こちらは、前の記事の続きです。

 【道可道、非常道。 名可名、非常名。】

★☆ この、冒頭・6字一対の文は、極めつけの名文です。『老子』が哲学・思想の書であるのみならず、優れた文学の書である面目躍如たるものがあります。

*The Way that can be told of is not an Unvarying way;
The names that can be named are not unvarying names.
(A.Waley adj. p.141)

*The way that can be spoken of
Is not the constant way;
The name that can be named
Is not the constant name.
(D.C.Lau  adj. p.5)

 

・「道」: 「道」の語は、漢語(原文)でも、とりあえず仮に表現しただけで(形而上的概念をあらわす)適当な代表文字ではありません。日本では、“みち”とし、欧米では中国の発音そのままで、“Tăo”として固有名詞のように扱っています。が、どれも「道」の主体を表示するには苦慮しています。

『老子』全体で、「道」は76回登場しているようで、最重要のキーワードです。老子と荘子の学派を「道家」と呼ぶのは、これによるところでしょう。
―― 《51章》 「道」 と 「徳」 参照のこと

・「道可道、非常 。」: 道は、むろん道路の道でもなく、人生行路のたとえの道でもありません。

A.はじめの「道」は世間一般にいわれている道理としての「道」です。ことに、儒学にいう人 倫の道(仁義・先賢の道/=忠恕・愛・慈悲、=筋道・正義・使命)です。

B.次の「道」は、1)動詞で訳す場合 と 2)名詞(「道とする」)で訳す場合とがあります。「道」を「言う」という意味の動詞で用いる用例は、『詩経』ほかに見られます。が、『老子』ではこの箇所だけです。

C.最後の が、老子哲学の根本概念で、宇宙万物の根源であり、「天地に先立ちて」《15章》あるものです。 =無・虚無。神秘絶対のもので、万物はその Power によって動きます。宇宙の本〔もと〕である「正常の道」は、相対的なものではなく、絶対的虚無です。

※黄老と儒家とは、全く異なる意味で「道」(「徳」も)の語をキーワードとして用います。紛らわしいです。よくよく注意して区別することが肝腎です。

・「常道」: 時と場所を超えて通用する、絶対性・普遍性をもった道。

・「非常名」: 「常名」とは、(仮の名である)「道」に対してつけられた「無名」という名。ということで す。

 

(*安岡・前掲「老子と現代」 p.98引用) ・・・ 〈 表現された道は真の道ではない 〉

 ペンシルバニアの或るインテリ紳士が後妻を貰った。紳士には親父がおり、後妻には1人の連れ娘があった。万事うまくいってよく治まったのは良いが、余りうまく治まり過ぎてその結果、紳士の親父が後妻の連れて来た娘を後妻に直してしまった。そのためにわけがわからなくなったのが紳士であります。
わが娘はわが父の妻であるから、わが母である。わが父はわが娘の夫であるから、わが子である。わが妻はわが娘と言う母の母なるが故に、わが祖母である。われはわが父と言う子の子なるが故に、わが孫である。わが父はわが子にして、わが娘はわが母である。わが妻はわが祖母にして、われはわが孫なりということになって、とうとう頭が混乱して死んでしまった、というのであります。

 

(*安岡・前掲「老子と現代」 p.98引用)

 ―― 有とは限定であり固定であって、無こそ永遠であり全体である。有限の形の世界からは無という他〔ほか〕はない。無から有を生ずと申しますが、本当に有というものは無から出て来るのであります。無は、言い換えれば全、完〔まった〕しであります西洋ではこれを Complete wholes といっておりますこれはうまい訳の仕方であります。そこから有限・現実の世界に現われて来ると、それはもう限定・固定されてしまう。決して無でもなく常道でもないのであります。

 

(*安岡・前掲「老子と現代」 p.100引用)

立身出世の出来る人が、その成功を七分目か八分目くらいに止めておいて、後は子孫に譲っておく。これが一番健全なのであります。

だから『権門に賢子なし』 『売り家と唐様〔からよう〕で書く三代目』などということは、これは真実であります。自分の代に余り柄になく出世するということは、子孫のために大害になる。学問・知識でもそうで、成るべく無に帰しておく。と言うことは成るべく自然に根を下ろすと言うことであります。余り限定し、表現してしまってはいけないのであります。

cf.安倍晋太郎 →晋三(総理)/小泉純一郎 →   /石原慎太郎 →

 

(*安岡・前掲「老子と現代」 p.101引用) ・・・ 〈 本当の名は名付くべきなし 〉

 本当の名は無名、名付くべきなしであります。人間でも名付けようのないというのが本当に偉い人であります。あの人はこういう人だ、と直ぐ名付けられるような人は底が知れている。サラリーマンなどは兎角〔とかく〕役職を欲しがりますが、サラリーマンと自己を限定した上に、尚更に係長等と限定してしまうのですから、考えてみればこれくらい勿体ないことはないので、人間、出来得れば浪人するに越したことはないのであります。何をやっているのか、自分でも説明出来ないのだから、他人には尚更わからない。何がなんだか分からない人、これが本当に偉い人なのであります。老子はこういうことをしきりに教えてくれる。だから老子をやると、馬鹿も救われれば、不遇も救われる。大体わずかな株くらい持って、騰〔あが〕り下がりで心臓をどきどきさせるなどというのは、考え様によっては、実際愚かなことであります。

cf.坂本竜馬が、始めて西郷隆盛に会った時、「(西郷とは)どんな人物だったか?」、と聞かれて。「どうも、よくわからない。太鼓のようなお人だ。―― 小さく叩けば小さく反って来るし、大きく叩けば大きく反って来る。」

 

コギト(我想う)

≪ 「名可名、非常名。」 ≫

白い卵のカラに、着色したり模様を描いたりして、“善し”としているような御仁〔ごじん〕が多い時勢です。ニワトリの卵に、表面いくら描いてもニワトリが変わって生まれるわけではありません。そして、むしろ、カラに熱心に彩色している人の卵ほど、中身は空虚〔からっぽ〕であったり、腐っていたり、砂が入っていたりするように感じています。

ところで、私は、大阪に長く居〔お〕りますが、“名”を一部変えて“善し”としているような奇妙な現実・風潮に首を傾げることが、ままあります。外面的・形式的に“名”を変えても、本質が変わるわけではありません。ごまかし・糊塗〔こと〕するものです。逆に「本」〔もと:=本質〕がしっかりしていれば、“名”はうつろいやすいもの、上着のようなものでしかないと考えられます。

ex. ・障害(者) ➔ 「障がい」(害だけ平仮名表記させる)
・養護学校 ➔ 「特別支援学 校」
・父兄会 ➔ 「父母会/保護者会」(漢語の父母は父と母の意ですが、日本語では親・保護者の意です)
・看護婦・士 ➔ 「看護師」(他の専門職は、「弁護士」のように「士」がつきますが・・・) 


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


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