儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

定例講習

老子講 『老子道徳経』《 「道」のありかた/「大器晩成」→「大器免成」》その2

こちらは、前の記事の続きです。

・「広徳若不足」: ☆↓

研 究

≪中庸・中徳 ・・・ 「広徳若不足」/「衣錦尚絅」/「黄裳元吉」/「亢龍悔有」≫
→ 「被褐懐玉」〔ひかつかいぎょく〕 (§70章)

「広徳若不足」は、広大な徳は満盈〔まんえい〕を忌む”=(“盈満の戒”)/(「亢龍悔有」)ということです。
満(=盈:ピーク)ちれば欠ける、のでピークを嫌います ―― そうすると、満ちなければ欠けることもない、という理にもなります。「100%」・「満月」・「過」 ・・・を嫌うのは東洋的な気がします。平たく言えば“腹八分目”ということでしょう。個人の出世・利益も、会社の発展拡大・儲けも然りです。後に(あるいは子孫に)、空〔あき〕=無を少し残しておくのがよいのです
過不及を避ける儒学の徳、「中庸・中徳」。中=ホド〔程〕・ホドホド。少し控える → 中庸の実現です。これは、易の【謙】・【乾】・【坤】・【既済】卦などの教えるところでしょう。
―― 原典をひろってみますと。


『中庸』

○「詩曰、衣錦尚絅。悪其文之著也。故君子之道、闇然而日章。小人之道的然而日亡。」(第33章)

■「詩に曰く、錦を衣〔き〕て絅〔けい〕を尚〔くわ〕う。其の文〔ぶん〕の著わるるを悪むなり。故に君子之道は、闇然〔あんぜん〕として日に章〔あき〕らかに、小人の道は的然として日に亡〔ほろ〕ぶ。」

*It is said in the Book of Poetry “Over her embroidered robe she puts a plain, single garment“ Intimating a dislike to the display of the elegane of the formar.Just so, it is the way of the superior man to prefer the concealment of his virtue,While it daily becoms more illustrious.

『詩経』には、「錦を衣〔き〕て、褧〔ひとえ〕とする」とあります。「絅」も「褧」も単衣〔ひとえぎぬ〕、打ち掛けです。麻の粗布でつくったものです。 つまり、錦の美しい衣〔ころも〕を着て、その上に薄い粗布を重ね着するのです。その意図は、錦のきらびやかな「文」〔あや/=彩〕が外に出過ぎることを嫌うからなのです
したがって君子の道も、これに同じく、「絅」を加えるように謙遜です。ですから、外見・ちょっと見は、闇然〔あんぜん〕と暗いようですが、日に日に内に充実してある徳が章〔あき/明〕らかになってきます。反対に小人は、はじめはカッコをつけて明らかですが、中身が伴っていないので日に日にメッキが剥がれていくというものです。 想いますに、付き合っているうちに漸々〔ぜんぜん〕と尊敬の念を持たれるのが、東洋的君子人なのでしょう。『論語』にも孔子が尊敬していた晏子〔あんし〕のことが語られています。

■「子曰く、晏平仲善く人と交わる。久しくして而も(人)之を敬す。」 (公冶長・第5)

久しくしても「敬」を失わない。狎〔な〕れ親しみすぎて「敬」を失いがちなものです。晏平仲は長く尊敬され続けたのです。(“久敬〔きゅうけい〕”)

→  コギト(我想う) 

日本の儒学は、とりわけ江戸時代にその文〔あや〕花開きます。その影響かナ、と想っていることがあります。それは、とりわけ日本の着物(呉服)の中によく現れている“裏まさりの美学”です。すなわち、着物は、表は落ち着いた中間色ですが、裏地の見えない所で派手な赤や青の色を用いてオシャレしたのです。(チラリズムの美学) 伝統的に形成された、日本人の優れた感性・美意識だと想います。社会的背景としては、庶民に質素倹約を奨励した幕府の方針があったのでしょう。が、同時に思想的背景としては、この儒学的(中庸)考え方・価値観があったのだと想います。

ところで、私は教職にありますが、優れた“先生”というものは、10も20も学んで(教材研究して)その「1」くらいを教えるものです。日本のメディアに登場している“評論家”というものの多くは、「1」くらいの浅い学びで10も20も、見識なく語るがごときです。(呆れ)感心いたします。

cf.「朱 庵〔かいあん〕」=朱子 (は日の暮れ、暗い)/ 「山崎斎〔あんさい〕」


『易経』

○「黄裳、元吉。 象伝曰。黄裳元吉、文在中也。」

■「黄裳〔こうしょう〕、元吉なり。」 / 「象〔しょう〕に曰く、黄裳元吉なりとは、文〔あや〕・中に在ればなり。」 (【坤為地】 5爻・辞/彖)

「黄裳」は黄色いもすそ〔スカート〕。謙遜な坤の徳のたとえです。中徳・坤徳の厚いことを説いています。「坤為地」卦は、「乾為天」の「剛健の貞」に対して「従順の貞」、“永遠に女性なるもの”としての大地(母なる大地)です。『詩経』にも、「緑衣黄裏(うちぎ)」・「緑衣黄裳」と祖先を祀〔まつ〕る祭服が表現されています。祖霊の象徴としての「黄鳥」も登場しています。
「文」は、彩〔いろどり〕、かざり、美しき坤徳です。 「中」は生成化育の力、神道における産霊〔むすび〕・天御中主神〔あめのみなかぬしのかみ〕、ヘーゲル哲学弁証法における止揚〔しよう  /= 揚棄・アウフヘーベン: Aufheben 〕 です。

○「亢龍悔有。 象伝曰。亢龍悔有、盈不可久也。」

■「亢龍〔こうりゅう〕悔あり。」/「亢龍悔ありとは盈〔み〕つれば久しかるべからざるなり。」 
(【乾為天】上爻・辞/彖)

「亢」は、「高」に通じ、極(ピーク)の意です。飛龍が勢いに乗じ過ぎ極〔きわみ〕に達し、昇りすぎたことによってその “power” を失い、身が危うくなり悔いています。盈〔み〕つるものは必ず欠ける道理です。決していつまでも、久しくピークの状態を保つことは出来ないのです。

○「濡其首。。 象伝曰。濡其首、辧何可久也。」

■「その首を濡らす。辧未△笋Α佑掘」 / 「その首を濡らす、劼靴箸蓮何ぞ久しかるべけんや。」 (【水火既済】 上爻・辞/彖)

既済の卦の極にあるこの爻は、まさにその命脈が尽きようとする時です。まるで、ただただ前進して川の深みにはまり、首を濡らしている狐(狐は【坎】の象)のような危うさです。どうして、久しくそのままの状態でいられましょうか。きっと厄災に陥ってしまいます。


『老子』・(§70章)

○「是以聖人 被褐(而)懐玉

■「是を以て聖人は、褐〔かつ〕を被〔き〕て(而〔しか〕れども)玉を懐く」

そういうわけで聖人は、褐(麻のそまつな着物)を着ていても、(何らの貴さを外に見せませんが)(しかし)その懐〔ふところ〕には宝玉(=高貴の代表)を抱いているのです。
≒ “錦を衣〔き〕て絅〔けい〕を尚〔くわ〕う”

cf. ♪‘ぼろは着てても  こころの錦
どんな花より  きれいだぜ〜’♪

(「いっぽんどっこの歌」
/水前寺清子)


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横山大観 「被褐懐玉」



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老子講 『老子道徳経』《 「道」のありかた/「大器晩成」→「大器免成」》その1

 【 41章 】/関連70章

(同異・第41章) 注1)
 ―― 「道」のありかた/ 「大器成」 → 「大器成」 注2)

§.「上士聞道」 〔シャン・シ・ウァヌ・タオ〕 

注1) 老子の説は、“逆説的”な文が非常に多いです。 「同異」は、“異を同じくす”ですから、一見相反するように見えることがらも、とどのつまりは同じである、ということかも知れません。

注2) 「大器晩成」の四字熟語・箴言〔しんげん〕は、『老子』が出典であることも意識されぬほど広く人口に膾炙〔かいしゃ〕して用いられてきました。しかし、近年の帛書老子の発見により晩成」は誤りで「免成」が正しいことが判明しました。2000年近くも親しまれ教え導いてきた「大器晩成」も善し。2000余年以上も前に説かれた、老子本来の思想の表われである「大器免成」も、また善しです。
余事ながら、私は(運命学的に)晩年運の人間で、この「大器晩成」を一つの人生の励みとして頑張っております。然るに、それが「大器免成」で“永遠に完成しない=大成することはない”の意とすると、 ―― いや、それもまた善しと想っているところです。


○「上士聞道、勤而行之。中士聞道、若存若亡。下士聞道、大笑之。不笑不足以為道。 故建言有之。 |
明道若昧、進道若退、夷道纇(類)。 |
上徳若谷、*大白若辱、☆広徳若不足。|*
補注1)
建徳若偸、質真若渝。 |
(*大白若辱、)大方無隅、※大器、大音希声、大象無形。|  →  ※
補注2)
道隠無名。夫唯道善貸且成。」

■ 上士は道を聞けば、勤めて之を行う。中士は道を聞けば、存〔あ〕るが若く亡〔な〕きが若し。下士は道を聞けば、大いに之を笑う。笑わざれば以て道と為すに足らず。故に建言〔けんげん〕に之有り。 |
明道は昧〔くら〕きが若く、進道は退くが若く、夷道は纇(類)〔らい(るい)〕なるが若し。 |
上徳は谷の若く、大白は辱〔じょくなるが/じょくせるが/けがれたるが〕若く、広徳は足らざるが若し。 |
建徳は偸〔おこたるが(怠)/とうなるが〕若く、質真は渝〔かわるが(変)/ゆなるが〕若し。|
大方〔たいほう〕は隅〔ぐう〕無く、大器は晩成〔ばんせい〕し(晩〔おそ〕く成り) 補注2)
大音〔たいおん〕は声希〔まれ/かすか〕に、大象〔たいしょう〕は形無し。 |
道は穏〔かく〕れて名無し。夫れ唯だ道のみ善く貸し且〔か〕つ成す。 |


《 大意 》

最も優れた人物(学者)は、「道」について聞いたら、力を尽くしてこれを実践しようと心がけます。中位(普通)の人物は、「道」について聞いても深く理解しないから、心に存しているようでもあり亡〔うしな〕っているようでもあり、頼りないものです(=さして気にも留めないでいます)。最も劣った人物は、「道」のことを聞かされると、(荒唐無稽の放言・大ボラとして)あざけり大笑いします。(それで、私〔=老子〕が思いますに、逆に) くだらない人物に、大ボラ(駄ボラ)として笑われるようなものでなくては、真の「道」として尊重する価値はありませんよ。 |

ですから、金言(諺〔ことわざ〕・箴言〔しんげん〕)に次のようなことがいわれています。

≪・本当に明るい道はぼんやり暗いように見え、〔「道」に明らかなものは(明智を表に出さないので)、一見ぼんやりと暗(昧)いようにみえ、〕 / ・本当に進んで行く道は退いているように見え、〔真の「道」を進み行く者は、(無為をむねとしているので)逆に退歩しているようにみえ、〕 / ・まことの平坦な道は、起伏(でこぼこ)があるかのように見えます。〔 ― 自然の起伏に従うので ―凸凹に見えるのです〕// ・至上の徳の有様は、深い谷のよう(に空虚)であり、〔※谷を「俗」に作ると、徳を表に出さないので一見低俗なものに見える、の意です〕 / ・あまりに純白なものはかえって黒ずんでおり、〔あまりに潔白な人は、(塵と同化して暮らすので)一見汚(辱)れているようであり、〕 / ・広大な徳は何かまた不足したものがあるようであり、〔広大な徳を備えた人は、あまりに広すぎて一見愚者のようにみえ、〕// ・確固とした徳は、かりそめのもののように見え、〔しっかりした徳を身に付けている人は怠け者(空っぽ)のようにみえ、〕 / ・質朴で純真な徳は、うつろいやすいように見え、〔質朴で純真な者は、逆に変わり易い(不信の)ように取られます。〕/・真に大いなる方形〔四角・角のあるもの・箱(直方体)?〕は隅がないように見え、// ・真に大きな器はいつ完成するかわからぬほど時間がかかって出来上がり、 / ・真に大きな音は耳に聞き取れず、 / ・真に大きな象〔すがた〕には形がないのです。≫ |

(以上にあげた12の諸相は、みなその陰に伏せられた道の作用があるのです。が、このように、) 

道はその姿が隠れていて、名を示さず(本質を表現しようがありません)。それにもかかわらず、この道だけが、よく万物に力を貸して成就させることができるのです


補注1) 建言の12の言葉を、「韻」によって考えてみますと、3句ずつのグループで4連が続いていることになります。すなわち、「昧」・「退」・「纇」/「谷」・「辱」・「足」/「偸」・「偸」・「隅」/「成」・「声」・「形」が押韻〔おういん〕しています。
次に意味のグループで考えてみますと。最初は「道」のグループ。次を「徳」のグループと考えて、「上徳」の句の下にあって3つの「徳」の間に混じっている「大白」の句を後に移して「大方」を説く、「大」の5句のグループとする考え方もあります。(by.金谷治『老子』 p.136)

補注2) 〈 「大器晩成」 と 「大器免成」 〉
今本〔きんぽん〕『老子』で、道の本質をさまざまに表現を変えて述べている部分です。原文は、「大方無隅、大器  、大音希声、大象無形」とあり、 無隅、希声〔希は否定の語〕、無形、が否定であるのに、晩成だと肯定(遅いが完成する)の意の文言になってしまいます。不自然です。

それに対して、「晩成」は、帛書乙本では免成(甲本では欠落)、楚簡では曼城〔まんせい:無成の意〕となっています。「免成」だと免〔まぬが〕れるの意で否定です。「曼城」も、曼は免と通用し、城は成の借字です。そうすると、真の大器は、永遠に完成することがないの意となります。これだと、文脈によく適います。

以上のように、「大器晩成」は「大器免成」が本来の意義であったのです。真に大いなる器(=人物)は完成しない、完成するようなものは真の大器ではないということです。これこそ、老子の思想によく適うというものです。

ところで、易の思想は、無始無終、循環の理です。『易経』 64卦は、63番目が【水火既済〔すいかきさい/きせい〕】で、完成・終わりの卦です。 64番目、最終の卦が【火水未済〔かすいみさい/びせい〕】で、未完成の卦です。即ち、人生に完成というものはなく、また再び 1番目、上経最初の卦【乾為天〔けんいてん〕】(もしくは、31番目、下経最初の卦【沢山咸〔たくさんかん〕】)に戻り、こうして、永遠に循環連鎖いたします

私見ですが、こうして不思議と然〔しか〕るべく、老子の真意と易の深意が重なりました。老荘と儒学の 2つの形而上学は、つきつめれば「一〔いつ〕」なるものなのです

なお付言しておきますと。広く知られ続けています「大器晩成」には、すでに 1800年以上の歴史があります。“真の器量人であればこそ世に認められるのに時間がかかる、たゆまぬ努力を重ねることで大いなる完成がある”ということで、あるいは慰められあるいは励まされる言葉です。これはこれで、良い格言・言霊に違いありません。

(以上、たかねブログ・儒灯 “「大器晩成」と「大器免成」”の注、抜粋引用)


・「上士・中士・下士」
士に3種の別があるとして、道に対しても3種の見解があるとしています。そして、逆にその反応から真の「道」を判じるというユニークな論法です。そして怖いほど、現代(日本)にもそのまま通じる洞察力、アイロニカルな逆説の真理に苦笑をもって感心・納得せざるを得ません。人間というものは、内面・精神においては、いかな進歩しないものとみえます。
ちなみに、儒学では聖人―君子ー大人ー小人ー愚人と5ランクに分けます。さしずめ、現代は、“下士/小人・愚人天下に満つる時” ・・・ といった感です。

→  コギト(我想う) 
―― 敗戦後の復興期・経済的繁栄期を経て、“政治家”を笑いものにする、バカにすることをもってインテリゲンチュアー〔進歩的知識人・教養人〕でもあるような風潮がとみに“蔓延”しています。“政治”がメディアを通じて“見せ物”に堕しています
(“経営の神様”・君子的経営者と言われた)故・松下幸之助氏は、最晩年に、かかる日本の将来を憂いて、日本の善き指導者を育成すべく、私財を投じて「松下政経塾」を設立されたと聞いています。国政・地方政治で「松下政経塾」出身の政治家が誕生し数を増しています。本年(‘11.9)には、その一期生である野田佳彦議員が首相に就任されました。が、さて、これらの御歴々、中身の方は如何なものでしょうか?
思い想いますに、確かに、政治家の“質(資質・中身・見識胆識)”において非常に浅薄なものがあります。例えば、明治期の政治家と比べれば雲泥の差です。何より“志”・“徳”の差甚だしいものがあります。身近というより卑近になり、近所のおじさんやおばさん、若者が“議員バッジ”を冠しているのです。TVで見たことのあるタレントや場違いな人々が、“(人)龍”でもないのに“雲(=人民・選挙)”に乗って天空を飛び回って(国家のかじ取りをして)いるのです。まことに、現今〔いま〕の時勢、情けなくも危ういものがあります。

・「建言有之」
金言・格言。一説に書物の名でもあると言います。金言・格言・諺〔ことわざ〕集の類かも知れません。永久に記憶されるべき言葉の意。/ 古〔いにしえ〕の立言者はかく言った。――The sentence−maker has thus expressed themselves :

・「大白/大方/大器/大音/大象」
4句(「大白」を入れれば5句)に「大」がついています。老子が「大」を冠すると、そのものは世俗を超えた(形而上的)存在となります。この「大」は、大小の小に対する相対的“大”ではありません。小・大を超えた、絶対的“至大”・“無限大”です。(《25章》にも老子の絶対「大」について説かれています)
この「大」を用いて常識を超えた論議にするのが、老子一流の逆説的論法です。ここでは、見事にそれを連ねています。逆説的論法(真理)の白眉です。

老子の「大」 = 〔∞〕 / 絶対的大

「大器晩成」については、(1800年ほども誤用され続けてきたように)大小の大として扱うことで、世間の常識とマッチいたしました
ex. 直接には古代中国の祭具 「鼎〔かなえ〕」・万里の長城〔2万1千キロ余、これまでの2.4倍の長さ、‘12中国政府発表〕・竜門の石窟/エジプトのピラミッド・ローマの(軍・水)道・ A.ガウディの“サクラダ・ファミリア〔聖家族教会〕”/水戸黄門(光圀)の『大日本史』〔397巻、249年かけて完成〕・ 塙〔はなわ〕保己一の『群書類従』〔国学者、5歳で失明、ヘレン・ケラーが尊敬、正編530巻、続編1150巻〕 ・・・etc.
ちなみに、人物も大きくなると(器量人を超えて)捉えようがなくなるということです。「器〔き/うつわ〕」は用途が限られているというころです。孔子の弟子では、子貢〔しこう〕は「大器量人」であり、顔回〔淵〕は孔門随一の「君子」人であったのです

・「道隠無名」
Tao lies hid and can not be named.

・「道善貸且成」
1)“善くモノに力を貸し与えて、且〔か〕つその本性のままに大成させます。” 
この「且」を“しばらく”と訓すると、意味が次のように違ってきます。
2)“道は善く力を貸して且〔しばらく〕成さしめます。”――つまり、例えば、種子〔たね〕にpower〔力〕” を貸して発芽させ、生えたらその “power” を回収するように、ある期間だけ力を付けてやりその用(=はたらき)が終われば返却してもらうということです。また、
3)“始まりを善くし終りを全うする: It is good at beginning and finishing.”の意に解するのもよいでしょう。

※ 興味深いことに、A.Waley は、商売の比喩と解しています。 ちなみに、「貸」は『論語』には見られず『孟子』には一度だけ使われています(勝文公章句上)。戦国時代に商業が発展するようになるという、後の社会経済状況をこの語が反映しているとも考えられます(小川環樹氏による)。
また私は、「徳」=「得」であることも、興味深く思っています。


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


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老子講 『老子道徳経』 ◆研究 《 【損益】の卦と「老子」 》 その6

こちらは、前の記事の続きです。

【一休禅師 (一休宗純)】

日本において、僧侶(仏教)は、教養として儒学(易学)・老荘の思想を学修していました。

とりわけ、禅宗においては、易と老荘の影響が大きいと考えられます。

私感いたしますに、その教えは“逆説の真理(論法)”を多分に含んでおり、「禅問答」などは、平行思考・右脳思考といえましょう。

座禅による覚り・覚知の世界も易と黄老の“神秘主義的傾向”と推測しています。

今回は、私たちに馴染みの深い、室町時代の禅僧・一休禅師について少々語ってみたいと思います。

1) まずは、モノの見方・発想・思考過程について。

一休さんと言えば、小坊主のころの“とんち”話で親しまれています。“この橋わたるべからず”に対して、「はし〔橋→端〕をわたらず真ん中を通りました」といったお話ですね。

ここで用いられているような前提条件そのものを変えてみるのが、平行思考、右脳的思考です。これらは易の思考プロセスと同じです

一休さんは、モノを角度(視点)をかえてみる、常識にとらわれない自由な考え方を大切にして、モノゴトの本質を見極めようとしたのです。“急がば回れ”的な、“発想の転換”です。

そして、その相対的見方・逆説の真理は、黄老に同じです

2) 次に、禅宗が重視している“覚り・覚智”の世界について。

「禅」(=「禅定」)は、梵語〔ディヤーナ〕の音訳で「静慮」(cf.黄老の「静」)と訳されています。

もともと“考える”という意味に由来するとも言われています。命題(迷い)をトコトン「考える」ことがポイントです。

易には第六感〔シックスセンス: 霊感・インスピレーション〕の世界があり、黄老にも (A.Waleyも言っていますように)ある種の神秘主義的傾向があります

平たく言えば、“学知”を超えた“覚智”の世界があるのです。

“見えざるものを観、聞こえざるものを聴く”ことによって智〔さとる〕(覚智)

○ 【一休さんの覚り】  《 夜カラス、カアと鳴いて 一休覚る 》 (by.たかね)

一休さんは、五年の間(“吾いかに生くべきか”の)覚りを求めて、ひたすら座禅と内職に専心いたします。27歳のある夜、カラスの鳴き声を聞いて覚りを開きます。

「夏夜鴉〔ア/からす〕有省」 ―― カラスも一匹・自分も一人、1人の道を歩こう、といったところでしょうか。

“覚る”とは、迷いから覚めることです。迷いのない人には、“覚り”もまたありません。そして、その“覚りのプロセス”は、ドーンと一気にすべてがわかるというものです

3) では、以上に述べた一休禅師の面目躍如たる“句”を紹介してみましょう。

○ 「女をば 法〔のり〕のみくら〔御座〕と いふぞげに 釈迦も達磨も ひょいひょいと出る」

釈迦は仏教の教祖、達磨〔だるま〕は禅宗の開祖です。お釈迦さま、達磨大師は偉大であるけれども(その母が生み育てたのですから)、おっかさんはもっと偉大だということです。

曾子は、「夫子〔ふうし/=孔子〕の道は忠恕のみ」と解しました(「孔子一貫の道」)。孔子(儒学)のいう「仁」とは、思いやりといつくしみ (忠恕・愛・慈悲)です。

「忠」【おのれ】は中する心、限りなく進歩向上する心 = 弁証法的進歩

「恕」【人におよぼす】 = 「女性(母)のクチ」ではなく「女性(母)の世界・領域」 = 造化

cf.「一〔いつ〕なるもの」=「永遠なるもの」=「受け継がれるもの」 / 神道 “産霊〔むすび〕”

○ 「漏地〔うろじ〕より 漏地〔むろじ〕へ帰る 一休〔ひとやすみ〕
雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

漏地は、迷いのこと、漏地は迷いから覚めて“覚り”を開くこと。自分はそのどちらでもなく真ん中にいて一休〔ひとやすみ〕。迷いにも覚りにもとらわれない自由闊達な生き方が示されています。

「有」から「無」への“循環の理”が示され、バランスを保った“中庸”の徳が示されています。

雨・風(=風水、天地自然の代表)は、“無為自然” の境地でしょう。

*「一休」の名は、覚りを開いてからつけられた名前です。

○ 「たらいから たらいへうつる ちんぷんかん」

一休禅師、辞世の句です。昔時〔むかし〕は、生まれて盥〔たらい〕で産湯〔うぶゆ: 生まれた赤ちゃんを湯で清めること〕につかり、死んで盥で湯灌〔ゆかん: 死者を湯で清めること〕しました。死後のことは、ちんぷんかんぷんで分かりはしないという意です。死生観にも、また循環の理が現れていて、私には易的・黄老的なものが感じられます。

―― ちなみに、易数の「八」プラス「八」の八十八歳の長寿(=米寿)で亡くなったと伝えられています。


コギト(我想う)

≪ 一休さんと「易」の発想  ーー 「この橋わたるべからず!」 ≫

日本禅宗と老荘思想の関連が、深いものであることを述べました。ここで、「易」の発想・思考法との関連について付言しておきましょう。

先だっての11月11日(西暦‘11.11.11./元は、平成11年 11月 11日)を、“ポッキー(プリッツ)の日”といいます。タテに「1」が並んでいる象〔しょう/かたち〕からです。

10月10日を“目の日”というのもおもしろいですね。お分かりですか? 「10」を90度下に向けて、2つヨコに並べてみて下さい。易の【兌為沢】の象が“笑う少女”、【離為火】の象が“(両)目”・“めがね”であるのと同じです

音からの連想として、“耳の日(3/3)”・“虫歯の日(6/4)”・「焼き肉」(8/29)・「納豆〔なっとう〕」(7/10)・「豆腐〔とうふ〕」(10/2)の日や、さらに「いい夫婦」(11/22)の日というものまであります。

さて、一休さんといえば、小坊主のころの“とんち”で有名です。“この橋わたるべからず”と書かれた高札に対して、「はし〔橋→端〕をわたらず真ん中を通りました」と言ったお話は有名です。

これらのように、前提条件そのものを変えてみるのが、平行思考、右脳的思考です。これらは易の思考・発想法と同じです。そしてそれは、黄老のものの見方とも重なるところがあると、私は想います。

左脳ばかりを使って生きている人の多い現代。右脳的思考、左右の脳をバランスよく用いることが望まれます。とりわけ、指導者(リーダー)はそうです。そのことは、西洋の歴史に照らしてもよく解かります。

西洋古典文化の源、ギリシアの理想像は「調和のとれた人間」であり、その“再生”であるルネサンスは「普遍的人間」でした。

ついでに、この右脳的思考は、“ボケ(老人性痴呆)”の防止・“アルツハイマー性痴呆”の予防にあずかっているともいわれています。

超高齢社会の進展するわが国において、その意味でも重要と考えられます。


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老子講 『老子道徳経』 ◆研究 《 【損益】の卦と「老子」 》 その5

こちらは、前の記事の続きです。

研 究

其の2 ・・・ ≪ 「黄老」 と 「易」 と 「禅」(一休) ≫ 

【 黄老と易の思想 】

「老子」のオリジナル〔原典〕を読み、黄老の思想について考えておりますと、本質的に易の思想と同一(時代的に易が母胎)であることに気付きます。“易学”を「本〔もと〕」にしているとも、至れるもの(=形而上学)が易と「一〔いつ〕」であるともいえましょう。

具体的に両者の共通するものとしては、私が想いますに、A)「変化」と「循環の理」 / B)「逆説の真理(論法)」 / C)アプローチの方法としての“覚智の世界” 、がそれです。 A)B)とは、一体となって思想を形成し説き述べられています。以下、少々例示してみましょう。

※ 例1 ≪ 【泰・否】のペア ≫  ➔ 《 参考資料 》 3.参照のこと

まず、易の思想的原点・出発点は、“陰陽二元論(相対論)”です。陽=【乾〔けん〕】・天 / 陰=【坤〔こん〕】・地 です。この、陰陽の組み合わせの典型的・代表的な「象〔しょう・かたち〕」(3陰3陽の基本卦)が、大成卦【地天泰】 と 【天地否】とのペアです。

要するに、上に【乾】・天/下に【坤】・地が“自然”の善き有様であるようで、じつは全く逆であるということです。“上に天/下に地” では、「閉塞〔へいそく〕・“八方塞がり”、天地交流せず男女和合せず」【否】反対に“下に天/上に地”で、天は上に行こうとし地は下に行こうとして、「天地交流し、万物循環し、男女和合して安泰・泰平が実現」【泰】 します。

このことは、誰もが易理を学んで最初に感じる、新鮮な驚き・おもしろさ(興味深さ)ではないでしょうか。まさに、「変化」と「循環の理」を含んだ「逆説の真理(論法)」、平行思考ではありませんか。

※ 例2 ≪ 【離】・【離為火】 =「火」 ≫

八卦の【離】=「火」・64卦の【離為火】 も、“離れる”と同時に“麗〔つ〕く”と逆説的真理で説かれています。

そして、「火」は“はなれつき”移りつづけます。そのあたりのことが、『荘子』 に具体的に説かれています。

○ 「指窮於為薪、火伝也、不知其尽也」 (指は薪を為〔すす〕むるに窮するも、火は伝わる、其の尽くるを知らざるなり)。 ( 『荘子』・養生主〔ようせいしゅ〕/篇・第三)

難解な断章部です。指で薪をおしすすめて火を焚くことが出来なくなっても、火は伝わり続けまったく無くなることはないのだ、くらいの意味です。

『荘子』には、『易経』の教養がベースになっている箇所が多々あります。『易経』が最古の書であり、儒家の批判的立場から道家(老荘)が成立することを考えれば当然かも知れません。

『易経』によれば、【離】=「火」。「火」は、離れ麗〔つ〕くで、(木などの)モノにくっついて移ってゆきます。人間(生命)の不変なるもの(=「一〔いつ〕」なるもの)も、“徳”と“DNA〔遺伝子〕”の連続として捉えることが出来ます

※ 例3 ≪ 「火」と「水」 ≫

八卦の【坎】=「水」・64卦の【坎為水】 は、多くの古今東西の思想家・賢人が好んでいるものです。儒学思想(孔・孟)においてもそうですが、黄老思想においてとりわけ「水」は重要です。老子は、その思想の「象〔しょう〕」を「水」としました。至れる善は水のごとくして「道」に幾〔ちか〕い、“柔弱謙下”・“不争の徳”です。老子を「水」の思想(家)といってもいいでしょう。→ (※後述)

そして、「火」と「水」の関係においても、私は「逆説の真理(論法)」を強く感じるのです

五行思想では相剋〔ライバル〕の関係“水剋火”(水で火を消す)。その場合、火のパワーが強すぎると(「焼け石に水」で)水で消えない。あるいは水が蒸発してしまい“剋”が逆転する。 (・・・ 命学・九星気学・四柱推命など)

易の中論だと、水と火〔正・テーゼと反・アンチテーゼの異質・対立するもの〕を、統一・止揚して〔アウフヘーベン・中す〕、価値の高い新たなるもの〔合・ジンテーゼ〕を生み出します。〔ヘーゲル弁証法〕

元来 天地万物、皆 矛盾するところがあります。相反し、剋し合っておわるものではありません。 例えば、水と火の協力でお湯が沸き生米から 美味しいごはんを炊くことができます。男性と女性という全く異なる陰陽の融合で、子供という新しい生命が誕生いたします。

○ 「天地位を定め、山沢気を通じ、雷風相い薄(せま)り、水火相い射(いと)わずして八卦相い錯(まじ)わる。」 (説卦傳)

※ 例4  ≪ 循環の理 & “回帰・復帰”の思想 ≫

易64卦は、全体として宇宙・人生の偉大な 「変化」と「循環の理」です。シーンやスチュエーション〔場景や情況〕として各卦に示される「変化」と「循環の理」です。そして、そこには「逆説の真理(論法)」が展開されています。

易の思想は、無始無終、循環の理です。『易経』 64卦は、63番目が【水火既済〔すいかきさい/きせい〕】で、完成・終わりの卦です。 64番目、最終の卦が【火水未済〔かすいみさい/びせい〕】で、未完成の卦です。即ち、人生に完成というものはなく、また再び 1番目、上経最初の卦【乾為天〔けんいてん〕】(もしくは、31番目、下経最初の卦【沢山咸〔たくさんかん〕】)に戻り、こうして、永遠に循環連鎖いたします―― 円周的循環、黄老の“回帰・復帰”の思想です

循環の理法は、各卦の関係(対/ペア)にも現れています。たとえば、損・益、【山沢損】と【風雷益】。損と益は一つのもの、同一根です。日本語にも「損して得取れ」 という言葉があります。もともと、 「徳」=「得」 です。“Give and take.”〔まず与え、そして取る〕という英語がありますが、益(利益)を望めばまず損(投資)せよです。乾・坤、【乾為天】と【坤為地】もそうです。乾=剛(強)ならんと欲すれば、まず坤=柔になれです。

「陰極まれば陽、陽極まれば陰」の循環。 ―― 波状的循環です。これは、易の「之卦〔しか・ゆくか〕」の考え方(当該「爻〔こう〕」の陰陽を逆転して近未来の傾向を探る)の根拠にもなっています。

 

《 参考資料 》 3.

( たかね・「易経64卦解説奥義/要説版」抜粋引用)

《 11 & 12 のペア 》

11. 泰 【地天たい】  は、やすらか

3陰3陽の基本卦、
12消長卦 (2月)

● 安泰・泰平、天地交流し男女和合す、賓卦・裏卦とも「否」・先々(近未来=上卦と下卦の入れ替え)も「否」、“治にいて乱を忘れず”、女性上位、房事過多、易者の看板
・「小往〔ゆ〕き大来る。吉、亨る。」(卦辞) 
A)天地のあるべき位置が逆である
B)小は陰で大は陽、陽は上り陰は下る

■ 外卦 坤地は陰(=柔)、内卦 乾天は陽(=剛)

1)天地交流 : 天は上に地は下に、暖かい陽気は上に冷たい陰気は下に行こうとする
➔ 交流し、合体融合の象。成就の象。懐妊の象。

2)“外柔内剛”(と “内柔外剛”=「否」卦)の象。

3)女性上位の象。坤地 陰の女性が、乾天 陽の男性の上に位置している。

4)“健全なる精神は健全なる肉体に宿る”の象。( by 高根 ) ・・・坤の肉体の内に乾の(乾善なる)精神あり。


12. 否 【天地ひ】  は、ふさがる

3陰3陽の基本卦、
12消長卦 (8月)

● 八方塞がり、天地交流せず男女和合せず、賓卦・裏卦とも「泰」・先々も「泰」

“君子の道塞がって小人はびこる”、冬も極まればやがて春になる

“否泰は其類を反するなり。”(雑卦伝) :「泰」の“外柔内剛”と「否」の“内柔外剛”、先々(近未来)と裏卦(過去)の対応関係

・「否はこれ人に匪〔あら〕ず。」 ➔ 
匪人(罪人の意)に塞がる(by 安岡正篤)
「比」の3爻辞も 「比之匪人」

■ 外卦 乾天は陽(=剛)、内卦 坤地は陰(=柔)

1)天地交流せず : 天の気は上昇し地の気は下降しようとする ➔ 天地は交流しない。隔たり、塞がり、通じない象。

2)“内柔外剛”と“外柔内剛”(「泰」卦)の象。

3)男性上位の象。

4)「人に匪ず」 :内卦に坤の肉体、外卦に乾の精神 (健全なる精神が宿らぬ肉体、精神の宿っていないスポーツマン。 スポーツマンシップとは何か?)

5)“月 霧裏に臓〔かく〕るるの象”(白蛾) :乾を月・君子とし坤を霧・小人とみます。
「小人の道長じ、君子の道消するなり。」(彖伝)

小人の道長じ、君徳行なわれない ―― 小人闊歩〔かっぽ〕する時
・・・ 今の時代・我国のように思われます (by 高根)


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老子講 『老子道徳経』 ◆研究 《 【損益】の卦と「老子」 》 その4

こちらは、前の記事の続きです。

《 参考資料 》 2.

§.付説     ―――  貝原益(損)軒の『養生訓』  ―――

*《序》 名前はご存知の方も多いでしょう。『養生訓』は、江戸時代(元禄)の大学者・貝原益軒〔かいばらえきけん〕の、最晩年・84歳のときの著作です。「益軒」は、最晩年の号〔ごう〕で、実は「損軒」ともうします。 漢方・本草学〔ほんぞうがく〕の大家でもあります。

(少子)高齢社会が急速に進展する現在です。(cf.満65歳以上の高齢者の占める割合23.1平均寿命:女子86.39、男子79.64 善き晩年の養心・養生のために(また自分自身のためにも)講じたいと思って、長年この『養生訓』について研究準備しておりました。今回、「五行(中国医学)」を講じることとなり、また受講者にこれから晩年を生きる方が多いことを踏まえまして、付説・補論として加えました。

今回、直接の原教材としては、安岡正篤・『易と健康 下 /養心養生をたのしむ』(所収の付録)を用いました。これは、かつて(S.39.8/私が10歳のころ!)安岡先生が講演されたものが講演録として編集・出版されているものです。簡にして要を得たものです。それを更に、抜粋して紹介させていただきました。以下、少々、教材を引用しておきましょう。

――― 抜 粋 ―――

“ なぜ損軒を益軒と直したか。これまた面白い問題であります。損益というのは易の卦〔け〕である。損の卦、山沢損の卦は「忿〔いかり〕を懲〔らし〕、欲を塞〔ふさ〕ぐ」というつまり克己修養、克己努力だ。損の卦の上九爻辞〔こうじ〕をみますと「損せずして之を益す」とある。すなわち自由に到達する。克己修養の結果、到達するところの自由の境地、その自由と委任の道を明らかにしたのが益の卦です。それで損軒先生、克己修養の努力を積んでだ、八十近くなって、ようやく自由という境地に自信を得たんでしょうね。そこで損軒よりも益軒を用いた。” 

“ 世間が考えておるような単純、あるいは頑固な人ではなくて、自由闊達〔かったつ〕、非常に豊かな生き生きした大人〔たいじん〕であります。そうして医学にも本草学〔ほんぞうがく〕にも長じた人が、これだけの体験と勉強を積んで、八十を過ぎて半生を省みて、後進の人々のために著してくれた『養生訓』であるから、これは世間でいうような簡単な養生学問とは違う。”

人生五十にいたらざれば、血気いまだ定まらず。知恵いまだ開けず。古今にうとくして、世変〔せへん: 世の移り変わり〕になれず。言〔げん〕あやまり多く、行〔こう〕悔多し。人生の理〔ことわり〕も楽しみもいまだ知らず。五十にいたらずして死するを夭〔よう〕という。是れ亦た不幸短命と云うべし。長生すれば楽しみ多く益多し。日々にいまだ知らざることを知り、日々にいまだ能〔よ〕くせざることを能くす。この故に学問の長進することも、知識の明達なることも、長生せざれば得がたし。之を以て養生の術を行い、いかにもして天年をたもち、・・・・・ 。

“ 道教の一派になりますと、人間の全〔まった〕き寿というものを百六十としています、八十一を半寿という、八十と一を組み合わせると、半分の半という字になりますから。八十にいたらずして死するを夭という。ということは、我々はまだ死ねんわけで、死んだら夭折になってしまいます。
ともかく、長生すれば楽しみ多く益多し。我々もやっぱり年をとってみて、まさにごもっともであるとつくづく考えさせられる。”

人の元気は、もと是〔こ〕れ天地の万物を生ずる気なり。是れ人身の根本なり。人此の気にあらざれば生ぜず。生じて後は飲食衣服居処〔きょしょ〕の外物〔がいぶつ〕の助によりて、元気養われて命をたもつ。

 (「摩訶〔まか〕不思議」の「摩訶」と) 同じように元という文字も、時間的にいえば、発生的にいえば「始め」という意味である。ものの始めという意味。形態的にいえば「根本」という意味である。末に対して元という意味。それから、限定的なものに対して、部分的、限られたるものに対していうならば、これは「全体」という意味だ。だからこれを「大いに」と読む。そのいずれの意味にも限ることができませんから、「元」というのである。”

 “安岡正篤・『易と健康 下 /養心養生をたのしむ』
(所収の付録「貝原益(損)軒の『養生訓』」)


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老子講 『老子道徳経』 ◆研究 《 【損益】の卦と「老子」 》 その3

こちらは、前の記事の続きです。

コギト(我想う)

≪ 【損・益】の深意  ―― 現代的意義を考える ≫

易の賓卦・反卦の【損・益】卦、五行思想の相剋〔そうこく〕関係【水】と【火】、陰・陽の相対関係を、矛盾・対立するものとして(弁証法的に)捉えるのは、西洋的かもしれません。

私が想いますに、今一つの考え方として、両者がペアで協力してはたらくという捉え方ができるのではないでしょうか。東洋的視点とも言えましょう。それは、車の両輪やコイン(紙幣)の裏表などと例えるよりは、「呼吸」のような関係に似ていると想います。―― といいますのは。

「呼吸」は、 (1)「呼〔はく〕」と「吸〔すう〕」が、反対の用(作用・はたらき)でありながら、お互いを助け合っています。「出入」〔人が出たり入ったり/食物の排泄と摂取〕、「終始」〔物事の終わりと始まり〕、「忘却と記憶」〔忘れることと覚える保持すること〕などの関係も、同様です。

(2)次に強調したいのが、両者の順序です。どちらが先行か、後行かです。深呼吸は、まず、しっかりと吐いて(汚れた空気を出して、肺を空にして)から、新鮮な空気を十二分に吸い込むのです。

ですから 「呼 ⇒ 吸」 です。食物も、まずお腹を空腹にして(宿便を)排泄してからしっかりと食べます。「出 ⇒ 入」です。

頭の中も、まず忘れてリセット(空〔から〕・無)にしてから、新しい知識や忘れたことを再び記憶します。記憶の定着は“憶え ー 忘れる”を17回以上繰りかえすと実現すると心理学でいわれていると聞いたことがあります。

つまり、記憶のコツは、忘却することにあるということです。ですから、「忘却 ⇒ 記憶」です。

また、ものごと、終わりは始まり。終わって始まります。『大学』に「物に本末有り、事に終始有り。先後するところを知れば、則ち道に近し。」とあります。英語の“コメンスメント”〔commencement:卒業式〕も始まりの意味です。「始終」といわず「終始」といいます。「終 ⇒ 始」です。

――― このように、【損・益】も【損】が先で【益】は後です。またかくあるべきなのです

さて、平成の大衆社会は、先賢の教えに学ばず、カケネなしの愚行を繰り返しています。全く、ちぐはぐ、トンチンカンな社会状況です。

己の利ばかりを思い、過陽 ”で “ わからぬ ” 状況が蔓延しております。企業・経済人は、まず(先に)ユーザーへの福音となるように社会貢献を考え、利益は後です。

公務員・教育の現場も“中庸”を欠き、駁雑〔ばくざつ〕に過ぎます。まず、よく省〔かえり〕み省〔はぶ〕き、空〔あき〕を創ってから新規事を益〔ま〕すのです。

なお、余事ながら付言しますと。人生にもリセットが大事かもしれません。まず、チャラ(白紙)にして、新しい人生が描けるのでしょう。

○ 「蘧〔キョ〕伯玉 行年五十にして四十九年の非を知り、六十にして六十化す。」 ※補)

(『淮南子〔えなんじ〕』)

安岡正篤先生の著書〔講演録〕・『易と人生哲学』 (致知出版社) で知り、感銘を受けた文言です。私は、50の歳の時に奇〔く〕しくも、この言葉・この本に出合ったわけです。今にして想うにつけても、まさに、縁尋機妙」な出合いでした。

※補) 蘧伯玉〔きょはくぎょく〕という人は 孔子がたいへん尊敬していた衛〔えい〕の国の賢大夫です。その名言が これです。その意味は、今までの四十九年の人生が間違っていた と認識して、五十歳で人生を“リセット”したということです。なかなか出来ないことです。そして、「六十にして、六十化す。」と続きます。つまり、今までの人生が全部駄目だったと認めたうえで、そこから 自己改造して進歩向上させていくことが出来るものなのです。

 

《 参考資料 》 1.

( たかね・「易経64卦解説奥義/要説版」抜粋引用)

《 41 & 42 のペア 》

41. 損 【山沢そん】  は、へらす。

包卦(乾中に坤)

● “損益の卦”、上経の“泰否の卦”と好一対、賓卦 「益」、 「遜」にも通じへりくだり奉仕する、“損して得とれ”、“ Give and Take ”/“One lost, two found.”
―― まず与える 易は損が先、 正しい投資

5爻 「十朋〔じっぽう〕の亀〔き〕」(神占をするための高価な霊亀)登場、元吉

cf.貝原益軒・・・ 84歳で死ぬ1・2年前に 「益軒」を名のる、それまでは「損軒」、(『養生訓』)

■ 沢は地表面が減損したものですから、沢が深いほど山は高い。

1)地天泰であったものが、3爻の一陽を減らして上爻に益した象。即ち、内を損して外を益した象。

2)外、私の心を去って動ぜず(艮山)、内、悦んで(兌沢)修養努力する象。

○ 大象伝 ;
「山下に沢あるは損なり。君子以て忿〔いか〕りを懲〔こ〕らし欲を塞〔ふさ〕ぐ。」

(沢は地表面が減損して、それが山となっている、自然の理です。そこから君子は、損することの道理を悟り、自分を抑え怒らぬように節制し、私欲・欲望を抑え 塞ぎ止めるようにするのです。)


42. 益 【風雷えき】  は、ます・ふやす。

包卦(乾中に坤)

● 益する道、損(正しい投資)があって益あり、  賓卦 「損」
「損して已〔や〕まざれば必ず益す」(序卦伝)、 2爻 「十朋の亀」、永貞吉

■ 1)動いて(震雷)従う(巽風)象。

2)上より下にくだる。 「否」の4爻と初爻が入れかわったもので、上を損じて下を益すの象。 

3)雷(震)の裏卦が風(巽)で、陽陰共存の象。

○ 大象伝 ;
「風雷は益なり。君子以て善を見ればすなわち遷〔うつ〕り、過ちあればすなわち改む。」

(風と雷は、互いに助け益します。そのように 君子は、自分の徳義が益するように、善いと見れば就〔つ〕き従って動き、自分に過失があれば勇気をもって改めるのです。)

cf. 『論語』より ; 
「利に放〔よ〕りて行へば怨み多し。」 (里仁第4)
「君子は義に喩〔さと〕る。小人は利に喩る。」 (里仁第4)
「過〔あやま〕っては則ち改むるに憚〔はばか〕ること勿〔なか〕れ。」
(学而第1、子罕第9)


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