『大難解(やさしい)・老子(RAOTZU)講』
 《 序の言 〔ことば〕 》

儒学と老荘(黄老・道家)思想は、東洋思想の二大潮流であり、その二面性・二属性を形成するものです

国家・社会のレベルでも、個人のレベルでも、儒学的人間像と老荘的人間像の2面性・2属性があります。

また、そうあらなければなりません。

東洋思想の泰斗〔たいと〕、故・安岡正篤先生も述べられておられますように、“易”と“老子”は東洋思想・哲学の至れるものであり行きつくものであり、ある種、憧憬〔あこがれ・しょうけい〕の学びの世界です。

◎「東洋の学問を学んでだんだん深くなって参りますと、どうしても易と老子を学びたくなる、と言うよりは学ばぬものがないと言うのが本当のようであります。
又そういう専門的な問題を別にしても、人生を自分から考えるようになった人々は、読めると読めないにかかわらず、易や老子に憧憬〔しょうけい〕を持つのであります。

(*安岡正篤・『活学としての東洋思想』所収「老子と現代」 p.88引用 )

 

私は、浅学菲才〔せんがくひさい〕に加えて、50代の若さにもかかわらず、善き機会と場を得て「易学」と「老子」を二つながらに講じさせて頂いていることを、まことに有り難く想っております。

別の言い方をすれば、「易学」と「老子」を二つながらに講じ“楽しみ”ながら、いまだ命(身心)を健〔すこ〕やかに存〔ながら〕えている天恵に深く感謝し、“しあわせ”を感じています。

 

さて、東洋の奇書、『易経』と『老子』は難解をもって知られます。

諸々の教養人の思想・学問的憧憬〔あこがれ・しょうけい〕である一つの所以〔ゆえん〕でもありましょう。

とりわけ『老子』は、神秘に満ち謎めいていて、解釈も難解を超えて諸説紛々〔ふんぷん〕意味不明という箇所も多々あります。

 

西洋の学、それも社会科学系(法学・経済学・商学)の専門教養しか持たなかった私が、易や老子をライフワークにするに至ったというのは、まことに“縁尋機妙〔えんじんきみょう〕”なる出合いでありました。

そして、それは自分自身の文化・芸術的DNAがそうさせたのだと想っています。

平たく申せば“ハマリ役”のように“むいていた”ということでしょう。

若き日、不思議に何かに導かれるように易に学び自修し、(広く儒学=四書五経を学修し)やがて、自ずから然るべく(「自然」に)“黄老”に至ったのでした。

 

私が、「老子」を全くの独学で、短期間に(一応)修められたのは、やはり20余年に亘って独学で易学を原典〔オリジナル〕で修めていたというベースがあったからだと思います。

そして、「易学」と「老子」を併せて修めてまいりますと、至れる者同士、その重なる所が実に多くより確かに理解〔わか〕ってまいります。

「老子」への学修は、そんなごく小さな覚知〔かくち/覚り〕を積み重ねていくようなものであった気がしています。

 

“易”と“老子”の世界は、私にとって、“壺中(の)天”です。しみじみと思い想うにつけても、壮年期、窮することなく円通自在な易学に出合っていなかったら私の後半生もどうなっていたかわからない気がします。

また、黄老の学がなければ、晩年が心平穏・豊かなものとはならず惨めなものとなったに違いないと思います。

≪ 学ぶ → 楽しむ → 遊ぶ ≫ と学修は至って行きます。

黄老の世界は、私にとって、現実の中にあって心中は隠者の世界に遊ぶような気がします。

 

ところで、E.H.カー は「歴史とは、現在と過去との対話である」と言い、孔子は「温故而知新」(故〔ふる/古〕きを温〔あたた/たず・ねて〕めて新しきを知れば、以て師となるべし)の名言を残しております。

そもそも、優れた古典を修める(修めねばならない)意味はこの言〔ことば〕の中に在ります。

現代を善くし未来を展望するには、優れた古典の思想・哲学が必要です。

殊に、現代は、価値観が錯綜〔さくそう〕し課題が多岐にわたっています。

大衆民主主義社会の弊害が蔓延〔まんえん〕し、人間の「本〔もと〕」が忘れられ乱れてまいりますと古典に救いを求めるしかありません。

指導者(リーダー)的立場にある者はなおさらのことです。

 

言葉を変えれば、古典を“活学”するということです。

本稿では、“帛書老子”・“楚簡(竹簡)老子”の新発見による研究成果も踏まえながら、20世紀初頭、平成の現代(日本)の“光”をあてながら、「老子」と“対話”してまいりました。

故〔ふる〕くて新しい「老子」を活学してまいりました。 

―― 具体的には、“コギト(我想う)”や“トピックス〔時事〕”に述べてある試みがそれです。

≪老子の“現実的平和主義”に想う≫/≪ユートピア=理想郷(社会・国家)について≫/≪水【坎】を楽しむ≫などは、かねてから文にまとめておきたかったテーマです。

 

本稿・「老子」の講義冊子は、私の主宰する真儒協会の定例講習や特別講義(3年余 約40回ほど)で講じてまいりましたものと、安岡正篤氏にちなむ関西師友協会・篤教講座(1年弱 連続4回)において講じた折に制作した教材・資料がベースになっております。

その折々で一所懸命に、深慮取り組んだ内容です。

(コンをつめすぎて肉体的健康を損ねてしまったきらいもあります。)

 

そのコツコツと【畜】〔たくわ〕えた精華を、講義冊子(テキスト)として形にすることができますことをまことに嬉しく想っております。

易卦に【水沢節】があります。

“竹の節〔ふし〕”・“節目〔ふしめ〕”の意です。“節から(新たに)芽が出る”とも申します。

此度〔このたび〕の『大難解〔やさしい〕老子 講』の編纂を、私の易学と老子研究の大きな“節目”としたいと考えています。

また、晩節の始まりとしたいと考えています。

 

この、ささやかな労作は、殆〔ほとん〕ど顧みられることなく著者の無名と共に埋もれてしまうでしょう。

それは、「老子」に学ぶ者にとって相応〔ふさわ〕しいことかも知れません。

それでも、ごく限られた数にせよ、活眼の人々や志徳ある若者に役立ち、その精神の糧〔かて〕となることを期待しています。

それによって、“一粒の麦、地に落ちて死なず”です。

微〔かす〕かな一本の“ろうそくの灯〔ともしび〕”にせよ、“受け継がれ”、やがて時の宜〔よろ〕しきを得て、燎原〔りょうげん〕の火の如く燃え盛り人々の心を照らし、ユートピア社会を築く原動力となることがあるやもしれません ・・・ 。

 

盧 秀人年  (‘13/ H.25 春 )


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