こちらは、前の記事の続きです。

コギト(我想う)

学問には、2つの側面があります。1)個人として自己自身を修める“人間学”、 2)社会人として心得ておくべき“時務学、です。本末〔ほんまつ〕の視点から言うなら、“人間学”が本〔もと〕で “時務学”が末〔すえ〕です。そして、この本末が相応じて、立派な“人と成る(成人)”ことができるのです。

ところで、彫塑〔ちょうそ〕という言葉をご存知でしょうか? 美術の専用語です。美術のジャンルで平面的な絵画〔かいが〕に対して、立体的な造詣〔ぞうけい〕を一般に「彫刻」と呼んでいますね。例えば、ミケランジェロやロダンや高村光太郎を「彫刻家」と称しています。この、立体的な造詣は厳密にいうと「彫塑」といいます。すなわち、石や木を削り彫って形作る「彫刻」と粘土をくっつけて形作る「塑像〔そぞう〕」の両方です(粘土はその後ブロンズ〔青銅〕などに置き換えられます)。英語にすると分かりやすいです。マイナス(=けずる・減じる)過程のカービング〔carving〕とプラス(=くっつける・益す)過程のモデリング〔modeling〕です

さて、2つの学問は、学修のプロセスが、この「彫塑」のように逆といえます。“時務学”の学修(=問学)は、専ら知識の確保・積み重ねです。一方“人間学”の学修(=求道)のほうは、本来自分が持っている欲望・執着や不純なもの(仏教でいう煩悩〔ぼんのう〕)を捨て去ることです。覚〔さと/悟〕り、覚智〔かくち〕のためには、学知を捨てなければならないこともあります。既得の(末梢的知識)学知がジャマをして、それがベールとなって本質・真理が観えないということは、ままあります。 ―― そういう場合は、“賢いバカ者”(病的な知)といったところです。 
→ cf.「知」と「智」と「痴〔おこ〕」について。

私は、このカービングとモデリング〔carving and modeling〕 のことを、(易卦にもあります)【損】(マイナス)と【益】(プラス)の用語で表したのかも知れないと私〔ひそか〕に想っています。そして、この両者(損・益、マイナス・プラス)ともに大切であり、両者の「中和〔バランス〕」をもって、人間の学修が完〔まっと〕うするのではないかと想っています。

老子は、学問そのものを否定したのではないのです。逆説的表現をとっていますが、(当時の)儒学の“時務学”偏重の弊〔へい〕を批判して“人間学”に重点をおいている、ということでありましょう。絶学無憂」の深意を、よくよく味わわねばなりません。真の「道」は、善き学問によって知得されます。このことは、そもそも老子自身も学問研鑽によって己〔おの〕が「道」を開くことができたことで明らかでしょう。

付言しますに、教育学的に表現しますと、1)の“人間学”が“徳育”であり、2)の“時務学”が“知育”といったところでしょう。私は、現代日本の教育の貧困・紊乱〔びんらん〕の原因が、まさに“人間学”・“徳育”の欠如、“時務学”・“知育”の偏重にあると考えております。この古〔いにしえ〕の老子の教えが時と場所を超えて、今、時の宜しきを得た(「時中」)警鐘なのだと思い想います。


cf.【荘子の寓話】 《英智の珠〔たま〕》

黄帝が、崑崙〔こんろん: 空想上の仙山〕の丘に登って帰ってきた時、その「玄珠」〔げんしゅ: 神秘的な珠〔たま〕の意。ここでは無為自然の「道」の象徴/=英智の珠〕がなくなっているのに気がつきました。

そこで、物知りの「知」〔ち: 知恵、知識・常識の象徴〕 を遣わして探させましたが見つかりま せんでした。目のよくきく「離朱」〔りしゅ: 視力・明察力を持つ者の象徴/cf.易の【離】の象意、目・明智と“火”の朱赤色からきているのでしょうか〕 に探させましたが見つからず、弁(=口)の立つ「喫詬」〔かいこう: もとは口論・罵りの意。ここでは口弁の象徴〕 に探させましたが見つかりませんでした。

最後に、ぼんやりものの「象罔」〔しょうもう: かたち なし。罔象に同じで形象がはっきりしない もの、無形の意。真の智恵の象徴〕 が探しに行き、見つけてきました。黄帝はいいました。「いぶかしことだ。象罔などが見つけ出したとはねェ!」

(『荘子』・天地篇 第12)

→ 真実の「道」は、口・耳・目・・五官を用いては得られません。五感・思慮分別を超えた境地 = “覚智の世界”なのです。無心・無形のものであってこそ、始めて探しあてられたところがこの寓話のミソです

(有名な「渾沌〔こんとん〕、七竅〔しちきょう〕に死す」も同様の意図の優れた寓話です。人間的な“有為”・賢〔さか〕しき“知”が、“(無為)自然”の本質をダメにしてしまう事を象徴的に説いています。痛烈な風刺をきかせた『荘子』寓話の傑作です。/『荘子』・応帝王編第7》)


cf.【一休さんの覚り】  《 夜カラス、カアと鳴いて 一休覚る 》(by.たかね)

一休さんは、五年の間覚りを求めて、ひたすら座禅と内職に専心いたします。27歳のある夜、カラスの鳴き声を聞いて覚りを開きます。

「夏夜鴉〔ア/からす〕有省」 ―― カラスも一匹・自分も一人、1人の道を歩こう、といったとろでしょうか。“覚る”とは、迷いから覚めることです。迷いのない人には、“覚り”もまたありません。そして、その“覚りのプロセス”は、ドーンと一気にすべてがわかるというものです


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