儒灯

【温故知新】儒学の普及に力を注いでおります真儒協会 会長、高根秀人年の個人ブログです。 『論語』、『易経』を中心に、経書の言葉を活学して紹介して参ります。 私個人の自由随筆、研究発表などのほか、真儒協会が毎月行っております定例講習についても掲載しております。

水【坎】 に想う  (その2)

(こちらは、前のブログ記事の続きです。)

《 水【坎☵】 と 火【離☲】 》

私は自分が、太陽の無限の“陽〔よう〕”の恵みと
水の本源的な“陰〔いん〕”の恵みによって生かされているのだと実感しています。

無論このことは、人間に限らず、生きとし生けるもの
天地万物全てについて言えることです。

太陽【離〔り〕☲】 と 水【坎〔かん〕☵】 は、
地球上のあらゆるところに恵みをもたらし、生命を生み育んでいるのです。

そして、陰としての水は陽としての太陽に順〔したが〕い、
雨季と乾季との偉大な循環をもたらしています。

「水」に関しては、 『砂の惑星/デューン(アラキス)』
壮大な 傑作SF小説とその映画の感動が、私の脳裏には鮮明に焼き付いています。

その感動の最〔さい〕たるものは、“砂の惑星”(降水量ゼロ)が
超人(主人公)のもたらす奇跡によって
大降雨がおこり“水の惑星”(≒地球)となるラストシーンです。

地球は水の惑星であり、(父なる太陽の恵みのもと)その生命は、
海=水=【坎☵】から生まれ、水の中で生育しているのです。

「水は命の泉」との表現もあります。

『旧約聖書』に、 「太初(たいしょ)に言(ことば)あり、言は神と共にあり」 とあります。

また、『老子』に 「無名、天地之始。有名、万物之母。」
(無名〔名無き〕は、天地の始めにして、有名〔名有る〕は、万物の母。/
※“無”を天地の始めに名づけ、“有”を万物の母に名づく。)とあります。

宇宙最初の言葉は何だったのでしょうか。

「光」でしょうか、「天」・「知」・・・・ ? 

“奇跡の人”・ヘレン=ケラー女史(Helen A. Keller, 1880-1968)が
最初に理解し発した太初(第一番目)の語は、
“ w - a - t - e - r ” 〔ウォーター:水〕 でした。

神妙なる“奇跡”に相応〔ふさわ〕しい言葉であると、
私は大人になっても感銘を新たにしております。 注1)


注1)
 
何が“奇跡”なのか、お解〔わか〕りでしょうか? 
ヘレンは、2歳の時、失明し耳も聞こえなくなりました(盲聾啞〔もうろうあ〕)。

むろん“水”という具体的な“モノ”は、飲み味わってはいました。

サリバン先生は、
” ・ “a” ・ “t”  ・“e” ・ “r” のスペルを指で手のひらにつづり、
ヘレンに記憶させます。(ウォーター=水 です。)

賢いヘレンは多くの言葉(=スペル)を覚えます。
が、しかし、サリバン先生はどうしようもない絶望的なカベにぶちあたります。

つまり、飲み味わっているその“水”(=モノ)が
「ウォーター=水」という名前のものであるということ
そのもの(=その関係性)を理解させることは出来ないのです。

如何ともし難いカベです。
ところが、ある日突然、ヘレンは手に触れているこの“水”が
“ w - a - t - e - r ” 〔ウォーター:水〕 という名前のモノなのだと、
その関係性に気付きます。

東洋流に表現すれば、“覚〔さと〕った”わけですね。

── “奇跡”が起ったのです。


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《 参考資料 》
          ( たかね・「易経64卦解説奥義/要説版」抜粋・改訂引用)


【 水 と 火 / 坎☵ と 離☲ 】


《 水 と 火 》

1)五行思想では相剋の関係“水剋火”(水で火を消します)。
  その場合、火のパワーが強すぎると(「焼け石に水」で)水で消えません。
  あるいは水が蒸発してしまい“剋”する対象が逆転してしまいます。 
  (・・・ 命学・九星気学・四柱推命など)

2)易の中論だと、水と火(正・テーゼと反・アンチテーゼの異質・対立するもの)を、
  統一・止揚して(アウフヘーベン・中す)、
  新たなるもの(合・ジンテーゼ)を生み出す。〔ヘーゲル弁証法〕

ex.水と火の協力で、ごはん・料理ができます。男性と女性の和合で、子供が生まれます。


《 坎 と 離 》

○ 坎=水は智恵、離=火は聡明  /  
○ 坎離は陰陽逆=中男と中女
○ 坎は耳(の穴)・鼻(の穴)・肛門・性器、 
  離は目=視覚・明らか(【離為火】は両眼) /
○ 坎☵ 離☲ を象〔しょう〕でみると、 
  【☵】は中爻の“まこと”が通っており(“一貫”)、
  【☲】は中身が“うつろ/いつわり”

cf.「渾沌〔こんとん〕の死」(『荘子』) ・・人には7穴(体は9穴)あります。
   渾沌は“のっぺらぼう”。
   1日に1つずつ穴をあけてやったところ、7日で死んでしまいました。

   ──無為自然の本性は、人知を加えると死んでしまうのです。


【考察】 
アマテラスオオミ神は、イザナギの命(男神)の
左目(左は陽)から生まれた太陽神(陽・離・中女)です。 ・・・「

そのスサノオの命は、イザナギの命〔みこと〕の
鼻(の穴)から生まれました( → 【】 )

cf.鼻の外形は盛り上がっているので =艮=山の象 / 
   (フルへッヘンヘンド=うずたかい=鼻、by.『蘭学事始』)

※ 邪馬台国の女王は「卑弥呼」、そのが政治を代行していました。
  この史実(『三国志』魏志倭人伝)と我国の『古事記』の話とを
  重ね併せて考えてみたいものです。

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cf.黒田如水(官兵衛:秀吉の軍師)、横山大観の 
   “生々流転〔せいせいるてん〕”(水の壮大な循環を描く)、
   ※「水を飲めば水の味がする。」(中山みき)

   「知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。
   知者は動き、仁者は静かなり。」(『論語』・擁也第6)

   「君子の交わりは淡きこと水の如し、
   小人の交わりは甘きこと醴〔れい:あまざけ〕の如し。」(『荘子』)

   「水魚の交わり」(『三国志』、劉備と孔明)


《 トピックス〔時事(20111:春)〕 ── 水 【坎】に想う(2012記) 》 

平成23(‘11)年の日本は、一般ピープルも「水」について
認識を改めさせられた(思い知らされた)年の一つではないでしょうか。

春(3.11)に、死者・行方不明者2万人余りともいわれる“東日本大震災”による災禍・・・



※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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水【坎】 に想う  (その1)

水【坎】 に想う              

─── 水の思い出/水【坎】と火【離】/易(象)と水/
  孔子(/孟子)と「水」・「知者楽水」/老子と水・「上善若水」/
  水の「不争」・「謙下」/孫子と「水」・「兵形象水」/日本文化の「水」/
  水=川の流れ & 心・思想の象/鴨長明・『方丈記』/
  レオナルド・ダ・ビンチと「水」 ───


【サマリー】〔summary: 要約・概括〕 ; ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

古代中国語の“水”は、“水”以外に“川”という意味もあります。
変化を水・川の流れに同一視するものは、儒学・黄老に共通しています。

否、それは古今東西を問わず、賢人に普遍〔ふへん〕するところとも言えます。


西洋。
古代ギリシアにおいては、(“7賢人”の一人)西洋哲学の始祖・父とされる タレスが 
「万物の根源は水である」 と言いました。

近代の幕開けルネサンスにおいて、“3大天才”の一人レオナルド・ダ・ビンチは、
水(流水)の研究に没頭し、水の流れで美と人生を哲学いたしております。

例えば。
「水は自然の馭者〔ぎょしゃ〕である。」 / 
「君が手にふるる水は過ぎし水の最期のものにして、
来るべき水の最初のものである。現在という時もまたかくのごとし。」
と。


東洋。
古代中国において、儒学の開祖・孔子は、『論語』で 
知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。」 (雍也第6−23) / 
「子、川上〔せんじょう/かわのほとり〕に在りて曰く、逝〔ゆ〕く者は斯〔か〕くの如きか。
昼夜を舎〔お/や・めず/す・てず〕かず。」
(子罕第9−17) と言っています。

老荘(道家)の開祖・老子も水の礼讃者で、“不争”・“謙譲”を“水”に象〔かたど〕り
その政治・思想の要〔かなめ〕といたしました。

例えば。
「上善は水の若〔ごと〕し」「水は善く万物を利して争わず」 (『老子』・第8章) / 
「天下に水より柔弱〔じゅうじゃく〕なるは莫〔な〕し」 (『老子』・第78章) etc. ─── 

孔子は水を楽しみ
孟子(や朱子)は川の流れに智の絶えざる・尽きざるものを観、
老子は水の柔弱性と強さをその思想にとりました。

また、兵家の開祖として知られる孫子は、
「兵の形は水に象〔かたど〕る」 (『孫子』・軍争偏)と、
理想的戦闘態勢が、水のように形を持たず、
変化に対して流動的・柔軟に変化して対応するものであることを述べています。


日本においても、日本人に好まれる“美”というものは、
“水の流れ”や“時の流れ”といった 
変化するもの・流れるもの・循環するもの、の美です。

“時間”という目に見えない、形のないものです。

例えば、鴨長明・『方丈記〔ほうじょうき〕』 の冒頭、
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。・・・ 」 にみられるように、
そこでは、 “無常観” (=変化)がながれる水(河)の象〔しょう/かたち〕となって
表わされています。


畢竟〔ひっきょう〕、東洋思想において賢人たちがその思想の徳象とした“水”は、
“水”を(有形・固定したモノとしてではなく)
変化”と“時間”(無形・移りゆくもの)で捉えるものです。

すなわち、水の流れ = 川(の流れ) として捉えるものであったといえましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


《 はじめに ── “水”の思い出 》

疲れた頭脳と身体を癒す入浴の一時〔ひととき〕。
人生の至福を感じます。

つくづく人間は“水”、私は自分が“水”の人間だナァと感じます。

 ── “水”にまつわる思い出を少々。


(たまたま、今年の干支〔えと・かんし〕は癸・巳〔みずのと・み:→ ミズとヘビ〕ですが)
昔日〔むかし〕、傷つけられた(死んだと思われた)大蛇〔だいじゃ〕を川に捨てると、
生気を取り戻し元気に流れに逆らって水面〔みなも〕を泳ぎだしました。

蛇は水の化身〔けしん〕、水には霊力があるのだと子ども心にも感じ入ったものです。

当時は、田植え前の水を張った水田にも“水蛇〔みずへび〕”が、
殊に夕暮れ時には、くねり滑るようにたくさん泳いでいたものです。

“水”も“蛇”も随分と身近なものでした。


そういえば、易の創始者とされている伝説の聖人“伏犧〔ふつぎ〕”は、
半人半蛇〔だ〕”と伝えられています。

神霊がずっと身近だった太古の時代の話です。

要するに、蛇つかいのシャーマンでしょう。

原始の農耕社会においては、 (雨)水=蛇 を司〔つかさど〕る人が
神秘的・カリスマ的存在だったのでしょう。

それはともかく。


壮年の頃、
「水を飲めば水の味がする」 という言葉を聞いたことがあります。

大病で入院して、脱水症状がでるほどの厳しい“摂水制限”を受けていた時、
何とも水が旨〔うま〕いと感じました。

殊に、(水の変化した)氷・氷入り水(ウォーターの水割り)は、
まさに“甘露甘露〔かんろかんろ〕”でした。

今では、かかる非常の体調の時でなくても、水の味が解かる人間になりました。

水の味は、味の至れるものです。

無の味です。(→ “無味”は、蒸留水=純粋な水 の味とは異なるものです。)


『老子』に 恬淡〔てんたん〕(『老子』・第31章)の語もあります。
心安らか、静かであっさりして執着しないこと、淡白・無欲なことです。

『荘子』の中にも、「虚静〔きょせい〕恬淡」・「恬淡無為」の語があります。

また、 「君子の交わりは淡きこと水の如し、
小人の交わりは甘きこと醴〔れい/あまざけ〕の如し。」
とあります。

淡交〔たんこう〕/水交」です。

要するに、 「上善若水〔じょうぜんじゃくすい:上善は水の若し〕」 (『老子』・第8章)で、
人間の交わりも含めて万事水の如くすべしです。


さて私は、“水”について想う時さまざまなものが想い起こされます。

私自身、本性〔ほんせい〕“水”の人間です
(ex.一白水性、“偏印”タイプ、知の人 ・・・)。

それもあって、水【坎☵】についての想いは、
私が長年文章でまとめておきたかったテーマの一つです。

今回、“水を楽しむ”つもりで、
“賢人と水”(「知者は水を楽しむ」)といった内容を中心テーマとしながら、
“水”についてそこはかとなく書き綴〔つづ〕ってまいりたいと思います。


《 水【坎】 と 火【離☲】 》

私は自分が、太陽の無限の“陽〔よう〕”の恵みと
水の本源的な“陰〔いん〕”の恵みによって生かされているのだと実感しています。


無論このことは、人間に限らず、生きとし生けるもの天地万物全てについて言えることです・・・


※ この続きは、次の記事に掲載いたします。


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