(こちらは、前のブログ記事の続きです。)
D.彩色のプロセス/修正・善に改める白
「繪事後素」 につきまして、私の美術家としての視点から私見を述べてみたいと思います。
まず、絵の素(白)地・生地=ベースとしての「白」については。
和・洋紙にしろキャンバスにしろ、描くための素材・前提となることは自明です。
「素〔もと〕」です。
色や表面形状(“目”や凹凸など)、絵の具の“ノリ”具合・滲み具合などです。
油絵などでは、特に各種技法としての下地処理・地塗りの技法が多くあります。
次に、彩色のプロセスの中でも「白」が重要な役割を果たす場合もある、
ということを述べてみたいと思います。
まず一つ目。
下地としてではなく、彩色する絵の具(有彩色)そのものに白を混ぜるということがあります。
白を混ぜると、専用語で“(明)清色〔(めい)せいしょく〕”といいまして、
明度が高くなり明るく澄んだ柔らかい色調になります。
黒を混ぜると“(暗)清色〔(あん)せいしょく〕”といって暗く澄んだ色調に、
灰を混ぜると“濁色〔だくしょく〕”といって濁った色調になります。
平たく例を挙げれば、赤の色相に白を混ぜると“桃色〔ピンク〕”に、
黒を混ぜると“茶色〔ブラウン〕”に変化していきます。
── 人生に擬えれば、白=素=徳 を含んだ善き人生行路を
彩/章〔あやど〕るようなものです。
二つ目。
(透明)水彩画の専門的彩色技術について述べておきます。
仕上げ・キメ手のハイライト=白部を描くとき、
(ポスターカラーやガッシュなど)不透明水彩絵の具の白色を強引にのせる
(カバーする)ばかりではありません。
彩色する前に、予〔あらかじ〕め白く残したい部分を、
マスキング専用の“ゴム液”を塗って(描いて)おきます。
彩色が一通り終わってから、専用ラバーでカバーしていたゴムをとれば
白く抜ける(紙地の白が顕れる)というテクニックです。
そこから、さらに微調整するように仕上げの彩色をつづけ絵を完成させます。
── 人生に擬えれば、若いときに培われた蔵された徳が、
恰も種子の“核〔さね〕”のように、時を得て芽吹き形を整えて、
やがて華を咲かせるようなものですね。
三つ目。
油絵において“グレージング”技法という非常に優れたものがあります。
私は、東洋的にいえば奥義・秘伝のようなものと言ってもよいとさえ想っています。
これは平たく一言に要せば、
下の油絵の具が乾いてから透明感のある薄い油絵の具を(透明水彩画のように)重ねて
(何度も)塗るというものです。
つまり、下書きを終え彩色の段階で、
明るい部分を白〔ホワイト〕(もしくは明度の高い色)で描きます。
それがよく乾いてから、透明感のある薄く溶いた油絵の具で“グレージング”して
“固有色”を与えると同時に明るさを押さえます。
例えば、“緑のビン”を描く場合、
まず明るめのグレーから白色を使ってビンを描きます。
乾いてから、その上に緑(ビリジャンなど)で“グレージング”して
“灰色のビン”であったものを“緑のビン”に変身(?)させるわけです。
“茶色の編みかご”を描く場合も
竹や籐〔とう〕の編み模様を一本一本を細かく白色で描きます。
乾いてから、その上に茶(ブラウンなど)で“グレージング”すれば、
その濃淡で茶色の竹や籐〔とう〕の編み模様が浮き出されます。
犬や猫の(モノクロ)世界から、人間の固有色の世界に移り変わるわけですね。
そして、指や布で“グレージング”層を拭い凹部にのみ色を残したり、
被〔かぶ〕り過ぎたところを整えます。
仕上げにハイライト部を再度ホワイトで描き起こすこともします。
これらのプロセスを何度もくり返すのです。
この“グレージング”技法を知ると知らないとでは、
絵の出来に格段の深みの差があります。
── それは人生に擬えれば、
自他の人生の試練・体験を重ね活かすうちに、
熟成したワインのような深みと人徳に満ちた“よくできた”大人〔たいじん〕、が
形成されるようなものでしょう。
“よく出来た絵”は、“善くできた人”の象〔しょう〕です。
さらに、仕上げ(プロセス)=フィニッシュワークの「白」については。
実際、私も各種描画(油絵・水彩・デザイン・パースetc.)において、
「白/ホワイト」を最後のキメ手として重用しています。
加うるに私は、以上の白の用い方に加えて、
“修正・善に改める白”について述べたいと思います。
絵画では“下書き”や“素描・デッサン”に鉛筆を用いますが、
文字を書くには殆〔ほとん〕どがシャープペンシルを用いるようになりました。
私は、社会人になるとシャープペンシルを使うことは稀〔まれ〕で、
日常的にペン/ボールペン/水性ボールペンを使用しています。
そうしますと、鉛筆・シャープペンシル書きの場合は消しゴムで消しますが、
ペン・ボールペン他の場合は修正液(白)による消去・修正ということになります。
現在、私にとりまして、水性ボールペン(黒と赤)と修正液(白)とは
セットで持ち歩く必須筆記用具です。
修正液の“ホワイト”で、間違えたものを消去(リセット)・修正するわけです。
「白」は「清色」を創ると述べましたが、人間においても“善なるものは白”です。
「白」の心理的象徴(カラーシンボル)は、
清/潔白/善・善美/清潔/平和/明快/神聖/昼(太陽)/陽・離【☲】 ・・・ です。
“白紙に戻す”と言う言葉も、
人間本来の善き出発点に立ち返ると解することも可能です。
言ってみれば、“人生のリセット”ですね!
── “(善)美なるものは白”・“善なる人を創るものは素〔そ・しろ:白〕”に他なりません。 補注2)
以上に考察してまいりました「白/ホワイト」の扱い、意義・役割は、
(変な連想・アナロジーかもしれませんが)、
料理の味のキメ手が(白い)“塩”味であることと同じように、私は感じています。
というのは、塩加減(の中庸)で料理の味の
(その人にとっての)善し悪し=美味か否か、が決まります。
それと同時に、塩の鹹〔から〕さはその塩自身に含まれるミネラルの種類によって
千変万化の旨味・甘味〔うまみ・うまみ〕を現出いたします。
(ラーメンなどの)スープの類〔たぐい〕は、
“だし”と“塩”でさまざまなバリエーションを創りだします。
また、高級な素材の肉料理(ステーキやカラアゲなど)では
味付けや食べる時の“付け調味料”は素材を活かすために、
素材の旨味〔うまみ〕を引き出すために、塩のみとしますね。
料理の味付けの極致はこの塩の鹹〔から〕さの旨味・甘味〔うまみ〕を
極めることにあるといえましょう。
つまり、私は料理の味は“塩にはじまり塩に終わる”といえると想っています。
── 畢竟〔ひっきょう〕するに、
美術・絵画における色も“白にはじまり白に終わる”のであり、
人間もまた“素〔そ〕にはじまり素に終わる”といえましょう。
理想的人間は、「素」にして「直(=徳)」なる人、
“素直〔すなお〕”な人です。
水墨画の白黒濃淡の世界で、“墨に五彩あり”といわれますね。
これは、“白と黒に五彩あり”と言い換えることも出来ます。
人間でいうなら、ほんとうの賁〔かざ〕り、賁られた人生は
「白」と「黒」の中に、「素」と「玄」の中にあるのだと思います。
“美しい絵(の色)”に擬えて“善美の人間”についてまとめてみますと。
(1)善き人間の本(=素〔もと〕)には、
ベースとして「白」(=素〔もと〕)が大切であること。
(2)善き人間形成のプロセス(人生行路)には、
人生を彩〔あやど/章〕るものとして「白」(=素〔そ〕)が大切であること。
(3)善き人間の完成には、仕上げ修正するものとして
「白」(=素〔しろ・す〕)で賁〔かざ〕ることが大切であること。
cf. 素 + 直 (=徳) = 素直〔すなお〕
孔子の「繪事後素」を察するに、孔子は絵の専門家でもありませんし、
ここに言っている「絵」も今から2500年ほど以上も前の古代中国のそれです。
したがって孔子は、ベースとしての素〔もと・そ〕の意で用いたと考えられます。
つづく子夏の言葉も、「礼」=“文化:【離☲】”というものは、
そのベースの上に後で施すという意であると考えられます。
しかしながら、私は、この問答の文言を「温故而知新」・現代に活かす意味で、
以上に述べたように味わい解したい、と強く思い想うのです。
補注2)
自然界のホ乳類の色をみても、
「白」と「黒」(およびその混合)が多く見受けられます。
白犬と黒犬(およびブチ)、白猫と黒猫(およびブチ)、
白馬と黒馬(およびシマウマ)、白熊と黒熊(および灰色、パンダ)、
白兎と黒兎(および灰色) ・・・ などなど。
また、自然は気まぐれに、色素がない白い動物を誕生させています。
(これらは目立って天敵に襲われるためか、数は増えていませんが。)
白い蛇・白い虎・白いライオン・白いネズミ・
(鳥類ですが)白いズズメ ・・・ などなど。
そして、人間が創りだした人工景観としての建築物をみても、
圧倒的に白・(明)清色・白をベースとしたもの、が多いことに気付きます。
cf.善と美を求めた古代ギリシア: 古代ギリシア彫刻の白の世界(大英博物館)
( 以 上 )