『大難解(やさしい)・老子(RAOTZU)講』
《 とびら 》
定例講習 第32回 老子[3]
横山大観 *16): 「老君出関〔ろうくんしゅっかん〕」 (1910、三幅)
「 老耼〔ろうたん〕*1)、 道を行く 」
眤次仝太郎
象〔ぞう〕のように耳の大きい老先生は *1)
水牛の上にまろくうずくまり、
時の歩みよりもひそかに 太虚の深さよりも物しずかに、
晴れ渡った秋の日ざしにとっぷり埋〔うも〕れて
どこまでもつづく陝〔せん〕の道を西へ行く。*2)
凾谷関〔かんこくかん〕でかいた五千余言の事だけが *2)
老先生のちょっと気になる。
莽莽蕩蕩〔もうもうとうとう〕、
黄河の水が愚かのように東に流れる。*3)
老先生は鬚〔ひげ〕もじゃの四角な口を結び、
大きなおでこの下の小さな眼をあげる。
河岸のまばらな槐〔えんじゅ〕林が黄ばみ落ちる。
黄土の岩に秋の日はあたたかく、 人も通らず鳥も鳴かない。
風景は老先生の心を模倣し、*4)
自然は老先生の形骸をよろこび迎える。*4)
わしは堯舜〔ぎょうしゅん〕の教えを述べるに過ぎない。*5)
坦坦〔たんたん〕たる道を示すに過ぎない。
天下の百姓〔ひゃくせい〕の隠れた生活を肯定〔こうてい〕し、*6)
星宿その所に在〔あ〕るを説くに過ぎない。
世を厭〔いと〕うのでなくて、 世にもぐりこむのだ。
世は権勢のみで出来ていない。
綿綿幾千年の世の味わいは百姓の中に在る。*7)
わしが逆な事ばかり言うと思うのは *8)
立身出世教の徒に過ぎない。*9)
其の無に当たって器の用有るを悟〔さと〕る者が *10)
満天下に充溢〔じゅういつ〕する叡知〔えいち〕の世は来ないか。
為して争わぬ事の出来る世は来ないか。*11)
ああそれは遠い未来の文化の世だろう。
人の世の波瀾〔はらん〕は乗り切るのみだ。
黄河の水もまだ幾度か干戈〔かんか〕の影を映すがいい。
だが和光同塵も夢ではない。*12)
わしの遺〔のこ〕した五千余言よ人をあやまるな。
わしのただ言〔ごと〕よ奇筆とは間違えられるな。
わたしの教えよ妖教の因〔もと〕となるな。*13)
わしはこの世にもぐりこんで死ぬ。
竜となって天に昇ったなどと人よ思うな。*14)
白い小さな雲が南の方泰嶺〔たいれい〕に一つ浮かんで、
自然にわいたままじっとしている。
老先生は溶〔と〕けたようにそれを見ている。
(「道程〔どうてい〕」以後より)*15)
《 たかね下線部・注 解説 》
*1) 老子は、姓は李〔り〕、名は耳〔じ〕、字〔あざな〕は伯陽、諡〔おくりな〕を耼〔たん〕。と、いわれています。が、私はおそらく「耼・タン」も字ではないかと思います。(というのは、その死が定かではないわけですから ・・・) 耼・タンとは、耳の長いという意味ですから、老子は耳が長く・大きい人だったのでしょう。
*2) 老子が乱世を遁〔のが〕れ、関(凾谷関あるいは散関)に至った時、関令の尹喜〔いいん〕に求められるままに書いたのが五千余言からなる『老子道徳経』です。その後老子は、その書を渡して関所を去り西方への旅を続けたといわれています。そして、その行方〔ゆくえ〕はようとして知れず、どこで没したかその後の消息を知る者はありませんでした。(by.司馬遷・『史記』) 陝〔せん〕は、陝西省。省都の西安は「長安」と称して、周王朝以来幾度も国都となりました。
*3) 老子は「水」(=川)を思想・処世術の象〔しょう〕=お手本 と考えました。また「無知・愚・愚昧」なあり方を説いています。悠游〔ゆうゆう〕たる黄河は、(賢しくではなく)愚かに流れなければなりません。この“愚の思想”は、非常に大切です。
孔子もまた、よく「愚」を解し、「愚」を高く評価していた人であったと考えられます。
「子曰く、寗武子〔ねいぶし〕、邦〔くに〕に道あれば則〔すなわ〕ち知、邦に道なければ則ち愚。其の知や及ぶべく、其の愚及ぶべからず。」(『論語』・公冶長第5)
自分(=孔子)は、頭の良いところは真似ができるけれども、(彼の)その“バカさぶり(ばかっぷり)”には、とても及ぶべくもない、というおもしろい一節です。
cf.『戦争と平和』で知られるロシアの世界的文豪であり思想家の レフ・トルストイ (LN Tolstoi,1828〜1910)も老子を非常に高く評価しています。その晩年の民話的寓話〔ぐうわ〕作品『イワンのばか』は、老子の“愚の思想”・“愚の政治”をお話にしたものです。
cf.安岡正篤氏は、「愚」について次のように述べておられます。こういう“愚の思想”は、日本にもよく伝わっており、民間の口碑・伝説、その他格言などにも残っております。それらの中で最も普及しているもの(同時に“常識の誤解”しているもの)を2・3、折に触れて紹介されています。たとえば。
A)「馬鹿殿」: バカな殿様ではなく、“名君”のことをアイロニカルに表現したもの
B)「糠味噌女房」: 糠味噌〔ぬかみそ〕漬けの上手な女房は至れる女房。女房礼賛の話
※「糟糠〔そうこう〕の妻 堂より下さず」(『後漢書』・宋弘伝)
C)「女房と畳は新しいほど好い」: 畳は畳表〔タタミオモテ〕を裏返しし、更に畳表のみ取り替えるなどしてリフレッシュする。老子的“生活の芸術”です。今は亭主も同様にあれ!
*4) 「自然」・「無為自然」。老子は天地自然との一体を説きました。それはまた、(生命・生死の)“循環の理”でもあります。
*5) 老子も孔子と同様、善き古〔いにしえ〕をお手本としています。(=尚古思想)
cf.「子曰く、述べて作らず、信じて古を好む。」(『論語』・述而第7)
*6) 「百姓」は、〔ひゃくしょう〕ではなく〔ひゃくせい〕と読み、一般ピープルの意です。老子のユートピア思想は「小国寡民」(80章)であり、「静」か(26章)で穏やかな村落共同体での生活を善きこととするものです。
*7) “営々”とくりかえし営まれる(循環)社会・民衆中心の思想・自由の尊重 ・・・を感じます。
*8) 『老子』の中には、「逆説の真理/論理・論法」とでもいえる箴言〔しんげん〕・慣用句の類がたくさん登場しています。
*9) 儒学(儒家)を指しています。儒学は、現実的で、“修己治人の学”・“終身・斉家・治国・平天下の道”(指導者・リーダーの養成)を説きます。老荘は儒学への批判的立場です。
*10) 老子のいう「道」を体得した者の意でしょう。すなわち、「無の発見」・「空虚の効用」(11章):器物の働きは空虚あればこそ(仕事・心であればゆとり、空間設計であればアキ)のことです。
cf.安岡正篤氏の一番よく愛用された雅号が「瓠堂」〔こどう: 瓠=ひさご/出典『荘子』・逍遥遊篇〕です。
*11) 「不戦」・「不争」 の思想です。『老子』 5000余言は、「道」にはじまり「不争」に終わります。
*12) 「和光同塵」(其の光を和らげ、其の塵〔ちり〕に同ず):老子の道のあり方(4章)であり、聖人のあり方(56章)です。
*13) 老子(黄老)の思想は、儒学における易学同様最古にして本格的なものです。が、インド仏教が民衆に普及するにつれて、道家との交流が著しくなり“道家の仏教化”がおこります。道家は通俗道学となり、「道教」という特異の宗教となってまいります。そして、世紀末的な民衆のもとでは老子(黄老)は老荘となり、やがて頽廃的なものに堕落してゆきました。
cf.「常格や平凡に飽いて、とかく奇を好み異を愛する人情からすれば、荘子ほどおもしろいものはない。まして現実のあらゆる不快不安に悩まされて、疲労倦怠に陥り、深刻な懐疑を抱いて、時代に嫌悪と自嘲さへ感ぜざるを得ぬような世紀末的な民衆になると、黄老は勢ひ老荘となり、その老荘も次第に頽廃的なものに堕落してゆくことは魏晉の例によっても明らかである。」 (安岡安岡正篤・『老荘思想』 p.16引用)
*14) 司馬遷の『史記』(「老子・韓非列伝」)に、いわゆる「老子物語(伝説)」が書かれています。―― それは、ある時、老子(老耼)のもとを(当時既に、教育・道徳家として名声の高かった)若き日の孔子が訪れ教えを乞います。「孔老会見」(孔子問礼)です。孔子は、貴重なアドバイスを受け感激して魯〔ろ〕の国に帰ります。そしてその後、弟子たちに、よく老子をほめてしみじみと言いました。 曰く。
「(私にも)鳥が飛べるということはわかっているし、魚が泳げるということはわかっているし、獣が走れるということはわかっている。走る者が相手なら網で捕えればいいし、泳ぐ者が相手なら綸〔いと=釣り糸〕で捕えればいいし、飛ぶ者が相手なら矰〔いぐるみ=ひもをつけた矢〕で捕えればいい。が、相手が(霊獣の)龍で、(龍は)風雲に乗じて天空に昇り(時に飛翔し時に雲間に隠れるのであれば)私の理解を超えている。(如何ともし難い/捕えようがない。)今、私は、老先生にお会いしたが、老子というのはまるで龍のようなお人だナァ!
(吾、今日〔こんにち〕老子を見るに、其れ猶〔なお〕龍のごときか。/“To-day I have
seen Lao Tzu; he is like the dragon.(Gowen)” )
龍は“陽”の化身ですが、“三棲”するといわれています。地上にいたり、深淵に潜んだり、雲間に隠れたり、天空を飛翔したり、と捉えどころがないの意でしょうか。あるいは、スケールが大きすぎて圧倒されて推し量れないの意でしょうか。
*15) “道程”は、本来、みちのり・行程のことですが、もちろんここでの“道程”は道路のことではありません。 「ぼくの前に道はない ぼくの後に道はできる ―― 」 (『道程』)
*16) 横山大観 : 1868−1958。老子像、荘子像(包丁〔ほうてい〕)、「被褐懐玉」〔ひかつかいぎょく: 『老子』第70章による〕、伝説の隠者・「寒山拾得」〔かんざんじっとく〕。「生々流転」〔せいせいるてん〕は、大観水墨画の集大成・畢生の大作です。―― 木々の葉の露が、雨が小さな流れをつくり川となり、川は川幅を増しながら大海に流れ注ぐ。さざ波から荒れ狂う波となり、昇天する飛龍は・・・(水蒸気は雲となり雨となり) という天地自然の偉大なる“水の循環”です。まさに、老子の世界です。
そして、“龍”は「易学」の世界でもあります(【乾為天】)。「双龍争珠」・「龍蛟躍四溟」〔りゅうこうしめいにおどる〕などの名作があります。“龍”は東洋の精神と西洋の科学を象徴するものともいわれています。
「大観」の雅号(本名:秀麿)は、一説には法華経の「観世音菩薩普門品」の「広大智慧観」の2文字を採ったとされています。「観」のルーツを考えてみると、易卦に【風地観】があります。【観】は精神性をいう卦で、第3の目・心眼でみるという意です。ちなみに、松下幸之助氏のブレーンに“加藤大観”という名の僧侶がいたかと思います。
※(本稿、横山大観の作品・文章の引用は、別冊太陽142・『気魄の人 横山大観』・平凡社に統一いたしました)
コギト(我想う)
東洋において、芸術(家)と老荘思想(家)の間には密接な繋がりがあると思います。(詳しくは、安岡正篤・『老荘思想』/「学問・芸術・宗教」を参照ください)
○「老荘思想が前述のやうに本来多分に芸術的であるため、後世老荘家に芸術家が多い。また文人画家にして老荘を愛さぬ者はないといって過言であるまい。」
(安岡正篤・『老荘思想』 p.112引用)
わが国の芸術家では、私は、画家の*横山大観(老子画像・荘子画像をはじめ、童子を描いた「無我」、水の変態・循環を描いた畢生〔ひっせい〕の大作「生々流転」など)、と詩人・彫刻家の高村光太郎がすぐに思い浮かびます。
さて、老荘思想と芸術との密接不可分の関係は、私はまず、“右脳のはたらき”がかかわっているのではないかと考えています。
右脳は、感性・情緒を担当する脳であり芸術・創作活動と直結しています。
易(平行思考)や老荘という形而上学〔けいじじょうがく〕を思考する分野と重なっているのでしょう。
それはまた、“覚〔さとる〕”・“覚知〔かくち〕”の世界を含んでもいるのでしょう。
今一つは、東洋の芸術の世界が、“自然”と一体・“無為自然”であり(西洋芸術は人間と自然が対峙しています)、老荘思想のそれと重なるからなのかも知れません。
横山大観 : 「生々流転」
■2010年8月29日 真儒協会 定例講習 老子[3] より
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