■ 孝経 ( 喪親章 第18 ) 執筆中
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■ 論語 ( 孔子の弟子たち ―― 子 貢 〔1〕 )
§.はじめに
孔子門下を儒家思想・教学の本流から眺めれば、顔回と曽子を最初に取り扱うのが良いかと思います。が、『論語』を偉大な 社会・人生哲学の日常座右の書としてみる時、子路と子貢とはその双璧といって良いと思います。個性の鮮烈さ、パワー(影響力)において、孔門3.000人中で東西両横綱でしょう。実際、『論語』に最も多く登場するのが子路と子貢です。(後述の)『史記』・「仲尼弟子〔ちゅうじていし〕列伝」においても最も字数が多いのは子貢、そして子路の順です。
さて、子貢(BC.520〜BC.456)は字〔あざな〕です。姓は端木、名は賜〔し〕。衛〔えい〕の出身で裕福な商人の出とされています。四科(十哲)では、宰与〔さいよ〕と共に「言語」に分類されています。孔子との年齢差は、31歳。
孔門随一の“徳人”が俊英・顔回なら、孔門随一の“才人・器量人”が子貢でしょう。口達者でクールな切れ者。そして特筆すべきは、商才あり利財に優れ、社会的にも(実業家として)発展いたしました。清貧の門人の多い中、リッチ・Rich!な存在です。孔子とその大学校(※史上初の私立大学校ともいえましょう)を、経済的にも強力にバックアップしたと思われます。今でいう理事長的存在(?)であったのかも知れません。そのような、社会的評価・認知度もあってでしょう、“孔子以上(の人物)”と取り沙汰されもし、その風評を子貢自身が打ち消すという場面が幾度も『論語』に登場します。
なお、孔子の没後中心的門人たちは(最長の服喪期間である)3年の喪に服しました。子貢は一人、更に3年喪に服し墓を守ったと伝わっています。
――― ここで一言を呈しておきたいと思います。
日本は、今、経済しかない国です。もともと、広い国土も豊かな天然資源もありません。“人”と“経済”しかありません。その“人”と“経済”も、実に心もとないものに堕しています。私は、常々易卦の「地火明夷」の状態へと進行していると感じています。
“経済大国日本”、“21世紀は日本の時代”などといわれた、虚栄の時代も一時はありました。エコノミック・アニマル(はてはエロティック・アニマル)と蔑称されて数十年にもなります。金権亡者・拝金主義・唯物(モノ)的価値観 ・・・ 現今はもっとひどい状態に堕〔お〕ちています。かつて、開国・維新期、“東洋の徳”・善き日本人像として、世界から 「敬」されたものは歴史の彼方に消滅・忘却されています。“古き善きもの”となり果ててしまいました。
現在(2009)、「100年に1度の不況」などと、絵空事がまことしやかに報じられウワついている社会・経済状況です。平成の御世、日本経済と経済人のあり方、その未来が問われています。
明治期、「右手に算盤〔ソロバン〕、左手に『論語』」をモットーに 500余の会社を設立して近代日本経済の発展に貢献した 渋沢栄一氏。昭和期、“天(道)”に学び「経営の神様」と呼ばれた“君子型実業家”・松下幸之助氏をはじめ立志伝中の人々等々。近い過去に、お手本とすべき経済人はいます。
今こそ、(資本主義)経済の発展と儒学との連関について真剣に学ぶ時です。これが次代を啓〔ひら〕く “キー〔鍵〕”となりましょう。
子貢は、『論語』における“経済人(経済的人間)”です。経綸・経営に関わる多くの人にとって、子貢の文言は珠玉の示唆と道標〔みちびき〕になると思います。 ―― まずは、子貢に学べ!です。
○ “端木賜〔たんぼくし〕は衛の人、字は子貢、孔子より少〔わか〕きこと三十一歳。子貢は利口
巧辞なり。孔子常に其の弁を黜〔しりぞ〕く。 | 問うて曰く、「汝と回と孰〔いず〕れか愈〔まさ〕れる」と。対えて曰く、「賜や何ぞ敢て回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を 聞いて以て二を知る」と。 | 陳子禽〔ちんしきん〕子貢に問いて曰く、「仲尼は焉〔いずく〕にか学べる」と。子貢曰く、「文武の道未だ地に墜ちずして、人に在り。賢なる者はその大なる者を識〔しる〕し、賢ならざる者はその小なる者を識す。文武の道有らざること莫〔な〕し。夫子焉にか学ばざらん。而〔しこう〕して亦た何の常の師か之れ有らん」と。”
( 『史記』・仲尼弟子〔ちゅうじていし〕列伝 第7 )
《 大 意 》
端木賜は衛国の人で、字は子貢、孔子より三十一歳年少でした。子貢は口達者で言葉巧みでした。孔子はよくその多弁をたしなめたものです。
孔子が(ある時)、子貢に尋ねました。「お前と顔回とではどちらが優秀だろうかね」と。子貢はお答えして言いました。「わたしなど、どうして顔回を望めましょう(及べましょう)。回は一を聞いて十を(全体を)さとりますが、わたしはせいぜい一を聞いて二がわかる程度です。」と。
(またある時)陳子禽が子貢に「仲尼(=孔子)はどこで学んだのですか」と尋ねました。子貢は言いました。「周の文王〔ぶんのう〕・武王の道(礼楽の伝統)は、まだ廃れきってはいないで、人びとの中に伝わっています。賢く優れた人はその大事なところを覚えていますし、賢くなく優れていない人でもその小さい枝葉の部分は覚えています。文王・武王の道のないところはないのです。ですから、孔先生は、どこへいっても誰からでも学ばれました。別にきまった(特定の)師などはなかったのです」と。
( つづく )
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■ 本学 【司馬遷と『史記』 ― 4 】
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■ 易経 ( by 「十翼」 序卦伝 [3] )
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