孝経 ( 喪親章 第18 )  執筆中

§.
“子曰く、
《大意》
孔先生がおっしゃいました。「

● 服喪〔ふくも〕の期間 についての孟子の考え方

○ 斉の宣王、喪を短くせんと欲す。公孫丑曰く、「朞〔き:一年〕の喪を為すは、猶已〔や〕むに愈〔まさ〕れるか」 と。 孟子曰く、「是れ猶、或る人其の兄の臂〔ひじ〕を紾〔ねじ/=捩〕るに、子 之に謂いて、姑〔しばら〕く徐徐にせよと爾云〔しかい〕うがごとし。亦〔また/ただ =唯〕之に孝弟を教うるのみ」と。 | 王子に其の母死する者有り。其の傅〔ふ/もりやく〕は、之が為に数月の喪を請う。公孫丑曰く、「此〔かく〕の若〔ごと〕き者は何如〔いかん〕ぞや」と。曰く、「是れ之を終えんと欲するも、得可〔う・べ〕からざるなり。一日を加うと雖〔いへど〕も、已むに愈れり。夫〔か〕の之を禁ずる莫〔な〕くして為さざる者を謂うなり」 と。
(『孟子』・尽心章句上)

《 大 意 》
斉の宣王は、(父母に対する3年の喪は長過ぎるので、1年に)喪を短くしたいと思いました。公孫丑は、(宣王に頼まれて、孟子に)尋ねました。「(3年の喪を)1年の喪にするのは、まったく止めるよりは勝〔まさ〕っているのではありませんか。」 孟子がおっしゃるには、「これは、例えば、ある人が兄の腕をねじ上げているとして、お前がこの者に向かって、まあまあ徐徐にねじ上げるのがよかろうと言うようなものだ。(そうではなく、ねじ上げるのが悪いと知ったら)孝弟の道を教得て、そのようなことは止めさせればよいのだ。(1年でもやらないよりマシなどと言ってはいかん)」 と。
(ところで、宣王の妾腹の)王子でその母(側室)の亡くなったものがいました。その王子の守役〔もりやく〕が、(王子の心中を察して)王子のために数月の喪につくことを王に請いました。この事について、公孫丑は、「こういうのはどうでしょうか」と尋ねました。 孟子がおっしゃるには、「こういう場合は、3年の喪を終えたいと思っても、(妾腹の子なので)できないのだ。仮に1日多く行うだけでも、止めて行わないより勝っているのだ。前に言ったのは、(3年の喪を)誰もさし止める者はないのに、自ら行わない者のことを言ったのだ」 と。

 

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論語 ( 孔子の弟子たち ―― 子 貢 〔2〕 )

《 『論語』原章句 》 

○ 子、子貢に謂いて曰く、「女〔なんじ〕と回と孰〔いず〕れか愈〔まさ〕れる。」対〔こた〕えて曰く、「賜や何ぞ敢えて回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を聞いて以て二を知 る。」 子曰く、※「如〔し〕かざるなり。吾れと女と如かざるなり」と。 
(公治長・第5−9)

【 子謂子貢曰、女與回也孰愈。 対曰、賜也何敢望回。回也聞一以知十。賜也聞一以知二。 子曰、※弗如也。吾與女弗如也。 】

※A)「吾れと女と如かざるなり」 
(わしもお前と一緒で及ばないよ :古注 )

B)「吾れ女に如かざるを与〔ゆる〕さん」 
(わしはお前が顔回に及ばないといったことを認め許そう :新注)

C)「吾れ女に与〔くみ〕す。如かざるなり。」 
(わしもお前と同じだ。及ばないよ。)

 

○ 衛〔えい〕の公孫朝、子貢に問いて曰く、「仲尼は焉〔いずく〕にか学べる」と。子貢曰く、「文武の道、未だ地に墜ちずして人に在り。賢なる者はその大なる者を識〔しる〕し、賢ならざる者はその小なる者を識す。文武の道有らざること莫〔な〕し。夫子焉にか学ばざらん。而〔しこう〕して亦た何の常の師か之れ有らん」と。 
(「子張・第19−22」)

【 衛公孫朝、問於子貢曰、仲尼焉学。 子貢曰、文武之道、未墜於地在人。賢者識其大者、不賢者識其小者。 莫不有文武之道焉。夫子焉不学。而亦何常師之有。 】

 

盧小考

司馬遷は、『史記』の中で、『論語』の子貢にかかわる多くの記述からピックアップして紹介していると考えられます。

●「汝與回也孰愈 ―― 頭がキレ弁(口)がタツ 子貢には、他人〔ひと〕を評し比べるという性癖・趣味とでも言えそうなものがあったように思います。「問曰」とシンプルに書き始められていますが、そんな子貢の口ぐせをよくよく承知している孔子が、くつろいでいる時に(半ば戯れに)、「おまえと顔回とでは、・・・ 」と尋ねたのではないでしょうか?

顔回の「一を聞いて以十を知る」ということの意味は、1 に対して10倍というより、1つの端緒で全体を把握するということでしょう。十全を知る、あるいは是非曲直の結論を知るの意ですまた、どの学者先生も書いていないかと思いますが、私は、易学の真髄である“幾を知る”に近いことだと考えています。 『論語』のなかに、

「子曰く、憤〔ふん〕せずんば啓せず、悱〔ひ〕せずんば発せず。一隅〔いちぐう〕を挙げて(これに示し)、三隅を以て反〔か〕えらざれば、則ち復〔ま〕たせざるなり。」 (述而・第7−8)

【 子曰、不憤不啓、不悱不発。 挙一隅(而示之)、不以三隅反、則不復也。 】

という、孔子の 啓発教育 を述べた箇所があります。その典型、天才である顔回に対してならではの子貢の評でしょう。子貢の炯眼〔けいがん〕、人物評もさすがといえましょう。

啓発教育、易の幾を感じ機微〔きび〕から全体を知る。これが、現今〔いま〕の公教育(戦後の公教育)が失ってしまった教育の要〔かなめ〕です。(これらについては、改めてブログで述べたいと思っています。)

一方子貢は、「一を聞いて二を知る」程度です、とは謙遜しているかに捉えがちです。が、一を聞いて二を知るとは、すごいことでしょう。すごい自負でもあります。私は、学生にもよく言うのですが、一を聞いて(先生から教えられて)その一を理解できれば、定期テストでは満点に近いということですね。「諸君は、せめて一を聞いて2分の1を、出来れば0.6とか0.7位は知ってほしいものです。」 と。

加えて、孔子が子貢の才智・プライドを好意的に理解して気を使っているようにも思えます。(顔回と共に)子貢に一目(半目?)おいているのではないでしょうか。 孔子が「弗如也、吾與女弗如也」といったことで、子貢の立つ瀬もあるというものです。後述しますが、「女器也・・・湖洩蕁(公治長・第5−4)と子貢を(器量人に)評する場面も登場します。

 

◆ “1を聞いて10を知る” と “1を聞いて2を知る” に想う

思いつきの私見ですが。 ―― “知る”方法には、学知”と“覚知があります。“学知”は、一般的な学び。才(知能・技能)の学であり、小人タイプの人の“知る”です。“覚知”は、悟り(=覚)の世界です。徳の学であり、君子タイプの人の“知る”です。我国の幕末・明治維新期の、勝海舟と西郷隆盛がそのよき対照といわれています。

“学知”の世界は、1と2・1と3というように比べられる差ですが、覚知”の世界は悟っているか否か、君子であるか否か、1か0〔ゼロ〕か で大いなる差であるといえます

(自分自身は悟っていなくても、例えば孔子や釈尊やイエス様が悟っているであろうことはわかるように) 子貢は、賢い人ですので、顔回が悟りの境地(覚知)にある人であることを知っていたのではないでしょうか。それで、“すべて”という意味で「10を知る」と表現し、自身は学知であるから1が2であるくらいのレベルだと表現したのかもしれません。そしてまた、孔子もそのことを同じように解して、同調したのかもしれません。

 

◇ 「一を聞いて以て二を知る」 ※ 補足)

(昔の大阪を良く知る)受講生から次のようなことを聞きました。大阪商人の間で、“一を聞いてニを知れ”ということがよく言われ、代々教え込まれたそうです。昭和期のことですが、ルーツはもっと古い(例えば江戸期。石田梅巌の石門心学など)かも知れません。『論語』・子貢の影響でしょうか? 少なくとも、経済人、ビジネスマンとしての同じ意図で一致しているわけではあります。

 

●「文武之道」 ―― 学問と武道のことと勘違いしないように。周王朝建国の基礎を創った文王と、実際 殷を滅ぼし周を建国した武王のことです。(その武王の弟が周公旦)
孔子(儒家)が理想とし目指したものが、(これら)聖王の仁と礼の徳が実現した社会(=周の良き礼楽の伝統の継承と発展)なのです。

●「陳子禽問子貢曰 ―― 陳子禽(子貢の弟子)が子貢に、いかに(How?=手段や方法)学ぶかについて、孔子の学問についての姿勢を尋ね、子貢が答えたものです。
いかに学ぶか、ということを考えますと、 1)師・人に学ぶ  2)書物に学ぶ  3)天に学ぶ の3つが考えられます。孔子には他人みな師でした。あらゆる人から、あらゆる場所(機会)で学びました。そして、1)・2)・3)すべてで学び、かつ生涯学び続けた人であったといえましょう。

 

( つづく )

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本学   【司馬遷と『史記』 ― 5 】  

 

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易経   ( by 『易経』事始 Vol.2 ) & ( by 「十翼」 )

 

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