儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

儒学随想

水【坎】 に想う  (その12)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 レオナルド・ダ・ビンチ と 「水」 》

古来、“天才”と称される偉人は少なくはありません。
が、“万能の天才”(ウオーモ ウニベルサーレ:普遍的人間)と冠される偉人は稀〔まれ〕です。

その“万能の天才”の名声を代表しているのが、
ルネサンスの巨人、レオナルド・ダ・ビンチ です。

賢人・聖人の至れるものが、象〔かた〕どられた“水”であることから
レオナルドにおいても“水”は強い執着と“楽〔らく〕”を与えているものです

ただ、一味、他の賢人たちと異なるのはその多才ぶりにあります。 

── レオナルドは、“水”(川)の流れを観て
人生・自然世界を瞑想〔めいそう〕し(【哲学者】)、
“水”という物質の形態を研究・深究し(【科学者】)、
“水”⇒ “波”をスケッチ・デッサンしていくうち、
いつしか“水”が永遠なる女性の髪の美(ウェイブ)と重なり融合して
“美”の世界に深く没頭してゆくのでした(【芸術家/画家】)。

レオナルドと“水”とのかかわりについては、
私たちは貴重な文献資料である「手記」によって垣間見ることができます。

以下、「手記」の中から“水”に関連するものをピックアップしてみましょう。


◎原典資料

・一人が他を追いかける。この絵によって生命と人間の状態が理解される。

・われわれは他人の死でわれわれの生命を養う。
 死せる物の中には生命が残っている。
 それがいきものの内臓に結びつくとふたたび感性的 知性的 生命を帯びるのである。

君が手にふるる水は過ぎし水の最期のものにして、来るべき水の最初のものである。
 現在という時もまたかくのごとし

(『レオナルド・ダ・ビンチの手記 ・上 』・杉浦明平訳・岩波文庫/〔人生論〕より)


・水の書の始まり ── 広くて深い形姿を有し、
 そこにあっては水がほとんど動かずにとどまっているものは海とよばれる。

☆水は自然の馭者〔ぎょしゃ〕である

・水とは何か ── 水は四原素のうち
 第ニの重さと第ニの流動性〔ヴォルビリタ〕をもつものである。
 これは海というじぶんの原素〔圏〕に帰りつくまでけっして静まることがない。
 海では、風に 患わされないかぎり、じっとして
 世界の中心から等距離なる水面を持して憩〔いこ〕うている。
 この〔水〕はありとあらゆる生ける物体の養分〔アウメント〕にして水分〔オモーレ〕である
 月の下なるいかなるものも水なしにはひとりで最初の形態を保持して行くわけに行かない。
 水はもろもろの物体を結合し、養い、それを成長させる。
 水より軽いものは暴力をもってするのでなければ水を貫くことができない。
 熱によって微細な水蒸気となり嬉々〔きき〕として空中に立ち昇る。
 寒さは水を凍結し、安定は水を腐敗さす
 あらゆる匂い、色および味を受入れるが、自分には何ひとつもたない

・そしてちょうど鏡がその前を通過する対象の色に自らを変えるように、
 何一つ自分自身では持たぬが、すべてを動かしもしくは捉〔とら〕える、
 そしてその通過する場所が千変万化すればそれだけ自分の性質をも千変万化させる。

・水は不断の運動によって海のどん底から山のてっぺんまでを循環し
 重さを有する物体の性質に従わない。
 この場合ちょうど動物の血のような働きをする

・川の水は海から来るのではなく雲から来るのだ。

・水の運動 ── 濁った水が、その流れに逆らうものにあたえる衝撃は
 清らかな水よりはるかに強い。

(『レオナルド・ダ・ビンチの手記 ・下 』・杉浦明平訳・岩波文庫/〔科学論〕より)


cf. 水=変化=循環     人間 ── 女性の髪の美/波(ウェイヴ:Wave)



( 以上 )



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水【坎】 に想う  (その11)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 水=川の流れ ・・・ 鴨長明・『方丈記』 》

「川の流れのように」 や 「時の流れに身をまかせ」という名曲の表題は、
私たち(日本人)の感性によく適〔かな〕いよく知られています。  注10)  

古代中国において、“水”は“川”と同意でした。

“水”は流れ移りゆくものであり、
したがって川の流れであり、時の流れとも表現できるのです。


東洋思想において、古代の聖人・哲人(ex.孔子・老子・孫子 ・・・・ )は、
“水”をその思想の象〔しょう/かたち〕といたしました

そしてそれは、“水”を(有形・固定したモノとしてではなく)
時間”(無形・移りゆくもの)で捉えるものです

すなわち、水の流れ = 川(の流れ) として捉えるものであったといえましょう。


【東洋思想の水】 
☆水を時間(無形・形而上的)で捉える = 水の流れ = 川(の流れ)


鴨長明・『方丈記〔ほうじょうき〕』は、
吉田兼好・『徒然草〔つれづれぐさ〕』と共に、
わが国鎌倉期を代表する二大随筆です。  注11)  

両者は、仏者の隠者文学の金字塔で、“仏教的無常観”で貫かれているとされます。

この二大作者・作品は、中国の源流思想(=水【坎】の思想)の影響を
色濃く反映しているということができましょう。


私見ながら、(東洋三大思想、宗教としての)“仏教”が加わると、
「易学(儒学)」・「黄老」の“変化”・“循環”の思想が、
“はかない/むなしい”といった消極的な意味で捉えた
“無常観”(=変化)の悟りになっていると考えられます

【陰陽】の【陰】と捉えることもできましょう。  注12)


水の流れ(=川/「ゆく河の流れ」)を、その文学作品の冒頭に
滔々〔とうとう〕と綴〔つづ〕ったものが、鴨長明・『方丈記〔ほうじょうき〕』です。

そこでは、“無常観”(=変化)が
ながれる水(河)の象〔しょう/かたち〕となって表わされています。

空間(有形)を捉えているところは絵画的であり、
時間(無形)を捉えているところは哲学的でもある文学作品の書き出しです。

そして、「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、・・・ 」と、
まさに流れるような文体で書かれています。

激動の時代に変化・無常を身をもって体感した鴨長明ならではの名文といえましょう。

以下、『方丈記〔ほうじょうき〕』の冒頭部分を引用・紹介しておきましょう。


注10)
◆「川の流れのように」: 美空ひばり さんのヒット曲としてよく知られ、
秋川雅史・椿・近藤真彦・奥村チヨ さんなどで歌われている名曲です。
今なお、多くの人々に唄い親しまれています。
似た題名の曲として、「川の流れの如く(吉田拓郎)」・
「川の流れは(THE BOOM)」・「川の流れを抱いて眠りたい(時任三郎)」 ・・・ etc.

◆「時の流れに身をまかせ」: テレサテン( 麗君) さんのヒット曲として
よく知られています。
似た題名の曲として、「時の流れのように(中山美穂)」・
「時の流れの中に(谷山浩子)」 ・・・ etc.


注11)
平安期の清少納言・『枕草子〔まくらのそうし〕』を加えて、
わが国 “三大随筆”といわれています。


注12)
『徒然草』は 思想的には、一般に 仏教的無常観であるといわれています。
しかし、私は、兼好が 「変化〔へんげ〕の理〔ことわり〕」(74段) と呼ぶものを、
東洋的 “変化〔へんか〕の思想”として捉えてみたいのです。
源流思想としての 易・『易経』の世界観・人間観です。
変化は同時に 「時」 の理でもあります。
序段の「心にうつりゆく」は、時間的遷移〔せんい〕でもあり、
その遷移は中論(弁証法)的に捉えられます。
無限変化 ─ 進化循環するという意味においての 「無常」です
従って兼好の人間観・運命観は、陽性にして肯定的・主体的です。
つまり、宿命と運命を峻別し、運命は人間の力で打開できると信じています。
このことは、中世にあっては、注目すべきことではないでしょうか。
ヘーゲル哲学の運命観も同様であり、
ここに近代精神の先駆を見ることも出来ると思います。 
(高根:「『徒然草』にみる源流思想」より)


◎原典資料

「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例なし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし

たまきの都のうちに、棟〔むね〕を並べ、甍〔いらか〕を争へる、
高き、いやしき、人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、
これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。
あるいは去年〔こぞ〕焼けて今年作れり。
あるいは大家〔おおいえ〕滅びて小家〔こいえ〕となる。
住む人もこれに同じ。
所も変はらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、
二、三十人が中に、わづかに一人二人なり。
朝〔あした〕に死に、夕べに生まるるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生まれ死ぬる人、いづかたより来りて、いづかたへか去る。
また知らず、仮の宿り、誰〔た〕がためにか心を悩まし、
何によりてか目を喜ばしむる。
その主〔あるじ〕とすみかと、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。
あるいは露落ちて花残れり。
残るといへども朝日に枯れぬ。
あるいは花しぼみて露なほ消えず。
消えずといへども夕べを待つことなし。」


《 大 意 》
流れゆく川の流れは(常に)絶えることはなくて、
しかも、(その流れの水は刻々と変化して)同じ水ではありません。

よどんだ所に浮かんでいる水の泡は、一方で消えたかと思へばまた生まれて、
(生まれたかと思えばまた消えて)
長い間同じ状態でとどまっている前例はありません。

世の中の、人と(その)住居も、また(この川の流れや水の泡と)同じようです。

玉を敷きつめたように美しい都の中に、棟を並べ屋根の高さを競い合っている、
身分の高い人や低い人、あらゆる人の住まいは、
時代を経てもなくならないもの(のよう)であるけれども、
それを本当(になくならない家である)かと調べてみると、
昔あった家(で今も残っているもの)はまれです。

あるものは、去年焼けて今年(新しく)作っています。
あるものは、大きな家であったものが没落して小さな家となっています。

(そこに)住んでいる人も(家の場合と)同様です。

場所も変わっていないし、人もたくさんいますけれども、昔見知っていた人は、
二、三十人のうちに、わずかに一人か二人です。

朝に死んでゆく人がいるかと思えば、
夕方生まれる人もいるという(この世の)ならいは、
まさに本当に、水の泡に似ています。

 ── わからないのです、この世に生まれて死ぬ人は、
どこからやって来て、どこへ去っていくのか。

また、(これも)わからないことなのですが、
仮の住まいにすぎないのに、だれのために心を悩ませ、
何によって目を楽しませるのか。

その家の主人と住居とが、あたかも競い合うように儚〔はかな〕く滅び去るありさまは、
例えば朝顔の花(とその上)に置かれた露と変わりません。

ある時には、露が落ちて花が残っています。

残るといっても朝日を浴〔あ〕びて枯れてしまいます。

(また)ある時には、花がしぼんで露がまだ消えないでいます。

(が、しかし)消えないといっても夕方まで残っていることはないのです。


《 レオナルド・ダ・ビンチ と 「水」 》

古来、“天才”と称される偉人は少なくはありません。
が、“万能の天才”(ウオーモ ウニベルサーレ:普遍的人間)と冠される偉人は稀〔まれ〕です。

その“万能の天才”の名声を代表しているのが、
ルネサンスの巨人、レオナルド・ダ・ビンチ です。

賢人・聖人の至れるものが、象〔かた〕どられた“水”であることから、
レオナルドにおいても“水”は強い執着と“楽〔らく〕”を与えているものです・・・




※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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水【坎】 に想う  (その10)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 日本文化 の 「水」 》

山崎正和〔まさかず〕氏は、「水の東西」(『混沌からの表現』所収/PHP研究所) の中で、
水の東西文化比較論を述べています。

その中で、日本と西洋(欧米)の水について、
典型的具体例として日本の「鹿〔しし〕おどし」と西洋の「噴水」を挙げて、
次のような水の対比で東西の文化を捉えています。

1) (日本の)“流れる水” と (西洋の)“噴き上げる水”
2) (日本の)“時間的な水” と (西洋の)“空間的な水”
3) (日本の)“見えない水” と (西洋の)“目に見える水”

日本人に好まれる日本の美というものは、「鹿おどし」に代表されるように、
“水の流れ”や“時の流れ”といった 
変化するもの・流れるもの・循環するもの、の美です。

“時間”という目に見えない、形のないものです

それに対して、西洋の美は、
「噴水」にシンボライズ〔象徴〕されるように自然に逆らって噴き上がり、
空間に静止し立体を感じさせる、人工的に造形された美です。 ―― 同感のいたりです。


想いますに。「鹿おどし」や「枯山水〔かれさんすい〕」に感じさせられる、
日本の水の文化は、繊細なイマジネーションの世界です。

その世界は、やはり中国源流思想がルーツでしょう。

水を“楽しんだ”孔子、
水をその思想(柔弱・不争謙下・強さなど)の象とした老子、
などの思想に他なりません。

上から下へと(高きから卑〔ひく〕きへと)自然に流れる水は、
老子の、無為自然・変化循環の思想の象〔しょう/かたち〕です。

下から上への人造的、有為不自然な欧米の思想とは、よく対照をなしています。 注9) 


はるか太古の中国源流思想を、わが国の祖先・先哲が、
その“陶鋳力〔とうちゅうりょく: 優れた受容吸収力〕”をもって受け入れました。

そして、日本人の“(ものの)あはれ”・“をかし”といった繊細な感受性が加わって、
より格調高い、水に象〔かたど〕られた日本文化を形成しているのだと考えます。


注9)
易象〔えきしょう〕でみると西洋の文化は、多分に離・火【☲】であり、
東洋・日本のそれは坎・水【☵】であると想います。

というのも、離・火【☲】は人工物=文明であり、目の見えることであり、(外)形です。
そして、 “火”が下から上へと上昇するように、
(西洋の水の代表的あり方としての)噴水は
下から上へと自然と逆に流れてフォーム(形)を形成しています。

坎・水【☵】はその反対です。上から下へと流れ、無為自然です。


《 水=川の流れ ・・・ 鴨長明・『方丈記』 》

「川の流れのように」 や 「時の流れに身をまかせ」という名曲の表題は、
私たち(日本人)の感性によく適〔かな〕いよく知られています。   

古代中国において、“水”は“川”と同意でした。

“水”は流れ移りゆくものであり、したがって川の流れであり、時の流れとも表現できるのです・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。

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(このブログ記事は、5月9日にメールマガジンで配信したものです。
そのメールマガジンをお読みくださった方から以下のようなご意見・ご感想が寄せられましたので、以下にご紹介させて頂きます。)

近所に小さな八幡神社があり、急な階段を下りていくと鳥居があり、
その脇には清水が湧き出ていて小川になって流れています。
今年もそうですが、清水の真ん中にある大きめの岩には、
鏡餅と、小さな柱に青い紙垂(しで)。
これは昔から祭っている「水の神様」だそうです。
ICU大学そばの野川公園内の縄文遺跡の跡にある清水の流れ出る所にも、
お供えを載せたであろう大きな岩があります。
氷河期が終わった後の五千年の中国文化よりも、
温かい暖流の流れる日本には悠に古い縄文文化が花開いており、
そして清水の湧き出る場所は、神の宿る所、と特に大切に感謝をしていたと思われます。

氷河期とても住めなかったヨーロッパ・アジア大陸と違って、
この東アジア一帯には、私の住む日野市近くでも3万年以上前からず〜と住み続けています。
縄文の人々は、黒曜石の分布などからも分かるように、
とても広い範囲で文化的に交流をしていたようです。
多摩センター駅近く、東京都埋蔵文化財センターで見ましたが、
明らかに占いに使ったと思われる傷の付いた鹿の肩甲骨が、遺跡から発見されていました。
また1万年前位までは、黄海や、東シナ海は、九州に近いところまで、陸地が広がっていたようです。
国家などと言う、「分別知」の世界観はなかった時代ですよね。
日本人の気質を今に伝えるような大らかに「神と共に生き」、
「クラフツマンシップ」を発揮していたことでしょう。
世界最初の食料革命となる縄文土器は、女性と子供が製作したそうです。
東京都埋蔵文化財センターが、警視庁の鑑識課に依頼して調べた結果だ、と教えてくれました。
京都の下賀茂神社に、鴨長明の方丈記の住いがあります。
第一宮「玉依姫命」は神のこころと交信していた方、そこの神官の息子が鴨長明。
 
今の私達の暮らしぶりとほど遠いような、神と一体になっていた祖先の方々だったと思います。
私の中にも内在する先祖の残してくれた「アーラヤ識」を発現させて、
謙虚に少しでも良い世の中にお役に立てていけたらと、毎日を学びながら過ごしております。
 
今後ともよろしくご教示方お願いいたします。

(東京在住 65歳 男性)


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水【坎】 に想う  (その9)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 孫子 と 「水」 ・・・ 「兵形象水」 》 


孫武は、春秋時代の兵法家で兵法の創始者、
「兵家〔へいか〕」の開祖として有名です。

その著書『孫子』十三編は、兵書の枠を超えて広く永く愛読・研究されています。

例えば、『三国志』で有名な曹操は、
『孫子』を熟読研究の上注釈まで加えています。

わが国においても、八幡太郎義家が雁行〔がんこう〕の乱れから伏兵を悟った話、
武田信玄の“風林火山”の旗さしものが
『孫子』・「軍争編」から採られたものであったりしたこと、
などよく知られています。

「兵形象水」には、理想的戦闘態勢が、水のように形を持たず、
変化に対して流動的・柔軟に変化するものであることが述べられています。

想いますに、『孫子』の兵法は、変化への対応ということで易とも重なります。

“水”をその思想的象とすることで黄老思想とも重なってまいります。


○「夫兵形象水、水之行〔形〕、避高而趨下、兵之形〔勝〕、避実而撃虚。 | 
水因地而制流〔行〕、兵因敵而制勝、故兵無常勢、(水)無常形。
能因敵変化而取勝者、謂之神。 | 
故五行無常勝、四時無常位、日有長短、月有死生。」

■ 夫〔そ〕れ兵の形は水に象〔かたど〕る、水之行〔こう/≒形〕は高〔こう〕を避けて
下〔か〕に趨〔はし/おもむ・き〕り、兵の形〔≒勝〕は実〔じつ〕を避けて虚を撃つ。 | 
水は地に因りて流れ〔≒行〕を制し、兵は敵に因りて勝を制す。
故に兵に常の勢無く、(水に)常の形無し。
能〔よ〕く敵に因りて変化して(敵の変化に因りて)勝を取る者、之を“神〔しん〕”と謂う。 | 
故に五行〔ごぎょ〕に常の勝なく、四時に常の位なく、日に長短有り、月に死生有り。

《 大意 》
そもそも軍隊の形(配備)は、水の(一定の形がない)形をお手本とします。
水の流れは(千変万化し)高いところを避けて低いところへと向かってゆき、
(同じように)軍隊の形は(千変万化し)敵の堅陣を避けて
スキのある手薄な箇所を攻撃する(ような形をとります。) 
水は地形(の高低)に従って流れの方向を定めますし、
軍隊は敵(の情勢)に応じて(その時の)勝利の方策を決めます。
ですから、軍隊には(敵に対して)決められた態勢というものがなく、
また(水に)定められた形はなく、(さまざまな地形によって変化し)
うまく敵情のままに従って変化して勝利を勝ち取ることができるのです。
そのようなものを(人知を超えた)“神〔しん〕”というのです。
そこで、木・火・土・金〔ごん〕・水の五行〔ごぎょう〕においても
(相生相剋〔そうしょうそうこく〕の関係で)一つだけでいつでも勝つというものはなく、
春・夏・秋・冬の四季にも一つだけでいつでも止まっているものはなく、
日の出ている時間にも長短があり、月にも満ち欠けがあるのです。

■参考  ◎ 【 易学 と 孫子 】

   ( *孫子=孫武  *夫概〔ふがい〕= 呉の将軍、呉王・闔閭〔こうりょ〕の弟 )

夫概: 「ところで何をしていた?」
孫武: 「『周易』を読んでいたところです。この家にありましたので。」
夫概: 「『周易』!周の天子が書いた易学の書だな。
    まさか、それで占いでもするつもりか?」
孫武: 「ああ、いえ。退屈しのぎに目を通していただけです。」
夫概: 「易学の書にか!『周易』とは、てっきり占いの書かと思っていた。
    他に何か役に立つのか?」
孫武: 「はい。 『周易』の“易”という字は、そもそも、
    トカゲ〔蜥蜴〕の皮の色の変化を指します。

    “周”という字は、天地のあらゆるものを包み込むことを意味します。
    『周易』とは、伏〔ふくぎ〕・神農・黄帝・文王らの英知〔えいち/叡智〕の結晶です。
    その教えは、単に占いのみに止まりません。
    兵法にも大いに関係します。
    得るところが、実に多いのです。
    どうしたらもっと巧みに兵を動かせるかといったことから、
    勝機を得る策に至るまで学べます。
    ですから、何度読んでも飽きることはありません。」
夫概: 「改めて聞くと興味深い話だ。
    では、ひとつ、私の将来を占ってはもらえぬか ・・・ 」

 (DVD:「孫子兵法大全」・第19話/郢落城 より)


《 日本文化 の 「水」 》

山崎正和〔まさかず〕氏は、「水の東西」(『混沌からの表現』所収/PHP研究所) の中で、
水の東西文化比較論を述べています。

その中で、日本と西洋(欧米)の水について、
典型的具体例として日本の「鹿〔しし〕おどし」と西洋の「噴水」を挙げて、
次のような水の対比で東西の文化を捉えています・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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水【坎】 に想う  (その8)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 参考原典資料 》
          ( たかね・「大難解〔やさしい〕老子講」抜粋引用)


 水        【老子・水:8章/66章/(68章)/78章】

( 不争謙下 )

《 老子の思想の“象〔しょう〕”は、 ・・・ 水 》

易性・第8章) 注1)   

§. 「上 善 若 水」 〔シャン・シエヌ・ヂュア・シュエ〕 ・・・


注1)
「易性」は、易学の“変易”(変化する性質 /cf.易の三義: 変易・不易・簡易)のことです。
「水は方円〔ほうえん〕の器に従う」と申しますように、
水は変幻自在の性質を持っています。
そして、流れ、変化して止みません。
さらに、常に低きへと向かいとどまっています。
 ── それでいて、時に中〔ちゅう〕して、最強のパワーを発揮します。
老子はこの水を、最高の徳を持つものとして、己〔おの〕が思想の象としたのです。


○「*上善若水。水善利万物而不争 ※1。処衆人之所悪。故幾於道。 | 
 (居善地、心善淵、与善、言善信、政善治、事善能、動善時) | 
 夫唯不争 ※2 、故無尤。」


■上善は水の若〔ごと〕し。
 水は善〔よ〕く万物を利して(而〔しか〕も)争わず。
 衆人の悪〔にく〕む所に処〔お〕る。故に道に幾〔ちか〕し。 |
 (居は地を善〔よ〕しとし、心は淵を善しとし、
 与〔まじわ〕るは仁を善しとし、言は信を善しとし、
 政は治を善しとし、事は能を善しとし、動は時を善しとす。) |
 夫れ唯だ争わず、故に尤〔とが〕無し。


“ THE HIGHEST good is like that of water.
 The goodness of water is that it benefits 
 the ten thousand creatures; 
 yet itself does not scramble, 
 but is content with the places that 
 all men disdain. 
 It is this that makes water 
 so near to the Way.”
 (A.Waley  adj. p.151) 


“ Highest good is like water. 
 Becausue water excels in benefiting 
 the myriad creatures without contending 
 with them and settles where none would 
 like to be, it comes close to the way.”
 (D.C.Lau  adj. p.12)


《 大意 》
最高・最上の善(至善)とは、例えれば “水”のようなものです。
“水”は万物に恵みを与えながら、それでいて競い争うことがありません。
誰もが嫌がる卑〔ひく/=低〕い位地に止まっています。
ですから、聖人の「道」に似(肖)ているのです。
身の置き所は低いところが善く、(/住居は大地の上が善く、)
心の持ち方は深遠なのが善く、人との交わりは仁(=思いやり)を持つのが善く、
言葉は(偽りなく)信義〔まこと〕であるのが善く、政治は(平和に)治まるのが善く、
事を行うのには有能なのが善く(/ものごとは成り行きに任せるのが善く、)
行動は時宜〔じぎ:時の宜しき〕に適っているのが善いのです。
そもそも、競い合うようなことがないからこそ、
禍も咎〔とが/=尤〕も身に及ばない(で幸福が得られる)のです。


≪ 黄老(儒学・兵家)思想の象 ≫

変化(自在) = 易〔変易〕 = 水〔川〕 = 無為自然


・「上善」:
 
 上知、上徳などの「上」で “至善”の意。 
 The highest excellence.

・「居善地〜」: 
 ( )部の7句は、古注の紛れ込みと解する説もあります。
 (cf.武内義雄・『老子の研究』) 確かにこの部分はないほうがすっきりしますし、
 「仁」など老子には似合わない言葉も気になります。

・「政善治」: 
 政は無為であるから善く治まるのです。
 政治は自然の理に順うのですから、
 政策綱領を掲げて自説をアピールすることはしないのです。
 cf.民主党による“マニュフェスト”の登場とその不信・惨敗(〜’12.12)
 “マニュフェスト”=【離火 ☲】 は、明知・聡明の象意です。
 が、同時に外見のみで中は偽・空〔から〕の意です。
 反対に【坎水 ☵】 は、徳に裏付けられた真の智恵の意です。

・「動善時」: 
 動くにも時に順〔したが〕うこと。
 易(儒学)も、時に中す(時中)こと、
 時の宜しき(時宜)に順うことを教えています。
 機は時と一致して始めて成就します。
 “夏炉冬扇”では困ります。

・「不争」: 
 → 本文の考察参照のこと

・「故無尤」: 
 禍咎〔かとが〕の乗ずべきスキがないの意。「尤」=「咎」 
 「咎〔とが〕无〔な〕し」は、『易経』爻辞〔こうじ〕に頻繁に登場する言葉です。
 「咎」とは、禍〔わざわい/災い〕・過〔あやま〕ち・罪禍・
 咎過〔きゅうか: さしつかえ・あやまち〕などのことです。
 爻辞の末文に「咎无し」とあるのは、危ぶみよく後悔して過ちを改めること、
 また過ちがないようになることです。
 『繋辞伝』に、「咎无しとは、善く過を補うなり。」とあります。
 老子は、あるいは、『易経』をよく読んでいて、
 思わず『易経』の文言・用い方のスタイルを採ったのかも知れません。



(任信・第78章) 注1)

§. 「天 下 柔 弱」 〔ティン・シャ・ヂャオ・ジア〕


注1)
水の“柔弱の徳”について述べられています。
「柔よく剛を制す」の“不争謙下〔ふそうけんか〕”です。
首〔かしら〕・指導者といった上級の者は、
栄誉・吉祥を受けるという常識に反して、
(下級の者より以上に)恥辱・不祥を受けるのです。
それが(逆説的)真実の言葉なのです。
末文「正言は反するが若〔ごと〕し」は、
逆説的真理を表わす成句として定着しています。
「任信」のタイトルは、この「正言若反」という本章の結論を、
信じるか否かは読者に任せよう、との意図でしょうか? 
“Things to be Believed”


○「天下莫柔弱於水。而攻堅強者、莫之能勝。以其無以易之。 | 
 弱之勝強、柔之勝剛、天下莫不知、莫能行。 | 
 是以聖人云、受国之、是謂社稷。受国之不、是謂天下正言若反。」


■ 天下に水より柔弱〔じゅうじゃく〕なるは莫〔な〕し。
 而〔しか〕も堅強を攻むる者、之に能〔よ〕く勝〔まさ〕る莫し。
 其の以て A.之に易〔か〕わる無き(/B.之を易うる無き)を以てなり。| 
 弱の強に勝ち、柔の剛に勝つは、天下知らざる莫きも、能く行なう莫し。 | 
 是〔ここ〕を以て聖人云〔い〕う、
 「国の垢〔あか・はじ〕を受く、是れを社稷〔しゃしょく〕の主〔しゅ〕と謂う。
 国の不祥を受く、是れを天下の王と謂う。」 と。
 正言は反するが若〔ごと〕し


《 大意 》
この世の中に、水より柔軟でしなやかなものはありません。
しかしながら、堅くて強いものを攻めるのに水に勝〔まさ〕るものはないのです。
というのは、 A.その水の柔軟性に変わり得るものなどはないのです。
(/B.その水の性質を変えさせるほど他に力強いものはないのです。
→水が最強のものです。)
弱いものが強いものに勝ち、柔らかいものが剛〔かた〕いものに勝つという道理は、
世の中の誰もがよく知っていることです。
が、それを自分で実行できるものはいません。
ですから、聖人は言っています。
「一国の恥辱(汚辱)を一身に引き受ける人を
国家(社稷〔しゃしょく〕)の主〔あるじ〕といい、
一国の不幸(災禍)を一身に引き受ける人を天下の王という」 と。
( ── このように、)正しい言葉というものは、
常識とは一見反対〔さかさま〕のことを言っているように聞こえるものなのです。


*「水(不争・謙譲)」・老子 = 「仁」・孔子  = 「(慈)悲」・釈迦 = 「愛」・キリスト

・「天下莫柔弱於水」: 
 河上本などは、 「天下柔弱莫過於水」 〔天下の柔弱なるは水に過ぐる莫し〕としています。
 また、「弱」は、若い娘の肌を形容する言葉でもあり、
 “しなやか”・“たおやか”の意がよいでしょう。

・「以易之」: 
 「易」の解釈は、難しいものがあります。── 
 A.代わり・代替するものがないの意 
 B.変える(ほど強力な)ものがないの意

・「柔之勝剛」: 
 古代(例えば『易経』)では、「陰」・「陽」の語はなく
 「柔」と「剛」を用いていました。
 「之勝」と、置き換えてみるのも面白いかもしれません。
 cf.“損して得取れ”/易卦【山沢損】&【風雷益】

・「社稷主」: 
 社稷は、土地の神と五穀の神。
 そこから「社稷」は国家の意となり、
 「社稷主」は一国の主(国君)のことを指します。

・「垢」「主」/「祥」「王」: 
 「垢」と「主」(古音はソウ)が押韻し、
 「祥」と「王」が押韻しています。



《 孫子 と 「水」 ・・・ 「兵形象水」 》 


孫武は、春秋時代の兵法家で兵法の創始者、
「兵家〔へいか〕」の開祖として有名です。

その著書『孫子』十三編は、兵書の枠を超えて広く永く愛読・研究されています。

例えば、『三国志』で有名な曹操は、
『孫子』を熟読研究の上注釈まで加えています。

わが国においても、八幡太郎義家が雁行〔がんこう〕の乱れから伏兵を悟った話、
武田信玄の“風林火山”の旗さしものが
『孫子』・「軍争編」から採られたものであったりしたこと、
などよく知られています・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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水【坎】 に想う  (その7)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 老子 と 「水」 》

 水の象〔しょう/かたち〕は、黄老思想の要〔かなめ〕です。

「上善若水〔じょうぜんじゃくすい:上善は水の若し〕」 (『老子』・第8章)と、
水を無為自然、最高の徳(≒道)の象としているのです(“不争の徳”)。

『老子』・第78章にも
「天下に水より柔弱〔じゅうじゃく〕なるは莫〔な〕し。
而〔しか〕も堅強を攻むる者、之に能〔よ〕く勝〔まさ〕るなし。」とあり(“柔弱の徳”)、
第66章にも「江海の能く百谷〔ひゃっこく〕の王たる所以〔ゆえん〕の者は、
其の善く之に下〔くだ〕るを以て、故に能く百谷の王たり。」とあります。


『老子』・【第8章】では、 “水の象〔しょう〕”“水の徳”として
「不争」が述べられています。

原文で考察してみましょう。
( → 詳しくは、《参考原典資料》 参照のこと)

◎「水善利万物而不争」: 

水は、(万物に恵を与えながら)とうとうたる旅を続け
自然の地形に変化順応して卑〔ひく/=低〕きに就き、先を争いません。

人間界に相当させてみますと、 “徳の感化と無為”と表現できるかと思います。

徳のある人によって周囲の人々は、自然
(※自然: おのずからしかり、でそれ自身でそうであるもの。“What-is-so-itself” )
感化・風化されてゆきます。

徳の人は、善く化し成し、化し育む のです。

それでいて、徳の人 当人は、一向に自分に徳があることも
周囲を善く感化していることも意識していません。── 無為なのです。

(cf.文学作品で例すると、F.バーネット: 『小公子』のセドリック、『小公女』のセーラ、
N.ホーソン: 『人面の大岩』のアーネスト などの“徳の感化と無為”)

“先を争わない”性状は、「老子三宝」(第67章)の第3
「世の中の人々の先頭に立たない」〔=後/謙・譲〕ということで強調されています。


◎「夫唯不争、故無尤。」: 

競い争いして勝とうとしない。
そうであれば、禍咎〔かとが〕もなく幸福が得られるのです。

私は、この短い結文に偉大な真理を想います。

太古より現在に至るまで、人類の不幸の原因の最たるものは、
競い争う(→ 戦争する)ことにありました。

有史以来世界の歴史は、また現在の世界も争い・戦いばかりです。 注7) 

しかも「争い」は減少するどころか、
質量ともに拡大して破滅へと邁進〔まいしん〕しているようです。

私は、水の不争・謙下の徳に、老子の偉大な平和主義・人道主義の顕われを観るのです。


cf.◆ トピックス〔時事 ’13.1〜〕 : 

今、高校運動部・顧問による体罰(暴力?)問題が、メディアを賑わせています。
“知育・体育・徳育”の“体育”も荒〔すさ〕んだものです。

また、社会人でも柔道界コーチの暴力(体罰?)指導が顕在化し、
メディアに格好のネタ(話題)を提供しています。

それやこれや、スポーツ界での不祥事は後を絶たず、食傷気味です。

柔道・剣道・医道 ・・・ 
(文化でも、花〔華〕道・茶道・書道・商道 ・・・ )と“道”がつくのは、
技〔わざ・テクニック〕だけの “術”(柔術・剣術・医術 ・・・ ) に対して、
“武道”が人間精神の修養・徳性の涵養〔かんよう〕を目的とするものだったからです。

今では、“柔道”も“道”とは名ばかりで、
ただの野〔や〕な“JUDO〔ジュウドウ〕”に堕してしまいました。

さて、「勝てば官軍」という言葉がありますが、
現在の“スポーツ”は、争い勝つことにのみその精神が堕落しています。

オリンピック競技大会の(金)メダル獲得競争に代表されるように、
優勝争い・記録更新争いに終始しています。 注8)  

スポーツ(指導者の)体罰・暴力問題も“本〔もと〕”は
この“勝利至上主義”にあります

それは、関係当事者のみならず、メディアの扇動による
一般ピープルの、“勝ちさえすれば良い”という
野蛮な“拝勝主義”・“偏勝主義”の風潮が因〔もと〕になっているのです


老子は、二千年以上もの古〔いにしえ〕に在って、
しかも永きに亘〔わた〕る戦国の時代に在って、
炯眼〔けいがん〕にも、勝利争い・記録争いが不幸の源と見抜いていたのです


注7) 

例えば現在(’13.2.)の、極東・わが国の周りの状勢をみてもキナ臭いものがあります。

日本は、韓国とは竹島、中国とは尖閣諸島、ロシアとは北方領土をめぐって緊迫しており、
北朝鮮は3回目の核実験を実施しました。

「中国は海洋進出を本格化させ、北朝鮮は昨年末の弾道ミサイル発射に続き、
12日に新たな核実験も実施。
日米双方への脅威が増し、『同盟の強化』で対応するには、
集団的自衛権の行使容認に踏み込まざるをえないというわけだ。」

(朝日新聞:“憲法解釈見直し 再燃/安倍首相「環境変わった」”、’13.2.14)


注8) 

「メディアは自国のメダル数を数え上げ、多くの国民はそれに一喜一憂する。
日本だけに限った現象ではない。」 

(朝日新聞:“五輪精神 ほど遠い現実”、’13.2.14)



《 参考原典資料 》

           ( たかね・「大難解〔やさしい〕老子講」抜粋引用)


 水        【老子・水:8章/66章/(68章)/78章】

( 不争謙下 )

《 老子の思想の“象〔しょう〕”は、 ・・・ 水 》

易性・第8章) 注1)   

§. 「上 善 若 水」 〔シャン・シエヌ・ヂュア・シュエ〕 ・・・


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