豚児・愚息の 「英国留学体験の記」
――― 荊妻豚児/愚妻・愚息/弱冠/ロンドン大学・オックスフォード大学/
“マルタ”/「さね〔核/実〕」/伊勢の「尋常研修会」/孔子“空白の15年”/
【風地観☴☷】卦/「観光」〔国の光を観る〕/“壺中天”≒アナザースカイ/
日本と日本人のアイデンティティー/「学び〔学而〕」て「立つ〔而立〕」/
「世界の光」・「日本国の光」 ―――
《 はじめに 》
唐土〔もろこし〕では、妻子のことを謙遜の言葉で「荊妻豚児〔けいさいとんじ〕」ともいいます。
いくら“へりくだり”とはいえ、「荊〔いばら〕」の妻に「豚」の子の表現は過激に感じます。注)
我が国の愚妻・愚息〔ぐさい・ぐそく〕あたりの謙遜表現は、
ホド〔程〕を得てよろしいように感じます。
尤〔もっと〕も、こちらの語も、何でもかんでも言葉を否定しているご時世、
今時〔いま〕はほとんど使われません。
さて、我が愚息・徳義は、小学生の砌〔みぎり〕から当真儒協会の児童部・
「パール・キッズ・スクール」〔Pearl Kids School:童学草舎〕の会長を務めてまいりました。
当会や他の団体で、『易経』の講義・講演を務めたりいたしました。
(ex. ’06.6 「易と動物」・日本易学協会大阪府支部)
長じて現在、大学生をやっております。
2015(平成27)年、20歳〔はたち〕の人生の節目〔ふしめ〕の年、
春期に早稲田大学から英国・ロンドン大学〔“University College London”〕に留学いたしました。
続いて夏期に、改めて渡英、オックスフォード大学〔“Oxford University”〕に留学いたしました。
―― 弱冠〔じゃっかん:20歳〕にして世界の光を観たわけです。
この“英国留学の記”が、昨年(‘16、H.28年) 「論語普及会」の会誌『論語の友』に、
三月〔みつき〕3回にわたって連載されました。
今回それを掲載したいと思います。
ただし、会誌編集字数の関係でカットしていた部分の文章は、元原稿通りに再現加筆しました。
これで、荒削りではありますが、小文学作品になっているかと思います。
また、登場人物名は無記名に改め、掲載された写真は一部省略しました。
なお参考までに、専用語と思われる英語(カタカナ)表記には日本語の意味を、
漢字表記には読み仮名を私が添えておきました。
――― なお、後日談として付言しておきますと。
愚息は、英国留学から帰国後の昨年(‘16、H.28年)は、
欧州・ロシア・エジプト中近東・中国アジア諸地域の十カ国余りに遊学しました。
今年(’17、H.29年)は、春季に、英語・語学力強化のため
地中海の“マルタ”に留学しています。
“マルタ”は、古代ローマの時代からカルタゴが支配した地で地中海貿易によって繁栄しました。
現在は、英語留学先として知る人ぞ知る“穴場”であり、地中海の楽園でもあります。
二ヶ月ほどで、イタリア・スイスに立ち寄ってからタイ経由で帰国する予定です。
注)
「荊妻」=「イバラの妻」は、トゲトゲしい怒りっぽい妻の意ではありません。
故事は、後漢時代。
梁鴻〔りょうこう〕の妻・孟光〔もうこう〕が、「イバラ」のかんざしをさした事に由来します。
「荊人」・「荊婦」とも。
なお、「イバラ」は、易の【坎☵】の象〔しょう〕です。
【 英国留学体験の記 】 ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ― ―
「吾、弱冠(二十歳)にて世界を観る」
―― 英国/ロンドン大学・オックスフオード大学 留学体験の記 ――
盧 徳義 (早稲田大学在学中/20歳)
《 プロローグ〔序〕 》
子どもの頃の善〔よ〕き感化というものは、「さね〔核/実〕」となって、
やがて長じて発芽し時を得て花開くものである。
私においても然〔しか〕りで、小学生の頃からの善き「学び」が養分を得て、
今時〔いま〕弱冠(20歳)の人生の節目に英国留学という精華を得たのである。
小学生の頃、父に付き添われて「論語普及会」や「関西師友協会」に学ばせてもらっていた。
I.S.先生や M.Y.先生の謦咳〔けいがい〕に接し、
また他の多くの先生方の薫陶を受けた。
小5生の頃、会の宴席(「洗心講座」)で「教育勅語」を暗誦披露させていただいたことは
今でも記憶に鮮明である。
とりわけ、小4生から毎年参加させてもらった伊勢の「尋常〔じんじょう〕研修会」は、
私の「さね」を形成するに大いに与〔あずか〕っていると思う。
その折に学んだ『孝経』も、後に全文を暗記し私の精神的糧〔かて〕となっている。
お世話になった M.先生、 T.M.先生、 Y.M.先生方や I.先生の孫娘さん、
父の友人の T.T.さんなどを、懐かしくもありがたく思い出している。
今回、Y.先生のお声かけを得て、近況報告も兼ねて私の英国留学記をまとめた。
「紳士〔ジェントルマン〕」の国への大和〔やまと〕の「士〔もののふ〕」の遊学の記である。
なお、表題について付言しておく。
『論語』にある「志学〔しがく〕(15)・而立〔じりつ〕(30)・不惑〔ふわく〕(40)・
知命〔ちめい〕(50)・耳順〔じじゅん〕(60)・従心〔じゅうしん〕(70)」は、
孔子が自身の生涯を回顧して語ったもので、年齢を表す語としてよく知られている。
これらの語が私たちに訴えるものは、これらを受け取る各々の年齢によって異なるであろう。
『論語』の成立から2500年余りが経過した現在、私は「温故知新」の名のもとに、
平成の世を生きる自分なりの今時〔いま〕のあり方を考えることが必要だと感じ、
このように題した。
《 英国留学の記 》
平成27(2015)年の2月・3月に、弱冠の私は英国留学を果たした。
かつては伊藤博文や夏目漱石が、最近では小泉純一郎などの数多〔あまた〕の著名人が学んだ
ロンドン大学のユニバーシティカレッジに、である。
同年8月には、言わずと知れた、イギリス最古の伝統を誇る〔起源は12世紀〕
名門オックスフォード大学のハートフォードカレッジに留学した。
このカレッジは、世界的政治学者のトーマス=ホッブスの母校でもある。
なぜ、私が二度にも及ぶ渡英を決意したのか?
そこには大学生ならではのミーハー〔周りにすぐ同調する〕な気持からではなく、
山口・萩が生んだ二人の高潔な士の存在への想いがあったからなのである。
吉田松陰と高杉晋作の二人がそれである。
松下村塾の師である吉田松陰はペリーの黒船に乗り込み渡米しようとし、
弟子の高杉晋作は隣国の清〔しん〕で「太平天国の乱」を実際に目の当たりにし、
自分の人生観そのものに変革をもたらしているのである。
幕末の激動の時代においても、志あるものは世界を目指したというのに、
況〔いわん〕や平成の青年においてをや、である。
自分も、何としても異国の“光”を観てみたいと切望したが故にであった。
―― 想うに、今時〔いま〕、このような考えを持つに至ったのは、
少年時代に学んだ古典・先哲の教えの潜在的ベース〔基盤〕があったからに違いない。
例えば、小学高学年の頃、 T.T. 先生の講座(「青年立志塾」)で、
吉田松陰・高杉東行〔とうぎょう〕(晋作)・楠正成・宮本武蔵などを
安岡正篤先生のテキストを底本に学んだ。
(※この安岡先生の名著・『日本精神の研究』は、いま英訳でも出版されており、
改めて英文で愛読している)
また、 M.T. 先生の講座(「古典活学講座」)では『論語』を中心に中国古典思想を学んだ。
「機妙」にも両先生は、私の所属している大学(早大)の大先輩ということになるに至っている。
(1) ロンドン大学へ
私にとって初めての留学先となったのが、
“University of London 〔ロンドン大学/以下UCL〕”であった。
私の20歳の誕生日から3日が過ぎた2月の22日、眠い目を擦〔こす〕りながら始発に乗り、
漠然とした不安感と期待感とのアンビバレンス〔相反する感情〕を
一際〔ひときわ〕大きなスーツケースに詰め込んで、私は羽田空港へ向かった。
それから大凡〔おおよそ〕12時間後には、私は遂に夢にまでみた
「七つの海を股に掛けた大英帝国」の土を踏んだのである。
イギリスに入国し、ヒースロー空港からバスに一時間ほど揺られ
ロンドン市内に到着した。
着いてからの3日間は、何とも言えない疲労感で何も手につかなかった。
だが4日めの午後、現地留学生との交流の中で日本人学生の宴もたけなわとなり、
皆で物見遊山〔ものみゆさん〕に「繰り出す」ことにした。
“UCL”は「大英博物館」の裏手にあり、その立地条件は英国随一と言えるであろう。
そこで、私たちは歩いて街を散策することにしたのだが、
不慣れな海外の街を歩くことはそう簡単ではない。
紆余曲折〔うよきょくせつ〕している間に日も暮れてしまっていた。
そして、ディケンズの “Christmas Carol 〔クリスマス キャロル〕”さながらに、
ロンドンの街は一瞬にして「霧の都」に姿を変えた。
その光景は、まるで不意に人気のない街角から「切り裂きジャック」や
「シャーロック=ホームズ」が飛び出してきそうであった。
街を漂白する中で、私はある種の恍惚感すら覚えたほどの魅力を感じた。
その後、私たちは夢心地にテムズ川沿いを歩き、ロンドンの夜景を堪能したのであった。
特に、観光名所でもある “London Eye 〔ロンドン・アイ:観覧車〕” からの大パノラマ〔見晴らし〕は
なんとも名状しがたいエキセントリック〔極端に変わっている〕な景色であり、
その時の感激と胸の高鳴りは今でも鮮明に覚えている。
明くる日から、ロンドン観光に味をしめた私は、授業も早々に、
沢山〔たくさん〕の場所を訪れたのであった。
「大英博物館」・「BBC」・「バッキンガム宮殿」・「ロンドン橋」などの有名どころはもちろん、
シャーロック=ホームズの舞台となった「ベイカーストリート」や「コベントガーデン」、
さらに週末にはウィンブルドンやハリーポッターのスタジオツアーなど、
数え挙げればきりがない程である。
その全てが私の期待を大きく超える感動を与えてくれるものであった。
私にとって、仲間と遊び回り、ひたすらカメラ越しに皆で肩を組むのも
大学生としての至極〔しごく:この上ないこと〕の喜びではあった。
その一方で、一人群れを離れ異国の地を流離〔さすら〕うのも、
これまたなんともいえないセンチメンタル〔感傷的〕な漢〔おとこ〕の悦びであった。
自分好みの甘くメロウな〔豊かで美しい〕 “R & B”を聴きながら、
偏西風に身を委ねながらの漫〔そぞ〕ろ歩きはたまらなく、
体の奥底から湧き上がってくるとてつもない自尊心を体温の上昇というカタチで
フィジカルに〔物理的/肉体的作用のように〕感じた。
不慣れな土地な為〔ため〕に、目的地に行くには自ずと誰かに道を尋ねなければならず、
そこで必死に英語を使い異国の人々とカンバセーション〔会話〕をする中で得たものは
かけがえのないものであった。
日本にはない彼らの陽気で気さくな対応は、自分が生きていることを自覚させてくれるもので、
まるで映画のワンシーンのようであった。
「一日の中に四季がある」、と言われるロンドンの空模様。
心なしか日本よりも日の流れをはやく感じさせ、
いつしかエキセントリック〔風変わり〕に感じた組積造〔そせきぞう〕にも見慣れてしまい、
私にとって、もうすでにその景色は
ノスタルジック〔故郷を懐かしみ恋しがる〕なものになっていたのである。
そしてそれと同時に、帰国の日が迫っていた。
気がつけば、不安をこれでもかというくらい詰め込んでいたトランクも
土産〔みやげ〕でいっぱいになり、撮った写真の枚数も何千にも膨らんでいたのである。
このイギリスの景色を目に焼き付けておかなければならない!
あと少しで、日本に帰らなければならないのだ。
そのことを思うととても胸が苦しくなった。
帰国後、私は所属していた体育会系クラブの、自衛隊との合同合宿のために
習志野〔ならしの〕の第一空挺団へ間髪入れずに直行しなければならず、
この街を、そしてこの国を恋しく思う気持ちは誰よりも強かったのである。
あと少しで、この古〔いにしえ〕の街並も、風も匂いも、空気も温度も、
一瞬にして私の目の前から奪われてしまう。
やり残したことは何だろう? まだ間に合うのか?
一つだけでもいいからやり遂げてみたい。
だからこの瞬間を、もっと強烈にもっと鮮やかに、
言葉や理屈ではなくて五感で受け止めなければならないのだ!
―― ミュージカルを観終わった静寂の帰り道、
街灯が照らす心なしか大きな建物の影を逃れるように歩きながらそう強く思った。
そして案の定、「その時」は残酷なまでにすぐやってきた。
惜別〔せきべつ〕式を終え、皆で食事をして歓談し、
思い残すことなくロンドン大学の学生でいられる時間をめいっぱい味わった。
だけれども、いくら話しても話足らず、伝えたいことも伝えきれず、
確かめたいことも確かめきれず、
そして気がついたころにはもう、私はまるで振り出しに戻ったように
ヒースロー空港のイスに座っていた。
そうして私は、どうすることも出来ずベルトコンベアに流されていく荷物ででもあるかのように、
システマティック〔組織的〕に飛行機に積まれていった。
しかし、いざ羽田に着いたら何とも言えない開放感と安堵感に包まれた。
それと同時に、もっと多くを学ばなければならないと閃〔ひらめ〕いたのである。
もう一度イギリスに行かなければならない、
そんな気がして夕空に滲〔にじ〕むジェットの赤いランプをぼぉーと眺め続けた。
(2) オックスフォード大学へ
ロンドン大学留学から帰国してからの大学生活は、
それまで以上に非常に忙しく新鮮な毎日であった。
そんな、てんやわんやの毎日でも留学で育〔はぐく〕んだ友情は揺るぎなく、
交流は続いていた。
そして、私が再度渡英することへの思いもまた決して変わることがなかったのである。
桜花とともに、あっという間に春は風に乗ってゆき、涼しげな季節がやってきた。
その頃には、夏期留学プログラムの募集が私の手元に届いており、
いよいよ二度目の渡英を算段する運びとなった。
―― そして、私は “Oxford University 〔オックスフォード大学〕”に
留学することを勝ち取ったのだ。
夏の気まぐれな甘い風にさらわれることもなく、
日本の気怠〔けだる〕い夏も早々に切り上げ、
私は再びイギリスへと向かったのである。
イギリスの夏は日本で言う11月くらいの気温で、
相変わらずのはっきりしない曇った空模様だった。
懐かしく感じた。
ヒースロー空港からバスで2時間、
私は学園都市オックスフォードにやってきた。
その街並みはかつてロンドンで観たものとは違い、
たいそう落ち着いたものだった。
寮のすぐそばをテムズ川が滔々〔とうとう〕と流れ、
そのそばにはアヒルやカルガモ、樹の上にはリスが優雅に暮らしていた。
そして、ハブと呼ばれる酒場もたくさんあり、
川を望みながら酒を楽しめるようになっていた。
オックスフォードのメイン図書館(“ラドクリフカメラ”)の真正面に位置する
ハートフォードカレッジはとても趣き深く、
美しく茂る植物やレトロ〔復古調〕窓ガラスがとても特徴的で、
中庭を吹き抜けるやさしい風がとても心地よかった。
スーツに着替え、写真を撮りウェルカムパーティー〔歓迎の宴〕として
アフタヌーンティー〔午後の紅茶〕を楽しんだ。
英国式紅茶はたいそう美味しい。
イギリスの水は日本のものとは違い、随分と硬質なため、
紅茶にはうってつけなのである。
ネイビーブルー〔イギリス海軍の制服の紺色〕のストライプ
〔しま模様〕入りのスーツに、薄青色のワイシャツの腕をまくり、
細めの光沢ある群青〔ぐんじょう〕色のネクタイつけて、
私は気どるように紅茶を楽しんだ。
いつの日か、英字新聞を片手にこんな風に紅茶を飲める毎日が来る気がする。
そんな願望が強めの直感を抱きながら、
私は現地の先生と話に花を咲かせたのである。
先生方に以前“UCL”(ロンドン大学)で学んできた話をすると、
自分も数年前まで勤めていたという先生や
甥が在学しているという先生がいらして、私自身たいそう沸き立った。
オックスフォードでの授業は“UCL”とそう違いはなかったが、
放課後の過ごし方はひと味違ったものだった。
学園都市であるオックスフォードは、
正直言って観光名所や遊び場はそう多くはない。だが、
その古き良き学園の街並みと美しく静かな自然の中で、
世界史に名を刻んだ多くの偉人達が
かつて私と同じ景色の中で学生時代を過ごしたのだと思えば、
はからずも胸が熱くなった。
オックスフォードは、『不思議の国のアリス』や『ナルニア国物語』の作者などの
著名な卒業生を抱えているのとは別に、
ハリーポッターのロケ地としてのもう一つの顔をもっており、
それなりに観光客で賑わっていた。
私たちは、彼らにつられるように観光地を巡ったり、
川下りや森の小道や広々とした芝生の公園をのらりくらり流れ歩いた。
また、のんびりと買い物や食事をして、
街の人々とのコミュニケーションを楽しんだ。
オックスフォードには、“UCL”とは違って
数多くの日本の大学の一行が学びに来ており、
街でそれらしき人達を見つけては声をかけまわっていた。
不思議なもので、アジア系の人達はそれなりの人数で同じ街に暮らしていたが、
日本人を見分けるのは容易であった。
そしてその度に、「日本」への母国愛が募ってきて、
改めて自分が日本人であることに誇りと喜びを感じて、
心なしか優〔やさ〕しい気持ちになれたものだった。
自分が父親になった時には、自分の子供への慈〔いつく〕しみには、
幼いうちから数多くの異国文化に触れさせ、
海をも渡り得る言葉を教えてやりたい。
だけれども、自分の大好きな「日出〔い〕づる大和〔やまとの〕国」で育ててやりたい。
その為には、自分たちグローバル〔国際的〕な世界に生きる若者が
細石の巌〔いわお〕となって、苔のむすまで灯火を絶やしてはならない、と。
いつになくシリアス〔厳粛〕に考えた。
だがしかし、今はそれどころではなく、
極々〔ごくごく:このうえなく〕楽しむしかないと開き直り、
真っ昼間からスコッチを呷〔あお〕った。
「暖衣飽食」の“スローライフ〔安逸(あんいつ=のんき)な生活〕”な「時の流れ」は、
私に色々なことを教え、考えさせてくれた。
日本よりも明らかに多国籍で、
さまざまな思想や文化背景をもつ人々が入り交じって暮らすこの国では、
日本以上に国際的緊張の影響を大きく受けるはずである。
昨今ニュースを賑わしているテロ事件にしても彼らの感じる脅威と、
日本の私たちのそれとはまるっきり違うものであろう。
オックスフォードの街は、ロンドンに比べればたいそう小さく感じられた。
そこで私は、毎週末ごとに遠出〔とおで〕を試みた。
一度訪れた国だけあって交通機関はお手のものであった。
ケンブリッジやバース、グリニッジやカンタベリーなど
多くの地に足を運んだのである。
イギリスの郊外は何処〔どこ〕も独特で美しいものだった。
時代と歴史の崇高さを感じさせる建築物に圧倒されつつも、
私はいつしか旅行先で出会った人々との会話を楽しむほどになっていた。
「テルマエ・ロマエ」で一躍脚光を浴びたバースであっただろうか。
露天の商人に
「やぁ、留学生かい?バースへようこそ。いい街だろ? どこから来たのさ?」
と尋ねられた。
そこで、私はオックスフォード(大学)に留学しており、
日本の大学では心理学や教育学を研究していると応〔こた〕えると、
彼〔か〕の氏はご自慢の“タコス”片手に
「そりゃいい!! なら僕にとってはこれが君の言う心理学ってヤツかな?」
と営業トークを披露し、道行く人々に営業をかけていた。
日本ではなかなか出会えない、海外の人々のそんな陽気な対応は、
生きていることを切〔せつ〕に実感させてくれるものであった。
それにしても、イギリスの酒は本当にうまい。
毎晩イギリスの酒に言葉通り酔いしれ、皆で話に花を咲かせ、
気持が乗ればウイスキーやジンを持って、放歌高吟〔ほうかこうぎん〕して
「紺碧の空」〔早大応援歌〕をなんども歌った。
そんな毎日は、素直〔すなお〕に楽しく嬉しかった。
しかしながら、オックスフォードでの生活も、
案の定〔じょう〕瞬〔またた〕く間に過ぎてゆき、
あっという間に帰国の日が近づいた。
目に見えるものも見えないものも、
忘れ物がないよう何度も確認してからイギリスを後にした。
《 エピローグ〔跋:ばつ〕 》
唐土〔もろこし〕の聖人〔孔子〕は、
嘗〔かっ〕て15歳〔学而〕と30歳〔而立〕のことを懐古して格言を残した。
その間の時期は空白である。
ここに倭〔わ〕国〔=日本の太古称〕の空〔から〕け者〔よりどころのない者〕は
その挟間〔はざま〕に20歳の生き方を求め加えるとしよう。
―― ところで私は、幼少の砌〔みぎり〕、父から「易学」の手ほどきを受けた。
父の高弟〔こうてい〕の嬉納禄子〔きなさちこ〕先生にも
手塩にかけて導いていただいた。
英国留学の年(平成27年)は、干支〔えと〕「乙・未〔きのと・ひつじ〕」で、
易卦の【風地観〔ふうちかん〕】に相当する。
【観】卦は、「国の光を観る」(4爻〔こう〕)で
精神性重視・心眼で深く観るの意。
奇〔く〕しくも「観光〔かんこう〕」の語源である。
想うに、「世界を観る」というのは、
何も単に物見遊山で海外旅行することではあるまい。
それは一言でいえば(※安岡正篤先生がよく言っておられたという)
「壷中〔こちゅう〕の天」、今風に言えば「アナザースカイ」を探すことである。
それは空間的な世界だけではなく、
思想や文化においてもその「光を観る」ことなのである。
私にとって今回の留学は、何かを体現し学ぼうとした境地が、
いつしか郷愁的な帰る場所となった。
そして、大英帝国の「光を観る」ことで、
幼〔おさな〕かりし頃から身につけてきた東洋思想や日本精神というものを
改めて認識した。
日本と日本人のアイデンティティー〔自分とは何か?〕が分かりかけた気がしている。
私は、グローバルな時代に在って、「学び〔学而〕」て「立つ〔而立〕」ように、
この留学を嚆矢〔こうし:はじまり〕として、
ひたすら「世界の光」を観続けて「日本国の光」を確認したいと思っている。
( 以 上 )
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