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【 8章66章/(68章)78章 】

( 不争謙下 )

《 老子の思想の“象〔しょう〕”は、 ・・・ 水 》

易性・第8章) 注2)  §.「 上善若水 〔シャン・シエヌ・ヂュア・シュエ〕

注1) 水の象〔しょう/かたち〕は、黄老思想の要〔かなめ〕です。

上善若水〔じょうぜんじゃくすい:上善は水の若し〕」(第8章)と、水を無為自然、最高の徳(≒道)の象としているのです。(“不争の徳”/“不争謙下”)

第78章にも「天下に水より柔弱〔じゅうじゃく〕なるは莫〔な〕し。而〔しか〕も堅強を攻むる者、之に能〔よ〕く勝〔まさ〕るなし。」とあり(“柔弱の徳”)、第66章にも「江海の能く百谷〔ひゃっこく〕の王たる所以〔ゆえん〕の者は、其の善く之に下〔くだ〕るを以て、故に能く百谷の王たり。」とあります。

注2) 「易性」は、易学の“変易”(変化する性質 /cf.易の三義: 変易・不易・簡易)のことです。

「水は方円〔ほうえん〕の器に従う」と申しますように、水は変幻自在の性質を持っています。そして、流れ、変化して止みません。さらに、常に低きへと向かいとどまっています。

 ―― それでいて、時に中〔ちゅう〕して、最強のパワーを発揮します。老子はこの水を、最高の徳を持つものとして、己〔おの〕が思想の象としたのです。

○ 「*上善若水。水善利万物而不争 ※1。処衆人之所悪。故幾於道。 |
(居善地、心善淵、与善、言善信、政善治、事善能、動善時) |
夫唯不争 ※2 、故無尤。」

■ 上善は水の若〔ごと〕し。水は善〔よ〕く万物を利して(而〔しか〕も)争わず。衆人の悪〔にく〕む所に処〔お〕る。故に道に幾〔ちか〕し。 |
(居は地を善〔よ〕しとし、心は淵を善しとし、与〔まじわ〕るは仁を善しとし、言は信を善しとし、政は治を善しとし、事は能を善しとし、動は時を善しとす。) |
夫れ唯だ争わず、故に尤〔とが〕無し。

 “ THE HIGHEST good is like that of water.The goodness of water  is that it benefits the ten thousand creatures; yet itself does not  scramble, but is content with the places that all men disdain. It is this that makes water so near to the Way.”    (A.Waley adj. p.151) 

 “ Highest good is like water. Becausue water excels in benefiting  the myriad creatures without contending with them and settles where none would like to be, it comes close to the way.” (D.C.Lau adj. p.12)


《 大意 》

最高・最上の善(至善)とは、例えれば “水”のようなものです。“水”は万物に恵みを与えなが ら、それでいて競い争うことがありません。誰もが嫌がる卑〔ひく/=低〕い位地に止まっています。ですから、聖人の「道」に似(肖)ているのです。

身の置き所は低いところが善く、(/住居は大地の上が善く、)心の持ち方は深遠なのが善く、人との交わりは仁(=思いやり)を持つのが善く、言葉は(偽りなく)信義〔まこと〕であるのが善く、政治は(平和に)治まるのが善く、事を行うのには有能なのが善く(/ものごとは成り行きに任せるのが善く、)行動は時宜〔じぎ:時の宜しき〕に適っているのが善いのです。

そもそも、競い合うようなことがないからこそ、禍も咎〔とが/=尤〕も身に及ばない(で幸福が得られる)のです。

≪ 黄老(儒学・兵家)思想の象 ≫

変化(自在) = 易〔変易〕 = 水〔川〕 = 無為自然

 (*安岡・前掲「老子と現代」 p.109―110引用)  ・・・ < 水の四徳 > 

 ・第一の徳は、『群生を沐浴〔もくよく〕し、万物に通流するはなり』 水というものは、生きとし生けるものを洗ってやって、そうしてあらゆるものに通じて流れる。あらゆるものを洗って潤してやる。これはである。

・第二の徳は、『清を揚げ濁を激し、滓穢〔しわい〕を蕩去〔とうきょ〕するはこれなり』 清濁にかかわらず、これを奮い立たせて、いろいろなものの滓〔かす〕をすっかり洗い去ってしまう。あらゆる経験に応じてこれを浄化する。これはである。

・第三の徳は、『柔にして犯し難く、弱にして勝ち難きはなり』

・第四の徳は、『江を導き川を疏〔しょ/そ〕し、盈〔えい〕を悪〔にく〕み謙を流すはなり』 これは水の四徳である、と同時に人間の四徳でもあります。こういうところが老子の好みにぴったりで、人間の徳もこういう風にゆけば、所謂融通無礙〔ゆうずうむげ〕であるが、大ていは一方に片寄って、なかなか円通自在〔えんつうじざい〕には参らぬものであります。

・「上善」: 上知、上徳などの「上」で “至善”の意。 The highest excellence.

・「居善地〜」: ( )部の7句は、古注の紛れ込みと解する説もあります。(cf.武内義雄・『老子の研究』) 確かにこの部分はないほうがすっきりしますし、「仁」など老子には似合わない言葉も気になります。

・「政善治」: 政は無為であるから善く治まるのです。政治は自然の理に順うのですから、政策綱領を掲げて自説をアピールすることはしないのです。

cf.民主党による“マニュフェスト”の登場とその不信・惨敗(〜’12.12)
“マニュフェスト”=【離火 ☲】 は、明知・聡明の象意です。が、同時に外見のみで中は偽・空〔から〕の意です。反対に【坎水 ☵】 は、徳に裏付けられた真の智恵の意です。

・「動善時」: 動くにも時に順〔したが〕うこと。易(儒学)も、時に中す(時中)こと、時の宜しき(時宜)に順うことを教えています。機は時と一致して始めて成就します。“夏炉冬扇”では困ります。

・「不争」: → 考察1 参照のこと

・「故無尤」: 禍咎〔かとが〕の乗ずべきスキがないの意。「尤」=「咎」
「咎〔とが〕无〔な〕し」は、『易経』爻辞〔こうじ〕に頻繁に登場する言葉です。「咎」とは、禍〔わざわい/災い〕・過〔あやま〕ち・罪禍・咎過〔きゅうか: さしつかえ・あやまち〕などのことです。爻辞の末文に「咎无し」とあるのは、危ぶみよく後悔して過ちを改めること、また過ちがないようになることです。『繋辞伝』に、「咎无しとは、善く過を補うなり。」とあります。
老子は、あるいは、『易経』をよく読んでいて、思わず『易経』の文言・用い方のスタイルを採ったのかも知れません。

考察1

≪ 老子の「不争」/トピックス〔時事〕 ≫

 【第31章】《 老子の平和主義 》: コギト/老子の“現実的平和主義” に想う

―― スポーツ と 戦い 参照のこと

「不争」・不争謙下は、“水”に顕われた徳であり、黄老思想の面目躍如たるものです。老子の無抵抗主義の顕われであり、イエスと同じく悪に対しても慈しみ謙譲の美徳をもって報いなさいということです。(「報怨以徳 〔怨みに報ゆるに徳を以てす〕」第63章) 「不争」は、『老子』のいたる所で述べられています。

また、「不争」は老子の兵法論(戦術・戦略論)であるともいえます。【第68章】では、直截〔ちょくせつ〕に“不争の兵法論”を述べています。「不争(争わざる)の徳」は、老子得意の“逆説的強者”です。すなわち、“猛々〔たけだけ〕しくなく”・“怒りを見せず”・“敵対せず”・“へりくだって人を上手く使う”者です。それこそが “天道・自然に適うこと”であり “古からの道理”なのです。

有名な孫武の『孫子』にも、「百戦百勝は善の善なるものにあらず」/「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり」(謀攻編1)と、戦わずして勝つことが明言されております。孫子の兵法の至れるものもまた、老子に通ずるのです。

【第8章】では、「不争」“水の象〔しょう〕”・“水の徳”として述べられています。原文を考察してみますと。

◎「水善利万物而不争 ※1」: 水は、(万物に恵を与えながら)とうとうたる旅を続け自然の地形に変化順応して卑〔ひく/=低〕きに就き、先を争いません。

人間界に相当させてみますと、“徳の感化と無為”と表現できるかと思います。徳のある人によって周囲の人々は、自然に(※自然: おのずからしかり、でそれ自身でそうであるもの。“What-is-so-itself” ) 感化・風化されてゆきます。

徳の人は、善く化し成し、化し育むのです。それでいて、徳の人 当人は、一向に自分に徳があることも周囲を善く感化していることも意識していません。

―― 無為なのです。(cf.文学作品で例すると、F.バーネット: 『小公子』のセドリック、『小公女』のセーラ、N.ホーソン: 『人面の大岩』のアーネスト などの“徳の感化と無為”)

“先を争わない”性状は、「老子三宝」(第67章)の第3「世の中の人々の先頭に立たない」〔=後/謙・譲〕ということで強調されています。

◎「夫唯不争 ※2 、故無尤。」: 競い争いして勝とうとしない。そうであれば、禍咎〔かとが〕もなく幸福が得られるのです。

私は、この短い結文に偉大な真理を想います。太古より現在に至るまで、人類の不幸の原因の最たるものは、競い争う(→ 戦争する)ことにありました。有史以来世界の歴史は、また現在の世界も争い・戦いばかりです。 ※補注1) しかも、「争い」は減少するどころか、質量ともに拡大して破滅へと邁進〔まいしん〕しているようです。

水の不争・謙下の徳に、老子の偉大な平和主義・人道主義の顕われを観るのです。

※補注1) 例えば現在(’13.2.)の、極東・わが国の周りの状勢をみてもキナ臭いものがあります。日本は、韓国とは竹島、中国とは尖閣諸島、ロシアとは北方領土をめぐって緊迫しており、北朝鮮は3回目の核実験を実施しました。

「中国は海洋進出を本格化させ、北朝鮮は昨年末の弾道ミサイル発射に続き、12日に新たな核実験も実施。日米双方への脅威が増し、『同盟の強化』で対応するには、集団的自衛権の行使容認に踏み込まざるをえないというわけだ。」

(朝日新聞:“憲法解釈見直し 再燃/安倍首相「環境変わった」”、’13.2.14)

 

 トピックス〔時事 ’13.1〜〕 : 

今、高校運動部・顧問による体罰(暴力?)問題が、メディアを賑わせています。“知育・体育・徳育”の“体育”も荒〔すさ〕んだものです。

また、社会人でも柔道界コーチの暴力(体罰?)指導が顕在化し、メディアに格好のネタ(話題)を提供しています。

それやこれや、スポーツ界での不祥事は後を絶たず、食傷気味です。

柔道・剣道・医道 ・・・ (文化でも、花〔華〕道・茶道・書道・商道 ・・・ )と“道”がつくのは、技〔わざ・テクニック〕だけの “術”(柔術・剣術・医術 ・・・ ) に対して、“武道”が人間精神の修養・徳性の涵養〔かんよう〕を目的とするものだったからです。

今では、“柔道”も“道”とは名ばかりで、ただの野〔や〕な“JUDO〔ジュウドウ”に堕してしまいました。

さて、「勝てば官軍」という言葉がありますが、現在の“スポーツ”は、争い勝つことにのみその精神が堕落しています。

オリンピック競技大会の(金)メダル獲得競争に代表されるように、優勝争い・記録更新争いに終始しています。 ※補注2)

スポーツ(指導者の)体罰・暴力問題も“本〔もと〕”はこの“勝利至上主義”にあります

それは、関係当事者のみならず、メディアの扇動による一般ピープルの、“勝ちさえすれば良い”という野蛮な“拝勝主義”・“偏勝主義”の風潮が因〔もと〕になっているのです

老子は、二千年以上もの古〔いにしえ〕に在って、しかも永きに亘〔わた〕る戦国の時代に在って、炯眼〔けいがん〕にも、勝利争い・記録争いが不幸の源と見抜いていたのです

※補注2) 「メディアは自国のメダル数を数え上げ、多くの国民はそれに一喜一憂する。日本だけに限った現象ではない。」 (朝日新聞:“五輪精神 ほど遠い現実”、’13.2.14)



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