こちらは、前の記事の続きです。
原典研究
・・・ 《 桃花源の記 》
「 桃花源の記」
(『陶淵明集』より) 陶潜 〔淵明〕
(※書き下し文ふりがなは、現代かなづかいによりました)
第一段落
○ 晋の太元中〔たいげんちゅう〕、武陵の人 魚〔うを〕を捕らふるを業と為す。渓〔たに〕に縁〔よ〕りて行〔ゆ〕き、路の遠近を忘る。忽〔たちま〕ち桃花の林に逢ふ。岸を夾〔さしはさ〕むこと数百歩、中に雑樹無し。芳草鮮美にして、落英繽紛〔ひんぷん〕たり。漁人〔ぎょじん〕甚だ之を異〔あや〕しみ、復た前〔すす〕み行きて、其の林を窮めんと欲す。林水源に尽き、便ち一山を得たり。
《 大 意 》
晋の太元年間に、武陵の人で、魚捕りを業とする人がいました。彼は谷川に沿って船を進めて行くうちに、どれほどの道のりを来たかも忘れてしまいました。そうしているうちに、ばったり桃の花の林に行き会いました。(それは)川をはさんで両岸に数百歩も連なっていて、中には桃以外の木は一本も混じっていませんでした。美しい草が色鮮やかに茂り、桃の花びらが辺り一面に乱れ散っていました。漁師は大層不思議に思い、さらに船を進めて行って、その桃の林の果てまで見きわめようとしました。(やがて)林は谷川の源のところで切れると、そこに一つの山がありました。
第二段落
○ 山に小口有り、髣髴〔ほうふつ〕として光有るがごとし、便〔すなわ〕ち船を捨てて口より入る。初めは極めて狭く、纔〔わず〕かに人を通ずるのみ、復た行くこと数十歩、豁然〔かつぜん〕として開朗なり。土地平曠〔へいこう〕にして、屋舎儼然〔げんぜん〕たり。良田・美池。桑竹の属〔ぞく〕有り。阡陌〔せんぱく〕交はり通じ、鶏犬相聞こゆ。其中〔そこ〕の往来種作〔しゅさく〕する男女の衣著〔いちゃく〕は、悉く外人のごとし。黄髪垂髫〔こうはつすいちょう〕、並〔みな〕怡然〔いぜん〕として自ら楽しむ。
《 大 意 》
山には小さな洞穴があり、どうやら内には光がさしている様子です。そこで彼は船を捨てて、穴の口から入って行きました。初めは大変狭くて、やっと人が一人通れるほどでした。さらに数十歩進むと、からりと明るく開けました。(見れば、)広々と土地は開け、きちんと整った家並みが続いています。よく肥えた田、美しい池、桑畑や竹林などがあり、あぜ道は縦横に通じ、あちこちで鶏や犬の鳴き声がしています。そこを行き来したり、畑の仕事をしたりしている男女の服装は、みんな外部の人のそれと変わりはありません。黄色の髪の老人もお下げ髪の子どもも、みんなうれしそうに生活を楽しんでいます。
第三段落
○ 漁人を見て、乃ち大いに驚き、従〔よ〕りて来たる所を問ふ。具〔つぶさ〕に之に答ふ。便ち要〔むか〕へて家に還り、酒を設け鶏を殺して食を作る。村中〔むらじゅう〕此の人有るを聞き、咸〔みな〕来たりて問訊〔もんじん〕す。
自ら云ふ、「先世秦〔しん〕時の乱を避け、妻子邑人〔ゆうじん〕を率ゐて、此の絶境に来たり、復た出でず。遂に外人と間隔せり。」 と。
問ふ。「今は是れ何の世ぞ。」 と。
乃ち漢有るを知らず、魏・晋に論無し、此の人一一〔いちいち〕為に具〔つぶさ〕に聞く所を言ふ。皆嘆惋〔たんわん〕す。余人各〔おのおの〕復た延〔まね〕きて其の家に至らしめ、皆酒食〔しゅしょく〕を出だす。停まること数日にして辞去す。此中〔ここ〕の人語りて云ふ、「外人の為に道〔い〕ふに足らざるなり。」 と。
《 大 意 》
彼らは漁師を見ると非常にびっくりして、どこから来たのかと尋ねました。漁師がこと細かにこの質問に答えると、さっそく彼を誘って自分の家に連れ帰り酒を出し、鶏をひねって(締め殺して)、食事をしつらえました。村中の人は、この人のことを聞きつけると、みなあいさつにやって来ました。
そして自分たちの方から、「私どもの先祖は、秦の時代の動乱を逃れて妻子と村の者たちを引き連れ、この隔絶した世界にやって来て、二度と外には出ませんでした。こうして外界の人とは縁を断ったままです。」 と言いました。
(さらに漁師に)「今はいったい何という世なのでしょうか。」 と尋ねました。
なんと、彼らは(その後)漢の世になったことも知らず、もちろん魏や晋のことを知らないのでした。そこでこの人は自分の聞き知っていることを一つ一つ詳しく彼らに説明してやりました(それを聞いて村人たちは)みんなため息をついて感じ入りました。ほかの人たちも、めいめい彼を自分の家に招いて、皆、酒食を出してもてなしました。彼はここに数日滞在した後、別れを告げました。
ここの人たちは彼に言いました。「外の人たちに(私たちの村のことを)お話になるには及びませんよ。」 と。
第四段落
○ 既に出でて、其の船を得、便〔すなわ〕ち向〔さき〕の路に扶〔そ〕ひ、処処に之を誌〔しる〕す。郡下に及び太守に詣りて、説くこと此くのごとし。太守即ち人を遣りて其〔それ〕に随〔したが〕ひて往〔ゆ〕かしむ。向の誌しし所を尋ぬるに、遂に迷ひて復た路を得ず。南陽の劉子驥〔りゅうしき〕は高尚の士なり。之を聞き、欣然として往かんことを規〔はか〕る。未だ果たさず、尋〔つ〕いで病みて終〔お〕はる。※ 後 遂に津〔しん〕を問ふ者無し。
《 大 意 》
彼は(桃花源から)外界へ抜け出て、自分の船を見つけると、先だってやって来た道に沿って、要所要所に目印を付けておきました。やがて郡の役所のある町に着くと、郡の長官の所へ出頭して、以上の次第を説明しました。長官は早速人を遣わして、彼について行かせることにしました。先につけた目印を頼って進むうち、迷って道が分からなくなりました。南陽の劉子驥は、俗世を去った高潔な人でした。(劉は)この話を聞くと、喜び勇んで出かけようとしました。が、志を果たせないうちに、まもなく病気になって死にました。※ それからは、この桃花源へ入ろうと試みる者はなくなりました。
※補注)「後遂無問津者」: 結び文の「問津」は、渡し場を尋ねる → 桃花源へ入ろうとすること。『論語』・微子篇(第18−6)に孔子が子路〔しろ〕に“津を問わせた”(「使子路問津焉」)とあるのが出典のようです。「津を問ふ者無し」とは、桃花源=ユートピア のような“高尚〔こうしょう〕”な世界を志向し求める人が絶えてしまったということなのではないでしょうか?
ここに、“田園詩人”と称され“壺中〔こちゅう〕の天(≒自分だけの別世界)”を持っている陶潜の感慨が寓〔ぐう〕せられているのでしょう。
今我々は、老子の「小国寡民」・陶潜の「桃源郷」の世界が語りかけ投げかけている現代的意義について、真摯〔しんし〕に考えてみるべきだと思います。
■2015年2月22日 真儒協会 定例講習 老子[49] より
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