「犬に論語」のことわざは、「猫に小判」などと同様に否定的意味で使われています。
愚息いわく、人の生活に身近な犬は、有難い『論語』を聞いているとその『言霊(ことだま)』によって、あるいはその飼主の影響を受けて立派になる。
『犬にも論語』であると。

言葉や文字には、神秘霊妙なる魂があります。
聖書にも「太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と共にあり」とあります。
我国は「言霊の幸う(さきはふ)国」といわれ、この言葉の持つ影響力が作用し続けた国なのです。

『論語』や『易経』は、古(いにしえ)の聖人が語ったり作ったりしたもので言霊の偉大なる集積・体系です。
『論語』は古くは『円珠経』と称され上下四方、円通極まりなきもの。
『易経』は、生々、無限の創造進化、窮することなきもの。
これらの文言・箴言(しんげん)は、広く処世、人生の哲学として日本人の本(もと)を作ってまいりました。

『論語』から取られた、博文・有朋・敏行などの人名、
『易経』から取られた、大化に始まる明治・大正といった元号や
神道・大和・元気などの語は良く知られています。

さて、従来デザイン・政治・法律・易学と広い分野を研究対象といたしておりましたが、
私も知非・知命の齢となって、儒学をその研究と教学の中心にすえました。

その契機は、安岡正篤先生の著書との出合いであり、論語普及会、師友協会の皆様からの感化も大なるものがありました。

儒学の古典を、現在(いま)学ぶ意義はどこにあるのでしょうか。
歴史哲学者 E・H・カーは、「歴史とは、過去と現在との対話である」と述べ、
孔子も「故(ふる)きを温めて新しきを知れば、以って師と為るべし」(為政)と言っております。
過去を現在に生かし、更に未来への栄養とするのです。
例するに、冷めたシチューやカレーを“ねかせて”から温め、更に一味工夫するが如きものです。

西洋史では、中世『暗黒時代』に対するルネサンス(復活)であり、易では『地雷復』卦の示すところのものです。
異文化の浅薄な模倣が蔓延する時代、東洋・日本精神のルネサンスが必要です。

ところで、我国の優れた人間教育のひな形が江戸期の寺子屋や藩校の中にあります。
『読み・書き・ソロバン』と要称されているものです。

まず第一に何を読んでいたのでしょうか。
『孝教』・『論語』・『大学』・『易経』といった儒学の経書が中心と思われます。

第二にどのように読んでいたのでしょう。
漢文の素読・音読でしょう。初等教育で、声に出し、リズムで学び、また暗唱することで学の基本をたたき込んだのです。
『言霊』は、音の持つ力と共にあります。
天才モーツァルトの『音』が胎児・幼児、更に動物・野菜にいたるまで効果があることは、新しく知られているところです。
戦後、音読が捨て去られました。
現今(いま)、脳学者は、高齢者や児童にとって計算演習と国語の音読が脳を活性化し有効であることを明らかにしています。

第三に『書き』とは何でしょう。
文字・書の持つ力『書(字)霊』とでもいった気韻の世界が考えられます。
言葉は文字・書によって一層力を発揮し、自分の美=徳を表現できます。

ワープロや携帯のメール全盛で、『書霊』は絶滅しつつあります。
小中学教育現場で、運動会、入・卒業式などの立看板が、ワープロ文字を拡大コピーして作られているのは寂しいものがあります。
論語普及会や師友協会の諸先生方が、毛筆手書きで教材を整えておられるのは、けだし王道と感じ入っております。

今、想いを新たにしている『論語』の一節を引用して結びといたします。

「子日く、黙してこれを識(しる)し、学びて厭(いと)わず、人を誨(おし)えて倦(う)まず。何か我に有らんや。」(述而)

真儒協会 代表 高根 秀人年


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