儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

大難解・老子講

《 結びにかえて 》 老子の「三宝」

§.《 結びにかえて 》 ・・・ 『老子三宝の章』/「無名で有力であれ」「壺中天」(安岡正篤)

 【 老子・三宝: 67章/81章 】

(三宝・第67章) 注1) 

老子の「三宝」

 §.「 天下皆謂」 〔ティン・シャ・チェ・ウェー〕

注1) “三宝”といえば、聖徳太子の“憲法十七条”に登場することで知られており、( → cf.資料) 仏教の専用語として理解している人が多いかと思います。が、さにあらずで、『老子』が出典です。“三宝”の意味も、「慈」・「倹」・後“譲/謙”(「敢て天下の先〔せん/さき〕とならず」)の3つです。
「道」を3つに(属性的に)分析して、その3つが自身の“お守り”であると述べています。むろん、「道」は1つです。ですから、例するに、1つのコーヒーカップを観る角度を変えて描いた異なりであり、(コーヒーカップ)本体は1つです。3つの側面(視点)から観たのは、老子の“哲学的”な遊びかも知れません。しかも、「我に三宝あり」と3つの徳を挙げておきながら、「慈」のみをもって結論としています。畢竟〔ひっきょう:=結局〕するに、老子“三宝”の主体は「慈」であり、それは儒学の「仁」と同じであり、仏教とも同じ(「慈悲」)と考えられるのです。


資料

 《憲法十七条》 (by.『日本書紀』)

○ 推古天皇十二(604)年 ・・・ 皇太子親〔みずか〕ら肇〔はじ〕めて憲法十七条を作る。

一に曰く、和〔わ/やわらぎ〕を以て貴〔たっと〕しとなし、忤〔さから〕ふること無きを宗〔むね〕とせよ。

二に曰く、篤〔あつ〕く三宝を敬へ。三宝とは仏〔ほとけ〕・法〔のり〕・僧〔ほうし〕なり


○ 「天下皆謂、我(道)大似不肖。 夫唯大、故似不肖。 若肖、久矣其細也夫。 |
我有三宝、持而保(ホウ:宝/葆)之。 一曰慈、二曰倹、三曰不敢為天下先。 慈故能勇、倹故能広、不敢為天下先、故能成器長。 今舎慈且勇、舎倹且広、舎後且先、死矣。 |
夫慈、以戦則勝、以守則固。 天将救之、以慈衛之。」


■ 天下 皆謂〔い〕う、我れ(/我が道)大にして不肖に似たり、と。夫〔そ〕れ唯〔た〕だ大なり、故に不肖に似たり。若〔も〕し肖〔に〕な(た)らば、久しいかな其の細なること。 |
我れに三宝有り、持して之を保つ(宝として之を持つ)。 一に曰わく“慈”、二に曰わく“倹”、三に曰わく“敢〔あ〕えて天下の先〔せん〕と為らず”。 慈なるが故に能〔よ〕く勇、倹なるが故に能く広、敢えて天下の先と為らざるが故に、能く器の長を成す。 今、慈を舎〔す〕てて且〔まさ〕に勇ならんとし、倹を舎〔す〕てて且〔まさ〕に広からんとし、後なるを舎てて且に先ならんとすれば、死せん。 |
夫〔そ〕れ慈は、以て戦えば則ち勝ち、以て守れば則ち固〔かた〕し。 天将〔まさ〕に之を救わんとし、慈を以て之を衛〔まも〕る。

 “ Here are my three treasures.  Guard and keep them !  The first is pity; the second, frugality; the third: refusal to be ‘foremost of all things under heaven’ .
(A.Waley adj. p.225) 

 “ I have three treasures Which I hold and cherish. The first is known as compassion, The second is known as frugality, The third is known as not daring to take the lead in the empire;
(D.C.Lau adj. p.74)

《 大意 》

世の中の人々は、皆、私(私の道)のことを、→ ☆★
☆A.至大であって、これに類似〔=肖〕したものがないから、ホラ吹き・いい加減ではないかと言います。それは、ただただ大きいが故に似たものがないのです。もしも似〔=肖〕たものがあるとすれば、(相対的概念となって絶対の至大・無限大ではなくなるから)それは、そもそも最初から細く小さなニセモノ〔偽物〕(の道)に違いないのです!
★B.[不肖を愚と解する:] 大人物のようだけれども、愚かに見えると言います。そもそも、大きすぎるからこそ、愚か者に見えるのです(愚かであるからこそ、大きくありうるのです)。もしも人並みに(賢く)見えるようなら、まったくもって、とうの昔に小賢〔こざか〕しいちっぽけな人間になっていたことでしょうよ! |

私には3つの宝があり、(宝として)大切に保持しています。その第1は「慈」〔いつくしみ〕、第2は「倹」〔つつましさ〕、第3は「世の中の人々の先頭に立たない」〔=後〕ということです。「慈」を持っているからこそ(人々の心服が得られて、“千万人と雖も吾往〔ゆ〕かん”の 注2) 勇気が出るのです。「倹」を守っているからこそ、(余裕〔ゆとり〕ができて)広く人々に施すこともできるのです。「世の中の人々の先頭に立たない」からこそ、人材を活用できて首長〔かしら〕となることができるのです。
しかるに今、「慈」を捨てて勇に任せて争い、「倹」を守らないで広く人々に施そうとし、人の後〔うしろ〕について行くことを捨てて、いきなり先頭に立とうとするならば、きっと命を落としてしまうでしょう! |

そもそも、「慈」〔いつくしみ〕(は人々の信望を得るから、それ)によって戦えば勝利をおさめ、「慈」によって守備すれば堅固で陥落しません。(それは、人力をこえた)天が、「慈」の人を救おうとして、やはり、天が「慈」をもって(かの人の身を)守護〔=衛〕してくれているからなのです

注2) 「子・勇を好むか。吾嘗〔かつ〕て大勇を夫子〔ふうし〕に聞けり。自ら反〔かえり〕みて縮〔なお〕からずんば、褐寛博〔かつかんぱく〕と雖〔いえど〕も、吾惴〔おそ〕れざらんや。自ら反みて縮くんば、千万人と雖も吾往〔ゆ〕かん。」 cf.孟子の“浩然の気”
(『孟子』・公孫丑〔こうそんちゅう〕上/曽子の言葉)


・「大似不肖」:「肖」は「似」=類似〔アナロジー〕。
☆A.「不肖」は、似たものがないの意。
★B.「不肖」を悪いものと解する。 ex.“不肖の息子”

・「久矣其細也夫」:「也夫」は強い感嘆詞。“細なること久し”とするところを倒置して、感嘆にしています。
ちなみに、『論語』の中に、よく似た孔子(の人物の大きさ)ついて記述した箇所があります。子貢が叔孫子〔しゅくそんし:叔孫武叔〕に対して、先生(孔子)の大きさを遥かに高い屋敷の塀(宮牆〔きゅうしょう〕)に喩〔たと〕えて述べています。普通の人には塀が高くて家の中の様子が見えないから、先生の大きさが分からないのも当然だということです。
(子張・第19−23)

・「舎倹且広」:cf.政府(〜‘12 民主党/自民党)のバラマキ政策。現在の大赤字財政の因。

・「成器長」:成器を大器とし、大器を天下とし、「成器長」は天下の長(君主)とします。 『論語』に「君子は器ならず」 とあります。一つ一つの「器」は(どんなに大きくても)そ の用途が限定されています。「器」は道具の意味が転じて、個別の仕事に役立つその首〔かしら:トップ〕(=才の人・小人)のことです。それに対して、君子=不器の人は用途が限定されず「器」を広く使う人のことです。
『老子』には、「樸〔ぼく・あらき〕散ずれば則ち器となり、聖人これを用うれば、則ち官長となる。」(第28章) とあります。『論語』も『老子』も同じことを言っています。成器の長は、(人民も含めて)万物の長となって天下を支配するのです。

君主・リーダー像 → 儒学)「不器の人(=君子)」 = 黄老)「成器の長」

・「天将救之、以慈衛之。」:天祐(天の祐〔たす〕け)あり。
cf.『易経』・【火天大有】上爻:
「天よりこれを祐〔たす〕く。吉にして利ろしからざるなし。」(三大上爻の一つ)

 

コギト(我想う)

 《 老子の “三宝” 》

「三宝」 : 「慈」〔いつくしみ〕&「倹」〔つつましさ〕&“後”〔世の人々の先頭に立たない〕

 慈  は、仁の本〔もと〕。柔仁、「勇」を発する根源です。

『論語』に、欲ある者は剛を得られないとあります。『孟子』にも、曽子の言葉として「自ら反みて縮くんば、千万人と雖も吾往〔ゆ〕かん。」(『孟子』・公孫丑〔こうそんちゅう〕上/cf.孟子の“浩然の気”) とあります。
「仁者に敵無し」は、孟子が強調しているモットーです。人民に仁徳・慈恵をほどこすような人(君主)には、敵となって逆らうような者はいないの意です。

 cf.(孟子が梁の恵王にいうには)「故に曰く、仁者に敵無し、と。王請〔こ〕う疑うこと勿〔なか〕れ、と。」(『孟子』・梁恵王章句上) 「夫〔そ〕れ国君仁を好まば、天下に敵無し。」(『孟子』・離婁章句上)

そして、「三宝」を挙げておきながら、「慈」のみで章文を結んでいます。「三宝」の中心が仁徳である ということです。畢竟〔ひっきょう〕するに、老子の「慈」は、孔子・孟子の「仁」であり仏陀の「慈悲」であり、イエスの「愛」です。

 

 倹  は徳の蓄積。倹約、節倹です。

易卦でいうと【水沢節】(節度・節約)でしょう。節倹を守ればこそ、不足がなく広く施し用いる ことができるのです。入るをはからず、バラマキ政策で、膨大な赤字財政のわが国の現状を 省みなければなりません。『老子』第59章にある「嗇」〔しょく〕とほぼ同じです。

 

 後  は、(儒学徳目)の“謙/譲”です。

“敢〔あ〕えて天下の先〔せん〕と為らず” → “後” は、“謙”・“譲”のことです。

「世の中の人々の先頭に立たない」からこそ結果的に首〔かしら〕・長〔おさ〕になる、という老子得意のパラドックス〔ぎゃくせつ〕です。“謙”も“譲”も儒学の重要な徳目です。立場が上であればある程“謙/譲”、へりくだることが大切です。易卦でいうと【地山謙】、謙虚・謙遜・“稔るほど頭〔こうべ〕を下〔た〕れる稲穂かな”ですね。例えば、大臣や社長といった首(トップ・リーダー)は、腰を低く頭を下げて、お酌をして回ることが大切です。反面、立場が上でなければ、普通に相手に敬意を表していればよいと思います。過度にペコペコするのは、卑しむべき阿〔おもね〕り諂〔へつらい〕というものです。

わが国にも“人をたてる”という言い方があります。“オレがオレが”ではなく、まず人を先とし自分を後におく、というのが(善くできた)大人〔おとな/たいじん〕というものです。

「成器の長」は「天下の先とならない」から、動きません。例えば、大臣や社長は受付(先)にはいなくて、奥(後)にいます。

 

(*安岡・前掲「老子と現代」 pp.134-135引用) ( §67章 )

「 所謂『老子三宝の章』といって有名な言葉であります。今日のように全く老子と反対に枝葉末節に走り、徒に唯物的・利己的になり、従って至るところ矛盾・衝突・混乱を来してくると、肉体的にも生命的にもだんだん病的になる。善復た妖となるで、元来善であり正である筈の文明・文化がそれこそ奇となり妖となる。今日の文明・文化は実に妖性を帯びております

こういうことを考えると、我々は老子というものに無限の妙味を感ぜざるを得ないのであって、これを自分の私生活に適用すれば、この唯物的・末梢的混濁の生活の中に本当に自己を回復することが出来るのであります。こういう風に絶えず現代というもの、われわれの存在というものと結びつけて生きた思索をすれば、読書や学問というものは限り無く面白く又尊いものであります。」

 

【老子:むすびに】

( ジ・ジン・ヒ・アイ )

老子【慈】 ≒ 孔子【仁(忠恕)】 ≒ 釈迦【悲(慈悲)】 ≒ イエス【愛】

 「道」/無為自然 ≒ ☆ハーモニ/バランス ≒ *中庸/中和・時中

 harmony 〔調和〕 / balance 〔均衡〕 

 「中」の: 1) ホド、ホドホド 2)止揚〔アウフヘーベン〕

 

―――ー  無  名で  有  力であれ」 (安岡 正篤) ―――ー

六中観

1.忙中  有り : 忙中に摑〔つか〕んだものこそ本物の閑である。

2.苦中  有り : 苦中に摑んだ楽こそ本当の楽である。

3.死中  有り : 身を棄〔す〕ててこそ浮ぶ瀬もあれ。

4.壺中  有り : どんな境涯でも自分だけの内面世界は作れる。どんな壺中の天を持つか

5.意中  有り : 心中に尊敬する人、相ゆるす人物を持つ。

6.腹中  有り : 身心を養い、経綸〔けいりん〕に役立つ学問をする。

cf.1→ 「閑な時の読書身につかず」
3→ 「窮鼠〔きゅうそ〕猫をかむ」

「私は平生〔へいぜい〕 窃〔ひそ〕かに此の観をなして、如何なる場合も決して絶望したり、仕事に負けたり、屈託したり、精神的空虚に陥らないように心がけている。」
( 『安岡正篤・一日一言』、致知出版社 引用 )

 

☆ 《 壺中天 》:  黄老  の世界 ―― 現実の中にあって心中は隠者の世界に  遊ぶ  ・・・
( 学ぶ → 楽しむ → 遊ぶ )
by.盧

 

(完)


■2015年3月22日 真儒協会 定例講習 老子[50] より



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老子道徳経: 《 老子のユートピア(理想国家・社会)思想 》 その3

こちらは、前の記事の続きです。

原典研究

・・・ 《 桃花源の記 》

桃花源の記
(『陶淵明集』より)  陶潜 〔淵明〕

(※書き下し文ふりがなは、現代かなづかいによりました)

第一段落

○ 晋の太元中〔たいげんちゅう〕、武陵の人 魚〔うを〕を捕らふるを業と為す。渓〔たに〕に縁〔よ〕りて行〔ゆ〕き、路の遠近を忘る。忽〔たちま〕ち桃花の林に逢ふ。岸を夾〔さしはさ〕むこと数百歩、中に雑樹無し。芳草鮮美にして、落英繽紛〔ひんぷん〕たり。漁人〔ぎょじん〕甚だ之を異〔あや〕しみ、復た前〔すす〕み行きて、其の林を窮めんと欲す。林水源に尽き、便ち一山を得たり。

《 大 意 》
晋の太元年間に、武陵の人で、魚捕りを業とする人がいました。彼は谷川に沿って船を進めて行くうちに、どれほどの道のりを来たかも忘れてしまいました。そうしているうちに、ばったり桃の花の林に行き会いました。(それは)川をはさんで両岸に数百歩も連なっていて、中には桃以外の木は一本も混じっていませんでした。美しい草が色鮮やかに茂り、桃の花びらが辺り一面に乱れ散っていました。漁師は大層不思議に思い、さらに船を進めて行って、その桃の林の果てまで見きわめようとしました。(やがて)林は谷川の源のところで切れると、そこに一つの山がありました。


第二段落

○ 山に小口有り、髣髴〔ほうふつ〕として光有るがごとし、便〔すなわ〕ち船を捨てて口より入る。初めは極めて狭く、纔〔わず〕かに人を通ずるのみ、復た行くこと数十歩、豁然〔かつぜん〕として開朗なり。土地平曠〔へいこう〕にして、屋舎儼然〔げんぜん〕たり。良田・美池。桑竹の属〔ぞく〕有り。阡陌〔せんぱく〕交はり通じ、鶏犬相聞こゆ。其中〔そこ〕の往来種作〔しゅさく〕する男女の衣著〔いちゃく〕は、悉く外人のごとし。黄髪垂髫〔こうはつすいちょう〕、並〔みな〕怡然〔いぜん〕として自ら楽しむ。

《 大 意 》
山には小さな洞穴があり、どうやら内には光がさしている様子です。そこで彼は船を捨てて、穴の口から入って行きました。初めは大変狭くて、やっと人が一人通れるほどでした。さらに数十歩進むと、からりと明るく開けました。(見れば、)広々と土地は開け、きちんと整った家並みが続いています。よく肥えた田、美しい池、桑畑や竹林などがあり、あぜ道は縦横に通じ、あちこちで鶏や犬の鳴き声がしています。そこを行き来したり、畑の仕事をしたりしている男女の服装は、みんな外部の人のそれと変わりはありません。黄色の髪の老人もお下げ髪の子どもも、みんなうれしそうに生活を楽しんでいます。


第三段落

○ 漁人を見て、乃ち大いに驚き、従〔よ〕りて来たる所を問ふ。具〔つぶさ〕に之に答ふ。便ち要〔むか〕へて家に還り、酒を設け鶏を殺して食を作る。村中〔むらじゅう〕此の人有るを聞き、咸〔みな〕来たりて問訊〔もんじん〕す。
自ら云ふ、「先世秦〔しん〕時の乱を避け、妻子邑人〔ゆうじん〕を率ゐて、此の絶境に来たり、復た出でず。遂に外人と間隔せり。」 と。
問ふ。「今は是れ何の世ぞ。」 と。
乃ち漢有るを知らず、魏・晋に論無し、此の人一一〔いちいち〕為に具〔つぶさ〕に聞く所を言ふ。皆嘆惋〔たんわん〕す。余人各〔おのおの〕復た延〔まね〕きて其の家に至らしめ、皆酒食〔しゅしょく〕を出だす。停まること数日にして辞去す。此中〔ここ〕の人語りて云ふ、「外人の為に道〔い〕ふに足らざるなり。」 と。

《 大 意 》
彼らは漁師を見ると非常にびっくりして、どこから来たのかと尋ねました。漁師がこと細かにこの質問に答えると、さっそく彼を誘って自分の家に連れ帰り酒を出し、鶏をひねって(締め殺して)、食事をしつらえました。村中の人は、この人のことを聞きつけると、みなあいさつにやって来ました。
そして自分たちの方から、「私どもの先祖は、秦の時代の動乱を逃れて妻子と村の者たちを引き連れ、この隔絶した世界にやって来て、二度と外には出ませんでした。こうして外界の人とは縁を断ったままです。」 と言いました。
(さらに漁師に)「今はいったい何という世なのでしょうか。」 と尋ねました。
なんと、彼らは(その後)漢の世になったことも知らず、もちろん魏や晋のことを知らないのでした。そこでこの人は自分の聞き知っていることを一つ一つ詳しく彼らに説明してやりました(それを聞いて村人たちは)みんなため息をついて感じ入りました。ほかの人たちも、めいめい彼を自分の家に招いて、皆、酒食を出してもてなしました。彼はここに数日滞在した後、別れを告げました。
ここの人たちは彼に言いました。「外の人たちに(私たちの村のことを)お話になるには及びませんよ。」 と。


第四段落

○ 既に出でて、其の船を得、便〔すなわ〕ち向〔さき〕の路に扶〔そ〕ひ、処処に之を誌〔しる〕す。郡下に及び太守に詣りて、説くこと此くのごとし。太守即ち人を遣りて其〔それ〕に随〔したが〕ひて往〔ゆ〕かしむ。向の誌しし所を尋ぬるに、遂に迷ひて復た路を得ず。南陽の劉子驥〔りゅうしき〕は高尚の士なり。之を聞き、欣然として往かんことを規〔はか〕る。未だ果たさず、尋〔つ〕いで病みて終〔お〕はる。※ 後 遂に津〔しん〕を問ふ者無し

《 大 意 》
彼は(桃花源から)外界へ抜け出て、自分の船を見つけると、先だってやって来た道に沿って、要所要所に目印を付けておきました。やがて郡の役所のある町に着くと、郡の長官の所へ出頭して、以上の次第を説明しました。長官は早速人を遣わして、彼について行かせることにしました。先につけた目印を頼って進むうち、迷って道が分からなくなりました。南陽の劉子驥は、俗世を去った高潔な人でした。(劉は)この話を聞くと、喜び勇んで出かけようとしました。が、志を果たせないうちに、まもなく病気になって死にました。※ それからは、この桃花源へ入ろうと試みる者はなくなりました


※補注)「後遂無問津者」: 結び文の「問津」は、渡し場を尋ねる  桃花源へ入ろうとすること。『論語』・微子篇(第18−6)に孔子が子路〔しろ〕に“津を問わせた”(「使子路問津焉」)とあるのが出典のようです。「津を問ふ者無し」とは、桃花源=ユートピア のような“高尚〔こうしょう〕”な世界を志向し求める人が絶えてしまったということなのではないでしょうか?
ここに、“田園詩人”と称され“壺中〔こちゅう〕の天(≒自分だけの別世界)”を持っている陶潜の感慨が寓〔ぐう〕せられているのでしょう
今我々は、老子の「小国寡民」・陶潜の「桃源郷」の世界が語りかけ投げかけている現代的意義について、真摯〔しんし〕に考えてみるべきだと思います。


■2015年2月22日 真儒協会 定例講習 老子[49] より



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老子道徳経: 《 老子のユートピア(理想国家・社会)思想 》 その2

こちらは、前の記事の続きです。

コギト(我想う)

《 ユートピア=理想郷(社会・国家)について 》

『老子・第80章』は、老子の描く、有名なユートピア〔理想郷〕論です。ユートピアの姿は、洋の東西にかかわらず描かれてまいりました。思い起こしますと、幼少の頃、手塚治虫氏の漫画でみたどこか秘境の地にあるという「シャングリラ」。青年の頃読んだ、トマス・モアの 『ユートピア』注1) 
K.マルクスが『資本論』で(科学的に)予測展開しようとした“社会主義社会”への思想も、一世を風靡〔ふうび〕しました。

東洋では、ユートピアを「桃源郷」と言ったりもします。これは、六朝〔りくちょう〕時代の有名な田 園詩人・陶潜〔とうせん/=陶淵明〕の作品「桃花源の記」 注2)  に由来しています。その話のルーツが他ならぬ、この老子の理想郷像にあるといわれています。

注1) 羊が人間を喰うの文言で有名です。当時・資本制社会発生期のイギリスの“エンクロージャー”(囲い込み)運動が背景になっています。そのことは、D.デフォーの『ロビンソン・クルーソー漂流記』にも書かれています。

注2) 「桃花源の記(並びに詩)」: 陶潜の晩年56、7歳の頃に書かれたと推測されています。老子の「小国寡民」に想いを馳せながら当時の民間説話に取材しながら、彼自身の理想を託して作品にしあげたものでしょう。
《あらまし》 ―― 晋の太元年間のこと。武陵に住む一人の漁師が、谷川に沿って行くうちに道に迷い、桃の花の咲き乱れる林に出逢いました。漁師は、さらにその先をみきわめようとして進んで行きますと、山の洞穴がありました。その洞穴をくぐり抜けてみると、そこはかつて秦〔しん〕の時代に戦乱を避けてやって来た人たちの子孫が、長く世間と隔絶して平和な生活を営む別天地でした。長官は、住民たちから温かくもてなされました。数日楽しい時を過ごして、武陵に帰り、郡の長官にそのことを報告しました。長官は、その漁師に道案内をさせ、部下をつかわしてその村里を調べさせようとしましたが、ついに捜し出すことはできませんでした。その後、桃源郷への道を尋ねる人はなくなってしまいました。
 → 後述  原典研究   参照のこと

これら東西のユートピア思想を比較して考えてみますと。 ―― 安岡正篤氏も度々指摘されておりますように ―― 概して、西洋のユートピア像が“未来志向”であるのに対して、東洋のそれは善き“過去への回帰志向”であるといえます

この“尚古〔しょうこ〕思想”は、儒学・黄老に共通しています。すなわち、儒学の開祖・孔子とその思想を発展させた孟子は、「文王〔ぶんのう〕」・「周公旦〔しゅうこうたん〕」といった聖王の時代・周王朝の善き社会を理想とし、その復活を唱えたのです。老子においても、堯〔ぎょう〕・舜〔しゅん〕さらに伝説の時代である太古の聖王の善き時代を想起しているのです。

さて、老子が 「小国(邦)寡民」で描いたユートピアは、古き善き村落共同体の社会像です。春秋・戦国の時代(BC.770〜BC.403〜BC.221)、2000余もあったといわれている諸郡は、しだいに戦争で淘汰〔とうた〕統合されてまいります。戦国時代には“戦国の七雄”と呼ばれる7大国に統合されてゆきます。そして、BC.221年には秦の政(始皇帝)が他の6国を滅ぼして中国を統一します。政治的には、そういった大国家統合(超統一専制国家)へのプロセスをとりますが、依然として多くの村落共同体が常に存在していたと考えられます。この古き善き村落共同体への回帰が、老子のユートピア論の原点なっていると思います。加えて、(先述の「テンニースのゲマインシャフト〔共同社会〕と孟子の思想」で紹介いたしましたように) 孟子もその“利益社会(=ゲゼルシャフト)”を(周代の)封建社会の崩壊した社会において捉え、老子と同じような結論に至っております。

次にここで目を一転させて、老子がユートピアに想いを巡らしていたであろう頃の、ヨーロッパ世界に目を転じてみましょう。古代ギリシアの時代です。古代ギリシアは、古代西洋(ヨーロッパ)文明・文化の源であり、民主主義が発達し、オリンピックの発祥の地であり、そして東方専制国家(ペルシア)を打ち破った“強国”です。

古代ギリシアでは、「ポリス」とよばれる政治的・経済的に自立した都市国家が成立していました。中国・周代の善き時代(およそBC.1100〜BC.770)には、村落共同体があり、ギリシアではポリスが発生していたと考えられます。

“ギリシア”というのは地域的・民族的な総称です。“ギリシア”には、1000以上ものポリスが存在していたとされています。ポリスは小平野を単位とする国家です。その規模については、哲人アリストテレスは、中心部である丘〔アクロポリス〕に立って一望のもとに視野におさまる範囲が最良と述べています。人口、自由民が 1万を超えるポリスは稀でした。最盛期のアテネ(BC.5世紀ごろ)でも自由民が 4万人程であったといわれています。(cf.奴隷は全人口の3分の1程度)ポリス成立時には貴族政〔aristocracy〕が確立され、その後アテネなどでは民主政が発展しました。アテネ・スパルタ・テーベ ・・・ といった強力なポリスが、全ポリスをリードしました。ギリシア世界では、“調和の美”・“自由”が重んじれれました。そして、西洋古典文化の源流となったのです。

―― 老子の「小国寡民」のユートピア国家に重なるところ大といえないでしょうか?


結びにかえて、21世紀の現在の世界で、「小国寡民」に想いを馳せてみましょう。私には、次の二つの国家が想起されます。

一つは、“永世中立国スイス”です。スイスは、自国を国民皆兵で守っています。国民は、非常時に備え(3日分の食料を蓄え)家の中に銃火器を蔵〔かく〕し持って有事に備えています。それにより、現実的中立・平和を実現して今に至っています。

いま一つは、“世界で一番幸せな国・ブータン”です。敬虔〔けいけん〕な仏教徒である若き国王(ワンチュク国王、31歳)が統治しています。わが国の江戸時代同様、“鎖国政策”をとっています。経済的には決して豊かとはいえぬ小国ですが、経済(GNP)よりも「国民総幸福量〔GNH:Gross Nationale Happiness〕」 注3) を重視しています。実に、国民の9割が「幸せ」を感じているといいます。“ストレス”にあたる言葉そのものがありません。“心の貧しさ”がいわれて久しいわが国で、一体何割の人々が「幸せ」を感じているでしょうか? “ストレス”を感じていない都会人がどの位いるでしょうか?

わが国の未来社会の有り様・あるべき姿を具体的に模索する時、スイスは空虚な理想主義的平和(中立)主義・安全防衛を省みる上で、ブータンは人間・国民の真の“幸せとは何か”ということを省みる上で、貴重な示唆を与えてくれていると考えます。

注3)  “経済的(モノ)豊かさ”よりも“幸せと感じる” 国を目指す。“モノ”の豊かさは必ずしも幸せ感をもたらさない。(“モノ”の豊かさも“満足感”という主観的なもの ex.10万円の生活・食べ物/20万円の生活・食べ物/30万円の生活・食べ物 ・・・ )
幸福を感じると、モノ(経済的)豊かさも感じることも UP!→ 老子の「知足」・「安分知足」に通じると思います。


朝日新聞:「ブータン国王夫妻 国会へ/衆参議員 議場埋める」 引用


■2014年12月28日 真儒協会 定例講習 老子[48] より


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


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老子道徳経: 《 老子のユートピア(理想国家・社会)思想 》 その1

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 【 80章・小国寡民/60章 】

(独立・第80章) 注1) 

 《 老子のユートピア(理想国家・社会)思想 》 

 §.「 小国寡民」 〔シャオ・クオ・クワ・ミヌ〕

注1) 「独立」の章名は、小さな国家ながらも独立を保っているの意で、「小国寡民」を説くこの章の内容を善く表現していると想います。
『大学』は、「大学之道、在明明徳」にはじまり、「此謂不以利為利、以義為利也」で終わっています。『老子』は、「可道、非常道」にはじまり、「聖人之道、為而不争」で終わります。けれども、終章一つ前のこの章は、老子のユートピア(理想国家・社会)論でありシメ(集大成)に相応しいテーマの感があります。(この点、『易経』の【既済】 → 【未済】 の構成に似ているように思います。) 
この老子の“悟り”・75言の短文の中に、深淵な多くの示唆を含んでいます。我々が現代の光に照らして真摯〔しんし〕に未来を展望する時、偉大な価値を持って輝いています!

cf.“Standing alone‘ The chapter sets forth what Lao−tzu conceived  the ancient government of simplicity was,and what he would have government in all time to be.” 
(Kitamura adj. p.263)

○「 小国寡民 使有  什伯之器  而不用、使民重死而不遠徒。 雖有舟與、無所乗之、雖有甲兵、無所陳之。 | 
使民復結縄而用之、甘其食、美其服、安其居、楽其俗、隣国相望、鶏犬の声相聞、民至老死、不相往来。」

■ 小国寡民(国を小さくし民を寡〔すく〕なくす)。 ※什伯〔じゅうはく〕の器〔き/うつわ〕有りて、而〔しか〕も用いざらしめ注2) 民をして死を重〔かた:=重難 ←→ 軽んず〕んじて遠く徒〔うつ〕らず、舟與〔しゅうよ〕有りと雖〔いえど〕も、之に乗る所無く、甲兵有りと雖も、之を陳〔つら〕ぬる所無からしむ。 |
民をして復た結縄〔けつじょう/縄を結びて〕 之を用い、其の食〔し〕を甘〔うま/あま〕しとし、其の服を美〔び/よ・し〕とし、其の居に安んじ、其の俗を楽しみ、隣国〔りんごく〕相望み、鶏犬の声相聞こゆるも、民 老死に至るまで、相往来せざらしむ。

《 大意 》

(理想的な国の統治のためには、) 小さい国土に少ない人口で、 ※A: 人力の10倍・100倍のパワー〔機能〕を持つ精巧な道具・機械があっても(=いろいろ沢山の便利な文明の利器が揃っていても)用いないようにさせ、 ※B: 10人組・100人組の道具としての武器があっても用いず、 ※C: 10人・100人を統率できる人がいても、用いないように(=能力を発揮させないように)させ注2)  人々に生命(いのち)を大切させて(長寿を願わせ)、(生活難から)他国へ移住しないようにさせます。(そうすれば)舟や車があってもそれらに乗ることはなく、よろいかぶとや武器〔=甲冑刀槍:かっちゅうとうそう〕があっても、それらを並べ立て(他国に)戦争をしかけることもないでしょう。

(そして、)人々に(知恵のモトである文字を捨てさせ、古代のように)縄を結んで(文字に代わるコミュニケーションの記号として)用いさせ、自分たち自身の(産出する)食物を美味〔うま〕いと思って食べさせ、自分たち自身の(作った)衣服を立派だと思って着させて、自分たちの住居に満足してして住まわせ、(自分たちの国の)風俗習慣を楽しむようにさせます。そうであれば、隣の邦〔くに〕(の街)がお互いに眺められ、鶏や犬の鳴き声が聞こえ合うほど間近にあっても、人々は(自国の生活に満足しているので、)年老いて死ぬまで、(他国の人々と)お互いに行き来することはないでしょう。

( ―― 以上が、私〔老子〕の考える理想的な政治・社会のあり方です。)

注2) → A・B・C 3様の解釈について後述  コギト(我想う)  を参照のこと

・「小国寡民」:「小国寡民」 → 「小寡民
「小」と「寡」は形容詞(「ちいさい」国と「すくない」民)ですが、動詞として(国を「ちいさくし」と民を「すくなくする」)用いたとも解せます。「国」は城壁で囲まれた居住地のこと。
ex.「国破山河在 城春草木深 ・・・」 (杜甫・『春望』)

cf.帠書甲本では、「国」の字は「邦」と記されています。「小邦寡民」です。「邦」と記すのが本来のもので、「邦」を「国」としているのは、漢代の人が高祖・劉〔りゅうほう〕の名=「邦」を避けたことによります。(甲本が「邦」と記しているのは、それが高祖以前の書写本であったと考えられます。)

*「避諱〔きひ〕改字」の慣習 → 天子の実名(諱〔いみな〕)の文字を別の文字で置き換えるもの
ex.唐の太宗・李世民の 「世・民」 → 「代・人」 と記す

(楠山春樹 『老子入門』 p.57参照)

・「什伯之器」:帠書甲本は「十百人之器」、乙本は「十百人器」、河上〔かじょう〕本は「什伯人之器」。さまざまな解釈があります。主なものは次の3つです。

A) 人の能力の十倍、百倍の機能のある便利なもの。文明の利器。/さまざまな道具。
→ 老子の文明・文化への警鐘

※“百人力”・“十万馬力”(鉄腕アトム)のように機械のパワーを人力や馬力で表していました。

B) 十人組、百人組の道具としての「武器」。

C) 十人、百人を統率する、(十倍、百倍の能力を持つ)器量人


コギト(我想う)

理想国家論における、「什伯(人)之器」の解釈あれこれは、そのどれもが老子のユートピア論に相応しいものです。現代的な意義を考えるにつけても、その深意、考察すべきものがありましょう。A)/B)/C) 3つの解釈の立場それぞれから考えてみましょう。

A) 人の能力の十倍、百倍の機能のある便利なもの。文明の利器。/さまざまな道具。

→ 老子の文明・文化への警鐘 (cf.※「財宝は子孫を殺し、学術は天下を亡ぼす。」)

cf.【離】 = 学術・文化 / “文化・文明の源は「火」と「石のカケラ」”(傷〔やぶ〕るものも「学術・(核)」と「隕石」) 太陽・核 / 核兵器・原発事故

→ 荘子の文明批判 “はねつるべ”の寓話: 「機事〔きじ〕あれば機心あり、機心あれば純白備わらず(『荘子』・天地篇)と言って、便利な機械〔からくり〕を用いな いで水を田に汲み入れる老人の話が登場しています。


研究

≪ 「知」と「智」と柿の“シブ” / 【離・火】(文化文明)について ≫

“文字”に学んでみますと。「知」は、“口”に“矢”、口という矢(=武器)で他者を攻撃、傷つけるの意が「知」です。危ういものです。なまじっか(生半可)の知識がむしろ禍〔わざわい〕して病的に性癖を生じるようになると、“やまいだれ”がついて「痴」〔ち/おこ: =バカものの意〕となります。「知」でくもって、ものごとの「本〔もと〕」が観〔み〕えない浅薄な知識人のことです。“賢い愚者”ですね。

ところで、シブ柿は「日(陽)」に干すことによって甘柿になります。これは、太陽の作用(パワー)により、シブ柿に内在する“シブ”自体が日によって“甘い”もの(善きもの)に変化するということです。したがって、「知」に「日」をプラスして 「智」 としますと、本来の善きもの、あるべきものとしての“智恵”となるわけです。(漢字というものは、実に深く考えられて作られていますね。)

私は(職業柄かも知れませんが)、この“柿のシブと太陽=【離】 → 甘柿”への “化成”は教育という分野にも当て嵌〔は〕まるナ、と私〔ひそか〕に想っているところです。

そして、「知」は、易の八卦でいうと【離/火】です。【離】は学術・文化文明です。【離】=人類の文化文明は、“火と石のカケラ”から始まりました。それが、21世紀の現在では、携帯電話・PC・インターネット・原子力発電・ロケット・ミサイル・・・・ etc. を生み出しています。然るに、【離】は、傷〔やぶ〕るものでもあります。【離】の持つ危うさです。私は、「財宝は子孫を殺し、学術は天下を亡ぼす」 という中国の言葉を知っています。現在最先端の“学術”である(【離】=太陽=火=)“原子力”も、核兵器や原発事故で多くの人々に厄災をもたらしている現状では、この言葉に納得せざるをえません。

現在(2012-13)、原発の是非をめぐって姦〔かしま〕しくも末梢的議論がなされ、衆議院選挙(2012.12)・参議院選挙(201.7.21)の大きな争点となっておりました。―― 人類は太古の昔、【離】・火を手にしました。それを用いる歴史の中で、火傷〔やけど〕もあり、火事もあり、火器(銃・ダイナマイトなど)による事故や愚かな殺戮も多々ありました。が、しかし、我々の祖先は、この傷〔やぶ〕るものでもある【離】・火の弊害を創意と工夫をもって克服して、自らの文化的財産として取り込んでまいりました。決して【離】・火そのものを悪玉にして放棄はしませんでした。実際、“ろうそくの灯り”に満足していた時代に戻ることはできません。当世、携帯電話(スマートホン)やインターネットなしでは生きていけない(生活できない)と考えている若者が殆〔ほとん〕どです。現代科学の先端、巨大な【離】・火である“原子力”も同様です!

畢竟〔ひっきょう〕するに、【離】そのものが悪いのではなく、ある特定の人間にその【離】を使う資格があるかなしかの問題です。その文明【離】が偉大であればあるほど大いなる“責任”を伴います。その人間が【離】をもつに値するか、相応しいかが問われるのです。幼児が“火遊び”や“銃遊び”するのを、誰も善しとは言わないでしょう。“傷〔やぶ〕”られることなく、持つに足る、使うに足る“徳”があるかどうかです。現今〔いま〕 に限って言えば、原発にしろ教育のツールにしろ、とてもそれを用いるに足る“徳”があるとは、資格があるとは思えません

ところで、“天罰”(天罰てきめん)という言葉があります。“罰〔ばつ〕”は、自らの過ち・怠慢・奢〔おご〕りを戒めるために作った言葉なのでしょう。“水”にたいして “水ばち〔罰〕”、“火”にたいして“火ばち〔罰〕”という語もあるそうです(天声人語’13.7)。 東日本大地震と津波による【坎〔かん〕・水】の被害と、それに起因する福島第一原発事故(【離・火】)は、まさに“水ばち〔罰〕”/“火ばち〔罰〕といえましょう。

cf.「日」は儒学にいう「本(もと)」の学と考えればよいでしょう。老子は、「絶学無憂〔ぜつがくむゆう: 学を絶てば憂い無し〕」(『老子』・第20章) と言っております。生半可な末梢的な学(末学)を遠ざけよということでしょう。また、「知りて知らざるは上〔じょう〕なり。知らずしてしるは病〔へい/やまい〕なり。」(『老子』・第71章) と言っています。ちなみに、「知不知上」 は、兼好法師の 「 ―― いたましうするものから、下戸〔げこ〕ならぬこそ男〔をのこ〕はよけれ。」〔(酒をすすめられると)困ったような様子はしながらも、実際には飲めなくはないのが男としては善いのです。〕(『徒然草』・第1段結文) とも発想が同じような気がします。


B) 十人組、百人組の道具としての「武器」。

→ 老子の平和主義【30章】・【31章】、不戦・不争の徳【8章】・【68章】・【81章】参照のこと


C) 十人、百人を統率する、(十倍、百倍の能力を持つ)器量人。

この意であると仮定してみると、なぜ、10倍・100倍する才能のある優れた人材を用いさせないのでしょうか? 真に人材であれば登用すべきでしょうに。“不自然”に思われます。

ここで考えられるのは、“知の人・才の人”(=小人)を用いないということ。指導者には、すべからく“徳の人・情の人”を用いるべき、と考えることができます。これは、儒学の人材登用の要〔かなめ〕の考え方です。(ex. 『大学』・終章末文「国家に長として財用を務むる者は、必ず小人に自〔よ〕る。彼之を善くすと為して、小人をして国家を為〔おさ〕め使〔し〕むれば、菑害〔さいがい〕竝〔なら〕び至る。――― 」)


・「使民復結縄」:
「結縄」〔けつじょう〕 : 太古の時代、文字が作られる以前に用いられたという情報伝達・記録の方法。縄に結び目を作ったり、物を結びつけたりするものです。南アメリカ(インカ帝国/「キープ」)の原住民や*日本でも用いられたといわれています。
古代中国・伝説の時代。五帝の一人伏犧〔ふつぎ〕氏が、「陽」「陰」〔こう〕というシンボルを3つ重ねて“易の八卦”を発案しあらゆることを「象〔しょう〕」で表しました。その後、神農氏が結縄を考案し、それがさらに発展して黄帝〔こうてい〕の史官であった蒼頡〔そうけつ〕が文字を発明したと言われています。つまり、文字(甲骨文字)の前段階として結縄の時代があったということです。老子は、理想郷では、文字=学問・知識に害されていない“古き善き結縄の時代”に反〔かえ〕れと言っているのです。

*倭国には「文字なく、唯〔た〕だ木に刻み縄を結ぶ。仏法を敬い、百済より仏経を求め得て、始めて文字あり」(『隋書』・東夷伝倭国)

cf.「上古、縄を結びて治まり、後世、聖人之に易〔か〕うるに書契〔しょけい/=文字〕を以てす。」  (『易経』・繋辞伝) / (『荘子』・胠篋篇〔きょきょうへん〕にも「至徳の世」の有り様として、ほぼ同じ文が述べられています。)

cf.「人生、文字を知るは憂患〔ゆうかん〕のはじめなり。」


・「安其居、楽其俗」:

参考

《 テンニースのゲマインシャフト〔共同社会〕と孟子の思想 》

(盧:平成22年度“真儒の集い”特別講演/“『グリム童話』と儒学”より抜粋引用)

・ドイツの社会学者 テンニース〔 Fredinand Tonnies 1855-1936 〕は、前近代的社会類型としての「ゲマインシャフト〔Gemeinschaft/共同社会〕」 と 近代的社会類型としての「ゲゼルシャフト〔Gesellschaft/利益社会〕を分析的に類型立てて、社会学的な近・現代社会論の礎〔いしずえ〕を築きました。

・ゲマインシャフト: 家族 → 民族社会 /地縁・血縁・心縁(朋友や教会)によって結び ついた社会、「人間の本質意志」、親愛と尊敬の心情による本質的結合

・ゲゼルシャフト: 会社 → 国家 /「人間の選択意志」、本質的に離れており契約や法で結びついている

・孟子 の 「仁義(愛敬)によって結ばれた社会」 と 「利益によって結ばれた社会

※ 愛敬仁義 :人間固有の“愛敬〔あいけい〕” の心の発展したものが “仁義”

・陽 は 父 = 敬 → 義
・陰 は 母 = 愛 → 仁

父は敬と愛を兼ねる(『孝経』)とされますが、今時は母も愛と敬を兼ねると考えるべきでしょう。

【考察】男女の別 = 男性ホルモンと女性ホルモン両方の相対的・量的な差

○「孟子の言っていることを要約いたしますと、社会には利益によって結ばれた社会と、敬愛によって結ばれた社会との二つの型がある。 利益によって結ばれた社会は、闘争の社会であって、それはその社会の自滅につながるものである。敬愛によって結ばれた社会は秩序の保たれた社会であって、それは世界の平和につながるものである。だから、吾々は、利益によって結ばれた社会を否定して、敬愛によって結ばれた社会を建設しなければならない。」
「テンニースのこの社会の区分は、根本的には孟子のそれとまったく一致するもののように思われます。そして、孟子のいう愛敬の社会は、まさにテンニースのいうゲマインシャフトと同一でありますが、利益社会については、孟子がそれを封建制の崩壊した中国の古代社会において捉えているのに対し、テンニースは、それを資本主義制の発達したヨーロッパの近代社会において捉えている点が違っておるのであります。」
(参考・引用 『中国の古代哲学』所収/小島祐馬「社会思想史上における『孟子』」)


■2014年11月23日 真儒協会 定例講習 老子[47] より


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


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老子道徳経: 《 老子の“現実的平和主義” に想う 》 その2

こちらは、前の記事の続きです。

《 スポーツ と 戦い 》

今夏(’12.8)、ロンドン五輪が開催されました。連日連夜、メダル・メダル・・・、記録・記録・・・、とマス・メディアが煽る〔あお〕り、選手も民衆も勝つことばかりに過度にこだわり、メダルや記録に血眼〔ちまなこ〕になっています。オリンピック競技大会を「平和の祭典」と表現していたマス・メディアがありました。が、私には今のそれは、“享楽・見せ物の祭典”・“戦いの祭典”のように思われてなりません。そもそも、「(オリンピックは勝ち負けではなく)参加することに意義がある」との名言が語られたのは、104年前の“ロンドン大会”ではなかったでしょうか。

民主主義・哲人政治もオリンピック(オリンピア)競技大会も、ルーツは古代ギリシアです。これら古代ギリシアの偉大な文化遺産を受け継いだ世界は、頽廃〔たいはい〕を遂げていると言わざるを得ません。現在(2012年)ギリシアは、国家自体が経済的に破綻しようとしています。―― 私は、古代ローマ帝国末期の民衆が、「パンと見せ物」に酔い毒されていたことを、また思い起こしてしまいました。

ヨーロッパには、“凱旋門”〔がいせんもん〕という建築物の文化遺産が多く残されています。それは同時に、武力による征服と征服の歴史を物語るものでもありました。古代ローマ帝国の時代より、“凱旋”軍はさぞ賛美され華やかに迎えられたことでしょう。

わが国の、ロンドン五輪メダリスト“凱旋パレード”も銀座で行われました(’12.8.20)。膨大な人々が集い迎えました。それは一興で良いとしても、メダルを取れなかった多くの選手は一顧だにされず、否、恥辱、肩身の狭い有様です。健闘を労〔ねぎら〕われることもないように見受けられます。現代企業の“成果主義”と同じで、結果の良し悪しがすべてなのです。

私は、スポーツもスポーツマンシップも好きではありません。当世のそれが、勝つことしか眼中になく、“敬”〔けい/=うやまい・つつしむ〕の精神も欠如しているからです。大人〔おとな〕の実社会では極度に勝つことのみが価値づけられ、子どもの教育現場では徒競争で皆が手をつないでゴールしたり、劇で出場者全員が桃太郎やシンデレラ(主役)という奇妙キテレツなる“何でも同じ主義”が跋扈〔ばっこ〕しています。わが国は、まったく“過陽”にして“中庸”(=バランス)を欠いてしまっている病的精神情況にあります

孔子の教え(儒学)も、勝つことのみを善しとはしていません。そもそも、儒学の徳目の柱が“譲〔じょう/ゆずる〕”ということです。例えば、『論語』の中に「礼射(弓の礼)」についての記述があります。

○ 「子曰く、射は皮を主とせず。力の科〔しな〕を同じくせざる為なり。古〔いにしえ〕の道なり。」(八佾3−16)

■ 孔先生がおっしゃるには、「礼射(弓の礼)では、皮(=的〔まと〕)を射貫〔いぬ〕くことを第一としない。それは、個々人の能力には強弱(=ランク)があり同じではないからだ。これは古(周が盛んであったころ、徳を尊び力を尊ばなかった時代)に行われた道なのだヨ。」(それが、今や弱肉強食の武力中心となり、礼射でも、力ばかりを尊んで皮(=的)を射貫くことを主とするようになってしまった。)

儒学は、平和主義の教えであり、歴史的にも平和な時代に「国教」として採用されてまいりました。至れるもの、2大源流思想の儒学と黄老(孔子と老子)は、“平和”の視点からもぴったりと、その主旨を同じくしているといえましょう。

ところで、私は、日本の“武道”はその精神において、儒学の教えに通ずるものがあると感じています。それは、精神の修養、徳性の涵養〔かんよう〕を目的とするものであり、相手に対する“敬”といったものです。“敬”は、“うやまい・つつしむ”ことで、人間を人間たらしめている根本的徳性です。“敬”を知ることから進歩・向上があるのです。敬し敬うことを日本語で「参〔まい〕る」といいます。武道で用いる「参った(参りました)」はここからきています。剣道(時代劇など)で、構えて向かい合っただけで「参りました」という場合をよく目にしますね。相手を敬う、相手に感服すればこそ「参った」であり、勝ち負けをいうなら「(コン)チクショウ」・「クソッ」ということになります。

また、国際競技で日本の選手の活躍を、マス・メディアが安易に讃美して「サムライが云々〔うんぬん〕 ―― 」と報じています。“サムライ〔侍〕”=武士(もののふ)は、日本における伝統的・理想的人間像です。中国の“君子〔くんし〕”、英国の“ジェントルマン〔紳士〕”に相当するでしょう。それは、“敬”に根ざしているものです(*「参る」から側〔そば〕に近づき親しみたい=「侍〔はべ〕る」・「侍〔じ〕する」)。ですから、“サムライ〔侍〕”は、当世のスポーツマンとは違うと思います。“勝てば官軍、勝てばサムライ〔侍〕”では、まことに浅薄ではありませんか。

さて、武道であった“柔道”は、東京オリンピックの時初めて五輪競技となりました。スポーツの「ジュウドウ:JUDO」となりました。その時の、名選手(金メダリスト)がオランダのアントン・ヘーシンクです。(76歳で2010年にご逝去。)そして、神永昭夫選手(故人)は日本の柔道が偉大であった時代の尊敬すべき柔道家であったと思います。偉大な柔道家お二人の戦いに関する記事があります。

―― (アントン・ヘーシンクさんの)▼「神永昭夫選手(故人)との無差別級決勝は、あの場面無しに語れない。勝利を決めた瞬間、興奮したオランダの関係者が畳に駆け上がるのを、厳しく手で制止した。自身には笑顔もガッツポーズもない。敗者への敬意と挙措に、多くの日本人はこの柔道家が「本物」だと知った▼その強さは際立っていた。勝てる者はいないと言われた。白羽の矢が立ったのが神永選手である。 「誰かがやらなければならない大役」だったと、非壮とも言える記述が公式報告書に残る▼そしてノーサイドの高貴が、この勝負にはあった。一方が「神永さんは敵ではなく仲間なのです」と言えば、一方は「私のとるべき道は良き敗者たること。心からヘーシンクを祝福しました」。素朴さの中で五輪は光っていた▼「日本に生まれた柔道が世界に広まり、オランダで花咲かせたことを祝福し・・・・」と当時の小欄は書いている。 「柔道からJUDO]への貢献は末永く続いた。思えばまたとない人物に、あのとき日本は敗れたのであろう。

(朝日新聞・「天声人語」抜粋、2010.8.30)

現代。国際的大会の舞台で、勝ってメダルの決まった日本の選手が、両手を挙げて飛び上がって喜びを現わし、負けた選手は床に崩れ落ちているという場面をよく目にします。また、かつて「ヤワラチャン」と愛称され国民的英雄となった女子柔道・金メダリストは、今、なぜか国会議員になっています。

次に、日本の国技になっている“相撲”について一言いたしておきますと。相撲には源流思想(易学)がよく取り入れられ、その影響が色濃く残っています。具体的には、陰陽」・「五行〔ごぎょう〕」・「易の八卦〔はっか/はっけ〕」などの思想です。例えば、相撲場は、□・四角の土俵(=陰/=地)に ○・丸(円)い俵(=陽/=天) から出来ています。その土俵の中で、東方〔ひがしがた〕(=陽) と 西方〔にしがた〕(=陰)の力士が戦います(「天地人和」)。そして、行司〔ぎょうじ〕のかけ声は、「ハッケヨイ!」(=八卦良い!) です。

相撲は、勝負を争うものではありますが、「心・技・体」といって、精神性が重視される世界です。現在の相撲界は、不祥事の連続で「心」の部分が忘れられ、すっかり堕落しきっている状況です。心ある人の誰もが、周知のとおりのことです。

過去の相撲界の尊敬すべき国民的ヒーローは、何といっても大横綱・双葉山です。今年、生誕100年にあたります。“木鶏〔もっけい/ 出典:『荘子』・『列子』〕”たらんと精進し、右目が不自由というハンディキャップを克服して、不滅の69連勝を記録いたしました。(双葉山については、後日、「“木鶏”と双葉山」のテーマで取り上げたいと思っています。)

勝負の世界が過度となって、勝つことのみに偏しているのは、相撲でも顕著です。その一例として、かつて、強さ(勝ち星)だけはピカ一 の外国人(モンゴル出身)の横綱が想起されます。相撲は、俵から出せば勝負は決しています。それ以上は攻撃しません。敗者が土俵の下に落ちている場合は、土俵に戻るのをいたわり、(土俵上の勝者が)手を差し伸べます。しかるに、その強い横綱は、これでもかと言わんばかりに(豪快に?)、相手を土俵下にたたき落とし勝ちを誇っていました。言動においても、何かと横綱としてのマナーや品格を欠くことが取り沙汰されていました。それでも、勝ち星が重なり優勝すると批判的な声はなくなり、むしろ讃美の調子に変わります。

そもそも、悲しいかな、その外国人横綱には武道・“敬”の精神が教えられていないのでしょう。知らないのは、無理からぬことかも知れません。“勝てば善し”のスポーツの感覚、勝ち負けの感覚しかないのでしょう。 ―― 武道・“敬”の精神を日本人選手は忘れ、外国人選手は知らないということでしょうか

最後に、私の尊敬する野球選手、王貞治選手(後に監督)について述べておきたいと思います。まずもって、108歳の天寿で亡くなられた(2010)謙虚な“偉人の母”様に敬意を表します。私の好きな言葉の一つに「家貧しくして孝子出ず」があります。王さんの“孝行”を想います。

世界のホームラン王(868本)としての王選手は、その人知れぬ努力、その成果は無論偉大です。が、その精神(仁徳)において、私は一層尊敬します。その最たる事例が次のものです。

ホームランを打つと、普通、満面の笑顔で両手を挙げてウイニングポーズをとってグラウンドを回ります。しかるに、王選手は、(ある時から)勝ち誇る様子微塵〔みじん〕もなく黙々淡々とグラウンドを回り続けました。老子の「恬淡〔てんたん〕」として、ですね。それはなぜでしょう? それは、自分がホームランを打ったということは、相手のピッチャーはホームランを打たれたということです。自分のチームの勝利は、相手のチームの敗北ということです。勝者が敗者を慮〔おもんばか〕ってのことです。 ―― 老子の平和主義・不争、易卦の【地山謙】〔ちざんけん: 謙虚・謙遜、“稔るほど頭〔こうべ〕をたれる稲穂かな”〕そのものではありませんか。この一事をもっても、【謙】徳のあるゆかしい大選手だと尊敬の念を深くするものです。

 

《 結びにかえて 》

“兆”〔きざし〕を読む。国家・社会の近未来は後生(=子ども達)の有様〔ありよう〕に窺〔うかが〕い知ることができます。

―― 日曜の電車(大阪)内の一場景。サッカー少年とおぼしき、スポーツウェアー姿の小学生8・9名とその先生(監督)らしき大人〔おとな〕を見かけました。両側の座席を占拠して、元気に(うるさく?)しゃべっていました。引率の大人も坐ってそ知らぬ態〔てい〕です。周りには、(私も含めて)立っている大人・老人がたくさんいました。よくある場景ですね。 ―― どこかおかしいスポーツマンシップではないでしょうか? “本”〔もと〕が忘れられてはいないでしょうか?

わが国は、“心の貧しさ”が顕〔あらわ〕となり、“心の時代”が唱えられてすでに久しいものがあります。徳の【蒙】〔くら〕い時代となりました。このままでは、君子の道閉ざされ【明夷】〔めいい〕の暗黒時代となってしまいます

“戦い”と“勝つことへの偏執”が、現代版の“見せ物”であるスポーツの世界をも支配しているということです。この現実を、老子や孔子といった聖人たちは、なんと言うでしょうか? その延長線上にあるものは何か、過去の歴史を眺めてみれば解かります。現今〔いま〕の、“本〔もと〕”を欠いた平和主義を標榜〔ひょうぼう〕しているわが国の有様は、私には、“理想の平和な社会に向かって、足早に後ずさりしている”ように想えてなりません。

 

研究

≪ シュヴァイツァー と 老子 ≫
―― 安岡・『知命と立命』より抜粋引用

アルバート・シュヴァイツァーは、黒人の医療救済に生涯をささげ、ノーベル平和賞を受賞いたしました。偉大なる博愛主義者シュヴァイツァーの、「老子」戦争論(非戦・不戦)に関する興味深いエピソードがあります。

それは、ヨーロッパでの第2次世界大戦が終わった時、アフリカのコンゴのランバレネ(現ガボン共和国)の病院にいたシュヴァイツァーは、その日の夜、仏訳の『老子』をひも解いて、静かにその31章 を頑味したといいます。(山室三良・中国古典新書 『老子』)

安岡正篤氏が、このことについて述べられておられます。また、J.F.ケネディ大統領の興味深いエピソードを併せて述べられておられます。引用させていただきご紹介いたします。

「 シュヴァイツァー と 老子 」
安岡 正篤・(『知命と立命』より)

アルバート・シュヴァイツァー(1875 〜 1965、フランスの医療伝道家・哲学者・神学者)は元来ドイツの人である。ドイツとフランスとの間、というよりは国境にあるシュトラスブール市の出身である。このシュトラスブールはいかにもヨーロッパの町の歴史を物語る特殊な経歴を持った都市である。ある時はドイツ領になり、ある時はフランス領になる。私がドイツからフランスへ自動車旅行をして、第一次大戦の古跡を回ったことがあるが、その時にこのシュトラスブールに寄って歓待されたことがある。その時にこのシュトラスブール市の歴史を研究している郷土史家が、「わが町は国籍を変えること六十何回・・・」と言っていた。それくらい争奪が激しかった所だ。今は第一次大戦にドイツが負けたものだから、それ以来フランス領になっている。そこでシュヴァイツァーもフランス人になっているけれども、人種はドイツ人である。非常に偉い人で、今日アフリカのコンゴのランバレネ(現ガボン共和国)というところに病院を建てて、原住民の診療に従事しながら、現代文明の批判とその救済とに心魂を傾けた著述をしている。

この人の逸話の中に、第二次世界大戦が終わって、ドイツが降伏し、これによってヨーロッパの戦争が終わったという報道を聞いた時にシュヴァイツァーは祈りを捧げている。この祈りの言葉は聖書ではなく、東洋の『老子』の中の言葉を挙げて祈ったということは有名な話になっております。

これは『老子』の中に「戦い勝ちたる者は喪に服するの礼を以ってこれに処さねばならない 〈戦勝者則以喪礼処之〉とある。「戦に勝った者は死者に対する喪に服する気持ちで戦後の処理に臨まなければならない」ということで、実にこれは偉大な思想である。徹底した人道思想である。よほどこの言葉にシュヴァイツァーは感動していたとみえて、戦いが終わった、ドイツが降伏したという報道を聞くと、彼はこの言葉を挙げて祈っている。

佐藤(元)総理(佐藤栄作。明治34〜昭和50)がまだ総理になる前、アメリカに遊んでケネディ大統領に会われた時に、その前に私が会っていろいろ話をしたことがある。その時の雑談の中にケネディ大統領に会ったら、今度の戦争についても、たとえ逆に日本が勝っていたとしても、その場合、日本の少なくも天皇は敗戦国に対してこういう心持ちをもって対されたであろうと、この老子の言葉を引用してケネディに聞かせるがよいと、私はその訳文まで知らせておいた。

ケネディ大統領は非常に忙しいので、佐藤さんに二十分とか三十分とかいう約束をして会見をしたそうです。談たまたま予定どおり終戦のことになって、東洋にはこういう哲学があるといって、彼が老子のこの言葉を言ったら、ケネディは急に態度を改めたそうです。非常に敬虔〔けいけん〕な顔になって感動したらしい。「そういうことがありますか」と言ってそれを繰り返し、それから真剣に話を始めて、約束の時間をはるかに過ぎて長時間語り合ったということを、帰って来られるとすぐに私に報告があった。

政治家もこういう教養がなければならない。やはり哲学というものが必要である補注)

《個人と集団》

そのシュヴァイツァーがこういうことを言っている。

「しかし一つのことは明瞭である。集団が個人の上に、個人が集団の上に作用するよりも強い作用を及ぼす時には、下降、堕落が生じることである

ここに個人と集団とがある。個人が集団に与える影響よりも、集団が個人に与える影響のほうが強いという場合には、どうしても堕落するというのです。

「なんとなれば、その場合は、その上に一切がかかるところの個人の偉大さ、精神的および倫理的価値性が必然に侵害せられるからである」

先述のように、人類一切の進歩とか文明・文化というものは、これは人が人の内面生活に返る ―― 自分が自分に返る ―― という、したがってどうしても個人個人の心を通じて初めて発達するのである。言い換えれば、個人の偉大さというものの上に、社会の、あるいは人類の一切がかかっているのである

科学的に言っても、いかに偉大なる発明発見というものも、これは集団で、大衆でできたためしはない。常に偉大なるある個人の研究、ある人の創造、発明発見にかかる。大衆となると「その上に一切がかかるところの個人の偉大さ、精神的および倫理的価値性が必然に侵害せられる」。大衆になると破壊されてしまう

   ――― 以下 略 ―――

補注) 西洋文明の源、民主政治の源は、古代ギリシアです。古代ギリシアの理想的指導者(為政者)像は、(例えばプラトンによれば)当時の最高の学問=“哲学”を修めた人です。“哲人”です。更に“調和の美”を求めましたので、この哲人は同時に、肉体も鍛えられており(≒鉄人?)、更に芸術にも造詣〔ぞうけい〕の深いことが求められました。


■2014年10月26日 真儒協会 定例講習 老子[46] より


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老子道徳経: 《 老子の“現実的平和主義” に想う 》 その1

コギト(我想う)

《 老子の“現実的平和主義” に想う 》

《 はじめに 》

学生時代に鑑〔み〕た「ウオータールー」という映画。エルバ島から脱出した怪物ナポレオン(1世・ボナパルト、Napolėon Bonaparte,1769〜1821) が力を盛り返し、やがてウオータールー(ワーテルロー)でイギリス・プロイセン・オランダ連合軍と激突。大激戦の末、連合軍が、当時ヨーロッパ最強であったフランス陸軍を破りナポレオンを完全に失脚させます。

そのラストシーンを、今でも鮮烈な印象で記憶しています。イギリス軍司令官ウェリントン(Wellington,1769〜1852)が、数多〔あまた〕の屍〔しかばね〕累々たる戦場を見回って、沈鬱な面持〔おもも〕ちで 「敗者の次に惨たるものは勝者である ・・・ 」 とつぶやくのです。

衆〔おお〕くの人命が失われる戦争に勝者の喜びなどないということ、(勝者・敗者)どちらも惨〔さん〕であるということでしょう。

私は戦後生まれですので、直接の戦争体験はありません。けれども、老子の平和主義や反戦思想を研究・考察するにつけ、まずもってこの映画シーンの記憶が蘇ってまいります。

(cf.負けの次に悪いのは“大勝” ―― 民主党&自民党“大勝”の後は気を引き締めなければ・・・ )

 

《 老子の平和主義/反戦思想 》

『老子(老子道徳経)』 は、“道”(【第1章】)に始まり “不争”(【第81章】)に終わっています。

『老子』・【第31章】(と【第30章】)を中心に説かれている、老子の現実味のある(生半可道徳でない)平和主義思想、流動性のある(融通のきく)反戦主義に想いますに。まず、「武器(=兵器)というものは、不吉な(殺人の)道具」と明言し、その発現(=使用)としての戦争を否定しています。戦争を忌むべき凶事として、葬儀の礼(作法)に準ずることが述べられています。

ズバリ軍事を直截〔ちょくせつ〕説いているので、兵(法)家の文章の紛れ込みと考えるムキもあります。が、主旨はまったく老子の思想に反するものではありません。そもそも、(戦国の当時にあって)兵(法)家の戦争思想そのものが、ただ単に戦〔いくさ〕に勝つことを説くものではなく、戦いの哲学・人間学を説くものなのです。例えば ――。

兵書 『三略』: 「夫れ兵は、不祥の器、天道これを悪〔にく〕む。已むを得ずしてこれを用うるは、是れ天道なり」 とあります。有名な孫武の『孫子』 にも、「百戦百勝は善の善なるものにあらず」/「戦わずして人の兵を屈するは、善の善なるものなり」(謀攻編1)と、戦わずして勝つことが明言されております。

それにもかかわらず、「やむを得ず武器を用いる場合(=戦争をする場合)」を想定しています。老子の反戦思想の複雑・デリケートな側面です。当時、数百年来続いている“戦国時代”であることを鑑〔かんが〕みれば、いたし方のない想定でしょう。私は、むしろこれこそが活きた反戦思想に想われます

他が攻めてきた場合にはこれに応じて立つべし ―― これは儒学の思想も同じだと思います。現在の世界で、想起されます事例が “永世中立国スイス”です。自国は、国民自身で守っています。国民皆兵ですね。国民は、非常時に備え(3日分の食料を蓄え)家の中に銃火器を蔵〔かく〕し持っています。

以前、こんなエピソードを聞いたことがあります。スイス留学していた日本の若者たちが、スイスの友人宅を訪れた時、その友人がベッドの下から銃を取り出し見せてくれました。日本の若者たちは驚きました。それに対して、スイスの若者は「それじゃ、君達の国では敵が攻めてきた時どのようにして守るのか?」 と聞かれて誰も何とも返答できなかったそうです。

次に、やむを得ず武器を用いる場合には、「恬淡と用いるのが第一です。戦いに勝っても(勝利を)賛美しないことです。」 と主張しています。そして戦後処理についても、戦いに勝っても、葬礼〔葬儀の礼〕の方法(きまりごと)によって、これ(=戦後)を処理するのです と主張しています。

つまり、戦勝者は喪に服するのと同じ心がけでこれに臨めということです。なんと偉大なる精神、偉大なる人道主義の顕れではありませんか。他、「兵を以て天下に強くせず」(武力によって天下に強さを示すことはない)/「敢〔あ〕えて以て強きを取らず」(強さを示すようなことはしない) (【第30章】)なども同様の主張です。

 

《 老子とシュヴァイツァー&トルストイ 》

“アフリカの聖者“と呼ばれたアルバート・シュヴァイツァー (Albert Schweitzer,1875〜1965)は、フランスの神学者・哲学者・医師・音楽家。30歳の時、赤道アフリカ地方の黒人窮状を知り、その医療奉仕に一生をささげようと志しました。

再び大学の学生となり医学を修め、アフリカのコンゴのランバレネ(現ガボン共和国)に病院を建て、90歳の生涯を閉じるまで黒人の医療救済とキリスト教伝道に生涯をささげました。

1952年・ノーベル平和賞を受賞、1957年・原水爆実験禁止をアピールしました。

シュヴァイツァーの思想の根本理念が “生命への畏敬” です。これこそが、文化を頽廃から救い、人類に理想を与える根本精神であると考えました。

「―― (道徳の根本原理は) すなわち、生を維持し促進するのは善であり、生を破壊し生を阻害するのは悪である。」(『文化と倫理』)

この偉大なる博愛主義者シュヴァイツァーの、「老子」・戦争論(非戦・不戦)に関する興味深いエピソードがあります。

それは、ヨーロッパでの第2次世界大戦が終わった時、ランバレネの病院にいたシュヴァイツァーは、その日の夜、仏訳の 『老子』 をひも解いて、静かにその 【第31章】 を頑味したといいます。(山室三良・中国古典新書 『老子』)

安岡正篤氏が、このことについて「シュヴァイツァーと老子」の中で、述べられておられます。また併せて、J.F.ケネディ大統領の本章に関する興味深いエピソードを述べられておられます。 ( → 後述  研究  参照 )

次に、『戦争と平和』 で知られる レフ・トルストイ (L N Tolstoi,1828〜1910)と老子の繋がりについて一言しておきましょう。

トルストイは、ロシアの世界的文豪であり思想家です。“神の摂理”・“神の意思”にもとづいた理想主義的・人道主義的性格がその思想の特徴です。

トルストイも、老子を非常に高く評価しています。トルストイの晩年の民話的寓話〔ぐうわ〕作品イワンのばかは、老子の思想から大きな影響を受けて書いた作品です。

老子の“愚”・“愚の政治”・“不戦”・“戦わずして勝つ”・“足るを知る”などをお話にしたもので、老子の世界そのものです。

お話の中の「愚直な馬鹿」は老子が理想とした(道の体現である)赤ん坊のように純朴な人々であり、指導者(=国王イワン)は“愚徳”の豊かな“素〔そ〕”・「樸〔ぼく・あらき〕」(§28章)の人に他なりません。

そして、この“不戦の思想”を実践したのが、“インド独立の父”と呼ばれた政治家マハトマ・ガンジー(1869−1948)でしょう。

無抵抗主義・非暴力運動で民衆を指導し、イギリスからインドの独立を勝ち取りました。ガンジートルストイを尊敬しその影響を多大に受けていますので、間接的にも、ガンジーは老子思想の実践者であったともいえましょう。

なお、トルストイは、老子の(やむを得ない時には武器を用いるという)反戦思想のデリケートな部分については、これは老子本来の思想ではないと強く主張しています。

くわえて、『老子』に 「報怨以徳 (怨みに報ゆるに徳を以てす。)」(§63章) とあります。『論語』には、「以直報怨、以徳報徳 (直〔なお・ちょく〕きを以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ。)」(憲問第14−36) とあり、孔子の現実味ある通用可能の立場を示しています。現実的人間の“情”を重視する立場です

この、老子の理想的立場は宗教において、キリスト教(イエス)と仏教(仏陀/釈尊)は同じ立場です。そして、トルストイも、「悪に報いるに善をもってせよ、悪に反抗するな、そして総〔すべ〕てのものを許せ。」 と、言を同じくしているのです。

 

《 安岡正篤・「シュヴァイツァーと老子」 》

安岡正篤先生は、『シュヴァイツァーと老子』の中で、「政治家もこういう教養がなければならない。やはり哲学というものが必要である。」 と結ばれています。

歴代総理の指南役であった碩学〔せきがく〕、安岡先生の慧眼〔けいがん〕・深意は当然として、その安岡先生をブレーンとも師とも敬し・信頼して、その言に従った佐藤(後)首相(後年ノーベル平和賞受賞)は立派であることを想います。

そして、若き人龍の如き大統領 J.F.ケネディ(暗殺されて後は、アメリカの伝説的英雄となりました)が、老子の言葉を聞いた時のエピソードは、「流石〔さすが〕に ・・・ 」 と感じ入りました。補注)

ところで、西洋文明の源、民主政治の源は、古代ギリシアです。古代ギリシアの理想的指導者(為政者)像は、(例えばプラトンによれば)当時の最高の学問=“哲学”を修めた人です。“哲人”です。

更に“調和の美”を求めましたので、この哲人は同時に、肉体も鍛えられており(≒鉄人?)、更に芸術にも造詣〔ぞうけい〕の深いことが求められました。

この結びの言葉のように、確かに偉大な指導者・政治家は、偉大な思想家・哲学者であります。私は、そういう思想哲学のある人が指導者・政治家にならなければなりませんし、また民衆によって選ばれなければならないと、深く想います。

補注) ≪ キューバ危機 ≫
J.F.ケネディは、第二次世界大戦後、最も戦争(の危機)に直面した大統領です。“キューバ危機”(1962.10.22: キューバ沖海上封鎖)で、米・ソが核戦争の瀬戸際に立ちました。もし戦争となれば、犠牲者は米・ソ、欧州で 2億人を超える衆〔おお〕きになったとも言われています。人口に膾炙〔かいしゃ〕しているケネディ大統領のことば、―― 「人類は戦争に終止符を打たねばならない。さもなければ、戦争が人類に終止符を打つ。」は、このギリギリの実体験のもとづく重たいことばなのです。

 

《 (空想的)平和主義/反戦 》

わが国の“日本国憲法”において(3つの)柱として、“永久平和主義(戦争放棄)”は唱えられています。従って、言葉は誰しもが聞いているわけです。が、しかし、“日本国憲法”は理想主義の憲法です。

近代民主主義の精神として平和主義が具体的に立論されたのは、1625年 グロチウス(1583〜1645)の 『戦争と平和の法』 に始まるとされています。そして、ホッブズ(1588〜1679)をはじめ諸賢人・哲人をへて、1795年 カント(1724〜1804)の 『永久平和のために』に到り組織立ったものになってまいりました。

然るに、私はそもそも、四大聖人・老子の時代から、平和への想い願いは、“平和思想”としてしっかりと優れたものがあると言ってよいと考えています

それにもかかわらず、いっこうに人間世界から争い・戦争はなくなりません。否、むしろその規模・内容(武器)において、拡大の一途を辿っています。石ころ・コン棒から刀槍、銃火器、そして核兵器へと。今や、地球は、生命そのものが何度も死滅し、地球そのものが破壊されるほどの核兵器を持つに至っています。

戦争をなくし、争いのないユートピア社会を造るという課題は、宗教も哲学思想も、夢に過ぎないことを“歴史”が明確に示しています。人間というものは、先哲による平和への偉大な思想・理論を持ちながら、いっかな実践を伴わぬということです。

「空想的社会主義」という語がありますけれども、“空想的平和主義/反戦主義”とでも名付けられそうなものが跋扈〔ばっこ〕しているのが現実です。 ―― 根拠のない楽観(信頼)主義・他力本願の“平和”、かけ声ばかりの“平和”・“反戦”は、絵空事〔えそらごと〕でしかありません。

私は、それは“本〔もと〕”が誤っているからだと考えています


■2014年9月28日 真儒協会 定例講習 老子[45] より


(この続きは、次の記事に掲載させて頂きます。)


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