§.《 結びにかえて 》 ・・・ 『老子三宝の章』/「無名で有力であれ」「壺中天」(安岡正篤)

 【 老子・三宝: 67章/81章 】

(三宝・第67章) 注1) 

老子の「三宝」

 §.「 天下皆謂」 〔ティン・シャ・チェ・ウェー〕

注1) “三宝”といえば、聖徳太子の“憲法十七条”に登場することで知られており、( → cf.資料) 仏教の専用語として理解している人が多いかと思います。が、さにあらずで、『老子』が出典です。“三宝”の意味も、「慈」・「倹」・後“譲/謙”(「敢て天下の先〔せん/さき〕とならず」)の3つです。
「道」を3つに(属性的に)分析して、その3つが自身の“お守り”であると述べています。むろん、「道」は1つです。ですから、例するに、1つのコーヒーカップを観る角度を変えて描いた異なりであり、(コーヒーカップ)本体は1つです。3つの側面(視点)から観たのは、老子の“哲学的”な遊びかも知れません。しかも、「我に三宝あり」と3つの徳を挙げておきながら、「慈」のみをもって結論としています。畢竟〔ひっきょう:=結局〕するに、老子“三宝”の主体は「慈」であり、それは儒学の「仁」と同じであり、仏教とも同じ(「慈悲」)と考えられるのです。


資料

 《憲法十七条》 (by.『日本書紀』)

○ 推古天皇十二(604)年 ・・・ 皇太子親〔みずか〕ら肇〔はじ〕めて憲法十七条を作る。

一に曰く、和〔わ/やわらぎ〕を以て貴〔たっと〕しとなし、忤〔さから〕ふること無きを宗〔むね〕とせよ。

二に曰く、篤〔あつ〕く三宝を敬へ。三宝とは仏〔ほとけ〕・法〔のり〕・僧〔ほうし〕なり


○ 「天下皆謂、我(道)大似不肖。 夫唯大、故似不肖。 若肖、久矣其細也夫。 |
我有三宝、持而保(ホウ:宝/葆)之。 一曰慈、二曰倹、三曰不敢為天下先。 慈故能勇、倹故能広、不敢為天下先、故能成器長。 今舎慈且勇、舎倹且広、舎後且先、死矣。 |
夫慈、以戦則勝、以守則固。 天将救之、以慈衛之。」


■ 天下 皆謂〔い〕う、我れ(/我が道)大にして不肖に似たり、と。夫〔そ〕れ唯〔た〕だ大なり、故に不肖に似たり。若〔も〕し肖〔に〕な(た)らば、久しいかな其の細なること。 |
我れに三宝有り、持して之を保つ(宝として之を持つ)。 一に曰わく“慈”、二に曰わく“倹”、三に曰わく“敢〔あ〕えて天下の先〔せん〕と為らず”。 慈なるが故に能〔よ〕く勇、倹なるが故に能く広、敢えて天下の先と為らざるが故に、能く器の長を成す。 今、慈を舎〔す〕てて且〔まさ〕に勇ならんとし、倹を舎〔す〕てて且〔まさ〕に広からんとし、後なるを舎てて且に先ならんとすれば、死せん。 |
夫〔そ〕れ慈は、以て戦えば則ち勝ち、以て守れば則ち固〔かた〕し。 天将〔まさ〕に之を救わんとし、慈を以て之を衛〔まも〕る。

 “ Here are my three treasures.  Guard and keep them !  The first is pity; the second, frugality; the third: refusal to be ‘foremost of all things under heaven’ .
(A.Waley adj. p.225) 

 “ I have three treasures Which I hold and cherish. The first is known as compassion, The second is known as frugality, The third is known as not daring to take the lead in the empire;
(D.C.Lau adj. p.74)

《 大意 》

世の中の人々は、皆、私(私の道)のことを、→ ☆★
☆A.至大であって、これに類似〔=肖〕したものがないから、ホラ吹き・いい加減ではないかと言います。それは、ただただ大きいが故に似たものがないのです。もしも似〔=肖〕たものがあるとすれば、(相対的概念となって絶対の至大・無限大ではなくなるから)それは、そもそも最初から細く小さなニセモノ〔偽物〕(の道)に違いないのです!
★B.[不肖を愚と解する:] 大人物のようだけれども、愚かに見えると言います。そもそも、大きすぎるからこそ、愚か者に見えるのです(愚かであるからこそ、大きくありうるのです)。もしも人並みに(賢く)見えるようなら、まったくもって、とうの昔に小賢〔こざか〕しいちっぽけな人間になっていたことでしょうよ! |

私には3つの宝があり、(宝として)大切に保持しています。その第1は「慈」〔いつくしみ〕、第2は「倹」〔つつましさ〕、第3は「世の中の人々の先頭に立たない」〔=後〕ということです。「慈」を持っているからこそ(人々の心服が得られて、“千万人と雖も吾往〔ゆ〕かん”の 注2) 勇気が出るのです。「倹」を守っているからこそ、(余裕〔ゆとり〕ができて)広く人々に施すこともできるのです。「世の中の人々の先頭に立たない」からこそ、人材を活用できて首長〔かしら〕となることができるのです。
しかるに今、「慈」を捨てて勇に任せて争い、「倹」を守らないで広く人々に施そうとし、人の後〔うしろ〕について行くことを捨てて、いきなり先頭に立とうとするならば、きっと命を落としてしまうでしょう! |

そもそも、「慈」〔いつくしみ〕(は人々の信望を得るから、それ)によって戦えば勝利をおさめ、「慈」によって守備すれば堅固で陥落しません。(それは、人力をこえた)天が、「慈」の人を救おうとして、やはり、天が「慈」をもって(かの人の身を)守護〔=衛〕してくれているからなのです

注2) 「子・勇を好むか。吾嘗〔かつ〕て大勇を夫子〔ふうし〕に聞けり。自ら反〔かえり〕みて縮〔なお〕からずんば、褐寛博〔かつかんぱく〕と雖〔いえど〕も、吾惴〔おそ〕れざらんや。自ら反みて縮くんば、千万人と雖も吾往〔ゆ〕かん。」 cf.孟子の“浩然の気”
(『孟子』・公孫丑〔こうそんちゅう〕上/曽子の言葉)


・「大似不肖」:「肖」は「似」=類似〔アナロジー〕。
☆A.「不肖」は、似たものがないの意。
★B.「不肖」を悪いものと解する。 ex.“不肖の息子”

・「久矣其細也夫」:「也夫」は強い感嘆詞。“細なること久し”とするところを倒置して、感嘆にしています。
ちなみに、『論語』の中に、よく似た孔子(の人物の大きさ)ついて記述した箇所があります。子貢が叔孫子〔しゅくそんし:叔孫武叔〕に対して、先生(孔子)の大きさを遥かに高い屋敷の塀(宮牆〔きゅうしょう〕)に喩〔たと〕えて述べています。普通の人には塀が高くて家の中の様子が見えないから、先生の大きさが分からないのも当然だということです。
(子張・第19−23)

・「舎倹且広」:cf.政府(〜‘12 民主党/自民党)のバラマキ政策。現在の大赤字財政の因。

・「成器長」:成器を大器とし、大器を天下とし、「成器長」は天下の長(君主)とします。 『論語』に「君子は器ならず」 とあります。一つ一つの「器」は(どんなに大きくても)そ の用途が限定されています。「器」は道具の意味が転じて、個別の仕事に役立つその首〔かしら:トップ〕(=才の人・小人)のことです。それに対して、君子=不器の人は用途が限定されず「器」を広く使う人のことです。
『老子』には、「樸〔ぼく・あらき〕散ずれば則ち器となり、聖人これを用うれば、則ち官長となる。」(第28章) とあります。『論語』も『老子』も同じことを言っています。成器の長は、(人民も含めて)万物の長となって天下を支配するのです。

君主・リーダー像 → 儒学)「不器の人(=君子)」 = 黄老)「成器の長」

・「天将救之、以慈衛之。」:天祐(天の祐〔たす〕け)あり。
cf.『易経』・【火天大有】上爻:
「天よりこれを祐〔たす〕く。吉にして利ろしからざるなし。」(三大上爻の一つ)

 

コギト(我想う)

 《 老子の “三宝” 》

「三宝」 : 「慈」〔いつくしみ〕&「倹」〔つつましさ〕&“後”〔世の人々の先頭に立たない〕

 慈  は、仁の本〔もと〕。柔仁、「勇」を発する根源です。

『論語』に、欲ある者は剛を得られないとあります。『孟子』にも、曽子の言葉として「自ら反みて縮くんば、千万人と雖も吾往〔ゆ〕かん。」(『孟子』・公孫丑〔こうそんちゅう〕上/cf.孟子の“浩然の気”) とあります。
「仁者に敵無し」は、孟子が強調しているモットーです。人民に仁徳・慈恵をほどこすような人(君主)には、敵となって逆らうような者はいないの意です。

 cf.(孟子が梁の恵王にいうには)「故に曰く、仁者に敵無し、と。王請〔こ〕う疑うこと勿〔なか〕れ、と。」(『孟子』・梁恵王章句上) 「夫〔そ〕れ国君仁を好まば、天下に敵無し。」(『孟子』・離婁章句上)

そして、「三宝」を挙げておきながら、「慈」のみで章文を結んでいます。「三宝」の中心が仁徳である ということです。畢竟〔ひっきょう〕するに、老子の「慈」は、孔子・孟子の「仁」であり仏陀の「慈悲」であり、イエスの「愛」です。

 

 倹  は徳の蓄積。倹約、節倹です。

易卦でいうと【水沢節】(節度・節約)でしょう。節倹を守ればこそ、不足がなく広く施し用いる ことができるのです。入るをはからず、バラマキ政策で、膨大な赤字財政のわが国の現状を 省みなければなりません。『老子』第59章にある「嗇」〔しょく〕とほぼ同じです。

 

 後  は、(儒学徳目)の“謙/譲”です。

“敢〔あ〕えて天下の先〔せん〕と為らず” → “後” は、“謙”・“譲”のことです。

「世の中の人々の先頭に立たない」からこそ結果的に首〔かしら〕・長〔おさ〕になる、という老子得意のパラドックス〔ぎゃくせつ〕です。“謙”も“譲”も儒学の重要な徳目です。立場が上であればある程“謙/譲”、へりくだることが大切です。易卦でいうと【地山謙】、謙虚・謙遜・“稔るほど頭〔こうべ〕を下〔た〕れる稲穂かな”ですね。例えば、大臣や社長といった首(トップ・リーダー)は、腰を低く頭を下げて、お酌をして回ることが大切です。反面、立場が上でなければ、普通に相手に敬意を表していればよいと思います。過度にペコペコするのは、卑しむべき阿〔おもね〕り諂〔へつらい〕というものです。

わが国にも“人をたてる”という言い方があります。“オレがオレが”ではなく、まず人を先とし自分を後におく、というのが(善くできた)大人〔おとな/たいじん〕というものです。

「成器の長」は「天下の先とならない」から、動きません。例えば、大臣や社長は受付(先)にはいなくて、奥(後)にいます。

 

(*安岡・前掲「老子と現代」 pp.134-135引用) ( §67章 )

「 所謂『老子三宝の章』といって有名な言葉であります。今日のように全く老子と反対に枝葉末節に走り、徒に唯物的・利己的になり、従って至るところ矛盾・衝突・混乱を来してくると、肉体的にも生命的にもだんだん病的になる。善復た妖となるで、元来善であり正である筈の文明・文化がそれこそ奇となり妖となる。今日の文明・文化は実に妖性を帯びております

こういうことを考えると、我々は老子というものに無限の妙味を感ぜざるを得ないのであって、これを自分の私生活に適用すれば、この唯物的・末梢的混濁の生活の中に本当に自己を回復することが出来るのであります。こういう風に絶えず現代というもの、われわれの存在というものと結びつけて生きた思索をすれば、読書や学問というものは限り無く面白く又尊いものであります。」

 

【老子:むすびに】

( ジ・ジン・ヒ・アイ )

老子【慈】 ≒ 孔子【仁(忠恕)】 ≒ 釈迦【悲(慈悲)】 ≒ イエス【愛】

 「道」/無為自然 ≒ ☆ハーモニ/バランス ≒ *中庸/中和・時中

 harmony 〔調和〕 / balance 〔均衡〕 

 「中」の: 1) ホド、ホドホド 2)止揚〔アウフヘーベン〕

 

―――ー  無  名で  有  力であれ」 (安岡 正篤) ―――ー

六中観

1.忙中  有り : 忙中に摑〔つか〕んだものこそ本物の閑である。

2.苦中  有り : 苦中に摑んだ楽こそ本当の楽である。

3.死中  有り : 身を棄〔す〕ててこそ浮ぶ瀬もあれ。

4.壺中  有り : どんな境涯でも自分だけの内面世界は作れる。どんな壺中の天を持つか

5.意中  有り : 心中に尊敬する人、相ゆるす人物を持つ。

6.腹中  有り : 身心を養い、経綸〔けいりん〕に役立つ学問をする。

cf.1→ 「閑な時の読書身につかず」
3→ 「窮鼠〔きゅうそ〕猫をかむ」

「私は平生〔へいぜい〕 窃〔ひそ〕かに此の観をなして、如何なる場合も決して絶望したり、仕事に負けたり、屈託したり、精神的空虚に陥らないように心がけている。」
( 『安岡正篤・一日一言』、致知出版社 引用 )

 

☆ 《 壺中天 》:  黄老  の世界 ―― 現実の中にあって心中は隠者の世界に  遊ぶ  ・・・
( 学ぶ → 楽しむ → 遊ぶ )
by.盧

 

(完)


■2015年3月22日 真儒協会 定例講習 老子[50] より



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