三省〔さんせい〕に想う (前編)
─── 「省」の2義(意)/聖徳太子と耶律楚材の「省」/結果責任/
無駄・無責任の現代(2010)/“風をおこすものは吏と師”/“黙養” ───
《 はじめに 》
漱石の 『草枕』の冒頭ではありませんが、
早朝、駅に向かってアスファルトの道路〔みち〕を歩きながら、
(ふと)「三省」についてこう考えました。
── 「吾日に、吾が身を三省す」(『論語』・学而第1)。
『論語』の始めの部分に登場する、宗聖・曽子の名言です。
よく、人口に膾炙〔かいしゃ〕しているものの一つといえましょう。
私にとりましても、「三省」の語は、書店“三省堂”の名前に冠していることで、
幼少の頃から馴染んでいるものです。
そして、(他にもよくあることですが)、極めて有名なものの一つであるわりには、
“とんと意味がわかっていない”で用いられています。
また、“とんと実行されていない”ものでもあります。
まことに、人間は、懲りないもので「省」がありません。
「三省」には、2000数百年の時を超えて言霊の真理があります。
《 「省」の2つの意味 》
「三省」の「三」は、(二度ではダメですか? 四度ではダメですか?の)
三度〔みたび〕ではなくて、“あまたたび”・“何度も”ということです。
1)「省」の第一の意味。通常いわれている“省〔かえり〕みる”、反省するの意味です。
“反省するサル”がいましたが、あれは(反省のポーズを)演技させているだけです。
本当にしっかり反省できるのは、ヒトだけの有力な特質の一つでありましょう。
今者〔いま〕は、全く、誰もが反省しない時世です。
後述いたしますが、誰もが責任を取らない “無責任の時代”と称せましょう。
いつも、とりわけ政治家は、(宗教家などとは違って) “結果責任”があるわけです。
が、誰も口にしません。
総理大臣・閣僚からして、外交・国防という国家的大事においても責任を取りません。 注3)
そして、国民主権の下、“責任”は、帰する所国民自身にあるわけですが、
メディアも一向にそれを論じることはありません。
今日の、わが国の教育(徳育)の堕落・退廃の“責任”は、
当然に、直接教育を担当した者が負うものでありましょうに、
いっかな責任の所在が話題になりません。
あれもこれも、猛反省を望みたいものばかりです。
がしかし、そもそも自覚がないあり様です。
── 経験(歴史)に学ばない現代日本(人)のあり様は、
まさに民族の危機だと懸念しています。
しかしながら、これでは「省」の真意を尽くしてはいません。
文字どうり“一知半解”というものです。
2)「省」の今一つの意味は、“省〔はぶ〕く”です。省エネ・省力化の「しょう」です。
“省く”とは、弁別選良して取捨することです。
新しいものを加えるよりも、省くことのほうがずっと大切で難しいことなのです。
多くの人は、それが理解〔わか〕っていません。
そもそも、新しいものを付加するためには、
旧いもの・不要なものを捨てなければなりません。
国家社会の理〔ことわり〕も、人間自身の生理も同じです。
人の健康も、食べる(摂取)することばかりに目がゆきがちですが、
いかに善く排出するか、発散するかが大切なことなのです。
“出口 − 入口”のバランス(中庸)を得てうまくゆくのです。
以上、「省」のこの 2つの意味は、もちろん、2つにして 1つです。
善く良く省みて省く、省くべく省みることが重要です。
私が思いますに、「省」は、個人のレベルにおいても、組織・国家レベルにおいても、
よく知られている第一の意味ですら実現できていません。
いわんや、第二の意味の理解・実現においてをや、です。
《 聖徳太子と耶律楚材の「省」 》
「省」について、身近な例を一つあげておきましょう。
日本の官庁に、「省」という文字を用いていますね。
“財務省(旧大蔵省)”や“文科省(旧文部省)”といった具合です。
この「省」の使用は、明治時代よりはるか以前、聖徳太子による行政改革にまで遡ります。
唐の律令制度を吸収する中で、採り入れたわけです。
聖徳太子は、日本(古代)史に、さんぜんと輝く偉大なる指導者(リーダー/摂政)にして
当代随一の賢人(儒学・仏教)です。 注1)
607年には、大帝国・隋〔ずい〕に対等外交の立場を示した国書を、
皇帝・煬帝〔ようだい〕に申し込みます。
◎ ── 其の国書に曰く
「日出づる処〔ところ〕の天子、書を日没する処の天子に致す。
恙無〔つつがな〕きや、云云〔うんぬん〕」 と。 (『随書倭国伝』)
東のはての、ちっぽけな名もなき島国(倭国〔わこく〕=日本)の摂政が、
あえて不遜にして賢い表現を持って臨んだのです。 注2)
そして、翌年“日中国交”が実現をみます。
まさに、日本外交史の金字塔でしょう。 注3)
話を戻しまして、役所というものは、「雑駁〔ざっぱく〕」(ex.駁雑・煩雑)になり、
「冗〔じょう〕」(ex.冗官・冗員・繁冗)になりますので、
省いて「簡〔かん/簡易・簡素〕」を実現すべきものなのです。
然るに、実際には、言葉の意味とはうらはらに、
全く逆に無駄・雑駁・冗員 ・・・ の限りです。
以上の聖徳太子と「省」のことは、故・安岡正篤先生が説かれていたことです。
また、安岡先生は、耶律楚材〔やりつそざい〕の次の言葉をいつも説いておられたと聞いております。
すなわち、「一利を興すは一害を除くにしかず。一事を生〔ふ〕やすは一事を減〔へ〕らすにしかず。」です。
耶律楚材(1190〜1244)は、私も世界史でよく周知している蒙古の偉材・賢材です。
(一般にはご存じない方も多いかと思います。)
政治家として、チンギス=ハン、オゴタイ=ハンに仕え、
モンゴル帝国の政治・経済の基礎を固めた大人物です。
これらのことは、ほんの歴史的一例にすぎませんが、
大きな組織・国家の秩序の礎〔いしずえ〕を創る大人・賢人は、
まず、「省」をしっかりと実現したということです。
注1) 太子は、中国の儒学を本〔もと〕として学び、見識・胆識を培ったわけですが、
なぜか聖徳太子=仏教奨励ばかりが強調されているように感じています。
「日出づる処〔ところ〕の天子・・・」で外交姿勢、
「和〔やわらぎ/わ〕を以って貴〔とうと〕しとし・・・」・
「*礼〔いやび/れい〕を以って本〔もと〕とせよ」(十七条憲法・一,四)で、
官吏(公務員)の原点を鮮やかに示しています。
今日の日本の現状は、何とあやまちそむいていることでしょう!
(*礼 ── 利己主義〔=ジコチュウ〕にならず、他人〔ひと〕・全体の秩序・平和に対して、
その分〔ぶん〕を守ること〔=安分〕)
注2) 太子は、愚か者ではありません。それどころか、大賢人です。
よくよく考え抜いてのことです。
私が、勝手に察しますに。
1.文書の文言は、まずその通りです。
(日本は中国より東方ですから、日は日本から昇り中国に沈みます。)
2.大運河建設や度重なる遠征で、大帝国・隋も国力が消耗しています。
強国・高句麗との戦いを控え(煬帝が強行した高句麗遠征3回:612・613・614 は、
ことごとく失敗し隋滅亡の原因になります)ています。
こういった(当時の世界)状勢を分析して、
隋は日本と友好関係でいることにこしたことはない、と考えるであろう ・・・ 云々。
3.当時の大国中国(隋)と日本(倭国)を較べれば、大人と幼児以上の力差です。
幼稚に強がっているだけですから、はるばる本気で攻めてきたりはしないだろう
というヨミ(先見)。
以上のことごとを考えて、まず初回この文書を送り(俗に言う“一発かまして”おいてから)、
次には巧みに丁重なる文書を送っています。
ちなみに推測しますに、初めて使いした(遣隋使の)小野妹子〔おののいもこ〕は、
気性激烈な煬帝との謁見で、さぞかし冷や汗をかいたでしょうが!
注3) 今、中国と尖閣諸島沖・中国漁船衝突事件(10.9〜)を一つの契機として
緊張関係にあります。
日本外交の軟弱ぶり、愚拙さが際立っています。
中国政府が、長年国民に培ってきた“反日思想”が花開き、
歪められたナショナリズムが現出しているところです。
当然、機をみるに「敏」に、ロシアも韓国も動き始め侵し始めています。
国の安全保障を“他人〔ひと〕まかせ”にしているような“お人よし”の法治では、
何とも心もとない限りです。
早い話が、(日本国憲法を事実上作った)同盟国アメリカは、
自国の利益のため以外には決して動くことはないでしょう。
── この太古の聖徳太子の外交にひき比べて、
今日の日本外交のさまを日本人として、まことに恥ずかしく情けなく思います。
日本の為政者の見識・胆識のなさ、国家の誇りも展望〔ビジョン〕もなき軟弱外交。
その愚劣さと浅学ぶりは、世界から充分な軽蔑を抱かれています。
21世紀初頭の日本、優れた善き指導者(リーダー)を持てぬ時代、
国民の憐れさをつくづく想います。
《 為政者(政治家・リーダー)の「省」 》
「風をおこすものは吏と師」という言葉があります。
官吏と教師が、善き“風化・教化”の本〔もと〕ということです。
いつの時代も、古くて真で深い言葉です。
21世紀初頭の当世(2010年)、吏〔り〕と師〔し〕に想いを馳せて一言してみたいと思います。
先述の、わが国の偉人・聖徳太子に関して。
有名な太子の業績の一つ、周知の「憲法十七条」は、(憲法と名付けられていますが)
一般ピープルのためのものではなく、
官吏(国家公務員)への努力目標・誡〔いまし〕め のような性格のものでした。
今回は、公務員の最たるもの、吏の頂点である政治家(国会・内閣)について、
一言を呈しておきましょう。
‘09.9 政権が、(政治史上はじめて)自民党から民主党に変わりました。
易卦に擬〔なぞら〕えれば、古き腐劣な【蠱】〔こ/「山風蠱」〕が、
新しい虚弱なもの【明夷】〔めいい/「地火明夷」〕に変わったようなものです。
この、新政権が、永き自民党時代の悪弊・無駄を【革】〔あらため〕ようと
“事業仕分け” を開始しました(`09.11〜)。
今年10月には、その第3回目(特別会計)が実施されました。
日本の政治の罪悪に近い無駄使いが、恰〔あたか〕も病体のウミを出すように削られ、
それはそれで結構なこと、意義あることです。
が、目下のところ総額としては僅かな削減です(第1回:6900億円、第2回:3500億円)。
また、日本の未来にとって学術・文化・芸術などの
削るべきでないものが混じってはいないでしょうか?
また、“安い席にいる人”のための施策は、充分に予算化されているのでしょうか?
“仕分け”・削減には、担当者によほどの見識・胆識がなければならない筈です
(そもそも、国家議員が本来そうあるべきですが) 。
私には、“事業仕分け”が本〔もと〕を欠く、
糊塗〔こと〕的・小手先のものでしかないように見受けられます。
あまつさえ、パフォーマンスじみた報道がなされ、
“仕分け人”なるヒーローをメディア(TV報道)が作り出しています。
現代政治がぺージェント(見せ物)になっている好例です。
“無駄”・“仕分け”なら、そもそもの話の第一に、
政府が作成した予算を改めて仕分け(=削減)しているのですから、ご苦労なことです。
この仕分けのプロセスそのものが(無駄なプロセス)、
ないに越したことはないのですから ・・・ 。
そもそもの話の第二に、民主党自身の、
一律(高い席にいる者にも)の“子供手当”をはじめとするバラまき政策が、
無駄・愚策です。
そもそもの話の第三に、現在の国会議員
── 衆議院議員480人&参議院議員242人 ── が無駄です。
私が想いますに、今の御世〔みよ〕、国会議員そのものが、質・量共に問題です。
「省み省くことが」必要です。
さて、例えば、大工さんは家を建て、お医者さんは病人を治すのが仕事です。
そのための、専門技術を持ったスペシャリストです。
“家を建てられない大工さん”、“手術の出来ない外科医”など、
いない(いてはいけない)わけです。
ところが、政治家に限っては、そのような素人〔しろうと〕議員を
陸続〔りくぞく〕と誕生させ現在に至っています。
だいたい、選ぶ側も立候補する側も、政治家はなにが仕事かわかっているのでしょうか?
議員は、議会(国会)で法律を作り、
首長(しゅちょう/くびちょう: 総理大臣・知事・市長)は、行政・かじ取り運行を担います。
政府=内閣は“議員内閣制”と言って、衆議院の多数を占める政党によって組織されます。
国を動かし国家100年の大計を慮〔おもんばか〕る国会議員が、
当然のように臆面もなく、「これから勉強します」というような就任の弁をおっしゃっています。
2500万円〜3000万円ほどもの給与(歳費)を、貰〔もら〕って“勉強する”のでしょうか?
しっかり勉強修養していて、見識・胆識を持った、
才徳兼備の大人〔たいじん〕が選ばれないでどうなるのでしょうか?
徳なき小人〔しょうじん〕、才徳非兼備の少なからぬご歴々が、
莫大な税金を無駄にしてます。
── もし、今が明治期、世界が弱肉強食・帝国主義の時代であれば、
国の存亡をかけて超大国ロシアと無謀な戦いをするか、
隷属に甘んずるかのギリギリの決定を、彼ら議員に託してよしということですね?
ところで、今年虎(寅)年は、参議院議員選挙の年でした(‘10.7)。
ポスター掲示板を見ますと(大阪選挙区)、10名の候補者。
男女半々で共に30代がおおく、男性は若さをアピールしており、
女性は“みめ麗〔うるわ〕しき”かたがたです。
ほとんど(不自然に)笑っていて、白い歯を見せています。
想いました、さて、これは一体何の候補者達なのだろうか?と。
“参議院”。かつては、“貴族院”と呼ばれました。
その“良識の府”はどこへいったのでしょうか?
長老・元勲・碩学〔せきがく〕・賢人・大人〔たいじん〕 ・・・ はどこにいるのでしょうか?
今の参議院には、2院制の意義も真理・正義のチエック機能もなにもありません。
まさに、“無用の長物”、税金の最大の無駄使いでしょう!
21世紀初頭の、わが国大衆(民主主義)社会での政治状況は、
芸能人・スポーツ選手などでメディアに登場する有名人で溢れています。
(むろん例外はありますが)
“客寄せパンダ”と俗称される人々がみな議員バッジをつけています。
少人数ならご愛敬とも言えますが、そんな人ばかりが日本のかじ取りをしているようでは、
危機的状況と言わざるを得ません。
国会議員も地方の首長(知事・市長など)も、
担ぎあげられる当人より担ぎあげる政党が問題です。
それ以上に、何より「本〔もと〕」の問題の責は、
当選させる国民・府県民・市民自身にあります。
このことを、マスメディアは(知ってか知らいでか)、一切報じません。
浅愚のゆえというより、わざとでしょう。
それは、国民はマスメディアにとって、“お客様”だからにすぎません。
そして、むろんその“ツケ”は、国民自身に回ってくるのです。
《 師(教師・学校)と「省」 》
「師走〔師走:12月〕」は、師ですら走り回る(ほど忙しい)という言葉ですから、
昔の先生・師匠は、日ごろよほどのんびりしたものだったのでしょう。
今世は、一転して、いつも走り回っています。
「教師」という“人種”は・・・、
※ 続きは、11月18日発行予定のメルマガ「三省に想う(後編)」で配信後、こちらのブログに掲載させて頂きます。
「儒学に学ぶ」ホームページはこちら
→ http://jugaku.net/
→ メールマガジンのご登録はこちら
にほんブログ村