真儒協会開設
5周年記念・特別講演 【H.23.4.29】 予告紹介
《 はじめに 》
本年は、真儒協会を開設して 5周年を迎えます。
易卦に【水沢節】がありますが、その“竹の節〔ふし〕”・“節目〔ふしめ〕”の意です。
とりわけ、「5」 という数は、東洋においては“五行〔ごぎょう〕思想”の「五」、
易の“生数”の「5」で神秘的にして重要な霊数です。
今年度は、“節から(新たに)芽が出る”ような、充実の年にしたいと考えております。
この、開設5周年の節目に当たり、(平成23)年度当初の 《真儒の集い》 は
公開とすることにいたしました。
例年 《真儒の集い》 は、定例講習受講者を中心に内輪だけで開催してまいりました。
が、今回は《発足の会》と同様に、広くご参加の皆さまを募り
各界の御来賓もお招きして、
“一陽来復”(【地雷復】)・陽の気を顕〔あきら〕かにしたいと思っております。
《真儒の集い》の内容は、
1部:特別講演(講師 真儒協会会長・高根秀人年)/
2部:式典(来賓祝辞、理事者あいさつ 他) です。
以下、私(高根)が担当いたします「特別講演」の、ご紹介・ご案内を
いたしておきたいと思います。
《 真儒協会開設 5周年記念・特別講演 予告紹介 》
「 器量人・子(し)貢(こう) と 経済人・ロビンソン=クルーソー
── 経済立国日本を“中(ちゅう)す〔Aufheben〕”
1つの試論 ── 」
歴史が物語っていますように、儒学は平和な時代・成熟した社会の教えです。
かつて、“日出づる処”アジア(中国〔清・明〕 − 朝鮮〔李朝〕 − 日本〔江戸〕) が、
儒学(朱子学)文化圏を築いて繁栄した時代がありました。
日本は明治以降、資本主義を発展させ(農業国から)
経済(工業)立国へと進化してまいりました。
私は、善き経済の発展と儒学の隆盛とは、相扶ける関係にあると結論しています。
経済と道徳(倫理)は、「はなはだ遠くて、はなはだ近い」ものなのです。
さて、儒家の開祖が孔子(BC.552〔551〕〜BC.479)です。
儒学の源流思想は、孔子とその一門にあります。
“孔門の十哲”の一人 子貢〔しこう〕 は、
3000人ともいわれる孔子の弟子の中で随一の才人・器量人です。
『論語』にも(子路とともに)最も多く登場します。
そして特筆すべきは、リッチ/ Rich!な存在です。
商才あり利財に優れ、社会的にも(実業家として)発展いたしました。
一方、ロビンソン=クルーソー (D.デフォー、『ロビンソン漂流記』)は、
単なる児童冒険文学ではありません。
当時の“経済的人間”の代表像として捉えることができます。
つまり、世界帝国・イギリス資本主義の青年時代の担い手
=「中流の(身分の)〔“middling station of life”〕人々」の
理想的人間像と考えられるのです。
洋の東西、時代も場所も全く異なるこの両者に、
グローバルな現代の視点から光をあて、
“「合一」なるもの”を探ってみたいと思います。
例えば、理想的人間(像)/経済的合理主義/金儲け(利潤追求)/
時間の大切さ/中庸・中徳・・・etc. などです。
以下、内容を少々ご紹介しておきたいと思います。
1)理想的人間(像) :
人格の完成した“理想的人間”を、儒学では「君子〔くんし〕」といい、
英国では「ジェントルマン〔Gentleman:紳士〕」といいます。
才徳兼備の人間像ですが、東洋思想では、徳がかったタイプといえます。
現実の経済社会では、そうとばかりにはゆきません。
子貢は、器〔うつわ〕・大器量人と位置付けられています。
経済社会にあっては、才がかった面(小人タイプ)の要素が必要です。
その才徳が、時代・社会状況を背景に一定のバランスを実現した理想像を、
「大人〔たいじん〕」と称せば良いのではないか、と私は考えています。
2)経済的合理主義 :
ロビンソン=クルーソーは、いったいどのような人間類型として
描かれているのでしょうか?
── それは、経済的・合理的に行動する人間です。
例えば、小麦を食べてしまわずに蒔いて増やします。
山羊〔やぎ〕を捕らえ“囲い込み地”の牧場で繁殖させます。
経済的生活実現のための“再生産”ですね。
このような、先々を見越した実践的合理主義です。
子貢は、名ばかりで実体のない毎月の祭事に供える、
生きた羊の出費(浪費)をめぐって孔子と対立します。
今時でいえば、“事業仕分け”すべきムダ・浪費の筆頭項目といったところでしょうか。
「爾〔なんじ〕はその羊を愛〔お〕しむ。我はその礼を愛しむ。」
(八イツ・ハツイツ第3)
(経済的)実益と(精神的)文化のどちらに重点をおくか、
という儒学(孔孟思想)での見解の相違です。
私は、社会科学的思考と人文科学的思考との並立・相異でもあるかと感じています。
3)時間の大切さ :
「時間〔とき〕は貨幣〔かね〕なり :(Time is money.)」 という観念を生み出したのは、
当時のイギリスやアメリカの中産階級の人々(デフォーやフランクリン)です。
ロビンソン=クルーソーは、日時計を作り、漂着の日付を基準に年月日を記録します。
面白いことには、一年目に漂流生活でのバランスシート(損益計算書)を作ります。
一方、東洋の儒学(=易経)の根本的考え方に“中〔ちゅう:中論〕”があります。
“中”はものを産み出すことです(産霊:むすび)。
そして、“時”を重視します。
すなわち、“時中〔じちゅう〕” 《時に応じて中す》 ということが大切です。
例えば、儒学(孔孟)が重んじたものに、服喪〔ふくも:喪に服す〕があります。
親が亡くなった場合、3年の喪です。
この期間は、乳児(赤ちゃん)の時、親に抱かれ背負われ育ててもらった期間が
論拠となっています。
これに対して、子貢と同様
「言語」をもって“孔門の十哲(四科十哲)”に挙げられている
宰我〔さいが/宰予〕と孔子との対立問答が有名です。
それは、リーダー〔指導者〕が、その重責の仕事・役割を
3年もの間、休止していては(社会的に)マズいから、
1年で良いのではないかという主張です。
(私感ですが、しかも“死んでしまった者”に対してのことです。)
さて、孔子も応答・反論できず、問題をすりかえて叱責〔しっせき〕しています。
ここに、(孔孟)儒学の限界・課題の一つがあると考えます。
子貢と宰我とは、当時の “孔門の新人類”=“経済的リーダー〔指導者〕”
であったといえるかも知れません。
4)金儲け(利潤追求) :
儒学は、金儲け(利潤追求)を肯定します。
ここに、儒学の現実性があります。
しかし、それは、貨幣〔かね〕そのものに価値を置く、
今の“拝金主義”とは全く異なります。
「利に放〔よ〕りて行えば怨み多し」(里仁第4) /
「君子は義に喩〔さと〕る。小人は利に喩る」(里仁第4) /
「利を見ては義を思い ・・・」(憲問第14) などと『論語』に述べられています。
子貢は、孔子門下で例外的に実業界でも成功し、
経済的にも孔子と孔子の学院を支えたと考えられます。
パトロン・理事長的存在でもあったのでしょう。
孔子も、その商才(今でいう経営の才)に、一目おき賛辞を送っています。
意外に思われるかもしれませんが、
産業革命を今まさに遂行しようとしている当時の「中流の人々」は、
必ずしも貨幣に最高の価値をおいてはいなかったのです。
ロビンソン=クルーソーは、難破船に戻っていって金貨を見つけます。
「このお金を見てわたしは にやっと笑った。思わず口に出していった。
『無用の長物よ。お前はいったいなんの役に立つのか。
わたしにはなんの値打ちもない、地面に落ちていたって拾う値打ちもありはしない。
お前の一山よりもあの一本のナイフのほうがもっと貴い。
お前はわたしには全然用がないのだ。
そこに今いるままに留まっていて、
救う価値なきものとしてやがて海底の藻屑〔もくず〕となるがいい』
とはいうものの、わたしは考え直して、その金を持っていくことにした。
帆布の切れに金を全部包んで、さてもう一つ筏〔いかだ〕を作ろうと考えた。」
(デフォー・『ロビンソン・クルーソー』、旺文社文庫p.74引用)
当時の「中流の人々」は、自分さえよければ、
儲かりさえすればという仕方を強く排斥します。
人の役に立つものを作り、結果に於いて金が儲かる
(=隣人愛の実行)のだと考えたのです。
(cf. 松下幸之助氏の経営思想・“水道哲学”に相通ずるものがあると思います。)
そして、デフォーはそれを善しとしたのです。
つまり、ただ金儲け(利潤追求)するというのではなく、
“経営”(産業経営)それ自体を自己目的として献身努力したのです。
5)中庸・中徳 :
儒学(=易学)の根本思想は、“中論”・“中庸”です。
中庸の思想は、西洋においても古代ギリシアの古くからみられ、
普遍的思想であるともいえましょう。
昨年、ドイツのお話をした時に(H.22 真儒の集い・特別講演:“ 『グリム童話』と儒学 ”)、
その 《はじめに》 で、両極端で“中庸”を欠くドイツ史? として、
次の文を引用しました。
「ドイツ国民の歴史は、極端の歴史である。
そこには中庸さ(moderation)が欠如している。
そして、ほぼ一千年の間、
ドイツ民族は尋常さ(normality)ということのみを経験していなかった。
・・・中略・・・
地政的にドイツ中央部の国民は、その精神構造のうちに、
とりわけ政治的思考のなかに、中庸を得た生き方を見出したことはなかった。
われわれは、ドイツ史のなかに、フランスやイギリスにおいて顕著である
中庸(a Juste milien)と常識の二つの特質をもとめるのであるが、
それは虚しい結果に終るのである。
ドイツ史においては激しい振動のみが普通のことなのである 」
(A・J・P・ティラー、『ドイツ史研究』)
『ロビンソン漂流記』で、冒頭の部分は、
ロビンソン=クルーソーが父親から説教され訓戒を受けているシーンです。
その2ページほどの文言に、著者デフォー の言いたかったことが
代弁され尽くしているといっても良いのです。
その内容は、中流の人々こそがイギリスの国を支えている土台であり、
個人としても幸福であるということ。
アドヴェンチャラーとしての荒稼ぎを誡め
堅実に父祖の仕事を“受け継ぐ”ことを指します。
現代の日本社会・日本経済の荒廃は、
父の誡めを破ったロビンソン=クルーソーの失敗と同じに、
この中庸・中徳 を失った所に根本原因があります。
わが経済立国“日本”は、行方を見失い、窮し行き詰まっています。
滅びゆく“日の没する(たそがれの)国”になり下がろうとしています。
その打開・再生の方途〔みち〕は、“儒学ルネサンス”しかありません。
今回の講演は、その実現のための一つの指針となれば、と想っての試論です。
(おそらく、)はじめての視点・切り口によるテーマかと思います。
経済・商業にかかわる方をはじめ、倫理・道徳を想う方、広く一般の皆さま、
皆々さまお誘い合わせのうえ、是非ご聴講ください。
■ 講師 : 真儒協会会長 高根 秀人年 (たかね ひでと)
<プロフィール>
S.29年生。 慶應義塾大学法学部卒 / 経済学修士・法学士・商学士 /
【資格】 文科省1級カラーC.(第1回認定)・ インテリアC.・
教員免許状(社・国・商・書・美)ほか /
【著書】 『易学事始』・『易経64卦解説奥義』ほか /
【講演】 みずほ会〔旧第一勧銀ハート会〕(江坂東急イン)・
第三銀行女子チアリーダーセミナー(三重研修センター)・
日本易学協会大講演会(東京湯島聖堂)ほか多数。
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【 開設5周年 《真儒の集い》 のご案内 】
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■ 日時 4月29日 (金曜日※祭日)
■ 会場 吹田市メイシアター (B1 大集会室)
⇒ 阪急「吹田」駅マエ (市役所側)
⇒ アクセス地図
http://www.maytheater.jp/access/
■ 内容/時間
○1部 : 特別講演 PM.1:00〜2:00 (受付12:30〜)
・ テーマ 「器量人・子貢 と 経済人・ロビンソン=クルーソー
── 経済立国日本を“中す”一つの試論 ── 」
・ 講師 真儒協会会長 高根 秀人年
○2部 : 式典 PM.2:30〜4:00 (受付2:00〜)
・ 来賓各位祝辞、理事者あいさつ 他
■ 参加費 無 料
*ご参加いただける方は、準備の都合上、事務局まで
メール/FAX./TEL./郵送 にてご連絡願います。
(1部または2部 片方のみのご参加、お子様のご参加もOKです!)
真儒協会事務局 : 〒564-0001
大阪府吹田市岸部北2-4-21
TEL 06-6330-0661 FAX 06-6330-0920
メール info@jugaku.net
「儒学に学ぶ」ホームページはこちら
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