儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

デフォー

器量人・子貢 と 経済人・ロビンソン=クルーソー (その2)

※この記事は、 器量人・子貢 と 経済人・ロビンソン=クルーソー (その1) の続きです。   
                   

《 D.デフォー と ロビンソン=クルーソー について 》

*ダニエル・デフォー (1660?〜1731) :
 実業と政治・社会問題に取り組んでで波乱万丈の生涯を送りました。
メリヤス商・煉瓦商を経営し、政治に没頭し(倒産も体験)、処刑されかかったりもします。

ジャーナリストとして本領を発揮。 罰金・さらし台・禁固の刑を受けます。

 デフォーが60才に近いころ、『ロビンソン=クルーソー漂流記』が世に出ます。
この作品は大ヒットし、小説家として著述を重ね、実り多い晩年を過ごします。

デフォーは、当時の新興中産階級の代弁者です。
そして、その作品に一貫するテーマは、「人間はいかにして生きるべきか 
ということではないかと思われます。


*ジョナサン・スウィフトの 『ガリヴァの航海(旅行記)』 :
 18世紀前半のイギリス文壇で活躍した3巨匠は、デフォーとスウィフトとポープです。 

デフォーの 『ロビンソン=クルーソー漂流記』 と
ジョナサン・スウィフトの 『ガリヴァの航海(旅行記)』 は、
イギリスのその時代を代表する 2大作品です。

ともに、子どもの本ではなく、寓意〔アレゴリー〕満ちた政治・経済の書です。

『ガリヴァの航海(旅行記)』 は、その強烈な政治批判・社会批判の内容で
発禁となります。


● 「『ロビンソン=クルーソウ漂流記』が、その当時のイギリスの中流の身分 
── 私はしばしば 中産的生産者層」と呼びますが、
そうした社会層の人々の行動様式をユートピア的に理想化し、
その明るい面のみを集中的にえがいたものだとすると、
逆にその暗い面のみを集中的にユートピア化してえがいたのが 
『ガリヴァの航海』
 だともいえるのではないか。」
          (大塚久雄・「経済人・ロビンソン・クルーソウ」 P.127引用)


* 『ロビンソン・クルーソーの生涯と不思議な驚くべき冒険の数々』 (1719) :
“The Life and Strange Surprising Adventures of Robinson Crusoe, of York, Mariner”

A. 冒険漂流物語り (純文芸作品

B. 中産階級の事業家の成功談/父親とその生活倫理に背いた子の悔い改め (道徳・宗教
  cf. 「子どもにはじめて読ませたい書物こそ、この『ロビンソン・クルーソー』である。」   
                                (J.ルソー・『エミール』)

C. “経済人”〔ホモ・エコノミクス〕のユートピア的具象化
    (18C初イギリス経済史・社会文化史
  A.スミス / K.マルクス / 大塚久雄 ・・・
  cf. 「経済学はロビンソンを愛好する」(『資本論』第1篇 1−4)/
     “労働価値学説”の解説


・日本への伝わり :
 『ロビンソン・クルーソー』 発刊の頃 → 享保4年、新井白石の著述発刊の時代
 明治5年(1872) 『魯敏遜全伝』・斎藤了庵〔りょうあん〕
夏目漱石の大学でのデフォー講義
 『ロビンソン・クルーソー』 の全訳・平田禿木〔とくぼく〕


* あらすじ・あらまし :
(背景となる時代は「大航海時代」) ロビンソン・クルーソーは、
神と父(母)の訓えに逆らい無謀な家出をします。
【恒】徳な訓戒に背いて、アドベンチャラー式の冒険で荒稼ぎしようと
海外に飛び出します。


天罰てきめん、(1859年9月30日)、西インド洋で暴風雨に遇い舟は難破します。
ボートは転覆し、クルーソー1人助かって無人島に上陸します。

無人島で、1人、快適環境を建設しながら逞しく生きてゆきます。

船の中から、小麦などの食料・鉄砲や弾薬などの資材を運び出します。
柵を作って土地を“囲い込み”ます
そこで、山羊〔やぎ〕を飼い乳を絞ったり肉を食べたり、
小麦を栽培したりします。

住居を作り、仕事場を設けて、土をこねて陶器を作りシチュー鍋を作ります。
山羊の皮で着物や帽子や日傘を作ったり ・・・ 。


約10年経ったある日、自家製丸木舟で無人島を一周。
20数年経ったある日、1人の蛮人を助けます。

金曜日にちなんで「フライデー」という名を与え、改宗させ召使とします。

ある年、イギリス商船が沖合に来ます。
この“反乱船”をフライデーや船長らと共に制圧します。

かくして、28年と2カ月ぶりにフライデーとともにイギリスに帰ることが出来ます。


(普通ならここで終わりですが、続編があります)


クルーソーは、イギリスでの幸福な生活を振りきり、
1694年再び放浪癖を出して、甥と共に出帆します。

そして、10年と9カ月を経て再びロンドンへ帰ってくるのです。


〔 補 述 〕
試みに、『ロビンソン=クルーソー漂流記』 を易64卦では何が相当するか考えてみました。
ぴったしという卦がないのですが、火山旅などはどうでしょうか。

孤独な旅人・危険な旅・行かねばならない修養の旅の意です。

上卦の【離・火】は、文明・明智の象〔しょう〕ですし、
下卦の【艮・山】は、困難・カベ・ストップの意です。

時間的にも、遭難・ストップの上に(次に)明智による工夫・文明があります。

 

《 経済と道徳・倫理について 》

 日本は、今、経済しかない国です。
もともと、広い国土も豊かな天然資源もありません。
“人”と“経済”しかありません。

その“人”と“経済”も、実に心ないものに堕しています。
私は、常々易卦の「地火明夷」の状態が進行していると感じています。

 “経済大国日本”、“21世紀は日本の時代”などといわれた、
虚栄の時代も一時はありました。

エコノミック・アニマル(はてはエロティックアニマル)と蔑称されて
数十年にもなります。

金権亡者・拝金主義・唯物(モノ)的価値観 ・・・ 
現今はもっとひどい状態に堕〔お〕ちています。

かつて、開国・維新期、“東洋の徳”・善き日本人像として、
世界から 「敬」されたもの
は歴史の彼方に消滅・忘却されています。

“古き善きもの”となり果ててしまいました。


 現在、「100年に1度の不況」などと、
絵空事がまことしやかに報じられウワついている社会・経済状況です。


 さて、経済立国日本は、そもそも“経済”とは何たるか、
どうあるべきものなのかを見失っています。

経済(学)と道徳・倫理 ── 経済(学)と儒学 ── の関係は同体不可分です。
経済と道徳・倫理は、「はなはだ遠くて、はなはだ近い」ものなのです。


 経済(学)と道徳(倫理)の不可分・合一には、次のような例をあげておきましょう。

経済学(イギリス古典派経済学) 〔political economy/economics〕の祖 
A.スミス 〔Adam Smith 1723−90〕 は、“道徳哲学”の先生です。
(『道徳情操論』/「神の見えざる手」) 

経済学の原点、『諸国民の富 (国富論)』には、道徳的思想がベースにあります。


 明治期、「経済」〔economy〕の訳語そのものが、
当時のインテリゲンチャーの第一人者・福沢諭吉(現・慶応義塾大学 創立)によって
創られました。

「 [] 世 [] 民 〔けいせいさいみん〕」(「文中子・礼楽」) から採られました。

「経世済民」(経国済民)は、世の中を治め人民の苦しみを救うという意味です。
けだし、名訳です。


 明治期、「右手に算盤〔ソロバン〕、左手に『論語』」をモットーに 
500余の会社を設立して近代日本経済の発展に貢献した 渋沢栄一氏。

昭和期、“天(道)”に学び「経営の神様」と呼ばれた
“君子型実業家”・松下幸之助氏をはじめ立志伝中の人々。

近い過去に、お手本とすべき経済人はいます。


 平成の御世、日本経済と経済人のあり方、その未来が問われています。

今こそ、(資本主義)経済の発展と儒学について真剣に学ぶ時です。
これが次代を啓〔ひら〕く “キー〔鍵〕”となりましょう。


 子貢は、『論語』における“経済人(経済的人間)”です。
経綸・経営に関わる多くの人にとって、
子貢の文言は珠玉の示唆と道標〔みちびき〕になると思います。

まずは、子貢に学べ!です。


● 「人間の行為を直接に支配するものは、理念ではなくて利害である。
しかし理念によって作られた『世界像』は、きわめてしばしば転轍手〔てんてつしゅ〕 
── 機関車の進行方向を変えるあの転轍手です ── として軌道を決定し
そしてその〔理念が決定した〕軌道に沿って利害のダイナミックスが
人間の行為を押し動かしてきた。」
(M.ヴェーバー・『宗教社会学論集』所収/「世界宗教の経済倫理・序説」より)

 M.ヴェーバー は、専ら人間の経済的利害状況
人間個人個人の行為(歴史の動き)を押し進める。

それにもかかわらず、推進の方向を“宗教的理念”=“思想”が決定すると述べています。


○ 「 子貢政〔まつりごと〕を問う。
  子曰く、を足し、を足し、をして之を信ぜしむ。
  子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯〔こ〕の三者に於いて何をか先にせん。
  曰く、兵を去らん。
  子貢曰く、必ず已むを得ずして去らば、斯〔こ〕の二者に於いて何をか先にせん。
  曰く、食を去らん。古〔いにしえ〕より皆死あり。民は信なくんば立たず。」 
                                  (顔淵第12)

※「人はパンのみにて生くるものにあらず」/「義人なし、1人だになし」 (『聖書』)
※「衣食足りて礼節を知る」  cf.「衣食過ぎて礼節を忘る」 (高根)




(この続きは、次の記事をご覧下さい。)



※全体は以下のようなタイトル構成となっており、7回に分割してメルマガ配信いたしました。
  (後日、こちらのブログ【儒灯】にも掲載いたしました。)


●5月20日(金) その1 
                《 §.はじめに 》

                《 『論語』 と 子貢 について 》            

●5月23日(月) その2 
                《 D.デフォー と ロビンソン=クルーソー について 》 

                《 経済と道徳・倫理について 》

●5月25日(水) その3 
                《 子貢 と ロビンソン=クルーソー 》
                   1) 理想的人間(像)                

●5月27日(金) その4
                   2) 中庸・中徳                   

●5月30日(月) その5   
                   3) 経済的合理主義                 

●6月1日(水)  その6
                   4) 時間の大切さ                  

●6月3日(金)  その7
                   5) 金儲け(利潤追求)      

                《 結びにかえて 》



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※定例講習、吹田市立博物館における講演(全6回)のご案内も掲載しております。
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器量人・子貢 と 経済人・ロビンソン=クルーソー (その1)

● 真儒協会開設 5周年記念・特別講演
                                        
 「 器量人・子(し)貢(こう) と 経済人・ロビンソン=クルーソー
         ── 経済立国日本を“中(ちゅう)す〔Aufheben〕” 
                          1つの試論 ──  」 

                         
□ 講師 : 真儒協会会長・ 高根 秀人年
□ 日時 : 平成23(2011)年 4月 29日
□ 場所 : 吹田市文化会館(メイ・シアター)

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《 §.はじめに 》

 西洋世界と東洋世界を包含〔ほうがん〕し、グローバルな世界が現れたのは、
おおむね近代ルネサンス以降といえます。

その世界史を堂々とリードした両横綱は、イギリスとフランスでした。  補注1) 

第2次世界大戦を契機にヨーロッパはたそがれ、
アメリカとソビエトが英仏の両翼にとって代わりました。

そして、 21世紀の近未来はアメリカと中国の時代となるでしょう。


 わが国は、かつて、「経済大国」と称せられた時期もありました。
しかしながら、GDP世界第2位の地位を中国に明け渡し(2010年)、
内外ともに凋落〔ちょうらく〕の一途を辿りつつあります。

わが経済立国“日本”は、行方を見失い、窮し行き詰まっています。

更に、そのような表面的なことよりも深刻なのは、
人間の内面においても道義が廃〔すた〕れ、人心が荒〔すさ〕んでいることです。

今、中国では儒学を復活させ“国教”とし、
若者は熱心に『論語』を学んでいます。

それに比べてわが国の次の世代は、
(「後生 畏るべし」ではなく) “後世 恐るべし” の状態です。


 かつて、シュペングラー『沈みいくたそがれの国』を著し、
近代ヨーロッパ文明の消滅を予言してから久しいものがあります。  補注2) 

が、このままでは、聖徳太子が“日の出づる国(日の本)”と言霊〔ことだま〕した
わが日本は、滅びゆく“日の没する(たそがれの)国”に
なり下がってしまうのではないでしょうか


その打開・再生の方途〔みち〕は、“儒学ルネサンス”しかありません。

今回の講演は、その実現のための一つの指針となれば、と想っての試論です。


補注1)
大英帝国・イギリスは、(スペインに代わって)
「日の没することなき世界帝国」と呼ばれました。

実際、世界全土に植民地を持っていたので
イギリスの領土から太陽が沈むことはなかったのです。

世界に先駆けて“産業革命”を実現し(1760年代〜)、
「世界の工場」として繁栄いたしました。

イギリスは、第二次大戦(ドイツとの戦い)により、その政治的パワーを失いました。
しかしながら、現在、(アメリカ=米語も含めて) “英語”による世界支配を
実現しているとも言えます。

── 偉大な国・国民ではありませんか。

言葉は文化です。
英語により、イギリスの文化を全世界に影響づけているのです。

わが国でも、今年度(H.23)より、小学校から英語が導入されます。
日本語・日本文化をおざなりにしての、見識なき愚かな教育行政が続いています。
情けないことです。


補注2) 
ドイツの歴史哲学者 オスヴァルト・シュペングラー 〔Spengler 1880-1936 〕は、
その著“Der Untergang des Abendlandes”
〔『西洋の没落』 あるいは 『沈みいくたそがれの国』〕で、
資本主義社会の精神的破産と第一次大戦の体験から西洋文明の没落を予言し、
たいへんな反響を呼びました。

すなわち、近代ヨーロッパ文明は既に“たそがれ”の段階であり、
やがて沈みゆく太陽のように消滅すると予言したのです。




 歴史が物語っていますように、儒学は平和な時代・成熟した社会の教えです。
かつて、“日出づる処”アジア(中国〔清・明〕 − 朝鮮〔李朝〕 − 日本〔江戸〕) が、
儒学(朱子学)文化圏を築いて繁栄した時代がありました。

日本は明治以降、資本主義を発展させ
(農業国から)経済(工業)立国へと進化してまいりました。

私は、善き経済の発展と儒学の隆盛とは、相扶ける関係にあると結論しています。

経済と道徳(倫理)は、「はなはだ遠くて、はなはだ近い」 ものなのです。


 さて、儒家の開祖が孔子(BC.552〔551〕〜BC.479)です。
儒学の源流思想は、孔子とその一門にあります。
“孔門の十哲”の一人 子貢〔しこう〕 は、
3000人ともいわれる孔子の弟子の中で随一の才人・器量人です。

『論語』にも(子路とともに)最も多く登場します。

そして特筆すべきは、リッチ/ Rich!な存在です。
商才あり利財に優れ、社会的にも(実業家として)発展いたしました。


 一方、ロビンソン=クルーソー (D.デフォー、『ロビンソン漂流記』)は、
単なる児童冒険文学ではありません。

当時の経済的人間”の代表像として捉えることができます。

つまり、世界帝国・イギリス資本主義の青年時代の担い手
=「中流の(身分の)〔“middling station of life”〕人々」の
理想的人間像
と考えられるのです。  補注3) 


 今回の講演では、洋の東西、時代も場所も全く異なるこの両者に、
グローバルな現代の視点から光をあて、
“「合一」なるもの”を探ってみたいと思います。

例えば、理想的人間(像)/中庸・中徳/経済的合理主義/金儲け(利潤追求)
/時間の大切さ・・・etc. といったものなどです。


補注3)
“器量人”・“経済人”の現代日本語の一般的(通俗的)用い方を考えてみますと。
「器である」・「器が大きい」・「器量人だ」といった用い方は、
人に秀で優れたリーダー(指導者)であるという意味で使われているように思われます。

私のいう、大人〔たいじん〕の意のようなニュアンスです。

一部特殊な業界では、「貫目〔かんめ:身に備わる威厳・貫禄〕が足りない」(=器量不足)
などとも使うようです。

一方、“経済人”は、活躍しているビジネスマン、
実業界の中堅管理者層以上のリーダーに用いられているように思います。

本講演により、この2つの言葉・言霊のその有るべき姿を考えていただきたく思います。



─── 主要参考文献について ───

子貢とその儒学関連の記述・引用は、 
真儒協会・定例講習 「論語」・「本〔もと〕学」 レジュメを中心にまとめています。

D.デフォー、 ロビンソン=クルーソー については、
物語引用は、『ロビンソン・クルーソー』・デフォー著 佐山栄太郎訳・旺文社文庫によります。

“経済人・ロビンソン=クルーソー”については、
大塚久雄 「経済人・ロビンソン・クルーソウ」(『社会科学の方法』・岩波新書 所収)、
同氏関連著作によります。

ほか、M.ヴェーバー・『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の倫理』』・岩波文庫 
などを参照しています。




《 『論語』 と 子貢 について 》

 孔子門下を儒家思想・教学の本流から眺めれば、
顔回と曽子を最初に取り扱うのが良いかと思います。

が、『論語』を偉大な 社会・人生哲学の日常座右の書としてみる時、
子路と子貢とはその双璧といって良いと思います。

個性の鮮烈さ、パワー(影響力)において、
孔門 3.000人中で東西両横綱でしょう。

実際、『論語』に最も多く登場するのが子路と子貢です。

『史記』・「仲尼弟子〔ちゅうじていし〕列伝」においても
最も字数が多いのは子貢、そして子路の順です。 


 さて、子貢(BC.520〜BC.456)は字〔あざな〕。姓は端木、名は賜〔し〕。
衛〔えい〕の出身で裕福な商人の出とされています。

四科(十哲)では、宰与〔さいよ〕と共に「言語」に分類されています。

孔子との年齢差は、31歳。 親子ほどもの年齢差です。


 孔門随一の徳人が俊英・顔回なら、孔門随一の才人・器量人が子貢でしょう。

口達者でクールな切れ者。
そして特筆すべきは、商才あり利財に優れ、
社会的にも(実業家として)発展
いたしました。

清貧の門人の多い中、リッチ・Rich!な存在です。

孔子とその大学校(※史上初の私立大学校ともいえましょう)を、
強力にバックアップしたと思われます。

今でいう理事長的存在(?)であったのかも知れません。

そのような、社会的評価・認知度もあってでしょう、
“孔子以上(の人物)”と取り沙汰され、
その風評を子貢自身が打ち消す場面が幾度も『論語』に登場します。


 大器量人子貢  ・・・ “女〔なんじ〕は器なり”、君子とは? 君子


○ “子貢、問うて曰く、「賜〔し〕や 何如〔いかん〕。
  子曰く、「女〔なんじ〕は器なり。」 
  曰く、「何の器ぞや。」 
  曰く、「瑚レン〔これん〕なり。」” (公冶長第5−4)

《大意》
 子貢が、「賜(この私)は、いかなる人物でございましょうか。」とお尋ねしました。
孔先生は、「お前は、器物だ。」とおっしゃいました。
子貢は、「それでは、一体どのような器物でございましょうか。」と
(重ねて)お尋ねしました。
孔先生は、「瑚レンだね。」とおっしゃいました。

※ 何如(=何若・何奈)は、“いかん”と読み
  “どうなるか”・“どんなか(状態を表す)”の意。 
  如何(=若何・奈何)は、“いかん(せん)”と読み
  “どうしましょうか”の意。

※ 「女器也」「何器也」 : 孔子は、子貢の材は用に適する(有用)ものなので、
  “器〔うつわ〕”と言いました。
  器には、器物としての限界があります。
  「君子不器」を、おそらく子貢は知っていると思います。
  それで、少々不満で、「どのような器物でございましょうか?」と
  重ねてお尋ねしたわけでしょう。 
  ── 子貢、大才・大材なれど君子には及ばぬということです

※ 「瑚レン也」 : 瑚レン (夏代に瑚、殷代にレンといい、
  周代にはホキ〔ほき〕といいます)は、
  宗廟〔おたまや〕のお供えを盛る貴重で美しいもの。 
  ── 子貢は、君子には達していないが、
  器の中で最高に貴いものであろうかということです! 
  (孔子は、少々子貢に気を使ってタテテいるのかもしれませんね?)


○ “子曰く、「君子は器ならず。」 ”  (為政第2−12)

《大意》
 孔先生がおっしゃるには、
「君子は、器物のように用途が限定されて他に通用しないようなものではないよ。」

※ 君子は、一芸一能に止まらず、窮まることなく何事にも応じることができる人です。


○ “子貢、君子を問う。
  子曰く、「先〔ま〕ず其の言を行い、而〔しか〕して後にこれに従う。」 ”
  (為政第2−13)

《大意》
 子貢が、君子とはどのようなものかお尋ねしました。
孔先生がおっしゃるには、
「まず、言わんとすることを実行して、行ってから後にものを言うものである。」

※ 子貢は、言語の科で知られるように弁才の人です。
  時に、言行不一致、口達者のきらいがあるのを含んでたしなめた孔子の言葉でしょう。 
  「君子は、言に訥〔とつ〕にして、行に敏ならんと欲す。」 (里仁第4−24) 
  ともあります。

  “不言実行”・“雄弁は銀、沈黙は金”という古諺〔こげん〕がありますね。
  また、“黙養”という修行もあります。

  騒がしく口うるさいのを感じる時世です。口舌の徒多い時勢です。 
  ── 想いますに、男子はもの(口)静かなのが善いと思います。

◎ “君子は器〔き〕を身に蔵し、時を待ちて動く” (『易経』)

孔子は、君子は用途の決まった器物のようなものでなく、
  器物を使う人であると言っています。
  東洋思想にいう君子は、徳を修めた者で、小人は技芸を修めた者という意味です。

cf.「大器晩成」 (『老子』) : 
    大きな器は、作るのに時間がかかる → 大人物は速成できない

 * 「大器免成」 : 大いなる器は、完成しない → 大人物は到達点がない
  (『易経』・・・未済は、未完成。 64卦 最終の卦=人生に完成はない、 
   無終の道=循環・無始無終。
  「終始」 = 終りて始まる、という悠なる易学の循環の理。 )


(この続きは、次の記事をご覧下さい。)



※全体は以下のようなタイトル構成となっており、7回に分割してメルマガ配信いたしました。
  (後日、こちらのブログ【儒灯】にも掲載いたしました。)


●5月20日(金) その1 
                《 §.はじめに 》

                《 『論語』 と 子貢 について 》            

●5月23日(月) その2 
                《 D.デフォー と ロビンソン=クルーソー について 》 

                《 経済と道徳・倫理について 》

●5月25日(水) その3 
                《 子貢 と ロビンソン=クルーソー 》
                   1) 理想的人間(像)                

●5月27日(金) その4
                   2) 中庸・中徳                   

●5月30日(月) その5   
                   3) 経済的合理主義                 

●6月1日(水)  その6
                   4) 時間の大切さ                  

●6月3日(金)  その7
                   5) 金儲け(利潤追求)      

                《 結びにかえて 》



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