儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

孔子の弟子たち

第二十九回 定例講習 (2010年3月28日)

孝経 ( 喪親章 第18 )  執筆中

§.
“子曰く、
《大意》
孔先生がおっしゃいました。「

● 服喪〔ふくも〕の期間 についての孟子の考え方

○ 斉の宣王、喪を短くせんと欲す。公孫丑曰く、「朞〔き:一年〕の喪を為すは、猶已〔や〕むに愈〔まさ〕れるか」 と。 孟子曰く、「是れ猶、或る人其の兄の臂〔ひじ〕を紾〔ねじ/=捩〕るに、子 之に謂いて、姑〔しばら〕く徐徐にせよと爾云〔しかい〕うがごとし。亦〔また/ただ =唯〕之に孝弟を教うるのみ」と。 | 王子に其の母死する者有り。其の傅〔ふ/もりやく〕は、之が為に数月の喪を請う。公孫丑曰く、「此〔かく〕の若〔ごと〕き者は何如〔いかん〕ぞや」と。曰く、「是れ之を終えんと欲するも、得可〔う・べ〕からざるなり。一日を加うと雖〔いへど〕も、已むに愈れり。夫〔か〕の之を禁ずる莫〔な〕くして為さざる者を謂うなり」 と。
(『孟子』・尽心章句上)

《 大 意 》
斉の宣王は、(父母に対する3年の喪は長過ぎるので、1年に)喪を短くしたいと思いました。公孫丑は、(宣王に頼まれて、孟子に)尋ねました。「(3年の喪を)1年の喪にするのは、まったく止めるよりは勝〔まさ〕っているのではありませんか。」 孟子がおっしゃるには、「これは、例えば、ある人が兄の腕をねじ上げているとして、お前がこの者に向かって、まあまあ徐徐にねじ上げるのがよかろうと言うようなものだ。(そうではなく、ねじ上げるのが悪いと知ったら)孝弟の道を教得て、そのようなことは止めさせればよいのだ。(1年でもやらないよりマシなどと言ってはいかん)」 と。
(ところで、宣王の妾腹の)王子でその母(側室)の亡くなったものがいました。その王子の守役〔もりやく〕が、(王子の心中を察して)王子のために数月の喪につくことを王に請いました。この事について、公孫丑は、「こういうのはどうでしょうか」と尋ねました。 孟子がおっしゃるには、「こういう場合は、3年の喪を終えたいと思っても、(妾腹の子なので)できないのだ。仮に1日多く行うだけでも、止めて行わないより勝っているのだ。前に言ったのは、(3年の喪を)誰もさし止める者はないのに、自ら行わない者のことを言ったのだ」 と。

 

― ― ―

 

論語 ( 孔子の弟子たち ―― 子 貢 〔2〕 )

《 『論語』原章句 》 

○ 子、子貢に謂いて曰く、「女〔なんじ〕と回と孰〔いず〕れか愈〔まさ〕れる。」対〔こた〕えて曰く、「賜や何ぞ敢えて回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を聞いて以て二を知 る。」 子曰く、※「如〔し〕かざるなり。吾れと女と如かざるなり」と。 
(公治長・第5−9)

【 子謂子貢曰、女與回也孰愈。 対曰、賜也何敢望回。回也聞一以知十。賜也聞一以知二。 子曰、※弗如也。吾與女弗如也。 】

※A)「吾れと女と如かざるなり」 
(わしもお前と一緒で及ばないよ :古注 )

B)「吾れ女に如かざるを与〔ゆる〕さん」 
(わしはお前が顔回に及ばないといったことを認め許そう :新注)

C)「吾れ女に与〔くみ〕す。如かざるなり。」 
(わしもお前と同じだ。及ばないよ。)

 

○ 衛〔えい〕の公孫朝、子貢に問いて曰く、「仲尼は焉〔いずく〕にか学べる」と。子貢曰く、「文武の道、未だ地に墜ちずして人に在り。賢なる者はその大なる者を識〔しる〕し、賢ならざる者はその小なる者を識す。文武の道有らざること莫〔な〕し。夫子焉にか学ばざらん。而〔しこう〕して亦た何の常の師か之れ有らん」と。 
(「子張・第19−22」)

【 衛公孫朝、問於子貢曰、仲尼焉学。 子貢曰、文武之道、未墜於地在人。賢者識其大者、不賢者識其小者。 莫不有文武之道焉。夫子焉不学。而亦何常師之有。 】

 

盧小考

司馬遷は、『史記』の中で、『論語』の子貢にかかわる多くの記述からピックアップして紹介していると考えられます。

●「汝與回也孰愈 ―― 頭がキレ弁(口)がタツ 子貢には、他人〔ひと〕を評し比べるという性癖・趣味とでも言えそうなものがあったように思います。「問曰」とシンプルに書き始められていますが、そんな子貢の口ぐせをよくよく承知している孔子が、くつろいでいる時に(半ば戯れに)、「おまえと顔回とでは、・・・ 」と尋ねたのではないでしょうか?

顔回の「一を聞いて以十を知る」ということの意味は、1 に対して10倍というより、1つの端緒で全体を把握するということでしょう。十全を知る、あるいは是非曲直の結論を知るの意ですまた、どの学者先生も書いていないかと思いますが、私は、易学の真髄である“幾を知る”に近いことだと考えています。 『論語』のなかに、

「子曰く、憤〔ふん〕せずんば啓せず、悱〔ひ〕せずんば発せず。一隅〔いちぐう〕を挙げて(これに示し)、三隅を以て反〔か〕えらざれば、則ち復〔ま〕たせざるなり。」 (述而・第7−8)

【 子曰、不憤不啓、不悱不発。 挙一隅(而示之)、不以三隅反、則不復也。 】

という、孔子の 啓発教育 を述べた箇所があります。その典型、天才である顔回に対してならではの子貢の評でしょう。子貢の炯眼〔けいがん〕、人物評もさすがといえましょう。

啓発教育、易の幾を感じ機微〔きび〕から全体を知る。これが、現今〔いま〕の公教育(戦後の公教育)が失ってしまった教育の要〔かなめ〕です。(これらについては、改めてブログで述べたいと思っています。)

一方子貢は、「一を聞いて二を知る」程度です、とは謙遜しているかに捉えがちです。が、一を聞いて二を知るとは、すごいことでしょう。すごい自負でもあります。私は、学生にもよく言うのですが、一を聞いて(先生から教えられて)その一を理解できれば、定期テストでは満点に近いということですね。「諸君は、せめて一を聞いて2分の1を、出来れば0.6とか0.7位は知ってほしいものです。」 と。

加えて、孔子が子貢の才智・プライドを好意的に理解して気を使っているようにも思えます。(顔回と共に)子貢に一目(半目?)おいているのではないでしょうか。 孔子が「弗如也、吾與女弗如也」といったことで、子貢の立つ瀬もあるというものです。後述しますが、「女器也・・・湖洩蕁(公治長・第5−4)と子貢を(器量人に)評する場面も登場します。

 

◆ “1を聞いて10を知る” と “1を聞いて2を知る” に想う

思いつきの私見ですが。 ―― “知る”方法には、学知”と“覚知があります。“学知”は、一般的な学び。才(知能・技能)の学であり、小人タイプの人の“知る”です。“覚知”は、悟り(=覚)の世界です。徳の学であり、君子タイプの人の“知る”です。我国の幕末・明治維新期の、勝海舟と西郷隆盛がそのよき対照といわれています。

“学知”の世界は、1と2・1と3というように比べられる差ですが、覚知”の世界は悟っているか否か、君子であるか否か、1か0〔ゼロ〕か で大いなる差であるといえます

(自分自身は悟っていなくても、例えば孔子や釈尊やイエス様が悟っているであろうことはわかるように) 子貢は、賢い人ですので、顔回が悟りの境地(覚知)にある人であることを知っていたのではないでしょうか。それで、“すべて”という意味で「10を知る」と表現し、自身は学知であるから1が2であるくらいのレベルだと表現したのかもしれません。そしてまた、孔子もそのことを同じように解して、同調したのかもしれません。

 

◇ 「一を聞いて以て二を知る」 ※ 補足)

(昔の大阪を良く知る)受講生から次のようなことを聞きました。大阪商人の間で、“一を聞いてニを知れ”ということがよく言われ、代々教え込まれたそうです。昭和期のことですが、ルーツはもっと古い(例えば江戸期。石田梅巌の石門心学など)かも知れません。『論語』・子貢の影響でしょうか? 少なくとも、経済人、ビジネスマンとしての同じ意図で一致しているわけではあります。

 

●「文武之道」 ―― 学問と武道のことと勘違いしないように。周王朝建国の基礎を創った文王と、実際 殷を滅ぼし周を建国した武王のことです。(その武王の弟が周公旦)
孔子(儒家)が理想とし目指したものが、(これら)聖王の仁と礼の徳が実現した社会(=周の良き礼楽の伝統の継承と発展)なのです。

●「陳子禽問子貢曰 ―― 陳子禽(子貢の弟子)が子貢に、いかに(How?=手段や方法)学ぶかについて、孔子の学問についての姿勢を尋ね、子貢が答えたものです。
いかに学ぶか、ということを考えますと、 1)師・人に学ぶ  2)書物に学ぶ  3)天に学ぶ の3つが考えられます。孔子には他人みな師でした。あらゆる人から、あらゆる場所(機会)で学びました。そして、1)・2)・3)すべてで学び、かつ生涯学び続けた人であったといえましょう。

 

( つづく )

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本学   【司馬遷と『史記』 ― 5 】  

 

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易経   ( by 『易経』事始 Vol.2 ) & ( by 「十翼」 )

 

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第二十八回 定例講習 (2010年2月28日)

孝経 ( 喪親章 第18 )  執筆中

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論語 ( 孔子の弟子たち ―― 子 貢 〔1〕 )

§.はじめに

孔子門下を儒家思想・教学の本流から眺めれば、顔回と曽子を最初に取り扱うのが良いかと思います。が、『論語』を偉大な 社会・人生哲学の日常座右の書としてみる時、子路と子貢とはその双璧といって良いと思います。個性の鮮烈さ、パワー(影響力)において、孔門3.000人中で東西両横綱でしょう。実際、『論語』に最も多く登場するのが子路と子貢です。(後述の)『史記』・「仲尼弟子〔ちゅうじていし〕列伝」においても最も字数が多いのは子貢、そして子路の順です。

さて、子貢(BC.520〜BC.456)は字〔あざな〕です。姓は端木、名は賜〔し〕。衛〔えい〕の出身で裕福な商人の出とされています。四科(十哲)では、宰与〔さいよ〕と共に「言語」に分類されています。孔子との年齢差は、31歳。

孔門随一の“徳人”が俊英・顔回なら、孔門随一の“才人・器量人”が子貢でしょう。口達者でクールな切れ者。そして特筆すべきは、商才あり利財に優れ、社会的にも(実業家として)発展いたしました。清貧の門人の多い中、リッチ・Rich!な存在です。孔子とその大学校(※史上初の私立大学校ともいえましょう)を、経済的にも強力にバックアップしたと思われます。今でいう理事長的存在(?)であったのかも知れません。そのような、社会的評価・認知度もあってでしょう、“孔子以上(の人物)”と取り沙汰されもし、その風評を子貢自身が打ち消すという場面が幾度も『論語』に登場します。

なお、孔子の没後中心的門人たちは(最長の服喪期間である)3年の喪に服しました。子貢は一人、更に3年喪に服し墓を守ったと伝わっています。

 

――― ここで一言を呈しておきたいと思います。

日本は、今、経済しかない国です。もともと、広い国土も豊かな天然資源もありません。“人”と“経済”しかありません。その“人”と“経済”も、実に心もとないものに堕しています。私は、常々易卦の「地火明夷」の状態へと進行していると感じています。

“経済大国日本”、“21世紀は日本の時代”などといわれた、虚栄の時代も一時はありました。エコノミック・アニマル(はてはエロティック・アニマル)と蔑称されて数十年にもなります。金権亡者・拝金主義・唯物(モノ)的価値観 ・・・ 現今はもっとひどい状態に堕〔お〕ちています。かつて、開国・維新期、“東洋の徳”・善き日本人像として、世界から 「敬」されたものは歴史の彼方に消滅・忘却されています。“古き善きもの”となり果ててしまいました。

現在(2009)、「100年に1度の不況」などと、絵空事がまことしやかに報じられウワついている社会・経済状況です。平成の御世、日本経済と経済人のあり方、その未来が問われています。

明治期、「右手に算盤〔ソロバン〕、左手に『論語』」をモットーに 500余の会社を設立して近代日本経済の発展に貢献した 渋沢栄一氏。昭和期、“天(道)”に学び「経営の神様」と呼ばれた“君子型実業家”・松下幸之助氏をはじめ立志伝中の人々等々。近い過去に、お手本とすべき経済人はいます。

今こそ、(資本主義)経済の発展と儒学との連関について真剣に学ぶ時です。これが次代を啓〔ひら〕く “キー〔鍵〕”となりましょう。

子貢は、『論語』における“経済人(経済的人間)”です。経綸・経営に関わる多くの人にとって、子貢の文言は珠玉の示唆と道標〔みちびき〕になると思います。 ―― まずは、子貢に学べ!です。

 

○ “端木賜〔たんぼくし〕は衛の人、字は子貢、孔子より少〔わか〕きこと三十一歳。子貢は利口 巧辞なり。孔子常に其の弁を黜〔しりぞ〕く。 | 問うて曰く、「汝と回と孰〔いず〕れか愈〔まさ〕れる」と。対えて曰く、「賜や何ぞ敢て回を望まん。回や一を聞いて以て十を知る。賜や一を 聞いて以て二を知る」と。 | 陳子禽〔ちんしきん〕子貢に問いて曰く、「仲尼は焉〔いずく〕にか学べる」と。子貢曰く、「文武の道未だ地に墜ちずして、人に在り。賢なる者はその大なる者を識〔しる〕し、賢ならざる者はその小なる者を識す。文武の道有らざること莫〔な〕し。夫子焉にか学ばざらん。而〔しこう〕して亦た何の常の師か之れ有らん」と。” 
( 『史記』・仲尼弟子〔ちゅうじていし〕列伝 第7 )

《 大 意 》
端木賜は衛国の人で、字は子貢、孔子より三十一歳年少でした。子貢は口達者で言葉巧みでした。孔子はよくその多弁をたしなめたものです。
孔子が(ある時)、子貢に尋ねました。「お前と顔回とではどちらが優秀だろうかね」と。子貢はお答えして言いました。「わたしなど、どうして顔回を望めましょう(及べましょう)。回は一を聞いて十を(全体を)さとりますが、わたしはせいぜい一を聞いて二がわかる程度です。」と。
(またある時)陳子禽が子貢に「仲尼(=孔子)はどこで学んだのですか」と尋ねました。子貢は言いました。「周の文王〔ぶんのう〕・武王の道(礼楽の伝統)は、まだ廃れきってはいないで、人びとの中に伝わっています。賢く優れた人はその大事なところを覚えていますし、賢くなく優れていない人でもその小さい枝葉の部分は覚えています。文王・武王の道のないところはないのです。ですから、孔先生は、どこへいっても誰からでも学ばれました。別にきまった(特定の)師などはなかったのです」と。

 

( つづく )

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本学   【司馬遷と『史記』 ― 4 】 

 

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易経   (  by 「十翼」 序卦伝 [3]  )

 

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第二十七回 定例講習 (2010年1月24日) 前編

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孝経  ( 事君章 第17 )

 §.事君章(君に事〔つか〕うるの章)は、これまでが専ら上に立つ者の心得が説かれているのに対して、臣下としてのあるべき心得を説いています。第1章の「夫〔そ〕れ孝は、親に事うるに始まり、
君に事うるに中し、身を立つるに終わる。」に基づいています。

“子曰く、「※君子の上〔かみ〕に事〔つか〕うるや、進んでは忠を尽くさんことを思い、退いては過〔あやまち〕を補わんことを思う。 |その美を将順〔しょうじゅん〕し、その悪を匡救〔きょうきゅう〕す。故に上下能く相親しむなり。 |詩に云う、『※心に愛す。 遐〔なん〕ぞ謂〔つげ/いわ〕ざらん。中心之を蔵〔ぞう/よみ〕す。何〔いず〕れの日か之を忘れん』と。”

《大意》
孔先生がおっしゃいました。「智徳兼備(あるいは高位高官)の君子が、主君にお仕えするにあたっては、(役所に)登庁してはベストにまごころを尽くして仕えることを心に思えよ。退庁して一人になってからも、如何にすれば主君の過失欠点を補うことができるかに思いを巡らせよ。(四六時中、主君よかれしの事を思い考えよ。) | 主君の長所美点が大いに発揮できるように助け、それに従うようにせよ。主君に短所欠点があれば、それを正しその過ちを補い救うようにせよ。このようにしてこそ、主君と臣下との間は相互に親しむようになるのだ。 | 『詩経』 (小雅・隰桑〔しつそう〕之篇)にもあるではないか。『ほんとうに心の底から主君(相手)を敬愛しているのなら、どうして申し上げずに(諫めないで)居られましょうか。また、心の中に主君を思うまごころがあるのだから、いついかなる場合でも忘れることはないのです』 と。」


 ※「君子」: 君子には、概ね次の3つの意味があります。
        1)智徳が立派に身に付いた人 (知徳兼備の教養人)        
        2)そのような人物になろうと(学問修養に)志して努力している人
        3)高い地位にある人           ・・・ほか 為政者の意
     ここの場合、1)の智徳兼備の教養人 か 3)高位高官をさすと思われます。

 cf.君子 ←→ 小人〔しょうじん〕(徳の無い者、地位の低い者。君子の対義語の位置付けです。
  なお、東洋思想では 聖人 ー 君子 − 大人〔たいじん〕 − 小人 − 愚人 と
  類型立てています。

 ※「心平愛矣」: 
   1)“愛を心にす”とも読めますが、 2)「心」の字義を強めるために、
   倒置法の形を取ったと考えられます。“心に愛す”。

 ※「遐不謂矣」: 
   「遐」〔なんぞ/いずくんぞ〕は、 1)「何」の字と同音で古くは相通じていました。
   この場合「謂」は「告ぐ」の意。 2)「遐」を「遠」と解釈する立場では、
   「謂」は〔い〕うで “(退官して主君と離れても)遠しと謂わず” の意。
 

論語  ( 孔子の弟子たち ―― 子 路 〔3〕 )

6) 孔子に愛された子路 ―― 『孔子家語』にみられる子路の別の一面

○ 子路、孔子に見〔まみ〕えて曰く、「“重きを負ひて遠きを渉〔わた〕るときは、地を択ばずして休み、家貧しくして親老ゆるときは、禄を択ばずして仕ふ”と。昔者〔むかし〕、由や二親に事〔つか〕へし時、常に藜カク〔れいかく〕の実を食らひ、親の為に米を百里の外に負へり。 
親没して後、南のかた楚に遊ぶとき、従車百乗、積粟万鐘〔せきぞくばんしょう〕、シトネ〔しとね〕を累〔かさ〕ねて坐し、鼎〔かなえ〕を列ねて食らふ。藜カクを食らひて、親の為に米を負はんことを願ひ欲すれども、復た得べからざるなり。枯魚索〔なわ〕を銜〔ふく〕むとも、幾何〔いくばく〕か蠹〔と〕せざらんや。二親の寿、忽〔こつ〕として隙〔げき〕を過ぐるが若し」 と。
孔子曰く、「由や親に事ふるに、生事には力を尽くし、死事には思ひを尽くす者と謂ふべきなり」 と。

《大意》
 子路が孔先生にお目にかかって言いました。「(ことわざにもありますように)“重い荷物を背負って遠くへ行く時には、その場所を選ばずに休憩しますし、家が貧しくて親が年老いているときには、禄高をえり好みしないで仕官するものだ”といいます。以前、私が両親に仕えていた時は、(仕官できず貧しかったので)いつも、あかざと豆の粗食で暮らしていましたが、両親のためには米を100里も離れた遠い所から背負って来たものでした。
親が亡くなった後、南方の楚に行きました。そして、車100台を従え、貯えた穀物(扶持米〔ふちまい〕)は量りきれないない程で、敷物を何枚も重ねて座り、鼎(=ナベ)を並べて食事をするという豪華な暮らしぶりでした。(その時になって)粗末な食事をして、親のために遠く米を運んでいきたいと願っても、二度とできるものではありませんでした。 (ことわざにもありますように)魚の干物は、縄でぶら下げていてもいつの間にか腐ってしまう(久しく保つことは難しい)のです。両親の寿命は、走り過ぎる馬を戸の隙間から垣間見るように、あっという間に尽きてしまいました。」 と。
そこで孔先生は、「由よ、おまえは親に仕えるにあたって、存命中には出来る限りのことをして仕え、亡くなってからも哀慕の想いを尽くして仕えた者といえるね。」とおっしゃいました。
 (『新釈漢文大系・孔子家語』・巻第2 観思第8/明治書院 参照・部分引用)  

「白駒 隙を過ぐ」 =光陰矢の如し(時間や人生がたちまちのうちに過ぎること)

※子路の情味ある一面と、その孝心の篤さをたたえる孔子の想いが表れている一節です。私も、幼少のみぎり母から、「親孝行 したいときには(したい時分に) 親はなし」(他“いつまでも あると思うな 親とカネ”) の言葉を教えられました。馬齢を重ねて今、忸怩〔じくじ〕たるものがあります。
因〔ちな〕みに、高齢社会・当世気質〔かたぎ〕でこの川柳をもじって 「親孝行 したくないのに 親がいる」 との話を語られた上人〔しょうにん〕の講演を記憶しています。

研究

 私は、子路の人間像(と孔子の人間像)を『論語』そのものより、中島 敦の文学を通じて知りました。それは、中学時代にまで遡ります。青少年期の鮮烈な印象は、長じてなお忘れず、否むしろベースとなっているように思います。最後に、『弟子』 の冒頭と終わりの部分の一部を引用して結びたいと思います。

・・・・・・・  中島 敦 『弟子』 (旺文社文庫 引用)  ・・・・・・・

 魯の卞〔べん〕の遊侠の徒、仲由、字〔あざな〕は子路という者が、近ごろ賢者の噂も高い学匠・陬人〔すうひと〕孔丘を辱めてくれようものと思い立った。似而非〔えせ〕賢者何ほどのことやあらんと、蓬頭突鬢〔ほうとうとつびん〕・垂冠・短後〔たんこう〕の衣という服装〔いでたち〕で、左手に雄ケイ〔=鶏 けい/にわとり〕右手に牡豚を引っさげ、勢い猛に、孔丘が家を指して出かける。ケイを揺すり豚を奮い、かまびすしい脣吻〔しんぷん〕の音をもって、儒家の絃歌講誦の声を擾〔みだ〕そうというのである。          ・・・・・  中 略  ・・・・・          顔を赧〔あか〕らめ、しばらく孔子の前に突っ立ったまま何か考えている様子だったが、急にケイと豚とをほうり出し、頭をたれて、「謹んで教えを受けん」と降参した。単に言葉に窮したためではない。実は、室に入って孔子の容〔すがた〕を見、その最初の一言を聞いた時、ただちにケイ豚の場違いであることを感じ、己とあまりにも懸絶した相手の大きさに圧倒されていたのである。 ※高根 注)
 即日、子路は師弟の礼をとって孔子の門にはいった。

                 ――― 中 略 ―――

 子路は二人を相手に激しく斬り結ぶ。往年の勇者子路も、しかし、年には勝てぬ。しだいに疲労が加わり、呼吸が乱れる。子路の旗色の悪いのを見た群衆は、この時ようやく旗幟〔きし〕を明らかにした。罵声が子路に向かて飛び、無数の石や棒が子路の身体に当たった。敵の戟〔ほこ〕の先端〔さき〕が頬をかすめた。纓〔えい〕(冠の紐)が断〔き〕れて、冠が落ちかかる。左手でそれを支えようとしいたとたんに、もう一人の敵の剣が肩先に喰い込む。血が迸〔ほとばし〕り、子路は倒れ、冠が落ちる。倒れながら、子路は手を伸ばして冠を拾い、正しく頭に着けて素早く纓を結んだ。敵の刃の下で、まっ赤に血を浴びた子路が、最後の力を絞って絶叫する。
 「見よ! 君子は、冠を、正しゅうして、死ぬものだぞ!」

 全身膾〔なます〕のごとくに切り刻まれて、子路は死んだ。

 魯にあってはるかに衛の政変を聞いた孔子は即座に、「柴〔さい〕(子羔〔しこう〕)や、それ帰らん。由や死なん」と言った。はたしてその言のごとくなったことを知った時、老聖人は佇立〔ちょりつ〕瞑目することしばし、やがて潸然〔さんぜん〕として涙下った。子路の屍〔しかばね〕が 醢〔ししびしお〕※注) にされたと聞くや、家中の塩漬類をことごとく捨てさせ、爾後、塩はいっさい食膳に上さなかったということである。 

※原文注) 「ししびしお」は、肉などを塩づけにして製するもの。
         ここでは、人体を塩づけにする刑。

※高根・解説 注) 冒頭部:子路は会う前、孔子を「似而非〔えせ〕賢者何ほどのことやあらん」、と思っています。子路の案に相違して、孔子は青白いインテリではなく、堂々たる体格で(2m以上あったとも言われています)、腕っぷしも強く、剣の達人でもあります。
終わり部:刺客に切られた冠の紐を結び直して、“君子らしく” 死ぬシーン。これは、『春秋左氏伝』に 子路は「君子は死すとも冠を免〔ぬ〕がず」と言って死んだ、との記述が実在します。

                                         ( 子路 完 )

本学    【 干支・九性の知識 】

1) 運命学全般の諸概念を、私の長年の工夫・見解も加えて、一覧にまとめております。 諸事に、ご参照下さい。

運命学関連概念一覧

【 運命学関連概念一覧 】

● たかね易学研究所

2)今年の“干支・九性”について、【儒灯】・「謹賀庚寅年」の中に、ごあいさつも交えてまとめております。その当該部分を教材資料に用いて講義いたしました。 ――以下抜粋のとうり。


 

《 はじめに ・・・ 干支について 》

 明けて平成22年(2010)。 新年を皆様と迎えますこと、大慶でございます。

 今年の干支〔えと/かんし〕は、(トラではなく)「庚・寅〔かのえ・とら/こう・いん〕です。
干支は、十干〔じっかん〕(天干)と十二支(地支)です。
この、10 と 12 の組み合わせで、60 干支〔かんし〕の暦を作っていました。

 そして、十二支「寅」は、動物の「虎」とは専門的には直接関係ありません。
が、動物のイメージ・連想は、人口に膾炙〔かいしゃ〕しています。
干支を「今年のエトは、トラで ・・・ 」とメディアが薄々軽々と報じているところです。

また、干支は旧暦(太陰太陽暦:我国で明治維新期まで用いられました)
ですから、年始は 2月4日(立春)からで、2月3日(節分)までは、まだ「己・丑〔つちのと・うし/き(こ)・ちゅう〕です。

これらを確認した上で、今者〔いま〕の慣行に合わせて、一足先に「庚・寅」年のお話をしておきたいと思います。


《 庚・寅&八白土性の深意 》

 さて、今年の干支「庚・寅」には、どのような深意があり、どのように方向づけるとよいのでしょうか。

 「庚〔かのえ=金の兄/こう〕」には、おおよそ 1)継承・継続 2)償う 3)更新・奮起 の
3つの意味があります。
つまり、前年からのものを継続して、罪・汚れを払い清めて償うと共に、更新していくということです。

革命〔revolution〕に持ってい行かずに 進化〔evolution〕に持っていくということです。

 「寅〔とら/いん〕」。
字の真ん中は、手を合わせる・手を差し伸べる・協力することを表し、
下の“ハ”は人を象〔かたど〕っています。

つまり、志を同じくするものが手を取り合って助け合うの意です。
そこから、「同寅(=同僚)」、「寅亮(=助け合う)」、「寅清(=助け合って旧来の妨害・惰性などを排除してゆく)」といった熟語もあります。

 この2つを合してまとめると、前年のことを継承して一致協力、創造的に更新進展させる、といった意味になるかと思います。 

※(以上は、安岡正篤氏干支学によりました。
  『干支新話(安岡正篤先生講録)』・関西師友協会刊 参照)

 また、九性(星)気学で今年は、「八白〔はっぱく〕土性」にあたります。

これは、変化・改革・蓄積・相続・ストップ〔中止・停滞〕といった複雑な意味合いを持っています。

表面上安定した、遅滞・停滞した社会的ムードの中で、実直で辛抱強い対応が望まれます。
(国内外で)“政治(家)”が話題となり、経済(不況)の打開が図られる年と思われます。


《 干支・九性の易学的考察/「无妄」卦 》

 次に(やや専門的になりますが)、今年の干支・九性を易の64卦になおして(翻訳して)解釈・検討してみたいと思います。

 昨年の干支、己・丑は「坤為地〔こんいち〕」。(‘09.3月“儒灯”参照のこと) 
今年の庚・寅は、「天雷无妄〔てんらいむぼう/むもう〕」卦となります。

(以下、高根 「『易経』64卦奥義・要説版」/第15回 定例講習‘易経’No.25参照のこと)

 「无妄」卦は、精神性3卦の1つで、「无」=「無」で 妄〔みだ〕り無いの意、うそ・いつわりのないことです。

至誠、“無為自然”(老荘)の精神、“自然の運行”、神意に逆らえば天罰てきめん、“随神〔かんながら〕の道”(神道〔しんとう〕)といった意味です。

 「亨以、天之命也。(大いに亨りて以て正しきは、天の命なればなり」(彖伝) とあり、元号「大正」の出典ともなっています。

 象〔しょう/かたち〕でみてみますと、上卦 乾天の下に震雷で落雷の象。
「天地否〔てんちひ〕」(天地交流せず八方塞がり = 現代日本の閉塞〔へいそく〕感?)の初爻に外から1つの陽(剛健・明るく活動的なもの)が来て「无妄」となったと見ることが出来ます。

 一例を政界の動きに求めてみますと。昨年8月、「坤」・陰の閉塞感を破って、歴史的政権交代が実現し、民主党・鳩山内閣による政治がスタ−トしました。

高い支持率、世論の期待を担っての華々〔はなばな〕しいスタートです。
今年はその本格的展開(“正念場”?)で、政権の真価が問われる年です。
が、発足語3ヶ月余を経て、現今〔いま〕1月早々と、支持率は40%台に低下しています。

「无妄」卦の深意に学び慮〔おもんばか〕り、天意(民意?)逆らって天罰てきめんとならぬように、と、もし私がブレーンであれば説くところです。

為政者(指導者・リーダー)の立場にある皆さまのために、「无妄」卦・大象の引用解説を付け加えておきます。
   
○ 大象伝 ;
「天の下に雷行き、物与〔みな〕无妄なり(物ごとに无妄を与〔あた〕う)。先王以て茂〔さか〕んに時に対し万物を育う。」
(乾天の下に震雷が進み行く象が、无妄です。
つまり、天の健全な運行に従って、万物は生まれ生長・発展してゆくのです。
世界のあらゆるものが、この自然の法則・原理に従って運行しているのです。
古のよき王は、このことに鑑み、“天の時”に従い対応して、
しっかりと成すべきことを成し、万物万民の育成に努めたのです
。)


 そして、今年の九性・「八白土性」を易学の八卦〔はっか/はっけ〕でいうと、
「艮〔ごん〕」であり「土〔ど〕」です。
64卦(重卦)では、「艮為山〔ごんいざん〕」が相当します。

 「艮」は、山・荒野の象〔しょう/かたち〕です。 
艮は止なり」(説卦伝)とありますように、止はストップ・畜止(たくわえ動かないこと)・停止・休止の意味です。

八卦「震」の逆で退く・遅れる・滞るの意味です。
また風水方位でいう“鬼門〔きもん/=気門・生門で陰陽の気の交替のときで元気・生気すべての気が生じます〕”( =丑寅〔うしとら〕)です。

 『論語』(擁也第6)に「仁者は山を楽しむ」、『大学』(第1段・1)に「至善に止まる/止する」とあります。

泰山・富士山のように、どっしりと落ち着きたいものです。

易経  ( 立筮演習 ) & ( 年頭筮の解説 )

1) 年頭にあたり、“ことはじめ”として、全員(10名)で一斉に立筮いたしました。筮竹または8面サイによる略筮で、易的(占的)は形式的なものとして「明日の天気?」といたしました。
得卦は、2人の同卦(爻は違います)を除いて皆異なりました。が、その判断(天候の如何=雨)はほとんど同じでした。実際、(同一地域の)明日の天気が人によって異なればおかしいということになります。 これを“異卦同占”といい易筮解釈の妙の一つです。易筮解釈は、要は、その得卦をいかに自分が解釈・判断し活かしてゆくかが大切なのです

2) 昨年末宿題にしておきました、恒例の年筮(卦と解釈)の発表と検討解説をいたしました。昨年は、筮法として略筮法一辺倒でしたが、学習が進み、今年は中筮法によるものがほとんどでした。一般に、是非の判断のように“YES−NO”の明確なものには略筮法が、内容を深くいろいろな角度から検討するものには中筮法が適しているといえます。



続きは、次の記事(後編)をご覧下さい




                                         

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第二十六回 定例講習 (2009年12月27日)

孝経 ( 章 第15 )  執筆中

― ― ―

論語 ( 孔子の弟子たち ―― 子 路 〔2〕 )

3) “知る”とは、どいうことか?

○ 「子曰く、由や、女〔なんじ/=汝〕に之を知るを誨〔おし〕えんか。之を知るを之を知ると為し、知らざるを知らずと為す、是れ知るなり。」 (為政・第2―17)

《 大 意 》
孔先生がおっしゃるには、「由よ、お前に(本当の意味での)知るということを教えようか。自分の知っていることは知っているとし、知らないことは知らないとするこれが真に知るということの意味なのだ。」

※ “知らない” と自分の心にはっきりさせ、また他人に対してもっはっきりいう。(推測するに、子路は知ったかぶりをする傾向があったのではないでしょうか)
自らの無知(知らないということ)を知ってこそ、求めようとするのです。ギリシアの哲人ソクラテスは、「無知の知」を自らの哲学・思想の出発点としました。

 

○ 「野〔や〕なるかな由や。君子は其の知らざる所に於いて、蓋し闕如〔けつじょ〕す。」 (子路・第13−3)

《 大 意 》
何というがさつ者だ、由は。君子というものは、よく知らないことについては(しばらく除いておいて)黙っているものだ。(軽率・知ったかぶりの口はきいてはいけない。)

cf.“牛のケツ” → 禅僧、モウのしり = “物知り”

知と智 → 「知」は「矢」と「口」で人を傷つける。「智」は「日(太陽)」が加わる:渋柿も日にあてると甘柿に変わる。「智」は、“しる”と“さとる”

知と痴 → 知もこうじると病となる

◆ data:データ → information:インフォメーション〔情報〕 → intelligence:インテリジェンス〔精選情報〕 → knowledge:ナレッジ  知識 / → →  見識  →  胆識  

◆ “無知の知”(ソクラテス) /“知は力なり”(F.ベーコン) /“大いなる愛は大いなる知識の娘である”(レオナルド・ダ・ビンチ)

 

4) 「無所取材」 ――― 「桴に乗って亡命でもしようか?」 と孔子

○ 「子曰く、道行われず。桴〔いかだ〕に乗りて海に浮ばん。我に従う者は、其れ由か。子路之を聞きて喜ぶ。子曰く、由や、勇を好むこと我に過ぎたり。材を取る所無し。」 (公治長・第5−7)

《 大 意 》
孔先生が、(嘆息して)おっしゃるには、「この国(中国)は乱れ、わしを用いる者もなく、わしのいう道が行われない。いっそ、筏〔いかだ〕に乗って海外に亡命したいものだ。その時、わしについてくるのは、まあ由(子路の名)くらいだろうね。」  子路は、(数多〔あまた〕の弟子の中で自分を挙げてくれたことに)感激し得意になりました。そこで孔先生は、「由(子路)や、お前が勇気のあることは、わし以上だが、※ (A)気が早いな、実はまだ筏を組む材料さえも、求めていないんだよ。 (B)どうもあまり素朴で、道具にならん、使い物にならんよ!」とおっしゃいました。

※ 乱世に処して、志 何ともならぬ孔子晩年の嘆息、心中のさびしさが現われている場面です。

A) は、一般的解説。「取」は用立てる。どこからも材木を調達できない、準備ができていない。

B) は、安岡正篤氏の解釈。「材」=才・人材。子路の才(勇敢さ)は役立てようがない、すぐに悲鳴をあげる(弱音を吐く)のはおまえじゃないか。(「論語読みの論語知らず」) /さて、その筏をどう仕立てるかとなると子路にはその手立てがない。 ―― 建設のない破壊はダメ、今日の日本にも小型の子路が多い。(「論語の人間像」)

C) は、私(高根)が思うに。A)とB)の意味両方をふくめたシャレかもしれないと思います。孔子の心の裡の寂しさと、気の早い(ゲンキンな)子路に対する戯れ言を含めてこの文言を捉えました。それにしても、筏の材料がないのと人材としての取りえがないをカケルとは、孔子も人がわるい。

 

5) ※“鬼神〔きしん〕”と子路   ――― 鬼神に対する孔子と子路の捉え方

※ 鬼神 = 神〔しん〕は天地の神々。神秘的なこと。特定の宗教の「神〔カミ〕」ではありません。古代中国に特定の神はありません。神の語源は『易経』だと思います。
鬼〔き〕は、人が死んで霊となったもの。死者の霊・魂〔たましい〕。ツノが生え虎の皮のパンツをはいた鬼〔オニ〕(艮=丑寅/うしとら:牛のツノと虎のパンツの発想か?)ではありません。
 cf.「鬼門〔きもん〕」、「神出鬼没〔しんしゅつきぼつ〕」

○ 「民の義を務め、鬼神を敬して、これを遠ざく、知と謂うべし。」 (擁也・第6−22)

《 大 意 》
人としてなすべきことを行い、神霊(神仏)に対しては崇敬するが、狎〔な〕れ近づいて利得を求めなければ、知ということができよう。
cf.「敬遠」、宮本武蔵(敬って頼らず)

 

○ 「季路、鬼神に事〔つか〕えんことを問う。子曰く、未だ人に事うること能〔あた〕わず、焉〔いずく〕んぞ能く鬼〔き〕に事えん。曰く、敢えて死を問う。曰く、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。」 (先進・第11−12)

《 大 意 》
季路(子路)が、鬼神(神霊)に仕える道を尋ねました。孔先生がおっしゃるには、「まだ、生きた人間にうまく仕えられ(愛敬を尽くせないのに)、どうして鬼神に仕えられようか。(まず人に仕える道を求めなさい)」 季路は重ねて「死とはどのようなものでしょうか?」。 孔先生は、「(生は始めで死は終わりである)まだ、生きるということがよくわからないのに、どうして死がわかろうか。(まず、生きることをわかろうと務めなさい)」とおっしゃいました。

 

○ 「子の疾〔やまい〕、病〔へい〕なり。子路、祷〔いの〕らんことを請う。子曰く、諸〔こ〕れ有りや。子路対〔こた〕えて曰く、之れ有り。※ 誄〔るい〕に曰く、爾〔なんじ〕を上下〔しょうか〕の神祇〔しんぎ〕に祷る。し曰く、丘の祈ること久し。」 (述而・第7−34)

※ 誄 = 「死を哀〔あわ〕れんで、その行を述べる辞〔ことば〕」(朱注)、日本では「しのびごと」

《 大 意 》
孔子の病気が、重かった時、子路が心配して、病気の回復を祈祷〔きとう〕したいと願い出ました。 孔子は、「何かそういった先例(道理)があるのか?」と尋ねました。 子路が答えて言うには、「ございます。古〔いにしえ〕の誄〔るい/しのびごと〕に“汝のために天地の神々に祈る”とあります。」 孔先生がおっしゃるには、「そうか、そういう意味の祈りなら、わしは久しく祈っていることになるよ。今更改めて、助けを求めて祈るまでもないよ。」

※ 祈りを事としない孔子は、子路のその至情に対して、祈るには及ばないよと告げたと思われます。 古代社会において、「呪術〔じゅじゅつ〕」は一般的でした。子路は 祈祷・祈祷師に重きをおいて、「神だのみ」的傾向が強かったのかも知れません。

 

( つづく )

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本学   【司馬遷と『史記』 ― 3 】  執筆中

 

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易経   ( 「十翼」 :序卦伝 (2)  執筆中 )

 

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第二十五回 定例講習 (2009年11月22日)

孝経 ( 諫争章 第15 )  執筆中

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論語 ( 孔子の弟子たち ―― 子 路 〔1〕 )

§.はじめに   子 路 

私は、孔子(と弟子)の言行録である『論語』が、その優れた一面として、文学性・物語性をも持っていると考えています。(優れた歴史書『史記』もまた文学性・物語性・思想性を持っています。)

そういう意味での『論語』を、人間味(情味)豊かに飾るものが、子路の存在です。『論語』での登場回数も子路(=由〔ゆう〕)が、一番多いのではないでしょうか。子路の存在・キャラクター、その言動によって、『論語』は より身近により生き生きとしたものとして楽しめるのだと感じています。世代を超えて子路のファンの人も多いのではないでしょうか。

ところで、中島 敦〔あつし〕の短編歴史文学 『弟子』は、子路を描いています(次々回述べる予定です)。その波乱の生涯の中でその最後(膾〔なます〕のごとく切り刻まれて惨殺される)も、ドラマチックです。※注)

子路は、姓を仲、名を由〔ゆう〕、字〔あざな〕を子路といいます。また別の字を季路ともいいます。孔子とは、9歳差。“四科十哲”では、冉有〔ぜんゆう〕とともに政事(政治活動)に勝れると挙げられています

子路は、元武人(侠客〔きょうかく〕のようなもの:博徒・喧嘩渡世)の経歴で、儒家・孔子派の中での特異・異色〔ユニーク〕な存在です。その性状は、粗野・単純・気一本・一本気の愉快な豪傑といったところでしょう。殺伐物騒な戦乱の時代にあって、現実政治的な役割と孔子のボディーガード的役割を兼ねていたのではないでしょうか。“お堅い”ムードになりがちな弟子集団の中にあって、豪放磊落〔ごうほうらいらく〕なムードメーカー的存在でもあったでしょう。

私は、『論語』の子路に、『三国志』(『三国志演義』/吉川英治・『三国志』)の豪傑 “張飛〔ちょうひ〕”〔劉備玄徳(と関羽)に従う義兄弟〕を連想しています。虎・虎髭〔とらひげ〕と愛すべき単純さ(そして劇的な死)のイメージが、楽しくまた鮮烈に重なっています。

※注) 孔子73(72)歳の時(孔子の死の前年)、子路は衛の内紛にまきこまれて惨殺されました。享年64歳。(後述)
「由が如きは其の死を得ざらん( ―― 得ず。然り。)。」(先進・第11−13)
(由のような男は、まともな死に方はできまい。/畳の上で死ぬことはできないかもしれない。) と日ごろから言っていた孔子の心配が、予言のように的中してしまったことになります。

 

1) 破れた綿入れを着ていてもサマになる ――― 第一印象

○ 「子曰く、敝〔やぶ〕れたる縕ウン袍〔うん/おんぽう〕を衣〔き〕、狐貉〔こかく〕を衣たると立ちて恥じざる者は、其れ由〔ゆう〕なるか。」 (子罕・第9−27)

《 大 意 》
孔先生がおっしゃるには、「破れた綿入れの上衣を着て、立派な狐〔きつね〕や貉〔むじな〕の毛皮の衣を着た人達と並んで立っても、(毅然として一向に)恥ずかしがらないのは、まず由(=子路)だろうね。」

 

2) “暴虎馮河〔ぼうこひょうが/か〕”のルーツ! ――― 子路の性格

○ 「火烈にして剛直、性、鄙〔ひ〕にして変通に達せず。」 (『孔子家語』)

《 大 意 》
激しく剛直で、品性ヤボで野生的、物事の変化・融通・裏表がわからない。

 

○ 「柴〔さい〕や愚、参や魯、師や辟〔へき〕、由〔ゆう〕や喭〔がん〕
(先進・第11−18)

《 大 意 》
柴(子羔/しこう)は愚か〔馬鹿正直〕で、参(曾子)は血のめぐりが悪く、師(子張)は偏って中正を欠き、由(子路)は粗暴・がさつだ。

 

○ 「子、顔淵に謂いて曰く、之を用うれば則ち行い、之を舎〔す〕つれば則ち蔵〔かく〕る。唯我と爾〔なんじ〕と是れあるかな。 | 子路曰く、子三軍を行なわば(行〔や〕らば)、則ち誰と與〔とも〕にせん(する)。 子曰く、暴虎馮河し(て)、死して悔いなきものは、吾與にせざるなり。 必ずや事に臨んで懼〔おそ〕れ、謀〔ぼう/はかりごと〕を好んで成さん者なり。」
(述而・第7−10)

《 大 意 》
孔先生が顔淵におっしゃるには、「自分を認めて用いてくれる人君があれば、出て道を行い、(人君や世の中から)見捨てられたら、退いて静かに蔵〔かく〕れる。このような時宜〔じぎ〕を得た出処進退ができるのは、わしとおまえくらいだろうね。」
  (それを聞いてやきもち気味で)子路は、「先生が、大国の軍隊を率いて戦争をされるとしたら、誰と一緒になさいますか。」と尋ねました。孔先生がおっしゃるには、「虎に素手で立ち向かったり、河を徒渉〔かちわたり〕したりするような(命知らずな)ことをして死んでもかまわないというような者とは、わしは一緒にやらないよ。わしが一緒にやるとしたら、必ず事にあたって敬〔つつ〕しみ懼〔おそ〕れ、慎重に計画を練って成し遂げるような(深謀遠慮な)人物とだね。」

「用之則、舎之則」 →
用舎行蔵」(=行蔵自在)

君子の行動が、世に処するに時の宜しき得て滞ることがないこと。

cf.福沢諭吉の幕臣・勝海舟(と榎本武揚)に対する批判・詰問
(「瘠我慢之説〔やせがまんのせつ〕」と「丁丑〔ていちゅう〕公論」)

→ 勝の返事:「行蔵は我に存す、毀誉〔きよ〕は他人の主張、我に与〔あず〕からず我に関せずと存候〔ぞんじそうろう〕。」
(出処進退は自分自身が〔知っています〕決めます。その評価は、あれこれ他人が勝手にすることです。〔世間の風評など〕私の知ったことではありませんし、関わりもありはしません。)

→ 榎本の返事:公務多忙につき、今は返事が書けません

cf.高杉晋作&坂本竜馬の言葉 ・・・ 自分の成すべきことは自分が一番良く知っている

・「世の中は よしあしごとも いわばいえ 賤〔しず〕が誠は 神ぞ知るらん」

・「世の人は われをなにとも いはばいへ わがなすことは われのみぞしる」

「暴虎馮河」: 暴虎=素手で虎に向かうこと、馮河=舟なしで大河を渡ること。血気の勇にはやる命知らずのこと。
子路は、自分の勇敢さを自慢して、孔子に自分の名前を出してもらうことを期待して問いかけました。が、ピシャリと匹夫の勇を戒められ道理に適った勇気を諭されたのです。

( つづく )

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本学   【司馬遷と『史記』 ― 2 】  執筆中

 

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■ 易経   ( by 『易経』事始 Vol.2 ) & ( by 「十翼」 )

§.易の思想的基盤・背景 (東洋源流思想)  【 ―(6) 】

C. 変化の思想 (易の三義【六義】)〔 Principle(Classic) of Changes 〕

《 ある朝、グレゴール・ザムザがなにか気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の巨大な毒虫に変っているのを発見した。彼は鎧のように固い背を下にして、仰向けに横たわっていた。 》    Franz Kafka Die Verwandlung,1916 (カフカ・『変身』)

“易” = 変化  Change  “蜴”(カメレオン)
“ The Book of Changes ”  (変化の書・『易経』)

※ 2008.12 世相を表す文字 「変」 (2007「偽」)
2009.1 「変革」をとなえて、オバマ新米大統領登場・就任
(注) 漢字検定協会・理事長父子 逮捕!

 

1)。  「変 易」  ・・・ か〔易〕わる 

易の名称そのものが変易の意義をもつ、生成変化の道、 天地自然は大いなる変化、変易。自然と人生は大いなる「化」

ex.―― 季節・昆虫の変態・無常/お化け(女性の化粧)/“大化の改新”(645)

○「結局最後に生き残る者は、最も強い者でも最も賢い者でもない。それは変化し続ける者である。」
(チャールズ・ダーウイン)

・ イノベーション=「革新」

・ 「日新」: 「湯の盤の銘に曰わく、苟〔まこと〕に、日に新た、日々に新たに、又日に新たならんと。」   (『大学』) cf.“日進月歩”

維新」: 「詩に曰わく、周は舊〔旧〕邦なりといへども、その命、維〔こ〕れ新たなり。」
(『大学』、詩=『詩経』・大雅文王篇)

ex.――“松下電器”、五坪の町工場から従業員一万人・売り上げ一千億に進化発展

・ 松下幸之助氏の「変易」(変革・イノベーション、テレビブラウン管技術の輸入)と「不易」なるもの

cf.“Panasonic パナソニック”: 一万五千人 人員削減(半分国内)、
ソニー:一万六千人、 NEC:二万人 (09・2/4)

革命」 (Revolution) と「進化」 (Evolution)

※  参考  ―― 古文にみる “変化”

◎ 『徒然草〔つれづれぐさ〕』・吉田兼好 ・・・・・
「変易」“へんやく” = (仏教的)無常観・ 諸行無常・漢籍の素養

○ 「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理〔ことわり〕をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の世のゆめのごとし。たけき者もつひには滅びぬ。ひとへに風の前の塵〔ちり〕に同じ。」  (『平家物語』)

○ 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例〔ためし〕なし。世中にある人と栖〔すみか〕と、またかくのごとし。」   (『方丈記』、鴨長明)

○ 「また知らず、仮の宿り、たがためにか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。」  (『方丈記』、鴨長明)

※  考察  ―― “転石、苔〔こけ〕を生ぜず” 〔A rolling stone gathers no moss.〕 

英: 本来イギリスのことわざで、苔を良いものと考え(石の上にも三年で)腰を落ち着けていなければ苔も生えない、との意味。英は静止社会で、転職も軽々しくするなということ。

米: 英人が植民してつくったアメリカ合衆国では、意味が逆転します。米は、動的社会。 苔を悪いものと考え、「流れぬ水は、腐る」で、いつもリフレッシュ、転職するのは力のあるエリート(ヘッドハンティング)ということです。

 

2)。  「不 易」  ・・・ 不レ易・かわらぬもの 

変化の根柢に不変・永遠がある、不変の真理・法則の探求、 “千古不易”、“千古不変”、“真理不変”、“一〔いつ〕なるもの”、“永遠なるもの” 変わらぬ物の価値、 目立たぬが確かな存在

自然界の法則 & 人間界の徳(仁)、芸術の世界での「美」 ――本質的なもの

ex.――  不易〔フエキ〕  糊〔のり〕”: 「硼酸〔ほうさん〕またはサルチル酸のような防腐剤と香料とを入れて長く保存できるようにした糊」 (広辞苑)
“パーマ” 〔 parmanent wave 〕
“(日清)チキンラーメン”:
 1958年誕生、ロングヒット商品、カップメン、カップヌードルの発明

□「化成」: 変化してやまない中に、変化の原理・原則を探求し、それに基づいて人間が意識的・自主的・積極的に変化してゆく。 クリエーション(創造)

ex.――ー 「三菱化成」(化学合成ではない)=「化し成す」(「離」卦)

※  参考  ―― 変わらぬもの

“松に古今の色なし”

○ 「松樹千年翠〔みどり〕 不入時人意(時の人の心に入らず)」
「松柏〔しょうはく〕千年青」 (『広燈録』など)

○ 「子曰く、歳〔とし〕寒うして然る後松柏の彫〔しぼ〕むに後るるを知る。」
松柏 = まつとかや = 君子の節操  (『論語』子罕・第九)

○ 「 ―― 難いかな恒〔つね〕有ること 」 (『論語』述而・第七)

※  考察  ―― 変易と不易

・ “不易流行” (松尾芭蕉、蕉風俳諧の境地)

◇「不易 は詩的生命の基本的永続性を有する体。 流行は詩における流転の相で、その時々の新風の体。 この二体は共に風雅の誠から出るものであるから、根元においては一に帰すべきものであるという。」 (広辞苑)

・ “流行色”と “恒常的流行色”

“不易を大切にし、流行に対応する教育” ―― 「21世紀を展望した我国の教育の在り方について【第一次】・中央教育審議会答申 (平成8〔1996〕・7・19)

○ 豊かな人間性など「時代を超えて変わらない価値あるもの」(不易)を大切にしつつ、「時代の変化とともに変えていく必要があるもの」(流行) に的確かつ迅速に対応していく ・・・・ 」 

◎「積善の家には必ず余慶〔よけい〕あり。積不善の家には必ず余殃〔よおう〕あり。」
( 坤・文言伝 )
→ 「殃」は災禍

 

3)。  「簡 易」  〔かんえき・かんい〕
・・・(中国流で易簡、 Purity ピュアリティー / Simplity シンプリティー)

変化には複雑な混乱ということがない。平易簡明、無理がない

ex. ――― “簡易郵便局”、“簡易保険”、“簡易裁判所”

※  参考  ―― 茶道 “ Simple is beste ” シンプル・イズ・ベスト

○ 「自然は単純を愛す」 (コペルニクス)

○ 「自然は常に単純であり、何らの自家撞着〔じかどうちゃく〕をも持たない」
(ニュートン)

○ 「真理は単純なり」 : 道元は中国から何も持ち帰らなかった。目はヨコに鼻はタテに附いているとの認識を新たにしてきた。 (あたりまえのことを、当たり前と認識する)

 

4)。  「神 秘」  ・・・・

易は「イ」、「夷〔えびす・イ〕」に通じ、感覚を超越した神秘的なものの意。自然界の妙用「神秘」、奇異。

◎ 「希夷」の雅号 ・・・ 聞けども聞こえず見れども見えず(五官・五感をこえて)、それでいて厳然として微妙に、神秘に、存在するもの。

 

5)。  「伸びる」  ・・・・ 易〔の〕ぶ、延・信

造化、天地万物の創造、進化でどこまでも続く、伸びる、発展するの意。

○ 「悪の易〔の〕ぶるや、火の原を焼くが如く::」

 

6)。  「治める」  ・・・・ 修 ・ 整

天地の道を観て、人間の道を治めるのが易。

○ 「世を易〔か・変〕えず」 ―― 「世を易〔おさ・治〕めず」 と読むと良い。
(「乾」・文言伝 初九)

(易学の源流思想 完 )

 

( 「十翼」 :序卦伝 (1) は 執筆中 )

 

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第二十四回 定例講習 (2009年10月25日) 前編

孝経  ( 広揚名章 第14 )  執筆中

― ― ―

論語  ( 孔子の弟子たち ―― 曾 子 〔2〕 )

4) 夫子(孔子)「一貫〔いっかん/いつもってつらぬく・おこなう〕の道」

 ○ 子曰く、「参や、吾が道は一〔いつ〕以て之を貫く(或いはおこなう)」と。
   曽子曰く、「唯〔い〕」と。
   子出ず。門人問うて曰く、「何の謂いぞや」と。
   曽子曰く、「夫子の道は、忠恕のみ」と。
  (里仁・第4−15)

 《 大 意 》

 孔先生がおっしゃるには、
 「参や、わしの道は一〔いつ〕なるもので貫いておる(行っておる)。
 (その道がわかっておるか?)」 

 曽子はすぐに、「はい〔唯〕。(よく承知いたしております)」と答えました。

 他の門人たちが、(禅問答のようでさっぱりわからないので)
 「今のお話は、一体どういう意味なのですか。」と問いました。

 曽子は、「先生の説かれる道は ※“忠恕”
 ( ――思いやりといつくしみ・まごころと思いやり/造化の心、
 そのまま、限りなく進歩向上していくこと
 
 のほかにはありませんよ」と答えました。

 ※曽子は、敢えてと言わずに解り易く具体的に忠恕と表現したと考えられます。
 (→ 研究後述)

研究

 A.とは?

  ・思いやりといつくしみ (忠恕・愛・慈悲) / 
   「忠」【おのれ】は中する心、限りなく進歩向上する心 = 弁証法的進歩
   「恕」【人におよぼす】= 女の領域・女の世界 = 造化
  ・「一〔いつ〕なるもの」=「永遠なるもの」=「受け継がれるもの」
  ・“見えざるものを観、聞こえざるものを聴く”ことによって智〔さとる〕(覚智)

   cf.“女をば法〔のり〕のみくら〔御座〕といふぞげに
      釈迦も達磨もひょいひょいと出る”
      (一休和尚)  / ・神道 “産霊〔むすび〕”

 B.荻生徂徠〔おぎゅうそらい〕の理解

  ・荻生徂徠は、「吾道一以貫レ之」について、
   孔子が仁の実践によって天下を安んずる道を理想とし、
   仁をあらゆる徳の根本であると理解しています。
   そして、「忠恕」を仁を実践する手段であると考えています。
   以下の原典ご参照下さい。

 ○ 夫れ先王の道は、天下を安んずるの道なり。
天下を安んずるの道は仁に在り。
故に曰く、「一以て之を貫く」と。/
何を以て之を貫くと謂う。仁は一徳〔いっとく〕なり。
然れども亦〔また〕大徳なり。故に能〔よ〕く衆徳を貫くべし。
先王の道は多端なり。唯だ仁のみ以て之を貫くべし。
辟〔たと〕へば繦〔きょう〕の銭を貫くがごとく然り。
故に貫くと曰う。
一理や一心や誠〔せい〕やのごときは則ち一〔いつ〕なるのみ。
何ぞ必ずしも貫くと曰わん。/
故に曽子曰く、「忠恕のみ」と。忠恕は之を為す方なるが故なり。

(荻生徂徠・『弁道』)

 《 大 意 》

そもそも、古〔いにしえ〕の聖王の道は、
世の中を遍〔あまね〕く平安にするための道です。

世の中平安への道は、“仁”の実現・実践にあります。

ですから、孔先生は、
「わしの道は一〔いつ〕なるもので貫いておる」とおっしゃっているのです。

それでは、どうして“貫かれている”というのでしょうか。

“仁”は1つの徳ではありますが、
すべてのものに行きとどく大きな徳なのです。

だからこそ、他の多くの徳を貫くことが出来るのです。

古の聖王が説く道は、多岐にわたっています。

が、ただ“仁”だけは、それらすべてを貫くことが出来るのです。

例えば、“ゼニサシ”がいくつもの銭の穴を貫いて
1つにつなげられるようなものです

そこで、“貫かれている”というのです

一理・一心・誠などは、ただ徳の1つにすぎません。

ですから、必ずしもすべてのものを貫くとは言えないのです。

以上のことから曽子は、
「思いやりといつくしみのほかにはありませんよ」と言ったのです。

要するに、“思いやりといつくしみ”が
“仁(= 一つのもの)”を実践するための具体的手段であるからです

 

5) ※『孝経』 を著わす

○ 曽子疾〔やまい〕あり。
門弟子〔ていし〕を召して曰く、
予〔わ〕が足を啓〔ひら〕け、予が手を啓け。
詩に云わく、戦々兢々〔せんせんきょうきょう〕として、
深淵に臨むが如く、薄氷を履〔ふ〕無が如し、と。
而今〔いま〕よりして後、吾免るることを知るかな。小子。
 (泰伯・第8−3)

 《 大 意 》

曽子が病気にかかり危篤〔きとく〕状になった時、
弟子たちを集めて言いました。

「ふとん〔夜具〕を開いて、私の足を見てみなさい。
(では次に)私の手を見てみなさい。
身体のどこかに傷痕〔きずあと〕はないか。

『詩経』(小雅・小旻〔びん〕篇)の中に、
“深い淵〔ふち:谷の断崖〕にっ立って落ちるのを恐れるごとく、
薄い氷をふんで割れはしないかと恐れるように、
戦々として恐懼し兢々として戒慎する”とあるが、
(私は、父母からもらったこの身体を傷つけぬように大切に保ってきた。
大変だったぞ。)
こうして無傷で(親不孝せずに)あの世に行ける。

もう我が身を傷つけぬ責任から解放される。

やれやれだよ。お前たち。」

※ 『論語』は、曽子の弟子が主体になって作られたようです。(?)
『孝経』は、孔子が曽子に語るという形式で、
曽子の弟子がまとめたと思われます
。(ex.曽子曰く ・・・ )

cf.「詩云、戦々兢々・・・」
→ 「身体髪膚これを父母に受く、
  敢えて毀傷〔きしょう〕せざるは孝の始めなり。」

 

6) 「千万人と雖も吾れ往かん」 (『孟子』)

○ 「昔者〔むかし〕曽子、子襄に謂いて曰く、子、勇を好むか。
吾嘗〔か〕って大勇を夫子に聞けり。
自ら反〔かえり〕みて縮〔なお〕からずんば、
褐寛博〔かつかんぱく〕(=賤者)と雖も、吾惴〔おそ〕れざらんや。
自ら反みて縮くんば千万人と雖も吾往かん。」 

(『孟子』・公孫丑〔こうそんちゅう〕上)

 《 大 意 》 

昔、曽先生は、(弟子の)子襄に向かっておっしゃっている。

「お前は、勇を好むか。
私は、かつて孔先生から、大いなる勇というものにいついて聞いたことがある。

それは、自分でよく反省してみて正しくない場合には、
たとえ褐寛博のような(取るに足らない賤しい)者であっても、
恐れないことがあろうか(いや、ありはしない)。

しかし、自分でよく反省してみて正しい場合には、
たとえ相手が千万人であろうとも、恐れずにっ向かってゆくであろう、
ということなのだ。(これが、真の意味での大勇なのだぞ。)」

自反・・・自ら反〔かえり〕みて/反〔はん〕して
→ 反省してみて(「三省」)
「縮」 = 直、
「直」はまた「徳」の字(右側のつくり部)でもあります。

「千万人と雖も吾れ往かん」 の勇ましいのを孟子とカン違いしている人もいるようです。
原典のように、『孟子』〔もうじ〕の中の曽子の言葉です。
孟子が弟子の公孫丑との会話の中で、曽子の言葉を引用して自論を述べています。

 

7) 重き荷を負うて ・・・・

○ 曽子曰く、士は以て弘毅〔こうき〕ならざるべからず
任重くして道遠し。仁以て己〔おの〕が任となす。
亦重からずや。死してのち已〔や〕む。亦遠からずや。
(泰伯・第8−7)

 《 大 意 》 

曽子が言うには、「士(道を志す者)は、心が広く意志が強くなければならぬ。
なぜならその任務は重く、行くべき道は、はるかに遠い。

その任とは、最高の徳“仁”の道の体得と実践である。
何と荷が重いことではないか。

この仁という重荷を死ぬまで負っていくのである。
何とはるかに遠いことではないか。」

「士」= 「士」の字は、十人を一束にしてゆく力量のある指導者。
士を公務員・教養人・指導者(リーダー、エリート)と捉え、
そういった官僚・公務員の心構えを説いていると解してもよいでしょう。

弘毅 = 度量広く意志が強いこと /
不可以不 〜 
は、〜でなくてはならない。
二重否定を用いて肯定を強める慣用形。

※ 任が重いのは「仁」を実現させねばならないからで、
道が遠いのは死ぬまでその遂行が求められているからです。
志士仁人〔ししじんじん〕といわれ、人の任務の重大さを力説する文章です。

cf.★井上 毅〔こわし〕/犬養 毅〔いぬかい・つよし〕/
広田弘毅〔こうき〕
:極東軍事裁判でA級戦犯となり
文官中で一人死刑となりました

徳川家康家訓 : 「人の一生は重き荷を負うて遠き道を行くがごとし
急ぐべからず。不自由を常とおもえば不足なし。
心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。
堪忍は無事長久の基〔もとい〕。怒りを敵と思え。
勝つことばかりを知りて負くることを知らざれば害その身に至る。
己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり。」
(『東照君遺訓』)

 

8) 「託孤寄命章〔たくこきめいのしょう〕」

○ 曽子曰く、以て※六尺〔りくせき〕の孤を託すべく、
以て百里の命を寄すべく、大節に臨んで奪うべからず。
君子人〔じん〕か。君子人なり。 
(泰伯・第8−6)

 《 大 意 》 

曽子が言うには、
「15歳ほどの幼少の君(父を亡くした、みなし子)の将来を安心して頼める人、
一国の政〔まつりごと〕と運命を任せられる人、
国家の大事に臨んでも、節操・志節を失わない人、
こういう人こそ君子というべき人であろうか。確かに真の君子人であろうよ。」

※ 「六尺の孤= 2歳半を1尺といいます、
15歳の父を失った子。幼君。
曽子は、孔子の愛孫・子思を教育する。 / 「大節」 = 大変事

※ 「君子人與。君子人也。」 : 一度疑って後に決定 → 強め

cf.☆諸葛亮〔しょかつりょう〕孔明、
劉備の子(劉禅)を託される (出師の表)

☆加藤清正、秀吉の子(秀頼)を託される (家康との二条城での会見)

 

補説

親子2代の弟子 (顔回&曾子)

◇顔淵とその父・顔路: 顔路は、名を無繇〔むゆう〕といい、
孔子より 6歳少〔わか〕い。
孔子が始めて教えた時、学を受けています。
顔淵の死に際して、孔子の車を請い受け売って外棺〔そとかん〕を買おうとする話があります。

○「顔淵死す。顔路、子の車を請うて之が椁〔かく〕を為〔つく〕らんとす。」
(先進・第11−8)

◇曾子とその父・曾拭未修Δ擦〕: 曾燭蓮既にみたようになかなかの風流子です。
親子2代にわたる孔子に対する尊敬の念。
家庭の中で子に語る、家庭(父子)教育の大切さ。

(曾子完)

 

本学   【司馬遷と『史記』 ― 1 】  執筆中

 

易経   ( by 『易経』事始 Vol.2 ) & ( by 「十翼」 )

§.易の思想的基盤・背景 (東洋源流思想)  【 ―(5) 】

C. 陰陽相対〔相待〕論(陰陽二元論)・・・続き



続きは、次の記事(後編)をご覧下さい。




                                         

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