三省〔さんせい〕に想う (後編)
  ─── 「省」の2義(意)/聖徳太子と耶律楚材の「省」/結果責任/
無駄・無責任の現代(2010)/“風をおこすものは吏と師”/“黙養” ───


《 師(教師・学校)と「省」 》

 「師走〔師走:12月〕」は、師ですら走り回る(ほど忙しい)という言葉ですから、
昔の先生・師匠は、日ごろよほどのんびりしたものだったのでしょう。

今世は、一転して、いつも走り回っています。

 「教師」という“人種”は、よほど会議が好きな人間と見えます。
そして、次から次へと“コトを生〔ふ〕やす”・“仕事づくり”の名人上手〔じょうず〕です。

それでいて、いっかな省く事ができません。

それは、趣味というより一種の性癖のように思われます。

今時の教師という者を一言に表すと、“賢い愚か者”と造語しました。
矛盾する語の組み合わせながら(小さな巨人のように)、
言い得て妙かなと思っています。

 したがって、学校は“会議漬け”です。
学校は、実〔まこと〕に実〔じつ〕のない会議と膨大な資料・印刷物の山です。

これほどの時間的・物的な無駄は、“親方日の丸”ならではでしょう。
民間会社の“会議漬け”であれば、「省」力化を図れなければ、
いずれ資本主義の原理によって“淘汰”されるというものです。

官公庁は、そんな“会議” をしていても賃金は支払われます。
税金の無駄の典型です。

ちなみに、官制の、日本の一番大規模な会議が「国会」であるともいえましょうか。

 次に、“省〔はぶ〕きなきコト生〔ふ〕やし”についてです。
あるものを【益】やすためには、あるものを【損】じなくてはなりません。

── そこでいくつか、事例を思い起こしました。

1.住宅の間取りプラン : 
  一つの(追加)部屋やより大きなスペースを求めるなら、
  どこかの部屋をあきらめるか狭くするかです。
  “ハコ”の大きさは限られていますからね。
  中途半端な折衷・両用は、どちらもどれも用をなしません。最悪です! 注5)

2.ショッピング : 
  財布の中身は一定です。
  あるものを買いたかったら、他のものはあきらめるか減らすかしなければ、
  借金ができるだけです。 
  足〔た〕るを知り(知足)、「分」を守った(安分)生活が大切です。

3.食毒・過食肥満 : 
  食べること、摂取ばかりで排出を疎〔おろそ〕かにすると
  便秘・宿便で健康を害します。
  エネルギー(カロリー)出入りのバランスを崩して、消費(代謝)が少ないと
  不健康な肥満、肥満に因る万病となります。  ── など等。

 責任という視点においても、敗戦後の教育関係者(教師と監督機関者)は無責任です。

政治家に“結果責任”があるように、教育関係者にも 
── 人間が成人(ひととなるの意)となるのに時間がかかる 
── 結果が出るのに時間がかかるにせよ、
育った人間に対して責任があります。

例えば、最高学府(といわれている)「東京大学」は
多くの人材社会に輩出していると同時に、
多くの犯罪者や問題人間を出しています。

東大の“先生”がたは、これをどのようにお考えになり、
どのように責任を認識なさっているのでしょうか? 

教育者は「成人」に、政治家は「社会」に、“結果責任”があるのです。

 現状においても、学校現場は、“責任”の語は死語のようです。

“権利”ばかりが声高に主張され語られ、
対(ペアー)概念である“義務”・“責任”という語はついぞ耳にした
ことがありません。

共同責任は無責任」という名言がありますが、教師の世界はまさにそれです。
“みんなが責任を取る” は “だれも責任を取らない” ということです。

議長でも分掌〔ぶんしょう〕でも、なんでもかんでも輪番制です。
“もち回り・たらい回し”で誰も責任を取りません。

平等意識もいびつです

体重50kgの人も100kgの人も、おとなも子供も一律に
同じ量のパン(ごはん)を食べさせるがごとき平等思想です。

 教師・学校は、その自らの「分〔ぶん:人間教育〕」は果たせないで、
「分」をこえて能力もないのに他の役割を担って(担わせられて)います

21世紀初頭の日本の教育は、(どうでもよい、むしろ害悪な)枝葉が生い繁り「陽」に過ぎ、
“わからなくなり”・“フン詰まり”状態です

こういう状態を、“お手上げ”というのでしょう。

現今〔いま〕、文化・学道の精華は、どこに視られましょうか?

 【師】は本来、軍隊のリーダー〔指導者〕の意、
そこから「敬」せられて先生の意となりました。 注6) 

人から敬〔うやま〕われ、自らは敬〔つつし〕むというのない先生はいてはいけません。

「師恩友益」という箴言〔しんげん〕があります。が、真の教師が絶滅の危機にあります。
これからの日本は、貴重な“人徳”の君子たる【師】の必要な時代です


注4) 易卦「風雷益」と「山沢損」のペアは、“生〔ふ〕やし”・“削り省く”の理を
    おしえていると私感しています。
    それは、中庸・バランスの原理であるのかもしれません。

注5) 現在、小学校からの英語教育が開始されようとしています。
    愚策の最たるものとして、将来呆れられることでしょう。
    日本の現状は、「国の語」である日本語教育すらままならない、
    つまり言語文化が廃れている危機的状況にあります。
    結果は、母語としての日本語も外国語としての英語(米語)もモノにならない、
    どこの国民か“わからない”人間を溢れさすだけでしょう。

注6) 易卦「地水師」: 戦争の軍師 → 先生の卦 / 忠臣の象〔かたち・しょう〕であり、
    大命を委任されている(指揮君臨する)象。

 

《 言語を省く 》 
 
 私の机上の箴言〔しんげん〕に、「七養」(格言聯璧〔れんぺき〕)を墨書しております。

その 【三】 に「言語を省いて以て神気を養う」があります。 ─── 黙養です。

 明〔みん〕の李二曲〔りにきょく〕は、この “黙養”の修業をしました。
三年の間、軽々しく一語たりと発しないで沈黙を守り、内に力を蓄養することで、
修業の後には、発する言葉に人を信服させた(重みをもった)ということです。

 都市に生活しておりますと(21世紀初頭・大阪)、つくづく “うるさく” 感じます。

いったい、世の中 煩〔うるさ〕過ぎます。喋り過ぎです。
全く、雑音・騒音に満ちています。

その、“うるささ”は、本来の人間の感性・神経を痛め心身を蝕〔むしば〕んでいくようです。

 車・電車などの乗り物やメディアの喧騒は、仕方なくもあきらめがつきますが、
人間の“うるささ”は度し難いものがあります。

殊に、若者学生の傍若無人の“うるささ”には閉口です。

電車の中やファーストフードの店内などの、
本来大声で喋るべきでない公共の場所で、
所かまわず辺りかまわず、大声で喋りまくっています。

そして、四六時中(“中毒”か“依存症”であることを示すように)携帯電話を弄んでいます。

聞きたくなくとも、耳障りに聞こえてくるわけですが、
つくづくどうでもよいような軽佻浮薄な内容です。

おまけに日本語自体がひどいものです。

 あまつさえ、ファーストフード店などでは、(ゴミ箱に放り込むだけの片づけなのに)
食べ散らかし・散乱ぶり目に余るものがあります。

まるで、ヒト以外のある種のホ乳類でもいたかのごとくに ・・・ です。

加えて、店外でも、“持ち帰り”の中味を食べた後の包装紙の類が散乱している光景は、
いたるところに見られます。

それやこれや、全く、動物的。ジャングルにいるような気になった時もあります。

 “現代若者学生気質〔かたぎ〕”は、自他の区別がなく、“自分〔エゴ〕”しかありません。

幼弱児的若者”です

自分が他人〔ひと〕からみて他人〔ひと〕であるという
幼児レベルの認識が欠如しています。

社会化”がなされておらず、他人〔ひと〕の立場に立つことがありません。

キリなき、グチは休題〔さておき〕。

 まったく、都会の日常生活で静寂を確保することは、難しい状況です。

私は、“聞こえざるを聴き、見えざるを観る”、心耳・心眼の世界を目指しているのですが、
そのため(第六感)には、五感の働きを静かに研ぎ澄ませることが必要です。

 ─── “雄弁は銀、沈黙は金”という古諺〔こげん〕がありましたが、
君子は、もの(口)静かなのが善いとつくづく想います。

まことに、言葉を省くは善しです。

 

《 おわりに ・・・ 中庸を! 》 

 東洋思想(儒学)の根源  は、
森羅万象の変化=「変易」とその対応を教えています。

そして同時に、変わらぬもの「不易」と、
そのシンプルなこと「易簡」 〔いかん/簡易〕を教えています。(「易の三義」) 

真理は、シンプルなものです。

吉田松陰先生の言葉にも、
「道は即ち高し、美し、約なり、近なり。」(『講孟餘話』・序文) とあります。

 ニュートンも、「自然は常に単純であり、何らの自家撞着〔じかどうちゃく〕をも持たない」と、
コペルニクスも、「自然は単純を愛す」と述べています。

自然界に対して、一方、人間界はどうでしょうか?

 先述のように、21世紀初頭・現代日本は、
大衆(民主主義)社会の弊が顕〔あらわ〕となっております。

敗戦後65年余の“ツケ”が回ってきて、
抜き差しならぬ状況に至ってまいりました。

それは、東洋流に表現すれば“陰陽のバランスシート”が大きく崩れ、
「陽」が過多・過剰の氾濫状態になっています。

易の【乾】=「ドラゴン」と【震】=「小ドラゴン」の過剰です。

行きつくところは、騒擾〔そうじょう〕、
“わからなくなって”自滅してゆくでしょう。

平たく例えれば、 適食 → 飽食 → 過食 の時代で、
超肥満により全身に身心の病を生じ、重篤に至らんとするがごときです。

 中庸」とは、“ホドよく”過不及がなくなすべきことに中〔かな〕っていることです。

時のよろしきを得て「時中」で、
和〔やわらぎ:(聖徳太子の「憲法十七条」の一)〕を実現して「中和」です。
 

 
 結びにあたり、「三省」を私自身にあてはめて付言しておきます。

奇しくも、「知命」・「知非」の年齢を経て、
何とか、人生の【節】(せつ/「水沢節」卦:節目)を通過いたしております。

自分の半生を振り返って、随分と徒労・無駄の連続であったことを
深く省みて(反省して)おります。

後生〔こうせい:=若人〕に比べて、絶対的に少ない人生の時間〔とき〕です。

 ところで、宮本武蔵は、「我、ことにおいて後悔せず」と言い放っております。

60余度の真剣勝負(文字どおり命をかけた勝負)に、
全勝した剣豪ならではの境地・言葉です(*後悔する時は死んでいる時)。

 私も、歳をかさね、パワーも人生の“持ち時間”も漸減し貴重なものとなっております。

「省みる」を、後悔の意味で繰り返している時間的暇〔いとま〕はありません。

後悔しなくてよいように、しっかりと省かねばなりません。

徒労の時を補い、人生の“帳じり・勘定”を合わせるためにも、
よくよく先を観、残り人生の中身・密度を濃く充実させなければならないと思います。

そして、貴重な生の時間を、実りある“”(=徳)で煌〔きら〕めかせたいものだと思っております。 

─── そんなことを、思い想いました。
                                  ( 完 )