2) 中庸・中徳 :
儒学(=易学)の根本思想は、“中論”・“中庸”です。
中庸の思想は、西洋においても古代ギリシアの古くからみられ、
普遍的思想であるともいえましょう。
昨年、ドイツのお話をした時に
(H.22 真儒の集い・特別講演:“ 『グリム童話』と儒学 ”)、
その 《はじめに》 で、両極端で“中庸”を欠くドイツ史? として、
次の文を引用しました。
● 「ドイツ国民の歴史は、極端の歴史である。
そこには中庸さ(moderation)が欠如している。
そして、ほぼ一千年の間、
ドイツ民族は尋常さ(normality)ということのみを経験していなかった。
・・・中略・・・
地政的にドイツ中央部の国民は、その精神構造のうちに、
とりわけ政治的 思考のなかに、中庸を得た生き方を見出したことはなかった。
われわれは、ドイツ史のなかに、
フランスやイギリスにおいて顕著である中庸(a Juste milien)と常識の
二つの特質をもとめるのであるが、それは虚しい結果の終るのである。
ドイツ史においては激しい振動のみが普通のことなのである 」
(A・J・P・ティラー、『ドイツ史研究』)
『ロビンソン漂流記』で、冒頭の部分は、
ロビンソン=クルーソーが父親から説教され訓戒を受けているシーンです。
その 2ページほどの文言に、著者デフォー の言いたかったことが
代弁され尽くしているといっても良いのです。
その内容は、中流の人々こそがイギリスの国を支えている土台であり、
個人としても幸福であるということ。
アドヴェンチャラーとしての荒稼ぎを誡め
堅実に父祖の仕事を“受け継ぐ”ことを指します。
現代の日本社会・日本経済の荒廃は、
父の誡めを破ったロビンソン=クルーソーの失敗と同じに、
この中庸・中徳 を失った所に根本原因があります。
【 冒頭 ── 中位の人・中庸 】
(デフォー・『ロビンソン・クルーソー』、旺文社文庫pp.6−7)
● 「賢くて謹厳な父はわたしの計画を見抜いて、心をこめたりっぱな警告をしてくれた。
痛風で閉じこもっていた自分の部屋に、ある朝わたしを呼んで、
この問題について懇々と説諭〔せつゆ〕してくれた。
お前は親の家を出、生まれ故郷を捨てるというが、
いったいどんな理由があるのか、
ただお前のもっている放浪癖にすぎないではないか。
ここにいれば、りっぱに世間に出してもらえるし、
勤勉と努力しだいでは身代〔しんだい〕を作る見込みもじゅうぶんあり、
安楽なたのしい生活が送れるだろうに。
冒険を求めて海外に乗り出し、思い切ったことでひと旗あげ、
尋常一様〔じんじょういちよう〕でない仕事をやって名をあげようなんて連中は、
やぶれかぶれになった人間か、幸運に恵まれた野心家か、そのどちらかなのだ。
こういうことはお前などのとうてい企て及ぶところではない。
あるいは、そこまで身をおとすべきことではない。
お前の身分は中位のところだ。
下層社会の上の部といってもよかろう。
自分の長い経験によるとこれがいちばんいい身分で、
人間の幸福にもいちばんぴったり合ってもいる。
身分のいやしい連中のみじめさや苦しさ、その労苦や苦悩をなめる必要もないし、
身分の高い人たちの虚栄や贅沢や野心や嫉妬になやまされることもない。
こういう中位の立場がどんなに幸福であるかは、
ほかの連中がみんなうらやましがっていることを考えて見るだけでよくわかるだろう。
例えば、古来いくたびか、王者たちは権勢の地位に生まれついたばかりに
なめねばならないみじめさを嘆き
貴賎の両極端の中間に生まれたかったと願ったことであろう。
また、貧も富もさけたいと願った賢者(1) は、
この中位の身分こそ真の幸福の基準であることを証言したのだ。
父はこのように語ったのである。
父は続けた。
・・・・ 中略 ・・・・
中位の生活はあらゆる美徳とあらゆる楽しみをうけるようにできている。
平和と豊かさはこの中位の運にかしずく侍女のようなものである。
節制や中庸や平静や健康や社交、
またあらゆる楽しい娯楽やあらゆる望ましい快楽は、
中流の人々についてまわる恵みなのだ。
(1) 『箴言〔しんげん〕』 三章八節。
『箴言』は旧約聖書の中の一書でイスラエルの賢者の言葉を含んでいる。 」
○ 「 子貢問う、師と商とは孰〔いず〕れか賢〔まさ〕れる。
子曰く、師や過ぎたり。商や及ばず。
曰く、然らば則〔すなわ〕ち師は愈〔まさ〕れるか。
子曰く、過ぎたるは 猶〔なお〕及ばざるが如し。」 (先進第11−16)
・ “猶”は、代表的な再読文字で“なお 〜 ごと シ”と、二度読みます。
再読文字の学習の意味からも、漢文でよく出てくる おなじみの一節です。
《大意》
やり過ぎるのは、やり足りないのと同じようなものだ(どちらもよくない)の意です。
過不足のない、中庸〔ちゅうよう〕 を得ていることが大切であることを述べた章です。
孔子に問うた 子貢は、やり過ぎた(師〔子張〕という弟子)のほうが、
及ばぬ(商〔子夏〕という弟子)よりもよい(マシ)と思ったようですね。
それに対する孔子の答えがこれです。
・ 私は、以上の一般的説明の後で、
学生に“皆さんはどう思いますか?” “孔子の真意はどうなのでしょう?”と
問いかけることにしています。
(例えば、言い過ぎて人を傷つける場合と 言うべきことが言い足りない場合との比較です)
学生達の答えはさまざまですが、
私は“孔子は及ばないほうが優れていると考えている”と思います。
徳川家康も同じ捉え方のようで、「東照君遺訓」の中に
「人の一生は 重き荷を負うて遠き道を行くがごとし。
── 及ばざるは 過ぎたるに勝れり。」とあります。
[ 参考 ]
*第18回 定例講習
■本学 資料 《 中庸 入門 》 ( by 高根・『易経』事始 )
‘ (I am the sun god, Apollo. )
Think of the responsibility I have !
The skies and the earth must receive their share of heat.
If the chariot goes too high, the heavenly homes will burn.
If it goes too low, the earth will be set on fire.
I can not take either of these roads.
There must be some balance.
This is true of life, itself.
The middle course is the safest and best. ’
〔 Phaёthon “ Popular Greek Myths”〕
《大意》
「(私は、太陽の神・アポロである。)
私が担っている責任の重さを想ってもみよ!
天と地には、それぞれ相応の熱を与え得ねばならぬのだ。
もし、(太陽の2輪)馬車の運行する道筋があまり高すぎれば、
天の御殿が燃えてしまうだろう。
低きにすぎれば地上は火事となるだろう。
私は、そういう(2つの極端な)道をとるわけにはいかぬのだ。
それなりのバランスというものをはからねばならぬのだ。
このことは、人生そのものにも当てはまる。
中庸の道こそが最も安全で、また善き道なのだ。」
〔 パエトン・『ギリシア神話』 〕
§.「中(ちゅう)」の思想 (『中庸』・中道・中徳・中の説…中の学問・弁証法)
○ 「そこで、この陰陽相対性理法によってものごとの進化というものが行われるのですが、
この無限の進化を『中』という。
だから易は陰、陽、中の理法であり学問である。」 (『易とはなにか』、安岡正篤)
○ 「中行にして咎无(とがな)し」 (『易経』・夬九五)
○ 「子日く、中庸の徳たる、其れ至れるかな。民鮮(すく)なきこと久し。」
(『論語』・雍也第6)
《大意》
中庸の徳というものは、ほんとうに至れる徳であるなあ。
しかしながら,(世が乱れてしまって)その中庸の徳が鮮なくなって もう久しいね。
・ 孔子(儒学)の教えは、“中庸の徳”を尊びます。
“中”は ホド〔程〕よく過不足なく、 “庸”は平正で不変なことです。
後に、孔子の孫である子思が、その教えを明らかにするために
『中庸』という本を著すこととなります。
・ 21世紀の我国は、“戦国”の時代ではありませんが、
モノの豊かさとはうらはらに人心は乱れ、
道徳は忘れられ、この憂〔うれ〕いそのものだと思います。
ちなみに、アニメの名作「千と千尋〔ちひろ〕の神隠し」で、
千尋が行きたい“魔女・ゼニーバ”の所へ行ける
(40年前の使い残りの)電車の切符を“かまじい”から
受け取るときのやりとりに注目です。
「行くにはな〜、行けるだろうが、帰りがなー。」 ・
「昔は戻りの電車があったんだが、近頃はいきっぱなしだ。それでも行くかだ!」
「うん、帰りは線路を歩いてくるからいい」。
そして、電車の線路は、水に浸〔つ〕かり沈みかけていました。
── さて、その電車の行き先(電車前面に書いてある)が
何処と書いてあったかご存知ですか?
「中道」 (=中庸)とありました。
中徳を失った(失いかけている)現代人への寓意〔ぐうい〕でしょうか。
・ 易は、「 中=むすび 」である。
易の最も重視するものが “時中(時に中す)”
= 中道に合致すること。 ※時中=中節
・ 東洋の儒教、仏教、老荘─(道教) ・・・は、すべて中論
・ 西洋の弁証法(論理学の正・反・合)
── ヘーゲル弁証法、アウフヘーベン(止揚・揚棄)
■ 中=「むすび(産霊)」・天地万物を生成すること
○「天地因ウン〔いんうん〕として、万物化醇す。
男女精を構(あ)わせて〔構=媾精〕,万物化生す。
易に曰く、三人いけば一人を損す。 一人行けば其の友を得、と。
致一なるを言うなり。」 (繋辞下伝)
(天地も男女も二つ対〔ペアー〕であればこそ一つにまとまり得るとの意)
※参考 ・・・ 日本の「国学」、神道(しんとう)、随神(かんながら)の道
── 天御中主神 〔あめのみなかぬしのかみ〕;天の中心的存在の主宰神
■ 中=なか・あたる、「ホド(程)」、ホドホド…あんばい(塩梅・按配)する、
良いあんばい、調整、いい加減=良い加減=中道・中庸、
中庸は天秤〔てんびん〕=バランス=状況によって動く
♪“ホドの良いのにほだされて…”(「お座敷小唄」)
“千と千尋の神隠し”の「中道」行き電車、“ヴントの中庸説”、
入浴の温度、 飲み物(茶・酒)の湯加減、
スポーツ競技での複数審査員の合算評点法 ・・・ etc.
1)静的(スタティック・真ん中)なものではなく、動的(カイネティック、ダイナミック)
2)両方の矛盾を統一して、一段高いところへ進む過程、無限の進化
例 ─「中国」、「中華」、「黄中」、「心中〔しんじゅう、心・中す、=情死〕、「折中」
※ 参考 ─“中(なか、あたり)”さん〔人名〕、大学・中学・小学、「中学」は違う!
■ブログ 【儒灯】 「中庸の美」より 美の思想2 ── 中庸 ──
(→ http://blog.livedoor.jp/jugaku_net/archives/50718529.html)
東洋思想特有の言葉であり、儒学(易)思想の根本概念が
“中庸〔ちゅよう〕”です。
中庸の徳といいますのは、 過・不足 の両極端を廃して
“ホド〔程〕”よく あんばい〔塩梅〕する、“中和”することです。
「中論」は、仏教や神道〔しんとう〕の思想にもあり、
ギリシア哲学にもありますから 半ば普遍的なものとも言えましょう。
中庸を 美の学として、西洋的に表現しますと、
統一の要素 ユニティー 〔 Unity 〕と同義に扱われたり、
包含するものとして扱われる “バランス〔 Balance 〕”の概念が
一番近いのではないかと思います。
また、心理学的にも中庸は用いられています。
例えば、ヴント( W.Wundt ; 心理学の祖 )の快適性についての“中庸説”は、
刺激強度が適当であるときに最も快適であることをいったものです。
さて、この中庸は、ともすると 単純・浅薄に、中央・平均と捉えられがちです。
先の図2 でいうと、変化と統一の要素の 相半ばする点と考えられがちですが、
そうではありません。 中庸には、もっと深意があります。
中庸を理解するために、例として“棒ばかり〔秤〕”について述べてみましょう。
図3 にモデル図を描いてみました。
学生諸君は、“はかり”といえば 針で数字を表示するものしかご存知ないでしょう。
理科で、分銅をのせて(減らして)左右のバランスをとる
“天秤〔てんびん〕”はご存知でしょう。
(今中年の)私の幼少のころは、行商の人が
魚や野菜などを各家庭に売り歩いていました。
その重さを量る道具として 棒ばかり を持っていました。
重さを量るやりかたを、幼心にかすかに覚えています。
棒(秤竿〔はかりざお〕)の上に、重さを表示する目盛りが刻まれています。
片方よりにヒモの持ち手(逆三角形で示しています)があり、
図では右側にはかるモノをのせる秤皿が 固定されてついています。
この皿に、例えば 魚をのせます。
反対の端には、おもり(分銅)を引っ掛けます。
はかるモノは、重さが異なりますので
おもりの(重さではなく)位置を調節して、
棒の水平を実現します。
その水平になった時、棒の目盛りを読むと重さがわかるという仕組みです。
棒ばかりは、“てこの原理”の応用で
秤皿のモノと おもりとのバランスをとります。
支点である 持ち手を動かしても、おもりを動かしても
原理的には同じですが、
おもりを動かして棒を水平にした のだと思います。
この おもり(の動き)にあたるものが、
中庸を示していると考えられます。
つまり、はかるモノ( = 状況、価値基準など)が変化すれば
中庸 は動きます。
中庸の深意は、この 動的概念 にあります。
※ ちなみに、“はかりめ”という言葉(魚)をご存知でしょうか?
関東(千葉県南半部)では、“あなご”のことを“はかりめ”というそうです。
その棒状の形状の側面に、はかりの“め”のような
模 様があることに由来しているとのことです。
興のある名前です。
私は、学生に 中庸の概念を身近に考えさせる時に、
よくテストの成績を具体例にあげて問いかけ話します。
テストといえば、学生・保護者は よく“平均点”を知って基準にしたがります。
100 点満点のテストで、中庸の目標点数は
学年平均点や中央(値)点のことではありません。
各個々人によって、その能力や志向によって、
60 点のこともあれば、80 点のこともあれば、
40 点(欠点でない)のこともある・・・ということです。
大学受験生にしても、志望大学・各部によって
ホドよい点数(学力)は、異なってきますでしょう。
中庸の美を、私なりに定義すると、
「状況・変化に対応した動的な バランス〔 Valance: 均衡 〕」
といったところでしょうか。
中庸の考え方は、全陰と全陽をその両端と考え、
陰陽の動的バ ランスの中に あるべき姿 (美) があるとするものです。
これは、非常に深く 妙なもので、芸術美においても 人生においても、
普遍的な「一〔いつ〕なるものであると思っています。
*第19回 定例講習
■本学 資料 《 中庸 1 》 ( by 高根・『易経』事始 )
■ 中庸
・ 「中」=人間社会は矛盾の産物、その矛盾(撞着〔どうちゃく〕)したものを結ぶ
中す・中〔あた〕る ── 融合・結合 ・・・ 限りない進歩・発展
“これこそ絶対のもの” =“相反するもの” =“陰の極と陽の極”
例 :男女が結ばれて子供が生まれる(未来に向かう進歩・発展)
“神道〔しんとう〕” では “産霊〔むすび〕”/中す=結び・結ぶ・化成
・ 「庸」=つね・常・並・用いる、平正で常に変わらないこと
・ 「中庸」=常識(常識に適っている、中の精神)。ホド良く過不足のないこと。
中程(真ん中)の意ではない。正しきをとって正しい向に向かわねばならない
“折衷〔せっちゅう〕”・・・ 折は、くじく、悪しきをくじき正しきを結ぶ(安岡氏)
“易姓革命〔えきせい〕”(孟子)
・・・ 中国では、ゼロにして又始めることのくり返し
cf. J.ロックの革命思想(抵抗権を認める社会契約説)
“易世革命〔えきせい〕” (易の六義)
・・・ 世をかえ〔易〕るというより世を修(治)める
[ ヘーゲルの弁証法哲学 と “中論”(中庸) ]
・ Hegel,W.(1770−1831)
・ 正 ー 反 ─ 合 cf. “さくら花”〔cherry blossams〕考・・・ 花のあと葉
「正」=日本・儒学 − 「反」=ドイツ・グリム童話 →“中す” → 「合」= ?
「アウフヘーベン」 Aufheben; ( 止揚・揚棄 = 中す )
◎ ヘーゲル弁証法 参考図
(この続きは、次の記事をご覧下さい。)
※全体は以下のようなタイトル構成となっており、7回に分割してメルマガ配信いたしました。
(後日、こちらのブログ【儒灯】にも掲載いたしました。)
●5月20日(金) その1
《 §.はじめに 》
《 『論語』 と 子貢 について 》
●5月23日(月) その2
《 D.デフォー と ロビンソン=クルーソー について 》
《 経済と道徳・倫理について 》
●5月25日(水) その3
《 子貢 と ロビンソン=クルーソー 》
1) 理想的人間(像)
●5月27日(金) その4
2) 中庸・中徳
●5月30日(月) その5
3) 経済的合理主義
●6月1日(水) その6
4) 時間の大切さ
●6月3日(金) その7
5) 金儲け(利潤追求)
《 結びにかえて 》
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