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 【 80章・小国寡民/60章 】

(独立・第80章) 注1) 

 《 老子のユートピア(理想国家・社会)思想 》 

 §.「 小国寡民」 〔シャオ・クオ・クワ・ミヌ〕

注1) 「独立」の章名は、小さな国家ながらも独立を保っているの意で、「小国寡民」を説くこの章の内容を善く表現していると想います。
『大学』は、「大学之道、在明明徳」にはじまり、「此謂不以利為利、以義為利也」で終わっています。『老子』は、「可道、非常道」にはじまり、「聖人之道、為而不争」で終わります。けれども、終章一つ前のこの章は、老子のユートピア(理想国家・社会)論でありシメ(集大成)に相応しいテーマの感があります。(この点、『易経』の【既済】 → 【未済】 の構成に似ているように思います。) 
この老子の“悟り”・75言の短文の中に、深淵な多くの示唆を含んでいます。我々が現代の光に照らして真摯〔しんし〕に未来を展望する時、偉大な価値を持って輝いています!

cf.“Standing alone‘ The chapter sets forth what Lao−tzu conceived  the ancient government of simplicity was,and what he would have government in all time to be.” 
(Kitamura adj. p.263)

○「 小国寡民 使有  什伯之器  而不用、使民重死而不遠徒。 雖有舟與、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。 | 
使民復結縄而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗、隣国相望、鶏犬の声相聞、民至老死、不相往来。」

■ 小国寡民(国を小さくし民を寡〔すく〕なくす)。 ※什伯〔じゅうはく〕の器〔き/うつわ〕有りて、而〔しか〕も用いざらしめ注2) 民をして死を重〔かた:=重難 ←→ 軽んず〕んじて遠く徒〔うつ〕らず、舟與〔しゅうよ〕有りと雖〔いえど〕も、之に乗る所無く、甲兵有りと雖も、之を陳〔つら〕ぬる所無からしむ。 |
民をして復た結縄〔けつじょう/縄を結びて〕 之を用い、其の食〔し〕を甘〔うま/あま〕しとし、其の服を美〔び/よ・し〕とし、其の居に安んじ、其の俗を楽しみ、隣国〔りんごく〕相望み、鶏犬の声相聞こゆるも、民 老死に至るまで、相往来せざらしむ。

《 大意 》

(理想的な国の統治のためには、) 小さい国土に少ない人口で、 ※A: 人力の10倍・100倍のパワー〔機能〕を持つ精巧な道具・機械があっても(=いろいろ沢山の便利な文明の利器が揃っていても)用いないようにさせ、 ※B: 10人組・100人組の道具としての武器があっても用いず、 ※C: 10人・100人を統率できる人がいても、用いないように(=能力を発揮させないように)させ注2)  人々に生命(いのち)を大切させて(長寿を願わせ)、(生活難から)他国へ移住しないようにさせます。(そうすれば)舟や車があってもそれらに乗ることはなく、よろいかぶとや武器〔=甲冑刀槍:かっちゅうとうそう〕があっても、それらを並べ立て(他国に)戦争をしかけることもないでしょう。

(そして、)人々に(知恵のモトである文字を捨てさせ、古代のように)縄を結んで(文字に代わるコミュニケーションの記号として)用いさせ、自分たち自身の(産出する)食物を美味〔うま〕いと思って食べさせ、自分たち自身の(作った)衣服を立派だと思って着させて、自分たちの住居に満足してして住まわせ、(自分たちの国の)風俗習慣を楽しむようにさせます。そうであれば、隣の邦〔くに〕(の街)がお互いに眺められ、鶏や犬の鳴き声が聞こえ合うほど間近にあっても、人々は(自国の生活に満足しているので、)年老いて死ぬまで、(他国の人々と)お互いに行き来することはないでしょう。

( ―― 以上が、私〔老子〕の考える理想的な政治・社会のあり方です。)

注2) → A・B・C 3様の解釈について後述  コギト(我想う)  を参照のこと

・「小国寡民」:「小国寡民」 → 「小寡民
「小」と「寡」は形容詞(「ちいさい」国と「すくない」民)ですが、動詞として(国を「ちいさくし」と民を「すくなくする」)用いたとも解せます。「国」は城壁で囲まれた居住地のこと。
ex.「国破山河在 城春草木深 ・・・」 (杜甫・『春望』)

cf.帠書甲本では、「国」の字は「邦」と記されています。「小邦寡民」です。「邦」と記すのが本来のもので、「邦」を「国」としているのは、漢代の人が高祖・劉〔りゅうほう〕の名=「邦」を避けたことによります。(甲本が「邦」と記しているのは、それが高祖以前の書写本であったと考えられます。)

*「避諱〔きひ〕改字」の慣習 → 天子の実名(諱〔いみな〕)の文字を別の文字で置き換えるもの
ex.唐の太宗・李世民の 「世・民」 → 「代・人」 と記す

(楠山春樹 『老子入門』 p.57参照)

・「什伯之器」:帠書甲本は「十百人之器」、乙本は「十百人器」、河上〔かじょう〕本は「什伯人之器」。さまざまな解釈があります。主なものは次の3つです。

A) 人の能力の十倍、百倍の機能のある便利なもの。文明の利器。/さまざまな道具。
→ 老子の文明・文化への警鐘

※“百人力”・“十万馬力”(鉄腕アトム)のように機械のパワーを人力や馬力で表していました。

B) 十人組、百人組の道具としての「武器」。

C) 十人、百人を統率する、(十倍、百倍の能力を持つ)器量人


コギト(我想う)

理想国家論における、「什伯(人)之器」の解釈あれこれは、そのどれもが老子のユートピア論に相応しいものです。現代的な意義を考えるにつけても、その深意、考察すべきものがありましょう。A)/B)/C) 3つの解釈の立場それぞれから考えてみましょう。

A) 人の能力の十倍、百倍の機能のある便利なもの。文明の利器。/さまざまな道具。

→ 老子の文明・文化への警鐘 (cf.※「財宝は子孫を殺し、学術は天下を亡ぼす。」)

cf.【離】 = 学術・文化 / “文化・文明の源は「火」と「石のカケラ」”(傷〔やぶ〕るものも「学術・(核)」と「隕石」) 太陽・核 / 核兵器・原発事故

→ 荘子の文明批判 “はねつるべ”の寓話: 「機事〔きじ〕あれば機心あり、機心あれば純白備わらず(『荘子』・天地篇)と言って、便利な機械〔からくり〕を用いな いで水を田に汲み入れる老人の話が登場しています。


研究

≪ 「知」と「智」と柿の“シブ” / 【離・火】(文化文明)について ≫

“文字”に学んでみますと。「知」は、“口”に“矢”、口という矢(=武器)で他者を攻撃、傷つけるの意が「知」です。危ういものです。なまじっか(生半可)の知識がむしろ禍〔わざわい〕して病的に性癖を生じるようになると、“やまいだれ”がついて「痴」〔ち/おこ: =バカものの意〕となります。「知」でくもって、ものごとの「本〔もと〕」が観〔み〕えない浅薄な知識人のことです。“賢い愚者”ですね。

ところで、シブ柿は「日(陽)」に干すことによって甘柿になります。これは、太陽の作用(パワー)により、シブ柿に内在する“シブ”自体が日によって“甘い”もの(善きもの)に変化するということです。したがって、「知」に「日」をプラスして 「智」 としますと、本来の善きもの、あるべきものとしての“智恵”となるわけです。(漢字というものは、実に深く考えられて作られていますね。)

私は(職業柄かも知れませんが)、この“柿のシブと太陽=【離】 → 甘柿”への “化成”は教育という分野にも当て嵌〔は〕まるナ、と私〔ひそか〕に想っているところです。

そして、「知」は、易の八卦でいうと【離/火】です。【離】は学術・文化文明です。【離】=人類の文化文明は、“火と石のカケラ”から始まりました。それが、21世紀の現在では、携帯電話・PC・インターネット・原子力発電・ロケット・ミサイル・・・・ etc. を生み出しています。然るに、【離】は、傷〔やぶ〕るものでもあります。【離】の持つ危うさです。私は、「財宝は子孫を殺し、学術は天下を亡ぼす」 という中国の言葉を知っています。現在最先端の“学術”である(【離】=太陽=火=)“原子力”も、核兵器や原発事故で多くの人々に厄災をもたらしている現状では、この言葉に納得せざるをえません。

現在(2012-13)、原発の是非をめぐって姦〔かしま〕しくも末梢的議論がなされ、衆議院選挙(2012.12)・参議院選挙(201.7.21)の大きな争点となっておりました。―― 人類は太古の昔、【離】・火を手にしました。それを用いる歴史の中で、火傷〔やけど〕もあり、火事もあり、火器(銃・ダイナマイトなど)による事故や愚かな殺戮も多々ありました。が、しかし、我々の祖先は、この傷〔やぶ〕るものでもある【離】・火の弊害を創意と工夫をもって克服して、自らの文化的財産として取り込んでまいりました。決して【離】・火そのものを悪玉にして放棄はしませんでした。実際、“ろうそくの灯り”に満足していた時代に戻ることはできません。当世、携帯電話(スマートホン)やインターネットなしでは生きていけない(生活できない)と考えている若者が殆〔ほとん〕どです。現代科学の先端、巨大な【離】・火である“原子力”も同様です!

畢竟〔ひっきょう〕するに、【離】そのものが悪いのではなく、ある特定の人間にその【離】を使う資格があるかなしかの問題です。その文明【離】が偉大であればあるほど大いなる“責任”を伴います。その人間が【離】をもつに値するか、相応しいかが問われるのです。幼児が“火遊び”や“銃遊び”するのを、誰も善しとは言わないでしょう。“傷〔やぶ〕”られることなく、持つに足る、使うに足る“徳”があるかどうかです。現今〔いま〕 に限って言えば、原発にしろ教育のツールにしろ、とてもそれを用いるに足る“徳”があるとは、資格があるとは思えません

ところで、“天罰”(天罰てきめん)という言葉があります。“罰〔ばつ〕”は、自らの過ち・怠慢・奢〔おご〕りを戒めるために作った言葉なのでしょう。“水”にたいして “水ばち〔罰〕”、“火”にたいして“火ばち〔罰〕”という語もあるそうです(天声人語’13.7)。 東日本大地震と津波による【坎〔かん〕・水】の被害と、それに起因する福島第一原発事故(【離・火】)は、まさに“水ばち〔罰〕”/“火ばち〔罰〕といえましょう。

cf.「日」は儒学にいう「本(もと)」の学と考えればよいでしょう。老子は、「絶学無憂〔ぜつがくむゆう: 学を絶てば憂い無し〕」(『老子』・第20章) と言っております。生半可な末梢的な学(末学)を遠ざけよということでしょう。また、「知りて知らざるは上〔じょう〕なり。知らずしてしるは病〔へい/やまい〕なり。」(『老子』・第71章) と言っています。ちなみに、「知不知上」 は、兼好法師の 「 ―― いたましうするものから、下戸〔げこ〕ならぬこそ男〔をのこ〕はよけれ。」〔(酒をすすめられると)困ったような様子はしながらも、実際には飲めなくはないのが男としては善いのです。〕(『徒然草』・第1段結文) とも発想が同じような気がします。


B) 十人組、百人組の道具としての「武器」。

→ 老子の平和主義【30章】・【31章】、不戦・不争の徳【8章】・【68章】・【81章】参照のこと


C) 十人、百人を統率する、(十倍、百倍の能力を持つ)器量人。

この意であると仮定してみると、なぜ、10倍・100倍する才能のある優れた人材を用いさせないのでしょうか? 真に人材であれば登用すべきでしょうに。“不自然”に思われます。

ここで考えられるのは、“知の人・才の人”(=小人)を用いないということ。指導者には、すべからく“徳の人・情の人”を用いるべき、と考えることができます。これは、儒学の人材登用の要〔かなめ〕の考え方です。(ex. 『大学』・終章末文「国家に長として財用を務むる者は、必ず小人に自〔よ〕る。彼之を善くすと為して、小人をして国家を為〔おさ〕め使〔し〕むれば、菑害〔さいがい〕竝〔なら〕び至る。――― 」)


・「使民復結縄」:
「結縄」〔けつじょう〕 : 太古の時代、文字が作られる以前に用いられたという情報伝達・記録の方法。縄に結び目を作ったり、物を結びつけたりするものです。南アメリカ(インカ帝国/「キープ」)の原住民や*日本でも用いられたといわれています。
古代中国・伝説の時代。五帝の一人伏犧〔ふつぎ〕氏が、「陽」「陰」〔こう〕というシンボルを3つ重ねて“易の八卦”を発案しあらゆることを「象〔しょう〕」で表しました。その後、神農氏が結縄を考案し、それがさらに発展して黄帝〔こうてい〕の史官であった蒼頡〔そうけつ〕が文字を発明したと言われています。つまり、文字(甲骨文字)の前段階として結縄の時代があったということです。老子は、理想郷では、文字=学問・知識に害されていない“古き善き結縄の時代”に反〔かえ〕れと言っているのです。

*倭国には「文字なく、唯〔た〕だ木に刻み縄を結ぶ。仏法を敬い、百済より仏経を求め得て、始めて文字あり」(『隋書』・東夷伝倭国)

cf.「上古、縄を結びて治まり、後世、聖人之に易〔か〕うるに書契〔しょけい/=文字〕を以てす。」  (『易経』・繋辞伝) / (『荘子』・胠篋篇〔きょきょうへん〕にも「至徳の世」の有り様として、ほぼ同じ文が述べられています。)

cf.「人生、文字を知るは憂患〔ゆうかん〕のはじめなり。」


・「安其居、楽其俗」:

参考

《 テンニースのゲマインシャフト〔共同社会〕と孟子の思想 》

(盧:平成22年度“真儒の集い”特別講演/“『グリム童話』と儒学”より抜粋引用)

・ドイツの社会学者 テンニース〔 Fredinand Tonnies 1855-1936 〕は、前近代的社会類型としての「ゲマインシャフト〔Gemeinschaft/共同社会〕」 と 近代的社会類型としての「ゲゼルシャフト〔Gesellschaft/利益社会〕を分析的に類型立てて、社会学的な近・現代社会論の礎〔いしずえ〕を築きました。

・ゲマインシャフト: 家族 → 民族社会 /地縁・血縁・心縁(朋友や教会)によって結び ついた社会、「人間の本質意志」、親愛と尊敬の心情による本質的結合

・ゲゼルシャフト: 会社 → 国家 /「人間の選択意志」、本質的に離れており契約や法で結びついている

・孟子 の 「仁義(愛敬)によって結ばれた社会」 と 「利益によって結ばれた社会

※ 愛敬仁義 :人間固有の“愛敬〔あいけい〕” の心の発展したものが “仁義”

・陽 は 父 = 敬 → 義
・陰 は 母 = 愛 → 仁

父は敬と愛を兼ねる(『孝経』)とされますが、今時は母も愛と敬を兼ねると考えるべきでしょう。

【考察】男女の別 = 男性ホルモンと女性ホルモン両方の相対的・量的な差

○「孟子の言っていることを要約いたしますと、社会には利益によって結ばれた社会と、敬愛によって結ばれた社会との二つの型がある。 利益によって結ばれた社会は、闘争の社会であって、それはその社会の自滅につながるものである。敬愛によって結ばれた社会は秩序の保たれた社会であって、それは世界の平和につながるものである。だから、吾々は、利益によって結ばれた社会を否定して、敬愛によって結ばれた社会を建設しなければならない。」
「テンニースのこの社会の区分は、根本的には孟子のそれとまったく一致するもののように思われます。そして、孟子のいう愛敬の社会は、まさにテンニースのいうゲマインシャフトと同一でありますが、利益社会については、孟子がそれを封建制の崩壊した中国の古代社会において捉えているのに対し、テンニースは、それを資本主義制の発達したヨーロッパの近代社会において捉えている点が違っておるのであります。」
(参考・引用 『中国の古代哲学』所収/小島祐馬「社会思想史上における『孟子』」)


■2014年11月23日 真儒協会 定例講習 老子[47] より


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


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