こちらは、前の記事の続きです。

【 4章 】

(無源・第4章) 注1) 《 ナゾのような末句 「象帝之先」 ―― 「道」とは? 》

§.「 道沖」 〔タオ・チャン〕

注1) この章名の無源は、源がないこと。「道」には源がなく万物が生じる始祖であるの意です。
「道」のオールマイティー・無限の働きについて述べて、末段に謎めいた一句を残しています。
象帝之先です。これは、「道」の始原性を示すもので、その謎は次章以下に説かれることとなります。// 
「和光同塵」の出典です(56章にも同文があります)。

○ 「道、而用之、或不盈。淵兮似万物之宗。 |
挫其鋭、解其之紛、。|
湛兮似或存。 *吾不知誰之子、象帝之先。」

■ 道は沖〔ちゅう/むな・しけれども〕にして之を用う。〔あるい/つね・に/ひさ・しく/ま・
た〕盈〔みた〕ず。淵〔えん〕として万物の宗に似たり。 |
其の鋭を挫〔くじ〕き、其の紛〔ふん〕を解き、其の光を和〔やわら〕げ、其の塵〔ちり〕に同ず。 | 
湛〔たん〕として或は存するに似たり。*吾れ、誰の子なるかを知らず、帝の先〔せん・さき〕に
象〔かたど/に・たり〕れり。 |

 Was it too the child of something elese? We cannot tell.
But as a substanceless image # it existed before the Ancestor##
(A.Waley  adj. p.146)

# A.Waley によれば、「象」はある種特別の“神秘的イメージ”と考えられます。達人が“覚り”の体験をした時、すなわち、瞑想〔めいそう〕によって「道」と一体になったと感じる時、そこに特殊なイメージが現れるという見解です。→ (老子における神秘主義、quietism 〔寂静:じゃくじょう/精神的平穏〕の傾向

## 「帝」は、通常「天帝」を指しますが、それだと「帝」と「天」が同一ということになります。が、『老子』で「帝」が出てくるのはこの章だけです。 A.Waley の注では、伝説上の最初(太古)の帝王である「黄帝〔the Yellow Ancestor who separated Earth from Heaven ・・・ 〕」などを指すと述べています。

 I know not whose son it is. It images the forefather of God.
(D.C.Lau  adj. p.8)


《 大 意 》

「道」は空虚〔うつろ/からっぽ〕のように見えても、これを用い得られるのです(=はたらきは無限なのです)。いくら用いても(汲めども尽きず)盈〔み〕ちることがありません。その深々と水をたたえ静まりかえった(幽玄な)淵〔ふち〕のようなさまは、あたかも万物が生み出され(生々化育す)る源のように思われます。

(才知は発する)鋭〔えい〕を鈍らせ、(その心の)紛〔みだれ/ほつれ〕をほぐし、その光り〔のギラつき・直射〕を和〔なごやか〕にし、その塵〔ちり〕を人々とともに甘受するのです。(/*塵は、払い除かれなめらかになるのです。by.A.Waley )

(道は)涸〔か〕れることを知らず、ふかぶかと湛〔たた〕えられた水のように、(或るものが、永遠に存在し続けていくように)思われるのです。それ(=道)が、誰によって生み出された子であるのか、(私は)知りません。(では、道の母胎何でしょうか?)どうやらそれは、天帝の祖先よりも以前に象〔すがた〕を以ていたものであるようです。(=道は、天帝の祖先であるように思われます。)

・「道 而用之 或不盈」 : 「沖」は、サンズイ、ニスイ に通じます。共に音は‘Ch’ung’です。
意味は“虚”。道の本体は虚無〔うつろ〕ということです。(cf.≒「盅」〔チュウ〕)
空虚という言葉がありますが、”は仏教の「」〔くう〕です。
無限大で包容力に限界がなく、従って満(盈)つることがないのです

※ 【45章】に「大盈若沖 其用不窮 / 大盈〔たいえい〕は若沖〔むな〕しきが若〔ごと〕くして、其の用窮〔きわま〕らず。」 
《大意》

大盈=「道」 : 真に充実したものは、世俗では空虚(沖〔むな〕しく)に見えますが、(無限の包容力を持ち)それを用いても永遠に尽きることはない(=はたらきに窮まりがないのです)のです。

沖 = 虚 = 「空」 = 大 

→道家では、「沖虚〔ちゅうきょ〕」の熟語が作られています。

cf.【道家三大聖典】 :
『老子(道徳真経)』 / 『荘子(南華〔なんげ〕真経)』 / 『列子(沖虚真経)

・「或」 : 軽い語助で、あまり意味を持ちません。「常に」と解する人もいます。

・「和其光 同其塵」 : “和光同塵”の語源。老子の理想的人間像(儒学の「君子」像)です。老子一流の逆説的論理です。この四句は、56章にも同文があります。そのため、後から加えられたとする見解もあります。
*A.Waley によれば、世俗の日常的なわずらい(塵)が取り除かれた状態を「同」としています。老子の思想が、世俗からの超越と「静」 を中心としていることからみれば、一理あるものかも知れません。

cf.“和光同塵”は、仏教にも摂取されます。仏〔ほとけ〕や菩薩が、衆生〔しゅじょう/すじょう/しゅしょう/=生きとし生けるもの〕を救済するために、本来の智慧の光を隠して衆生と同じ俗世に身を置くことを言います。

・「湛兮似或存」 : 「淵として万物の宗に似たり」と「道」の姿を、また「道」を体得した人を表現しているのです。

・「誰之子」 : 何者の子〔Whose son〕。何から生まれたのか?〔Who gave it birth?〕

・「象帝之先」 : ↓

コギト(我想う)

≪ “天の思想”と「帝」 ≫

古代中国の思想・信仰が“天の思想と呼ばれる独特のものです。

易学の本〔もと〕、源流思想の一つにもなっています。

すなわち、天地万物の創造者・造物主としての「天」への信仰があり、擬人化して「天帝」・「上帝」とも称します。

その天地も「帝」もその母胎は「道」であると考えて、「道」の始原的性格を明言したものが象帝之先です。

「天」(天帝・上帝)は、宗教でいえば(神道やキリスト教で)“神”に相当するものでしょう。

つまり、“”ではなく、そのオールマイティーの神が在る前に、“あるもの=「道」”があったと考えているわけです。

『荘子』にも次のように述べられています。

「道は自身に本をつくり自身に根をつくる、天地あらざる古より固〔もと〕より存在す。」

 

 参 考   ≪ 天の思想 と 天人合一観 ≫

(大宇宙マクロコスムと小宇宙ミクロコスム)

(by たかね・『易経ハンドブック』より)

◆ 中国思想・儒学思想の背景観念、 天=大=頂上   

・ 形而上の概念、モノを作り出すはたらき、「造化」の根源、“声なき声、形なき形” を知る者とそうでない者
」〔しん〕 ・・・・ 不可思議で説明できぬものの意

天 = 宇宙 = 根源 = 神

cf.「 0 」(ゼロ・レイ)の発見・認識、 「無物無尽蔵」(禅)

・ 敬天、上帝、天(天帝)の崇拝、ト〔ぼく〕占(亀ト)、天人一如〔てんじんいちにょ〕、
天と空〔そら〕

・ 崇祖(祖先の霊を崇拝)、“礼”の尊重

太陽信仰 ・・・・ アジアの語源 asu 〔アズ〕 =日の出づるところ
―― ユーロープの語源 ereb 〔エレブ〕 =日のない日ざしの薄いところ“おてんとう様”、“天晴〔あっぱれ〕”、天照大御神 

ex. 天命・天国・天罰・天誅・天道・天寿・北京の「天壇」 
「敬天愛人」(西郷隆盛)、「四知」(天知るー地知るー我知るーおまえ知る)
「天地玄黄」(千字文) ・・→ 地黄玄黒

○「天行は健なり、君子以て自強して息〔や〕まず」 (『易経』 乾為天・大象)
――― “龍(ドラゴン)天に舞う”

○「五十にして天命を知る」 孔子の “知命” (『論語』)

○「の我を亡ぼすにして戦いの罪にあらず・・・」 (『史記』・「四面楚歌」)

天賦人権論 〔てんぷじんけんろん〕
は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず・・・」
 (福沢諭吉・『学問のすすめ』)

易性革命 〔えきせいかくめい〕
天子の姓を易〔か〕え天命を革〔あらた〕める」
  ・・・
  天命は天の徳によって革る
  革命思想・孟子


 ※  研 究  ―― 松下幸之助氏が説く “天” (by 伊與田覺先生講義より)

・ 書物によってではなく、自らによって(天によって)学んだ人

・ 「真真庵」の “根源さん” の社〔やしろ〕 ― (中には何も入っていない、無、空

人生は“運”(たまたま)、自分を存在させてくれるものは何か?
“両親” ・・→ そのまた両親 ・・→ “人間始祖” ・・→ 人間はどこから?
―― “宇宙の根源” からその生み出すによって生み出された
―― 自然の理法(法則) = 宇宙万物のものを生成発展させる力

・ 天と交流し、宇宙根源の働き、天によって生かされていることを悟得した(覚った)

・ その感謝のきもちを “社” の形で表した

 

 「松下電器」・現「パナソニック」の創業者、松下幸之助氏は「経営の神様」と尊称される君子型経営者です。

晩年、日本の将来の政治(家)を憂い、「松下政経塾」を創設されました。

安岡正篤先生も参与されていました。

さる平成23年9月、「松下政経塾」1期生である野田佳彦氏が、首相の就任いたしました。

その所信表明演説で、“和と中庸の政治”を標榜〔ひょうぼう〕し、“正心誠意”(『大学』)の言葉についても語られました。

松下幸之助氏は、学校や書物からの学問はされませんでしたが、自らの思索によって(天によって)学ばれました。

そして、その至れるところは、儒学の“君子の教え”と同じでした。

私(盧)は、松下幸之助氏の思想・哲学は、(“根源さん”の社 の話などを知るにつけても)儒学とともに、黄老の教えとも同じである と私〔ひそか〕に想っているところです。 


【大難解・老子講】 の目次は下のボタンをクリックしてください。

 ba_roushi


「儒学に学ぶ」ホームページはこちら
http://jugaku.net/

メールマガジンのご登録はこちら


にほんブログ村 哲学・思想ブログ 儒教・儒学へ

にほんブログ村