【 41章 】/関連70章

(同異・第41章) 注1)
 ―― 「道」のありかた/ 「大器成」 → 「大器成」 注2)

§.「上士聞道」 〔シャン・シ・ウァヌ・タオ〕 

注1) 老子の説は、“逆説的”な文が非常に多いです。 「同異」は、“異を同じくす”ですから、一見相反するように見えることがらも、とどのつまりは同じである、ということかも知れません。

注2) 「大器晩成」の四字熟語・箴言〔しんげん〕は、『老子』が出典であることも意識されぬほど広く人口に膾炙〔かいしゃ〕して用いられてきました。しかし、近年の帛書老子の発見により晩成」は誤りで「免成」が正しいことが判明しました。2000年近くも親しまれ教え導いてきた「大器晩成」も善し。2000余年以上も前に説かれた、老子本来の思想の表われである「大器免成」も、また善しです。
余事ながら、私は(運命学的に)晩年運の人間で、この「大器晩成」を一つの人生の励みとして頑張っております。然るに、それが「大器免成」で“永遠に完成しない=大成することはない”の意とすると、 ―― いや、それもまた善しと想っているところです。


○「上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以為道。 故建言有之。 |
明道若昧、進道若退、夷道纇(類)。 |
上徳若谷、*大白若辱、☆広徳若不足。|*
補注1)
建徳若偸、質真若渝。 |
(*大白若辱、)大方無隅、※大器、大音希声、大象無形。|  →  ※
補注2)
道隠無名。夫唯道善貸且成。」

■ 上士は道を聞けば、勤めて之を行う。中士は道を聞けば、存〔あ〕るが若く亡〔な〕きが若し。下士は道を聞けば、大いに之を笑う。笑わざれば以て道と為すに足らず。故に建言〔けんげん〕に之有り。 |
明道は昧〔くら〕きが若く、進道は退くが若く、夷道は纇(類)〔らい(るい)〕なるが若し。 |
上徳は谷の若く、大白は辱〔じょくなるが/じょくせるが/けがれたるが〕若く、広徳は足らざるが若し。 |
建徳は偸〔おこたるが(怠)/とうなるが〕若く、質真は渝〔かわるが(変)/ゆなるが〕若し。|
大方〔たいほう〕は隅〔ぐう〕無く、大器は晩成〔ばんせい〕し(晩〔おそ〕く成り) 補注2)
大音〔たいおん〕は声希〔まれ/かすか〕に、大象〔たいしょう〕は形無し。 |
道は穏〔かく〕れて名無し。夫れ唯だ道のみ善く貸し且〔か〕つ成す。 |


《 大意 》

最も優れた人物(学者)は、「道」について聞いたら、力を尽くしてこれを実践しようと心がけます。中位(普通)の人物は、「道」について聞いても深く理解しないから、心に存しているようでもあり亡〔うしな〕っているようでもあり、頼りないものです(=さして気にも留めないでいます)。最も劣った人物は、「道」のことを聞かされると、(荒唐無稽の放言・大ボラとして)あざけり大笑いします。(それで、私〔=老子〕が思いますに、逆に) くだらない人物に、大ボラ(駄ボラ)として笑われるようなものでなくては、真の「道」として尊重する価値はありませんよ。 |

ですから、金言(諺〔ことわざ〕・箴言〔しんげん〕)に次のようなことがいわれています。

≪・本当に明るい道はぼんやり暗いように見え、〔「道」に明らかなものは(明智を表に出さないので)、一見ぼんやりと暗(昧)いようにみえ、〕 / ・本当に進んで行く道は退いているように見え、〔真の「道」を進み行く者は、(無為をむねとしているので)逆に退歩しているようにみえ、〕 / ・まことの平坦な道は、起伏(でこぼこ)があるかのように見えます。〔 ― 自然の起伏に従うので ―凸凹に見えるのです〕// ・至上の徳の有様は、深い谷のよう(に空虚)であり、〔※谷を「俗」に作ると、徳を表に出さないので一見低俗なものに見える、の意です〕 / ・あまりに純白なものはかえって黒ずんでおり、〔あまりに潔白な人は、(塵と同化して暮らすので)一見汚(辱)れているようであり、〕 / ・広大な徳は何かまた不足したものがあるようであり、〔広大な徳を備えた人は、あまりに広すぎて一見愚者のようにみえ、〕// ・確固とした徳は、かりそめのもののように見え、〔しっかりした徳を身に付けている人は怠け者(空っぽ)のようにみえ、〕 / ・質朴で純真な徳は、うつろいやすいように見え、〔質朴で純真な者は、逆に変わり易い(不信の)ように取られます。〕/・真に大いなる方形〔四角・角のあるもの・箱(直方体)?〕は隅がないように見え、// ・真に大きな器はいつ完成するかわからぬほど時間がかかって出来上がり、 / ・真に大きな音は耳に聞き取れず、 / ・真に大きな象〔すがた〕には形がないのです。≫ |

(以上にあげた12の諸相は、みなその陰に伏せられた道の作用があるのです。が、このように、) 

道はその姿が隠れていて、名を示さず(本質を表現しようがありません)。それにもかかわらず、この道だけが、よく万物に力を貸して成就させることができるのです


補注1) 建言の12の言葉を、「韻」によって考えてみますと、3句ずつのグループで4連が続いていることになります。すなわち、「昧」・「退」・「纇」/「谷」・「辱」・「足」/「偸」・「偸」・「隅」/「成」・「声」・「形」が押韻〔おういん〕しています。
次に意味のグループで考えてみますと。最初は「道」のグループ。次を「徳」のグループと考えて、「上徳」の句の下にあって3つの「徳」の間に混じっている「大白」の句を後に移して「大方」を説く、「大」の5句のグループとする考え方もあります。(by.金谷治『老子』 p.136)

補注2) 〈 「大器晩成」 と 「大器免成」 〉
今本〔きんぽん〕『老子』で、道の本質をさまざまに表現を変えて述べている部分です。原文は、「大方無隅、大器  、大音希声、大象無形」とあり、 無隅、希声〔希は否定の語〕、無形、が否定であるのに、晩成だと肯定(遅いが完成する)の意の文言になってしまいます。不自然です。

それに対して、「晩成」は、帛書乙本では免成(甲本では欠落)、楚簡では曼城〔まんせい:無成の意〕となっています。「免成」だと免〔まぬが〕れるの意で否定です。「曼城」も、曼は免と通用し、城は成の借字です。そうすると、真の大器は、永遠に完成することがないの意となります。これだと、文脈によく適います。

以上のように、「大器晩成」は「大器免成」が本来の意義であったのです。真に大いなる器(=人物)は完成しない、完成するようなものは真の大器ではないということです。これこそ、老子の思想によく適うというものです。

ところで、易の思想は、無始無終、循環の理です。『易経』 64卦は、63番目が【水火既済〔すいかきさい/きせい〕】で、完成・終わりの卦です。 64番目、最終の卦が【火水未済〔かすいみさい/びせい〕】で、未完成の卦です。即ち、人生に完成というものはなく、また再び 1番目、上経最初の卦【乾為天〔けんいてん〕】(もしくは、31番目、下経最初の卦【沢山咸〔たくさんかん〕】)に戻り、こうして、永遠に循環連鎖いたします

私見ですが、こうして不思議と然〔しか〕るべく、老子の真意と易の深意が重なりました。老荘と儒学の 2つの形而上学は、つきつめれば「一〔いつ〕」なるものなのです

なお付言しておきますと。広く知られ続けています「大器晩成」には、すでに 1800年以上の歴史があります。“真の器量人であればこそ世に認められるのに時間がかかる、たゆまぬ努力を重ねることで大いなる完成がある”ということで、あるいは慰められあるいは励まされる言葉です。これはこれで、良い格言・言霊に違いありません。

(以上、たかねブログ・儒灯 “「大器晩成」と「大器免成」”の注、抜粋引用)


・「上士・中士・下士」
士に3種の別があるとして、道に対しても3種の見解があるとしています。そして、逆にその反応から真の「道」を判じるというユニークな論法です。そして怖いほど、現代(日本)にもそのまま通じる洞察力、アイロニカルな逆説の真理に苦笑をもって感心・納得せざるを得ません。人間というものは、内面・精神においては、いかな進歩しないものとみえます。
ちなみに、儒学では聖人―君子ー大人ー小人ー愚人と5ランクに分けます。さしずめ、現代は、“下士/小人・愚人天下に満つる時” ・・・ といった感です。

→  コギト(我想う) 
―― 敗戦後の復興期・経済的繁栄期を経て、“政治家”を笑いものにする、バカにすることをもってインテリゲンチュアー〔進歩的知識人・教養人〕でもあるような風潮がとみに“蔓延”しています。“政治”がメディアを通じて“見せ物”に堕しています
(“経営の神様”・君子的経営者と言われた)故・松下幸之助氏は、最晩年に、かかる日本の将来を憂いて、日本の善き指導者を育成すべく、私財を投じて「松下政経塾」を設立されたと聞いています。国政・地方政治で「松下政経塾」出身の政治家が誕生し数を増しています。本年(‘11.9)には、その一期生である野田佳彦議員が首相に就任されました。が、さて、これらの御歴々、中身の方は如何なものでしょうか?
思い想いますに、確かに、政治家の“質(資質・中身・見識胆識)”において非常に浅薄なものがあります。例えば、明治期の政治家と比べれば雲泥の差です。何より“志”・“徳”の差甚だしいものがあります。身近というより卑近になり、近所のおじさんやおばさん、若者が“議員バッジ”を冠しているのです。TVで見たことのあるタレントや場違いな人々が、“(人)龍”でもないのに“雲(=人民・選挙)”に乗って天空を飛び回って(国家のかじ取りをして)いるのです。まことに、現今〔いま〕の時勢、情けなくも危ういものがあります。

・「建言有之」
金言・格言。一説に書物の名でもあると言います。金言・格言・諺〔ことわざ〕集の類かも知れません。永久に記憶されるべき言葉の意。/ 古〔いにしえ〕の立言者はかく言った。――The sentence−maker has thus expressed themselves :

・「大白/大方/大器/大音/大象」
4句(「大白」を入れれば5句)に「大」がついています。老子が「大」を冠すると、そのものは世俗を超えた(形而上的)存在となります。この「大」は、大小の小に対する相対的“大”ではありません。小・大を超えた、絶対的“至大”・“無限大”です。(《25章》にも老子の絶対「大」について説かれています)
この「大」を用いて常識を超えた論議にするのが、老子一流の逆説的論法です。ここでは、見事にそれを連ねています。逆説的論法(真理)の白眉です。

老子の「大」 = 〔∞〕 / 絶対的大

「大器晩成」については、(1800年ほども誤用され続けてきたように)大小の大として扱うことで、世間の常識とマッチいたしました
ex. 直接には古代中国の祭具 「鼎〔かなえ〕」・万里の長城〔2万1千キロ余、これまでの2.4倍の長さ、‘12中国政府発表〕・竜門の石窟/エジプトのピラミッド・ローマの(軍・水)道・ A.ガウディの“サクラダ・ファミリア〔聖家族教会〕”/水戸黄門(光圀)の『大日本史』〔397巻、249年かけて完成〕・ 塙〔はなわ〕保己一の『群書類従』〔国学者、5歳で失明、ヘレン・ケラーが尊敬、正編530巻、続編1150巻〕 ・・・etc.
ちなみに、人物も大きくなると(器量人を超えて)捉えようがなくなるということです。「器〔き/うつわ〕」は用途が限られているというころです。孔子の弟子では、子貢〔しこう〕は「大器量人」であり、顔回〔淵〕は孔門随一の「君子」人であったのです

・「道隠無名」
Tao lies hid and can not be named.

・「道善貸且成」
1)“善くモノに力を貸し与えて、且〔か〕つその本性のままに大成させます。” 
この「且」を“しばらく”と訓すると、意味が次のように違ってきます。
2)“道は善く力を貸して且〔しばらく〕成さしめます。”――つまり、例えば、種子〔たね〕にpower〔力〕” を貸して発芽させ、生えたらその “power” を回収するように、ある期間だけ力を付けてやりその用(=はたらき)が終われば返却してもらうということです。また、
3)“始まりを善くし終りを全うする: It is good at beginning and finishing.”の意に解するのもよいでしょう。

※ 興味深いことに、A.Waley は、商売の比喩と解しています。 ちなみに、「貸」は『論語』には見られず『孟子』には一度だけ使われています(勝文公章句上)。戦国時代に商業が発展するようになるという、後の社会経済状況をこの語が反映しているとも考えられます(小川環樹氏による)。
また私は、「徳」=「得」であることも、興味深く思っています。


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


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