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聖人・君子/ 指導者〔リーダー〕像

【 17章/ (54章)/ 49章/ (26章)/ (58章)/60章 】

(淳風・第17章) 注1) 

《 指導者(リーダー)のランキング 》

 §.「 太上」 〔タイ・シャン〕

注1) 「淳風」とは、“淳朴な風俗” の意です。理想的為政者・君主(現代では指導者)のタイプを4通り挙げ、最上のものは、「無為」の政治を行っているため、人民がその存在を忘れ感じないほどに、ただ在〔い〕るだけのものが善いと述べています。それは、儒学的指導者(仁政)の上におかれています。

○「太(大)上、下知有之。其次親而誉之。其次畏之。其次侮之。 |
不足、焉(安・案)有不。 |
悠(猶)兮其貴言。 功成事遂、百姓皆謂我自然。」

■ 太(大)上は、下〔しも〕これ有るを知るのみ。其の次は、親しみてこれを誉〔ほ〕む。其の次は、これを畏る。其の次はこれを侮る。 |
信 足らざれば、焉(安・案)〔ここ/すなわ・ち〕に信ぜられざること(=不信)有り。 |
悠(猶)〔ゆう〕として、其れ言を貴ぶ。功成り事〔こと〕遂げて(=功を成し事を遂げて)、百姓〔ひゃくせい〕皆我は自然なり(=自〔おの〕ずから然〔しか〕り)と謂う。

*That when his task is accomplished, his work done.
  Throughout the country every one says ‘ It happened of its own accord ’.
(A.Waley adj. p.164)

*When his task is accomplished and his work done. The people all say,‘ It happened to us naturally.’
(D.C.Lau adj. p.21)

*Their work was done and their undertakings ware successful, while  the people all said ‘we are as we are, of ourselves.
(Kitamura adj. p.61)

《 大意 》

太上(=至徳の政治・最高の為政者)は、(ことさらな政治を行わないから/政治家が全幅の信頼を以て託されているので ※注)) 人民は、(いるという)その存在を知っているだけです。その次のランクの政治・指導者は、(その仁慈の政によって)親しみなじんで誉め讃えられます。その次のランクでは、(刑罰を厳しくするので)人民は畏(恐)れます。さらに、その次のランクでは、(智謀・徳望なく法令行われず)人民は軽侮〔けいぶ〕するようになります。 |

(小手先・場当たり的な政治を繰り返して)政治・指導者に信〔まこと: 誠実さ〕が足りないと、人民は信用しなくなります。 |

(政治・指導者は、)悠然として(=ためらい慎重に)言葉を貴べば(=政令をだすことを愛〔おし〕み口出ししなければ)、そうすれば、功業は成就し政事が遂行されても、人民は(指導者の徳によって安泰が招来されたことに気付かず) “我が自然〔自分はひとりでにこうなった、政治の力は何も益を与えてはいない〕”というでしょう。(これが無為の政治が徹底した有り様なのです。)

< 第18章 ※以下17章関連 >
人々は孝子だの忠臣だのと礼賛するけれども、これは人間の堕落を証明するものでしかない。 人間は健全であれば、仁義も道徳も、孝子・忠臣もいらない。いらないのではなくて、出てこなくて済むのである。まことに老子らしい考え方であります。
※したがって、一番偉い至極の人間は『之あるを知らず』、世間はその存在すらわからない。俗人・凡人の目につかないのです。
次は『之に親しみを誉む』、よい人だ、立派な人だ、と民衆が親しみ礼讃する。 三番目のクラスの人間になると『之を畏〔おそ〕れる』、あの人はできる人だ、怖い人だ、といって畏れる。
最後は『之を侮る』、あんな奴はだめだと侮る。これも老子らしい考え方です。」

(安岡正篤・『人物を修める ーー東洋思想十講―― 』・所収「第十講 道家(黄・老・荘・列)について」、致知出版社/p.205引用)

≪ 指導者(為政者・君主)の4ランク ≫
(聖人 ≒ 君子 ≒ 指導者)

1位
(太上)
黄老的 聖人 : 無為自然 存在が知られているだけ
2位 儒学的 聖人 : 仁 慈 親しまれ誉められる
3位 (法家的 聖人) : 刑 罰 畏(恐)れられる
4位 侮りバカにされる

cf.*現代大衆社会のリーダー? → コギト(我想う) 参照のこと

・「太(大)上」: 最高・最貴・最上・絶対聖。「大」も同じ。老子の尊称で「太上老君〔タイシャンラオチュヌ〕」というのは、この句に由来するのかも知れません。

・「之」: 「之」の字が5つ。人君・執政官の意の代名詞。

・「信不足、焉(安・案)有不信」: 『論語』・「民信なくば立たず」 → コギト(我想う) 参照

* If the people have no faith in their rulers, their is no standing for the state. (Kitamura adj. p.61)

・「百姓皆謂我自然」: “帝力何ぞ我にあらんや”の意。

cf.《 「撃壌〔げきじょう〕の歌 》
太上(第1位)の政治を想いますに、帝堯〔ていぎょう〕の世、とある老人が太平の世を楽しんで歌ったという話が伝えられています。
「日出でて作〔な〕し、日入りて息〔いこ〕う。井を鑿〔うが〕ちて飲み、田を耕して食らう。帝力なんぞわれにあらんや。」 (朝が来れば起きて働き、夜になれば帰って寝る。井戸を掘って水を飲み、田畑で食物を作って食べる。天子のおかげなんか自分には要〔い〕りゃーしないサ。)

コギト(我想う)

≪ 黄老&儒学の理想的指導者〔リーダー〕像 ≫ ――

老子は、儒学的政治指導者を第2位においています。が、現実の政治の世界では、第2位の仁・慈の政治指導者も理想的指導者〔リーダー〕像といえます。黄老的政治指導者は文字どうり、至上・太上のものとして考えればよいでしょう。

また、政治は実際、一人でやるわけではありません。総理大臣(総大将)の理想像を黄老的聖人とし、大臣・閣僚参謀のトップを儒家的聖人とみるのが善いのではないでしょうか。

以下、孔子(儒家)の理想的政治・政治家像のついて『論語』から少々ピックアップしてみました。

『論語』

1)「民無信不立」 ≪「民信なくば立たず」≫

■ 子貢・政〔まつりごと/せい〕を問う。子曰く、食を足(ら)し、兵を足(ら)し、民は之をにす。(民をしてこれをぜしむ。) 子貢曰く、必ず已〔や〕むを得ずして去らば(す・てば)、斯〔こ〕の三の者に於いて何をか先にせん、と。 曰く、兵を去らん、と。 子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯の二の者に於いて何をか先にせん、と。 曰く、食を去らん、と。古より皆 死有り、民に信なく(ん)ば立たず、と。

(顔淵・第12‐7)

≪ 民無信不立 ≫

「実に大識見であります。――(中略)―― 信とは良心に従つて変ぜぬことです。人と約して違はぬことです
そこで子貢がどうにもやむことを得ずして、この三者のうちどれかを犠牲にしなければならないとしたら、まづ何から去りませうかと申しますと、孔子は兵を去らう、すなはち軍備・武力これを犠牲にしよう。さうすると子貢はたたみかけて、もしどうにもならなくて、尚このいづれかを去らねばならないとすれば、『食を足らす』と『民は之を信にす』と、いづれを先にいたしますか。深刻ですね。普通ならば、信を棄てる外ないといふところでせう。孔子は『食を去る』、すなはち経済活動を犠牲にするほかない。人間といふものは昔から皆死ぬものだ。しかし死に代り、生き代つて、かうして続いてをる。しかしこの信が人間から無くなると、人間は存立することが出来ない。たとへ武力を去り、経済生活を犠牲にしても、最後まで失ふことのできないものは、信であると断言したのであります。」

安岡正篤述・『朝の論語』(明徳出版社) / 第13講「食と兵と信」参照 (pp.155 − 156)

2)≪ 民可使由之。不可使知之。≫

■ 子曰く、民はこれに由らしむべし。これを知らしむべからず。

(泰伯・第8‐9)

「これは孔子が当時の政治家・為政者に対して与へられた教訓であります。民は之に由らしむべしといふこの「由る」は、民が信頼するといふ意味でありまして、その由らしむべしとは信頼せしめよといふ命令のべしであります。知らしむべからずとは、知るは知る・理解する意味であることは勿論、べからずとはむづかしい、できないという可能・不可能のべしであります。民衆といふものは、利己的で、目先のことしかわからぬから、為政者の遠大公正な政策の意味などを理解させることは非常にむづかしい。時には不可能な話である。結局は、民衆にも案外一面良心はあるのですから、何だか能く分らんけれども、あの人の言ふこと、あの方の行ふことだから、間違ひはなからう。自分は分らないが任せる ―― かういふふうに信頼させよ。といふことであります。
民主主義といっても、その要は結局民衆をして信頼させることであります。民衆が安んじて信頼することのできる政治家になることが何より大切です

安岡正篤述・前掲書/ 第14講「行政と民衆」参照 (pp.170−171)

※ ≪ TOPIX ≫ 

‘12.12.16 :「民主惨敗、自民圧勝(衆院)」 /
’13.7.21 :「民主惨敗、自民圧勝(参院)」、ねじれ解消・自民1強体制・与党衆参で過半数 /
6年前’7.7.30 :「自民・歴史的大敗」(民主の歴史的大勝)

※ ≪ 孔子伝・「恕の人」(DVD) ≫ ―― 信について

孔子:「500年前の殷の人々は、人が言うと書いて信の字を作った。これはつまり、話す言葉に信用があるということ。人は常に真実を話さねばならず、嘘はいけない。人と人の間で真実の言葉が語られなければ、互いを信用ができず、社会の秩序も保つことができない。」

顔回:「人にして信なくんば、其の可なるを知らず、大車輗〔げい〕なく、小車〔げつ〕なくんば、其れ何を以て之を行〔や〕らんや。車に譬〔たと〕えて言うと、どんな車でも重要な部品を欠いては走れません。人づき合いや祭りごとにおいても、言葉に信なくしては社会で認められないのです。」

cf.為政第2−22 「子曰、人而無信、・・・・ 」


■2014年5月25日 真儒協会 定例講習 老子[41] より



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