儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

勝海舟

「咸臨丸」 と 『蹇蹇録』


「咸臨丸」 と 『蹇蹇録』

――― 「咸 [かん] 」 ・ 「臨」 ・ 「賁 [ひ] 」 ・ 「蹇 [けん] 」 卦、条約改正

1853年6月3日、ペリー提督率いるアメリカ艦隊(黒船・軍艦4隻)が浦賀沖に来航。
翌年1月再来し(軍艦7隻)、日米和親条約が締結されました。

今年2009年は、その時から156年を数えるわけです。

1月には、“Change [変革] ” をとなえてオバマ新アメリカ大統領が就任いたしました。
昨年8月には北京オリンピックが開催され、中国も世界の舞台に躍進してまいりました。
対米関係を見すえてゆく大きな節目の時機ではないでしょうか。

1858年6月、日米修好通商条約を締結。
関税自主権なく、治外法権(領事裁判権)を認めた不平等条約でした。

1860年、この条約の批准 [ひじゅん] 書交換のための遣米使節に随行し、
太平洋横断に成功した幕府海軍の木造軍艦が 「咸臨丸 [かんりんまる] 」、
その艦長が勝海舟 (義邦:よしくに、海舟は号)です。

幕臣勝海舟は、当時、世界的視野を持って、大変化によく 「革 [かく] 」
(「沢火革」:故 [ふる] きを去って革 [あらた] める) を持って対応した傑材です。

後年(明治元、1868・3・14)官軍の江戸総攻撃に際し、西郷隆盛と会見し
江戸城無血開城を実現して、江戸を戦火から救うことになります。

なお、広く周知の坂本龍馬は彼の弟子にあたります。

龍馬が勝を斬ろうとして訪問し、その人物に魅了されて弟子入りしたいきさつは、
二人の人物像をよく示しているエピソードです。

さて、「咸臨丸」 の名は 『易経』 の 「沢山咸 [たくさんかん] 」 と
「地沢臨 [ちたくりん] 」の卦に由来しています。

「咸」 は“心”をつけて “感”とするとよくわかると思います。

感応(一瞬にして心が通うこと)のあらゆる作用を意味します。

『易経』 上経は、「乾 [けん] 」 ・ 「坤 [こん] 」 に始まり、
下経は 「咸」 と 「恒 [こう] 」に始まります。

象 [しょう、かたち] でみると、“沢” = 若い女性 と “山” = 若い男性、
男女の相思相愛です。

「咸」卦は、上経の 「水雷屯 [すいらいちゅん:創造、生みの苦しみ] 」 に相当します。

即ち、「むすび [産霊] 」 ・ 生み出すの意味です。

乾・坤の2卦が天地万物をつくるのと同じように、
咸・恒の2卦から人生全般のものごとが生まれ、発展してゆくのです。

また、互卦 [ごか=卦に含まれている意味] は、
「天風コウ [てんぷうこう:思わぬめぐり合い] 」 です。

実際、これより歴史の舞台上で 「速 [すみ] やかに」 (雑卦伝)
欧米文明との出合いが進展してゆくことになるのです。

他方、「臨」卦は、のぞみ見る、希望に燃えたスタート、対外活動力の卦。
すすむ ・ 発展 ・ 光明をあらわす 「大なるもの」 (序卦伝)なのです。

この 「臨」 は非常な尊敬の言葉であって、「臨席」 ・ 「光臨」 の熟語が出来ています。
その人が席に臨 [のぞ] むことで、回りが感化され厳粛なものとなることです。

ですから、臨席はお願いするもので、「私が臨席いたします」 はおかしい使い方です。

そして、更に席をめでたく偉大にする臨席が 「賁臨 [ひりん] 」です。

「賁」 は「山火賁 [さんかひ:あや、かざる] 」 からきており、
“文化の原則” は知識教養で身をかざることの意の卦です。

「ご賁臨を仰ぎます」 ――― そう言われるような人間になりたいものです。

「臨機応変 (危機に臨み変化に応ず) 」 の言葉は、時と場合によって適切に対応することです。

儒学 (=易学) の本質は “変化の思想” です。

“臨変応機 (変化に臨んで機知に応ず) ” もまた大切といえましょう。

ちなみに、「臨」卦の 「民を容 [い] れ保 [やす] んずること強 [かぎ] りなし」 (大象伝)から、
新撰組のスポンサーの若き会津藩主・京都守護職、松平容保 [かたもり] の名がつけられています。

また、象をみてみると 「臨」卦は、水辺より陸を臨む象であり、少女が母に随 [したが] う象です。

そして 「咸」 は、若い男性 (艮 [ごん] の象でしたが、「臨」 も大卦 [たいか] をみると
大震 [だいしん] の象で 「若い木」 の意味が読みとれます。
――― 咸臨丸の甲板には、明治維新の時代を築くニューリーダー達の若き姿があったのです。

即ち、後の明治の元勲初代総理大臣・伊藤博文 [ひろぶみ] (旧千円札中の人)、
『学問のすすめ』 を著し慶應義塾大学を創始する福澤諭吉 (現1万円札中の人)、
条約改正と 「鹿鳴館」 欧化主義政策に尽力する外相・井上馨 [かおる] 達です。

結びに、条約改正の視点から述べましょう。

この不平等条約を対等の関係に改正するために、これ以後涙ぐましい努力がなされます。

歴代外相 (寺島 ・ 井上 ・ 大隈 ・ 青木) ことごとく失敗、
陸奥宗光 [むつむねみつ] 外相に至って漸 [ようや] く部分改正を実現します。

現今、日本語の教養が軽薄となり 「蹇」 の読める人も、ましてや意味のわかる人もいなくなってまいりました。

『蹇蹇録 [けんけんろく] 』 は、陸奥宗光が後年著したものです。
日清戦争や三国干渉、条約改正交渉などを回顧した貴重な史料です。

「水山蹇 [すいざんけん] 」 は、3難卦の一つで、寒さに足が凍えて進めない・足止めストップの卦です。

蹇蹇は 「難 [むずかし・くるしむ] 」 (序・雑卦伝) と同時に忠義を尽くすさまでもあります。
一個人のためではなく、人のため国家社会のための献身尽力です。

即ち、「蹇」 卦の2爻 [こう] に 「躬 [み] 」 の故 [こと] に匪 [あ] らず」 と。
「蹇蹇匪躬 [けんけんひきゅう] 」 の語は、ここから出ています。

そして、条約改正は、小村寿太郎外相による、日露戦争 (今年は104年目) 勝利を背景とした交渉により
完全成功します。 (1911)

修好通商条約締結から実に53年目のことでした。


                                       高根 秀人年


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3月14日に想う

 “3月14日”。
巷間 [ちまた] では ホワイトデーと称して、2月14日のセント・バレンタインデーのお返しの品を送る日となっています。平和にして、商魂たくましい限りです。


 私が、ここで思い想うのは、それではなく 1868年の3月14日のことです。
何の日かご存じでしょうか?

戊辰 [ぼしん] 戦争の中、官軍参謀 西郷 南州 [なんしゅう] (隆盛・たかもり)と、幕府代表 勝 海舟 [かいしゅう] (義邦・よしくに)の会談によって、江戸城の無血開城が実現した日です。

翌15日には、官軍 江戸総攻撃の手はずとなっていました。
一大決戦となれば、江戸は火の海となり多くの死傷者が出たでしょう。

以後の日本史は“明治維新”と称されるような優れた変革が実現したかどうか疑問です。


 世界史に誇れる“維新”が実現したのは、西郷と勝という2大巨星の人物によるところが大であったと思われます。共に極貧の中に学び、自らを高めて文武に秀でました。

この敵対する2人の英傑のリーダー像を考えてみましょう。

西郷は徳が才に勝った人です。
主君、島津 斉彬 [なりあきら] 公が評しているように、君子(仁者)であり“情の人”でした。

一方 勝は、才が徳に勝った人であったといえましょう。


 そうした、陰・陽タイプの差はあるものの、両者は共に大儒学者・佐藤 一斎 [いっさい] の教えに学ぶ者であったのです。

佐藤 一斎は、かつて小泉元首相が訪中の時に、
「春風を以って人に接し、秋霜を以って自ら粛 [つつし] む」 との言葉を書いたことでも、
ご存じの方も多いと思います。

西郷は、一般には そのカリスマ性ばかりが印象強いようですが、儒学的教養人でもありました。
佐藤 一斎の『言志四録』四冊から101カ条をピックアップして常時愛読していました。

勝も 佐藤 一斎の弟子 佐久間 象山 [しょうざん] に学んでおりますから、孫弟子とも言えましょう。

共通の師を持つ儒学的教養人の2人が進歩的(進化的)役割を果たして“維新”を実現したとも言えましょう。


 立場は敵同士でも 「一」 [いつ] なるものを持って、お互いに良く理解・尊敬し合っていたと思われます。

西郷は、明治政府樹立後、西南戦争で賊軍の汚名を着せられ死にます。

後年、勝は、西郷の名誉回復に力を尽くし、「西郷隆盛 留魂碑」に西郷を讃える詩文を書きます。

「――――― 府下(=江戸)百万の生霊をして 塗炭 [とたん] に陥 [おちい] らしめず 
ああ君よく我を知り 而 [しこう] して君を知る 亦 [また] 我に若 [し] くは莫 [な] し  
                         明治12年6月   勝 海舟」

 

 ところで西郷は、大久保 利通 [としみち] ・木戸 孝允 [たかよし] と共に
“明治維新の三傑” と呼ばれます。

幕府側にも“幕末の三舟 [さんしゅう] ”と呼ばれる大人 [たいじん] がいます。
勝 海舟 ・ 山岡 鉄舟 [てっしゅう]  ・ 高橋 泥舟 [でいしゅう] の三人がそれです。


 勝 海舟は、かつて木造軍艦「咸臨丸 [かんりんまる] 」で 初めて太平洋横断に成功(1860)もし、明治政府では参議 兼 海軍卿、枢密顧問官 等の要職で活躍します。

 
山岡 鉄舟は、勝――西郷 会談の実現にも裏面で大きな役割を示します。
NHKの大河ドラマ“篤姫”(‘08)にあったように、篤姫の尽力もあったかも知れませんが、山岡 鉄舟の会談実現のための直接的働きかけは歴史的事実として大なるものがありました。 
“維新”の後は、明治天皇の教育係に力を尽くします。


 さて、この両 “舟” の名声に対して、高橋 泥舟の名はご存じでない方も多いのではないでしょうか。

故 安岡 正篤 [まさひろ] 先生が、高橋 泥舟を歴史の陰に隠れた立派な武士道を生きた人物として、正しく評価して紹介されています。 ( 『日本精神の研究』 ・国士の風 3 参照 )


 泥舟は、鉄舟の師であり同時に義兄弟(泥舟の妹の夫が鉄舟)です。
慶喜 [よしのぶ] 公を恭順させ、江戸城無血開城を実現し、幕末の日本を危機から救ったのを 勝 海舟 一人の功績のように、一般でも学校教育でも扱われています。

しかし、功績の第一人者は泥舟といわねばなりません。
勝 海舟は閉居中で家に留まっている立場でした。

泥舟は最後まで慶喜公に従い、そのゆく末を見届けると、あえて要職につくことなく、きっぱりと引退・隠遁 [いんとん] いたします。

「泥舟」・“どろふね”という号 [ごう] がその高潔を良く示しています。
( 「かちかち山」の狸の話から、世に出てもすぐに沈んでしまうの意)


 易卦に 「水沢節 [すいたくせつ] 」というのがあります。
節義・節操なく、出処進退のだらしない現代。 この泥舟の生き方には敬意学ぶ所、大ではないでしょうか。

安岡先生は「無名で有力であれ」と言っておられました。
真のリーダー [指導者] は、歴史の陽の目をみる人ばかりでなく 陰に隠れた人の中にもあるのではないでしょうか。

 

 この泥舟の生き方とは対照的に、幕臣であったにもかかわらず、明治政府に仕え要職を得た者も多くいました。

その代表・典型である勝 海舟と 榎本 武揚 [えのもと たけあき] に対し、福沢 諭吉は、明治政府になったら表舞台から引っ込むべきではないかと その進退を問います。 
(後年、『痩我慢 [やせがまん] の説』を出版)

勝 一人のみ答えていうには、「行蔵 [こうぞう] は我に存す」と。

自分の行動や考え方は自分自身が知っているとの意です。勝の弟子となった坂本 竜馬も同じように言っていました。

勝には勝の信念があってのことだったのでしょう。

 

 「行蔵」とは出処進退のことです。

「出」では、PTAの役員・委員のなり手にも困る現状。
「退」では、政・官・財界を問わず各界で責任をとらず、見苦しい辞任劇を演じている現今。

易卦に「天山遯 [てんざんとん] 」があり「時と興 [とも] に行うなり」と書かれています。

出処進退、とりわけ退くことが人間の価値を決める大切なことではないでしょうか?


 また、国家社会の“リーダー”というものを考えてみますと、歴史の陽(目立つ)部分にのみいるのではないということを心せねばなりません。

そして陽にしろ陰にしろ、現在の日本に真のリーダーがどれほどいるのでしょうか?

“たそがれ”の幕府側にも“三舟”をはじめ大人が多くいました。
倒幕側には次代の人材がきら星の如くいました。

今の日本の政府与党、そして野党にも 才徳の大人は一体どれほどいるのでしょうか?


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