こちらは、前の記事の続きです。

研 究

【玄】 → ≪ 「明徳」 と 「玄徳」 ≫

(*安岡・前掲「老子と現代」 pp.103‐105引用)・・・ 〈 無限に根ざした有限は玄妙である 〉

「 そこで人間の徳で申しますと、老子や黄老派は徳の事を 玄徳 と言う。徳とは万物を包容し育成する力であります。それは無限であると言うので玄徳と言うのであります。

これを儒家の方では 明徳  補注)と言う。

玄徳が外に発揚したもの、つまり無から有に出たものが明であります。

儒家は明徳を常に力説する。

老子は、明徳では惜しい。それは限定であるから、宜しく玄徳でなければならない、こういって補うのであります。

われわれの明徳が玄徳に根ざしておれば良い。これがほんとうの明徳であります。

遊離して背〔そむ〕いて来ると、明徳はやがて明徳でなくなってしまう。

昧徳〔まいとく〕になってしまう。」

 

「そこで、教育で申しますと、小学校教育、義務教育というものは何処までも本体を徳育におかなければいけないのであります。

徳育から枝葉を伸ばし、幹を太らせ、実を育てるように、専門学校・大学で色々の知識・技術を教える。

これが正しい学校体系・教育体系であります。

処がろくろく人間としての徳の教育もせずに、小学校の時から妙な異端邪説、下劣な悪習慣をつけて、そのまま大学まで行ってしまうなどは、全くそれを殺してしまうのでありますから、人間を暗愚にしてしまう。

ここに今日の教育の非常な危険があるわけであります。

 

特に国民教育に携わる教師は、最も徳とか道とかの分かる人でなければならないのに、そういう肝腎なことを忘れてしまって、せいぜい上級学校の入学試験に及第者の一人でも多く出すことを最良の如く考えて、無闇につめ込み教育をやる。

胃弱の者に、栄養と称して、暴飲暴食をさせるのと同じことで、直ちに胃潰瘍を起こしてしまう。

これが進むと、胃潰瘍なら手術も出来るが、こればっかりはどうにもならない、最後は、人格破壊者、精神病者になってしまう。

現に現代文明の悲惨な実例は、精神病者、人格破壊者、青少年時代からの非行犯罪者の激増であります。

そういうことを考えて来ると、今日の時代は実にまちがいだらけであります。

それが如何に間違っておるかということの確信は、やはりこういう学問をしないとなかなか得ることが出来ないのであります。」

補注) cf.『大学』の三綱領(「明明徳・在親民・在止於至善」) の1です。
「大学の道は明徳を明らかにするに在り」 (安岡正篤・『活学としての東洋思想』所収・「政教の原理『大学』新講」p.143引用)
以下、「明徳」:(同上書pp.144-146引用)について。

 

「 これが外国訳になると実に面白い。

レッグの大学訳などを読むと、to illustrate illust-rious virtue と書いてある。

ピカピカする徳ピカピカさせるのでは落第である。

もっと深い意味があるわけで、紀平正美先生は明という徳、明そのものが一つの徳だと言う

では、一体徳とは何ぞ。

こうなると少しも前へ進まないが、この種の講義はこれでいいのだと思う。」

 

「 兎に角、 とは宇宙生命より得たるものを言うので、人間は勿論一切のものは徳のためにある。

徳は得であります

それには種々あって、欲もあれば良心もある。

すべてを含んで徳というのであるが、その得た本質的なるものを特に徳と言う。

そして、われわれの徳の発生する本源、己を包容し超越している大生命をと言う。

 

だから要するにとは、これによって宇宙・人生が存在し、活動している所以〔ゆえん〕のもの、これなくして宇宙も人生も存在することが出来ない、その本質的なものが道で、それが人間に発して徳となる。

これを結んで道徳と言う。 補注) 

従ってその中に宗教も道徳も政治も皆含まっている。

非常に内包の広いの広い外延〔がいえん〕の広い言葉である。

 

そのわれわれの徳には種々の相があるが、その一つに意識というものがある。

われわれの意識される分野は極く少しで、例えば光といっても赤・橙・黄・緑・青・藍・紫等の七色の色閾〔いき〕しか受け取れない。

然し光そのものは無限である。

われわれのこの意識の世界が所謂〔いわゆる〕明徳でありますが、その根柢には自覚されない無限の分野がある。

老子はこれを玄徳と言っている

 

海面にでている氷山の下には、それの八倍のものが沈んでいるという。

丁度それと同じで、有の世界、明の世界の下には潜在している徳、即ち無意識の世界がある。

これを無の世界と言うと誤解をまねくので、無・虚という言葉を使いながら、道家ではよく  という字を使う

 

然し、儒の教は自己を修め人を治める現実の学問で、勿論玄徳の世界を無視するものではないが、兎に角、そのよって立つ基礎は意識にのぼり、感覚で捉える世界、知性・理性によって把握する世界、即ち明徳の世界である

その明徳が何であるかを解明するのが明明徳である。

※補注) 老子の「道」と「徳」については、(§ 51章 )参照のこと


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


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