こちらは、前の記事の続きです。

【一休禅師 (一休宗純)】

日本において、僧侶(仏教)は、教養として儒学(易学)・老荘の思想を学修していました。

とりわけ、禅宗においては、易と老荘の影響が大きいと考えられます。

私感いたしますに、その教えは“逆説の真理(論法)”を多分に含んでおり、「禅問答」などは、平行思考・右脳思考といえましょう。

座禅による覚り・覚知の世界も易と黄老の“神秘主義的傾向”と推測しています。

今回は、私たちに馴染みの深い、室町時代の禅僧・一休禅師について少々語ってみたいと思います。

1) まずは、モノの見方・発想・思考過程について。

一休さんと言えば、小坊主のころの“とんち”話で親しまれています。“この橋わたるべからず”に対して、「はし〔橋→端〕をわたらず真ん中を通りました」といったお話ですね。

ここで用いられているような前提条件そのものを変えてみるのが、平行思考、右脳的思考です。これらは易の思考プロセスと同じです

一休さんは、モノを角度(視点)をかえてみる、常識にとらわれない自由な考え方を大切にして、モノゴトの本質を見極めようとしたのです。“急がば回れ”的な、“発想の転換”です。

そして、その相対的見方・逆説の真理は、黄老に同じです

2) 次に、禅宗が重視している“覚り・覚智”の世界について。

「禅」(=「禅定」)は、梵語〔ディヤーナ〕の音訳で「静慮」(cf.黄老の「静」)と訳されています。

もともと“考える”という意味に由来するとも言われています。命題(迷い)をトコトン「考える」ことがポイントです。

易には第六感〔シックスセンス: 霊感・インスピレーション〕の世界があり、黄老にも (A.Waleyも言っていますように)ある種の神秘主義的傾向があります

平たく言えば、“学知”を超えた“覚智”の世界があるのです。

“見えざるものを観、聞こえざるものを聴く”ことによって智〔さとる〕(覚智)

○ 【一休さんの覚り】  《 夜カラス、カアと鳴いて 一休覚る 》 (by.たかね)

一休さんは、五年の間(“吾いかに生くべきか”の)覚りを求めて、ひたすら座禅と内職に専心いたします。27歳のある夜、カラスの鳴き声を聞いて覚りを開きます。

「夏夜鴉〔ア/からす〕有省」 ―― カラスも一匹・自分も一人、1人の道を歩こう、といったところでしょうか。

“覚る”とは、迷いから覚めることです。迷いのない人には、“覚り”もまたありません。そして、その“覚りのプロセス”は、ドーンと一気にすべてがわかるというものです

3) では、以上に述べた一休禅師の面目躍如たる“句”を紹介してみましょう。

○ 「女をば 法〔のり〕のみくら〔御座〕と いふぞげに 釈迦も達磨も ひょいひょいと出る」

釈迦は仏教の教祖、達磨〔だるま〕は禅宗の開祖です。お釈迦さま、達磨大師は偉大であるけれども(その母が生み育てたのですから)、おっかさんはもっと偉大だということです。

曾子は、「夫子〔ふうし/=孔子〕の道は忠恕のみ」と解しました(「孔子一貫の道」)。孔子(儒学)のいう「仁」とは、思いやりといつくしみ (忠恕・愛・慈悲)です。

「忠」【おのれ】は中する心、限りなく進歩向上する心 = 弁証法的進歩

「恕」【人におよぼす】 = 「女性(母)のクチ」ではなく「女性(母)の世界・領域」 = 造化

cf.「一〔いつ〕なるもの」=「永遠なるもの」=「受け継がれるもの」 / 神道 “産霊〔むすび〕”

○ 「漏地〔うろじ〕より 漏地〔むろじ〕へ帰る 一休〔ひとやすみ〕
雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

漏地は、迷いのこと、漏地は迷いから覚めて“覚り”を開くこと。自分はそのどちらでもなく真ん中にいて一休〔ひとやすみ〕。迷いにも覚りにもとらわれない自由闊達な生き方が示されています。

「有」から「無」への“循環の理”が示され、バランスを保った“中庸”の徳が示されています。

雨・風(=風水、天地自然の代表)は、“無為自然” の境地でしょう。

*「一休」の名は、覚りを開いてからつけられた名前です。

○ 「たらいから たらいへうつる ちんぷんかん」

一休禅師、辞世の句です。昔時〔むかし〕は、生まれて盥〔たらい〕で産湯〔うぶゆ: 生まれた赤ちゃんを湯で清めること〕につかり、死んで盥で湯灌〔ゆかん: 死者を湯で清めること〕しました。死後のことは、ちんぷんかんぷんで分かりはしないという意です。死生観にも、また循環の理が現れていて、私には易的・黄老的なものが感じられます。

―― ちなみに、易数の「八」プラス「八」の八十八歳の長寿(=米寿)で亡くなったと伝えられています。


コギト(我想う)

≪ 一休さんと「易」の発想  ーー 「この橋わたるべからず!」 ≫

日本禅宗と老荘思想の関連が、深いものであることを述べました。ここで、「易」の発想・思考法との関連について付言しておきましょう。

先だっての11月11日(西暦‘11.11.11./元は、平成11年 11月 11日)を、“ポッキー(プリッツ)の日”といいます。タテに「1」が並んでいる象〔しょう/かたち〕からです。

10月10日を“目の日”というのもおもしろいですね。お分かりですか? 「10」を90度下に向けて、2つヨコに並べてみて下さい。易の【兌為沢】の象が“笑う少女”、【離為火】の象が“(両)目”・“めがね”であるのと同じです

音からの連想として、“耳の日(3/3)”・“虫歯の日(6/4)”・「焼き肉」(8/29)・「納豆〔なっとう〕」(7/10)・「豆腐〔とうふ〕」(10/2)の日や、さらに「いい夫婦」(11/22)の日というものまであります。

さて、一休さんといえば、小坊主のころの“とんち”で有名です。“この橋わたるべからず”と書かれた高札に対して、「はし〔橋→端〕をわたらず真ん中を通りました」と言ったお話は有名です。

これらのように、前提条件そのものを変えてみるのが、平行思考、右脳的思考です。これらは易の思考・発想法と同じです。そしてそれは、黄老のものの見方とも重なるところがあると、私は想います。

左脳ばかりを使って生きている人の多い現代。右脳的思考、左右の脳をバランスよく用いることが望まれます。とりわけ、指導者(リーダー)はそうです。そのことは、西洋の歴史に照らしてもよく解かります。

西洋古典文化の源、ギリシアの理想像は「調和のとれた人間」であり、その“再生”であるルネサンスは「普遍的人間」でした。

ついでに、この右脳的思考は、“ボケ(老人性痴呆)”の防止・“アルツハイマー性痴呆”の予防にあずかっているともいわれています。

超高齢社会の進展するわが国において、その意味でも重要と考えられます。


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