こちらは、前の記事の続きです。

・「広徳若不足」: ☆↓

研 究

≪中庸・中徳 ・・・ 「広徳若不足」/「衣錦尚絅」/「黄裳元吉」/「亢龍悔有」≫
→ 「被褐懐玉」〔ひかつかいぎょく〕 (§70章)

「広徳若不足」は、広大な徳は満盈〔まんえい〕を忌む”=(“盈満の戒”)/(「亢龍悔有」)ということです。
満(=盈:ピーク)ちれば欠ける、のでピークを嫌います ―― そうすると、満ちなければ欠けることもない、という理にもなります。「100%」・「満月」・「過」 ・・・を嫌うのは東洋的な気がします。平たく言えば“腹八分目”ということでしょう。個人の出世・利益も、会社の発展拡大・儲けも然りです。後に(あるいは子孫に)、空〔あき〕=無を少し残しておくのがよいのです
過不及を避ける儒学の徳、「中庸・中徳」。中=ホド〔程〕・ホドホド。少し控える → 中庸の実現です。これは、易の【謙】・【乾】・【坤】・【既済】卦などの教えるところでしょう。
―― 原典をひろってみますと。


『中庸』

○「詩曰、衣錦尚絅。悪其文之著也。故君子之道、闇然而日章。小人之道的然而日亡。」(第33章)

■「詩に曰く、錦を衣〔き〕て絅〔けい〕を尚〔くわ〕う。其の文〔ぶん〕の著わるるを悪むなり。故に君子之道は、闇然〔あんぜん〕として日に章〔あき〕らかに、小人の道は的然として日に亡〔ほろ〕ぶ。」

*It is said in the Book of Poetry “Over her embroidered robe she puts a plain, single garment“ Intimating a dislike to the display of the elegane of the formar.Just so, it is the way of the superior man to prefer the concealment of his virtue,While it daily becoms more illustrious.

『詩経』には、「錦を衣〔き〕て、褧〔ひとえ〕とする」とあります。「絅」も「褧」も単衣〔ひとえぎぬ〕、打ち掛けです。麻の粗布でつくったものです。 つまり、錦の美しい衣〔ころも〕を着て、その上に薄い粗布を重ね着するのです。その意図は、錦のきらびやかな「文」〔あや/=彩〕が外に出過ぎることを嫌うからなのです
したがって君子の道も、これに同じく、「絅」を加えるように謙遜です。ですから、外見・ちょっと見は、闇然〔あんぜん〕と暗いようですが、日に日に内に充実してある徳が章〔あき/明〕らかになってきます。反対に小人は、はじめはカッコをつけて明らかですが、中身が伴っていないので日に日にメッキが剥がれていくというものです。 想いますに、付き合っているうちに漸々〔ぜんぜん〕と尊敬の念を持たれるのが、東洋的君子人なのでしょう。『論語』にも孔子が尊敬していた晏子〔あんし〕のことが語られています。

■「子曰く、晏平仲善く人と交わる。久しくして而も(人)之を敬す。」 (公冶長・第5)

久しくしても「敬」を失わない。狎〔な〕れ親しみすぎて「敬」を失いがちなものです。晏平仲は長く尊敬され続けたのです。(“久敬〔きゅうけい〕”)

→  コギト(我想う) 

日本の儒学は、とりわけ江戸時代にその文〔あや〕花開きます。その影響かナ、と想っていることがあります。それは、とりわけ日本の着物(呉服)の中によく現れている“裏まさりの美学”です。すなわち、着物は、表は落ち着いた中間色ですが、裏地の見えない所で派手な赤や青の色を用いてオシャレしたのです。(チラリズムの美学) 伝統的に形成された、日本人の優れた感性・美意識だと想います。社会的背景としては、庶民に質素倹約を奨励した幕府の方針があったのでしょう。が、同時に思想的背景としては、この儒学的(中庸)考え方・価値観があったのだと想います。

ところで、私は教職にありますが、優れた“先生”というものは、10も20も学んで(教材研究して)その「1」くらいを教えるものです。日本のメディアに登場している“評論家”というものの多くは、「1」くらいの浅い学びで10も20も、見識なく語るがごときです。(呆れ)感心いたします。

cf.「朱 庵〔かいあん〕」=朱子 (は日の暮れ、暗い)/ 「山崎斎〔あんさい〕」


『易経』

○「黄裳、元吉。 象伝曰。黄裳元吉、文在中也。」

■「黄裳〔こうしょう〕、元吉なり。」 / 「象〔しょう〕に曰く、黄裳元吉なりとは、文〔あや〕・中に在ればなり。」 (【坤為地】 5爻・辞/彖)

「黄裳」は黄色いもすそ〔スカート〕。謙遜な坤の徳のたとえです。中徳・坤徳の厚いことを説いています。「坤為地」卦は、「乾為天」の「剛健の貞」に対して「従順の貞」、“永遠に女性なるもの”としての大地(母なる大地)です。『詩経』にも、「緑衣黄裏(うちぎ)」・「緑衣黄裳」と祖先を祀〔まつ〕る祭服が表現されています。祖霊の象徴としての「黄鳥」も登場しています。
「文」は、彩〔いろどり〕、かざり、美しき坤徳です。 「中」は生成化育の力、神道における産霊〔むすび〕・天御中主神〔あめのみなかぬしのかみ〕、ヘーゲル哲学弁証法における止揚〔しよう  /= 揚棄・アウフヘーベン: Aufheben 〕 です。

○「亢龍悔有。 象伝曰。亢龍悔有、盈不可久也。」

■「亢龍〔こうりゅう〕悔あり。」/「亢龍悔ありとは盈〔み〕つれば久しかるべからざるなり。」 
(【乾為天】上爻・辞/彖)

「亢」は、「高」に通じ、極(ピーク)の意です。飛龍が勢いに乗じ過ぎ極〔きわみ〕に達し、昇りすぎたことによってその “power” を失い、身が危うくなり悔いています。盈〔み〕つるものは必ず欠ける道理です。決していつまでも、久しくピークの状態を保つことは出来ないのです。

○「濡其首。。 象伝曰。濡其首、辧何可久也。」

■「その首を濡らす。辧未△笋Α佑掘」 / 「その首を濡らす、劼靴箸蓮何ぞ久しかるべけんや。」 (【水火既済】 上爻・辞/彖)

既済の卦の極にあるこの爻は、まさにその命脈が尽きようとする時です。まるで、ただただ前進して川の深みにはまり、首を濡らしている狐(狐は【坎】の象)のような危うさです。どうして、久しくそのままの状態でいられましょうか。きっと厄災に陥ってしまいます。


『老子』・(§70章)

○「是以聖人 被褐(而)懐玉

■「是を以て聖人は、褐〔かつ〕を被〔き〕て(而〔しか〕れども)玉を懐く」

そういうわけで聖人は、褐(麻のそまつな着物)を着ていても、(何らの貴さを外に見せませんが)(しかし)その懐〔ふところ〕には宝玉(=高貴の代表)を抱いているのです。
≒ “錦を衣〔き〕て絅〔けい〕を尚〔くわ〕う”

cf. ♪‘ぼろは着てても  こころの錦
どんな花より  きれいだぜ〜’♪

(「いっぽんどっこの歌」
/水前寺清子)


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横山大観 「被褐懐玉」



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