のごとし」と評した話が書かれています。

実際には、(後述しますが)“老子”という人物が存在したかどうかも定かではありません。
(司馬遷の時代、すでに老子の人物像に3説あって特定出来ていません)

たとえ、実在したとしても、孔子が老子から教わったということはありません。
フィクション〔伝説・物語〕にすぎません。

当時、メジャー〔有力〕であった儒家思想をベースに、
それに対抗・批判する立場(アンチ・テーゼともいえましょうか)で、
老荘思想が登場し形成された
と考えられます。

 弁証法的(=中論)にいえば、儒教【正/テーゼ】と老荘【反/アンチ・テーゼ】が
止揚(揚棄)【中す/アウフヘーベン】して、
東洋思想【合/ジン・テーゼ】が完成するとも表現できましょう。

儒家思想と老荘思想とは、両者が混然一体となって、
東洋思想は深淵でパーフェクトなものとなるのです。

そして、日本の伝統精神の基盤をなした“ミーム”〔文化的遺伝子〕 の
“元〔もと〕始まり”もここにある
と思います。
(※仏教の東洋文化への普及・影響は後の時代のことです)

 ではここで、東洋思想の泰斗〔たいと〕、
故・安岡正篤先生の“儒学と老荘”・“易と老子”の捉え方を少々ご紹介しておきたいと思います。

 「東洋の学問を学んでだんだん深くなって参りますと、どうしても易と老子を学びたくなる、
と言うよりは学ばぬものがない
と言うのが本当のようであります。
又そういう専門的な問題を別にしても、人生を自分から考えるようになった人々は、
読めると読めないにかかわらず、易や老子に憧憬〔しょうけい〕を持つのであります。」
 ( 安岡正篤・『活学としての東洋思想』所収「老子と現代」 P.88引用 )

安岡先生は、「孔孟の教は現実的」であり、「老荘の教は理想主義的」であると述べられています。

すなわち、孔孟の儒学(儒書)は現実・実践的で、現実に疲れてくると厳しく重苦しい。
この、厳しさ・堅さを救うものが、黄老思想、所謂〔いわゆる〕老荘系統の思想学問です。

それは、理想主義的で現実にとらわれない形而上学〔けいじじょうがく〕的なものなのです。
                                          ( 続 く )

本学  【 漢文講読 ―― 『晏子春秋』・〔1〕 】

*漢文講読の第一回目は、『晏子春秋』 〔あんし しゅんじゅう〕から、「景公病水 〔けいこう みずをやみ〕… 」を取り上げました。

§.はじめに

 晏子=晏嬰〔あんえい〕は、春秋時代の大国・斉〔せい〕の名宰相です。
霊公・荘公・景公の三代に仕えて、清廉堅実な善政を敷きました。
『晏子春秋』(8巻、内篇6・外篇2)は、この晏嬰の言行録です。

 晏子は、『論語』にもよく登場しますね。
また、漢文のテキストでも良く扱われていて広く知られているものに
「晏子の御〔ぎょ〕」があります。

『史記』の晏平仲伝 にあるもので、
宰相・晏嬰の御者〔ぎょしゃ〕が、その地位を得意がり甘んじていたのを妻が諌〔いさ〕めます。

それで御者は、行いを慎み、晏嬰が大夫〔たいふ〕に出世させてやったという話です。
(この故事から、他人の権威に寄り掛かって得意になる意で用いられます)

 今回採り上げました、「景公水を病み・・・」の話は、当時の陰陽(五行)説 
―― 易学=儒学の源流思想、をうかがい知る意味からも、
現代の(フロイト的)深層心理学的視点からも、非常に興味深いものがあると思います。

これが、実話か作り話かは定かではありません。
が、大政治家にして賢人たる晏子の、心理療法、実践合理的“かけひき”の面目躍如たるものを味わってまいりましょう。

また、補論として、私(高根)の、この話の裏面にある深意への研究・検討もご参考下さい。
 
 (なお、本時の購読と概説は、陰陽五行論に詳しい嬉納禄子〔きなさちこ〕女史が担当いたしました。)


◎ 『晏子春秋』 巻6−1条(一部略)

「 景 公 病 レ 水 ・・・・・ 」


《 漢 文 》  ―――  略  ―――

《 書き下し文 》 (歴史的かなづかいによる)

 景公水を病み、臥すこと十数日、夜夢に二日〔にび〕と闘ひて、勝たず。晏子、朝す。公曰く、「夕者〔ゆふべ〕夢に二日と闘ひて、寡人〔くわじん〕勝たず。我、其れ死せんか」と。晏子対〔こた〕へて曰く、「請ふ 夢を占ふ者を召さんことを」 と。閨〔ねや〕より出で、人をして車を以て夢を占ふ者を迎へしむ。 | 至りて曰く、「曷為〔なんす〕れぞ召さるる」 と。晏子曰く、「夜者〔よる〕、公、夢に二日と闘ひて、勝たず。公曰く、『寡人死せんか』と。故に君に夢を占はんことを請ふ」 と。夢を占ふ者曰く、「請ふ、其の書を反〔かえ〕さんことを」と。晏子曰く、「書を反す毋〔な〕かれ。公の病む所は陰なり。日は陽なり。一陰は二陽に勝たず。故に、病、将〔まさ〕に已〔や〕まんとす。是〔こ〕れを以て対へよ」と。 | 居〔を〕ること三日、公の病大いに癒ゆ。公、且〔まさ〕に夢を占ふ者に賜はんとす。夢を占ふ者曰く、「此れ臣の力に非ず。晏子臣に教ふるなり」 と。公、晏子を召し、且に之れに賜はんとす。晏子曰く、「夢を占ふ者、占〔うらなひ〕の言を以て対ふ。故に益有るなり。臣をして言はしむれば、則ち信ぜられざらん。此れ夢を占ふ者の力なり。臣に功無きなり」 と。公、両〔ふた〕つながら之に賜ひて曰く、「晏子は人の功を奪はず、夢を占ふ者は人の能を蔽〔おほ〕はず」 と。

《 大意・現代語訳 》

 景公が、腎臓病を患って、10日あまり、病床に就きました。
ある夜、夢をみて、自分が2つの太陽と闘って勝てませんでした。

(宰相の)晏子が、お見舞いに参内しました。
そこで公は、「昨夜夢の中で 2つの太陽と闘って、わしは勝てなかった。
わしは、もう死ぬのだろうか?」
と言いました。

晏子がお応えして申し上げるには、
「どうか夢占い師をここへお呼びください。」 と。

(晏子)は、公の寝室を出ると、人に言いつけて車で夢占い師を迎えにやらせました。

 夢占い師は、やってくると言いました。
「なぜ(私は)お召をうけたのでしょうか」 と。

晏子は言いました。
「夜、ご主君(景公)が、2つの太陽と闘って勝てなかった夢をみられた。
そして、『わしは、もう死ぬのではなかろうか?』 と言っておられる。
それで(私が)ご主君に、その(夢の意味)を解いてみられますようにお願いしたのだ」 と。

夢占い師は、言いました。
どうか夢占いの専門書を参照させてください」 と。

晏子は言いました。
その書物を参照してはならぬ。ご主君が病んでいる腎臓は陰であり、太陽は陽である。
1つの陰が 2つの陽に勝てない(のは陰陽の理というものだ)。
したがって、ご主君はまもなくお治りになるのだ

このことを、ご主君へのお答えとせよ。(※ そうしなければタダではすまさぬゾ)」 と。 

 それから 3日がたち、公の病はすっかり良くなりました。

公は、夢占いをした者に褒美を与えようとしました。

夢占い師は言いました。
「これは私の力ではありません。宰相の晏子が、私に教えてくださったのです。」 と。

公は、晏子を召し出して褒美を与えようとしました。

すると、晏子は、
「夢占い師は、(スペシャリストとして)占いの言葉でお答えしました。
だから、ご利益〔りやく〕があったのです。
もし私が、同じことを申し上げたなら、
ご主君には、信用して(有難味を感じて)いただけなかったでしょう。
つまり、(病を治したのは)夢占い師の力〔権威のパワー〕なのです。
私には、何の手柄もありません。」 と。

公は、両人に褒美を下賜〔かし〕してこう言いました。

「晏子は他人〔ひと〕の功績を奪わなかったし、(景公)夢占い師は、他人の才知・能力を隠してしまおうとはしなかった。(両人とも立派である)」 と。
                                            ( 続 く )


― ― ―

易経

※ 新しい受講生も増えていますので、立筮 (略筮法/中筮法)のおさらいをいたしました。 
先輩の受講生諸氏は、筮竹さばきもだいぶんと板に付いてまいりました。

                                            ( 以 上 )
                                    


「儒学に学ぶ」ホームページはこちら → http://jugaku.net/


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