※この記事は、老子の“現実的平和主義” に想う (第3回) の続きです。
老子の“現実的平和主義” に想う (第4回)
──── 『老子』・「不争」/「兵は不祥の器」/「戦いに勝つも、喪礼を以て之に処り」
/永世中立国スイス/老子とシュヴァイツァー&トルストイ/安岡正篤・「シュヴァイ
ツァーと老子」/佐藤栄作&ケネディ大統領会談/儒学(孔子)の平和主義 ────
現代。
国際的大会の舞台で、勝ってメダルの決まった日本の選手が、
両手を挙げて飛び上がって喜びを現わし、
負けた選手は床に崩れ落ちているという場面をよく目にします。
また、かつて「ヤワラチャン」と愛称され国民的英雄となった
女子柔道・金メダリストは、今、なぜか国会議員になっています。
次に、日本の国技になっている“相撲”について一言いたしておきますと。
相撲には源流思想(易学)がよく取り入れられ、
その影響が色濃く残っています。
具体的には、「陰陽」・「五行〔ごぎょう〕」・
「易の八卦〔はっか/はっけ〕」などの思想です。
例えば、相撲場は、□・四角の土俵(=陰/=地)に
○・丸(円)い俵(=陽/=天) から出来ています。
その土俵の中で、東方〔ひがしがた〕(=陽) と 西方〔にしがた〕(=陰)の力士が戦います
(「天地人和」)。
そして、行司〔ぎょうじ〕のかけ声は、「ハッケヨイ!」(=八卦良い!) です。
相撲は、勝負を争うものではありますが、
「心・技・体」といって、精神性が重視される世界です。
現在の相撲界は、不祥事の連続で「心」の部分が忘れられ、
すっかり堕落しきっている状況です。
心ある人の誰もが、周知のとおりのことです。
過去の相撲界の尊敬すべき国民的ヒーローは、何といっても大横綱・双葉山です。
今年、生誕100年にあたります。
“木鶏〔もっけい/ 出典:『荘子』・『列子』〕”たらんと精進し、
右目が不自由というハンディキャップを克服して、不滅の69連勝を記録いたしました。
(双葉山については、後日、 「“木鶏”と双葉山」 のテーマで取り上げたいと思っています。)
勝負の世界が過度となって、勝つことのみに偏しているのは、相撲でも顕著です。
その一例として、かつて、強さ(勝ち星)だけはピカ一〔いち〕の
外国人(モンゴル出身)の横綱が想起されます。
相撲は、俵から出せば勝負は決しています。それ以上は攻撃しません。
敗者が土俵の下に落ちている場合は、土俵に戻るのをいたわり、
(土俵上の勝者が)手を差し伸べます。
しかるに、その強い横綱は、これでもかと言わんばかりに(豪快に?)、
相手を土俵下にたたき落とし勝ちを誇っていました。
言動においても、何かと横綱としてのマナーや品格を欠くことが取り沙汰されていました。
それでも、勝ち星が重なり優勝すると批判的な声はなくなり、
むしろ讃美の調子に変わります。
そもそも、悲しいかな、その外国人横綱には武道・“敬”の精神が教えられていないのでしょう。
知らないのは、無理からぬことかも知れません。
“勝てば善し”のスポーツの感覚、勝ち負けの感覚しかないのでしょう。
── 武道・“敬”の精神を日本人選手は忘れ、外国人選手は知らないということでしょうか。
最後に、私の尊敬する野球選手、王貞治選手(後に監督)について述べておきたいと思います。
まずもって、108歳の天寿で亡くなられた(2010)謙虚な“偉人の母”様に敬意を表します。
私の好きな言葉の一つに「家貧しくして孝子出ず」があります。
王さんの“孝行”を想います。
世界のホームラン王(868本)としての王選手は、その人知れぬ努力、その成果は無論偉大です。
が、その精神(仁徳)において、私は一層尊敬します。
その最たる事例が次のものです。
ホームランを打つと、普通、満面の笑顔で両手を挙げて
ウイニングポーズをとってグラウンドを回ります。
しかるに、王選手は、(ある時から)勝ち誇る様子微塵〔みじん〕もなく
黙々淡々とグラウンドを回り続けました。
老子の 「恬淡〔てんたん〕」 として、ですね。
それはなぜでしょう?
それは、自分がホームランを打ったということは、
相手のピッチャーはホームランを打たれたということです。
自分のチームの勝利は、相手のチームの敗北ということです。
勝者が敗者を慮〔おもんばか〕ってのことです。
── 老子の平和主義・不争、易卦の【地山謙】
〔ちざんけん: 謙虚・謙遜、“稔るほど頭〔こうべ〕をたれる稲穂かな”〕
そのものではありませんか。
この一事をもっても、【謙】徳のあるゆかしい大選手だと尊敬の念を深くするものです。 補注)
補注)
── ≪ 合格者に対する「オメデトウ」(賛辞)の配慮 ≫
ちなみに私事ながら。教師として多くの生徒を教えていますと、
一般の人では気付かぬような、尋常でない配慮をせねばならない場合があります。
学校の入学試験・資格試験・就職試験などを受験すれば、
全員合格とはゆかず必ず不合格者がいます。
合格者に対して、迂闊〔うかつ〕に、「オメデトウ」や賛辞を声高〔こわだか〕に言って
祝福することは教師としてタブーです。
傍らにいる(いなくても)、残念な結果の人への配慮に欠けるというものです。
賛美・祝福の気持ちは裡〔うち〕に秘めて、
“恬淡〔てんたん〕”と対応することが必要です。
日常身近な些事〔さじ〕ですが、この他者(敗者)への配慮・思いやりが
「仁」であり「恕」の基本だと想います。
《 結びにかえて 》
“兆”〔きざし〕を読む。
国家・社会の近未来は後生(=子ども達)の有様〔ありよう〕に窺〔うかが〕い知ることができます。
── 日曜の電車(大阪)内の一場景。
サッカー少年とおぼしき、スポーツウェアー姿の小学生8・9名と
その先生(監督)らしき大人〔おとな〕を見かけました。
両側の座席を占拠して、元気に(うるさく?)しゃべっていました。
引率の大人も坐ってそ知らぬ態〔てい〕です。
周りには、(私も含めて)立っている大人・老人がたくさんいました。
よくある場景ですね。
── どこかおかしいスポーツマンシップではないでしょうか?
“本”〔もと〕が忘れられてはいないでしょうか?
わが国は、 “心の貧しさ” が顕〔あらわ〕となり、
“心の時代” が唱えられてすでに久しいものがあります。
徳の【蒙】〔くら〕い時代 となりました。
このままでは、君子の道閉ざされ【明夷】〔めいい〕の暗黒時代となってしまいます。
“戦い”と“勝つことへの偏執”が、現代版の“見せ物”である
スポーツの世界をも支配しているということです。
この現実を、老子や孔子といった聖人たちは、なんと言うでしょうか?
その延長線上にあるものは何か、過去の歴史を眺めてみれば解かります。
現今〔いま〕の、“本〔もと〕”を欠いた平和主義を標榜〔ひょうぼう〕しているわが国の有様は、
私には、 “理想の平和な社会に向かって、足早に後ずさりしている” ように想えてなりません。
( 以 上 )
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