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【 20章・48章 】

(異俗・第20章) 注1) 《 老子の 「絶 学」 》 

§.「 絶学無憂」 〔チエ・シュエ・ム・ユウ〕

注1) 「学」。『論語』の冒頭(=小論語)は、“学”について記述しています。(「学而時習之、不亦説乎。」)

老子のいう「学」は末学・雑学・曲学・小知 ・・・のことです。

儒学にも、真儒と俗儒、活きた儒者と腐った儒者とがありましょう。知にも、大知と小知があります。智(=善き知)もあれば痴(=愚かな知)もあります。

老子自身、当時の偉大な知識人・読書人であったと推測できます。(周の守蔵史=史官司書であったらしいですから、書庫で書籍に囲まれて生活していたと推測されます。)おそらくは、うんざりするほどの読書・学問に食傷気味であったことでしょう。

「異俗」の章名は“世俗と異なる”の意。“隠居・隠棲”の意味ではなく、世俗の人々が末学を重視し競い合い、欲望を求めているのに対して、自分はそんな世俗とはかけ離れ生き方をしているとの意味です。今の日本の現状からみても、耳が痛い主張ですね。

○ 「絶学無憂。唯之與阿、相去幾何。善(美)之與悪、相去何若。☆人之所畏、不可不畏。荒兮其未央哉。 |
衆人熙熙、如享太牢、如春登台。我独泊兮其未兆、如嬰児之未孩。*纝纝兮若無帰。衆人皆有余、而我独若遺。我愚人心也哉、沌沌兮。 |
俗人昭昭、我独昏昏。俗人察察。我独悶悶。澹兮其若海、飂兮若無止。衆人皆有以、而我独兮頑似鄙。我独異於人、而貴食母。

■ 学を絶てば憂〔うれ〕いなし。唯〔い〕と阿〔あ〕、相い去さること幾何〔いくばく〕ぞ。善(美)と悪と、相い去ること何若〔いかん〕ぞ。☆人の畏るる所は、畏れざるべからず。荒〔こう〕として其れ未だ央〔つ/尽〕きざるかな。 |
衆人は熙熙〔きき〕として、太牢〔たいろう〕を享〔う〕くるが如く、春に台〔うてな〕に登るが如し。我れ独り泊〔はく〕として其れ未だ兆〔きざ〕さず、嬰児〔えいじ〕の未だ孩〔わら/がい・せざる〕わざるが如し。*纝纝〔ルイルイ:原文はにんべん〕として帰するところ無きが若〔ごと〕し。衆人は皆余り有り、而〔しか〕るに我は独り遺〔うしな/とぼ・しき/わす・るる〕えるが若し。我は愚人の心なるかな沌沌〔とんとん〕たり。 |
俗人は昭昭たり、我れは独り昏昏たり。俗人は察察たり。我れは独り悶悶たり。澹〔たん〕として其れ海の若〔ごと〕く、飂〔りゅう〕として止まる無きが若し。衆人は皆以〔もち:用〕うる有り、而〔しか〕るに我れ独り頑〔かたく/かん〕なにして鄙〔ひ〕に似たり。我れ独り人に異なり、而して食母〔しょくぼ〕を貴ぶ(=母に食〔やしな:養〕わるを貴ぶ)。


《 大 意 》

学問ををやめてしまえば、思い患うこともなくなります。

唯〔はい:ウェー〕と対〔こた〕えるのと阿〔ああ・おい:ア〕と答えるのと、(その心中の敬意は)どれほどの隔たりがあるのでしょうか。美しいものと醜いものと、これもどれほどの隔たりがあるのでしょうか。【 ☆ 意味不明 / ex.人々の畏れるものを私も畏れなければならないとしたら、荒漠としてキリがないことです。】

誰もが皆ウキウキとして、楽しそうにして、まるで大ごちそうを受けているようで、まるで春に高台に登って眺めているようです。でも私だけは、一人ひっそりとして何の気持ちも起こさず、(情の発動しないことは)あたかもまだスマイル〔微笑〕すらしない赤子のようです。ぐったりとして、小舟に乗って帰るべき家さえないようです。多くの人が(学問によって知恵を)有り余るほどに持っているのに、私だけは一人、何もかも忘れてしまったようです。さても私は、愚人の心をもっていることよ、沌沌〔とんとん〕として暗くはっきりしないのです。

世間の人々は、キラキラと輝いていますが、私だけは昏愚(にぶくてぼんやり)に暮らしています。世間の人々は、利発ではっきりしていますが、私だけは頭がボーとして鷹揚〔おうよう〕としています。こころ広きこと海のようです。ひゅうひゅうと止まない大風のようです。多くの人は、みな才を以〔もち〕いて何かを成そうとしますが、私だけは(無能で)頑固で野卑〔やひ〕です。私だけが、世人と趣〔おもむき〕を異〔こと〕にしていて、(赤子のように)自然という母に抱かれて乳養されるのを悦ぶのです。(=「道」という乳母に養われることを大切にしているのです。)


● < 「絶学」 (§20章) >

 「 絶学とは、学問を無くするという意味ではなくて、絶対とか絶大とかいう、 absolute つまりつきつめた、という大きな形容詞であります。目や耳で取り入れたような浅薄な知識・理論などを解脱〔げだつ〕して、本当の学問をつきつめるということであります。 絶学無憂、その時は無憂である。『人生、文字を知るは憂患のはじめなり』などと申しますが、人間色々な知識や理論など持つようになると、又煩悶〔はんもん〕が多くなる。然しそれをつきつめて超脱すると、憂いも亦自からにして無くなる。」  

(*安岡・前掲「老子と現代」 p. 119 引用)


・「唯」/「阿」: 「唯」は“はい”で丁寧な応答のことば。「阿」は“ああ/うん/おい”で礼儀をかいた横柄〔おうへい〕な返事の言葉。『礼記〔らいき〕』では、この「唯」「阿」の区別についてやかましく、“礼”の学問をしていると、この“はい”と“ああ/うん/おい”との区別を面倒くさく覚え込まされることになります。
Between yes and yea, how small the difference!
(Kitamura adj. p.69)

・「善(美)之與悪」: 「善」は帠書・傳本・楚簡では「美」。「悪」は“醜”の意。2章にも、「美」「悪」との対比があります。

・「食母」: 「食母」は養う母。乳母〔うば〕のこと。「母」は末に対する本〔もと〕、「食母」「道」を意味します。


コギト(我想う)

≪「絶学無憂」≫

★ 《 学校教育:2つの意味での「憂」 》
1.“(末)学”によって害される憂い   2.“学”を強制され、学をしないことで憂える

「絶学無憂」は、老子の逆説的極言です。私は、この憤慨激語が、(教職に在って)教育の現場最前線にいると、よくその深意が理解〔わか〕ります。

現今〔いま〕の、わが国の教師・知識人と称する御人たちの浅薄で奥行のない学問、すなわち本〔もと〕から外れた末学・曲学には病的な知(=痴)を感じずにはいられません。

老子は、学問の堕落に憤り、この“浅薄で奥行のない学問”に対して、改めて「愚」に復〔かえ〕って省み省〔はぶ〕くことを警告しているに違いありません。学問によって知恵は増しますが、同時に大偽も増します。(§48章) いわんや、その学問が末学・曲学であれば、その弊害は度し難いものがあります。

そんな学問で憂慮・苦労するなら、いっそのこと学問を絶ってしまい、「無知」・「愚」の本元に立ち返る方がマシというものです。



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